山口・秋吉


山口市

瑠璃光寺五重塔
五重塔は九輪の尖端まで31.2メートル、各層軒が広く張出し、檜皮葺の屋根の勾配は緩くなっています。塔身は上層ほど間を縮め、塔の胴を細く見せ、すっきりした感じがします。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には廻縁・高欄があるので安定感が強く感じられます。鎌倉時代から、建築様式に、和様・唐様・天竺様の3つがあらわれますが、和様を主体に、一部を禅様に、室町建築としては装飾が少ない造りとなっています。

萩藩主毛利家墓所
この墓所は香山公園内にあり、萩市に所在する旧天樹院、大照院、東光寺毛利家墓所とともに長州藩36万石の藩主の墓地として、昭和56年に国の史跡に指定されました。墓所には13代毛利敬親と夫人、世子の元徳と夫人、その子元昭と夫人、さらに毛利本家歴代諸霊の墓の計7基と初代秀就の母周慶寺殿、そのほかの墓があります。

枕流亭
香山公園内にあります。幕末薩長連合を推進するために、慶応3年(1867)9月薩摩藩の重臣小松帯刀、西郷隆盛など続々と山口にやってきました。当時道場門前にあった安部半助方の枕流亭の2階で会見し、盟約がなって、幕府を倒す連合討幕軍の結成を誓いました。枕流亭は、その後2,3度移築され、近年修理されてこの地に移されました。

露山堂
この建物は香山公園内にあり、毛利敬親が藩庁を山口に移鎮した際、今の県庁内の一露山の麓に建てられた茶室で、藩主敬親が茶事にことよせ、家来らと討幕の密議をこらした建物で、明治24年にここに移築されました。

洞春寺
洞春寺は毛利元就の菩提寺ですが、この地には古く、応永11年(1404年)大内盛見が天下泰平、家内繁栄の祈願所として建立した国清寺がありました。毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元の菩提寺となりましたが、後に元就の菩提寺となり洞春寺と称しました。

山口大神宮
山口大神宮は、永正17年(1520年)に大内義興が、伊勢から神霊を勧請して創建した古社です。
義興は京都で足利幕府の管領代をつとめていたころ、伊勢神宮に参拝し、その荘厳な神霊にうたれ、管領代を辞して帰国後、この地を神域に選定し、社殿を造営したといわれています。

藩庁門
この藩庁門は、毛利敬親が幕末の文久3年(1863)12月に一露山の麓、今の県庁の位置に藩庁の移転を計画し、慶応3年(1867)に竣工しました。この門はその藩庁の正門で、脇門付薬医門で、切妻造り、平入り、本瓦葺きです。山口県の重要文化財に指定されています。

豊栄神社
豊栄神社は毛利元就を祀る神社で、防長移封後、孫の輝元が広島から萩へ居城を移した際に元就の霊を春日神社内に祀ったのを始まりとしています。その後、神霊は萩城内に移されたとされていましたが、明治に入って山口に移されました。豊栄の神号は朝廷から賜ったもので、山口に移された二年後に現在の地に社殿を造営、遷座し、明治15年には別格官幣社に列せられています。

野田神社
野田神社は、明治維新の元勲毛利敬親を祭神とし、敬親の子毛利元徳を配祀神としています。敬親は明治4年死没後豊栄神社の別殿に祀られ野田神社と称していましたが、明治9年に県社となり、大正4年に別格官幣社に列せられました。元徳は明治29年死没後野田神社の摂社芳宜園神社に祀られていましたが、昭和11年野田神社に合祀されました。

山口市菜香亭
明治10年頃、上竪小路に料亭として創業し、名付け親である井上馨など、山口県出身の政治家や文人らに親しまれた「菜香亭」。山口市天花の地に移築され、平成16年10月2日にオープンしました。
移築前の木材などをできるかぎり使用した建物の中には、伊藤博文や佐藤栄作らの書も飾られており、当時の面影を今に伝えています。

龍福寺
龍福寺は、建永元年(1206年)大内満盛が創建した臨済宗の寺で、もともと白石の地にあって、宝珠山瑞雲寺と称していました。延元元年(1336年)大内弘直が再建して弘直の菩提寺となりました。のち、享徳3年(1454年)大内教弘が雪心和尚を迎え中興開山として曹洞宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めました。

大内館跡
室町時代に西日本一帯に強い勢力をほこった大内氏の館と城跡。大内館跡・築山館跡・高嶺城跡・凌雲寺跡からなる。
大内館跡は、大内氏が政務をつかさどった所であり大内氏の栄華を示す遺跡である。発掘調査により庭園跡もみつかっている。現在は竜福寺境内地となっている。

西田幾多郎旧居
西田幾多郎が旧制山口高校で教鞭をとっていたときに下宿していた家が現在も当時のまま山口市大殿路にある龍福寺のご近所に残っています。

常栄寺雪舟庭

もともとこの地には大内教弘の夫人妙喜寺殿宗岡妙正大姉の菩提寺妙喜寺がありました。幕末隆元の菩提寺がここに移り、寺号を常栄寺と称するに至りました。
庭園は、今から500年前、妙喜寺の時代に、大内政弘が別荘として、画僧雪舟に築庭させたものと伝えられ、現在国の史跡名勝に指定されています。


パークロード
山口県庁前から中心商店街に向け、ゆるやかなカーブを描いて伸びている県道。「日本の道100選」にも選ばれた。道路と道沿いの散歩道、公園、美術館、博物館、図書館などの建物とが一体となって美しい街並みを造りだしており、四季折々に市民の憩いの場としても親しまれている。

山口サビエル記念聖堂
記念聖堂は、昭和27年にサビエルが山口を訪れてから400年を記念して建てられました。内部にはサビエルの一生を描いた美しいステンドグラスがあり、聖堂からは15分おきに時を告げる美しい鐘音が市街に響いていました。

高田公園
湯田の名は、湯がわき出る田地からついた地名であることはもちろんです。
無色透明のアルカリ性単純泉の泉質は変わらず温度も低下せず、湯量も減らず、旅館等60有余のプールのような湯殿を十分に支え、山陽路随一の泉都を誇ります。錦川に蓋をしなかった頃は、川底からポコポコ湯が湧き、汚物や牛馬を洗っていました。

ゆう太
山陽路随一の湧泉を誇る温泉。泉質は無色透明のアルカリ性単純泉で、泉温は摂氏66度。歴史は古く、その発祥はおおよそ600年前。傷ついた狐が温泉に浸かりその傷を癒していたという白狐伝説が言い伝えられており、JR湯田温泉駅前には愛称「ゆう太」で親しまれている高さ8メートルの巨大なモニュメントも造られている。

中原中也記念館
湯田温泉にある彼の生家後には記念館が建てられ、草稿や彼の日記、詩集など、貴重な資料が数多く展示されています。

おおすみ歴史美術館
当館は大隅企業創始者の大隅健一(2008年没)が収集した郷土ゆかりの書画を展示公開する施設です。大内文化と幕末維新の歴史の町−山口市のお役に立てばと、平成8年(1996)5月に開館しました。

温泉の森
男性用は和風庭園を望む「白狐の湯」。女性用はモダンな洋風の「サビエルの湯」。男女用とも内湯のほか、露天風呂やエステバス、泡風呂、玉石を敷きつめた上を歩く歩行浴などの入浴施設があり、温泉を存分に楽しめる。付帯施設は休憩室や食事処、エステ、マッサージ、韓国式アカスリなど。スーパー岩盤浴も好評。

朝田墳墓郡
朝田古墳群は弥生時代前期末から古墳時代の終わり頃まで、山口盆地の南西部、北側の山塊から幾筋か盆地に向かって張りだした丘陵に継続して築かれたお墓(墓地)の総称です。
その継続の時代幅と数量、種類の豊富さは盆地内はもとより県内でも群を抜いており、県下で最大の墳墓群をなしています。

玄済寺
山号は黄龍山と号し、本尊は釈迦牟尼仏を祀る。吉敷毛利家の始祖秀包公が、長門市湯本・大寧寺18世鉄村玄乗タ和尚を開山として迎え、豊浦郡豊北町阿川に創建した。

吉敷毛利家墓地
初代秀包公と2代元鎭公は供養塔で3代元包〜15代忠三公の墓がその当時のまま残っていて墓の中の木々の根が地面に浮き出し苔が生え、そこに立つとタイムスリップした様で凄く雰囲気を感じる

宣徳社
宣徳社は弘化2年(1845)吉敷毛利13代元潔公により造営され、五穀豊穣と領内の安康和平を祈る「保食之命」及び、毛利歴代の祖公が祭神で毛利家並びに、領内の守護神として、奉安された。

龍蔵寺
本堂の本尊は大日如来、観音堂本尊は千手観音です。山中の鼓の滝の岩窟(奥の院)があり、この岩壁に大仏像が彫ってあります。窟の内に千体地蔵尊、十六羅漢が安置してあったといわれていますが、現在は欠損し散乱して存するものはわずかです。

鼓の滝
龍蔵寺の中にある鼓の滝。滝が大きく3段に分かれており、中段がくびれて形が鼓に見えることや、落ちる水音が鼓をうつ音に似ていることから「鼓の滝」と呼ばれています。滝の中段にある岩窟(奥の院)に、大仏像が彫ってあります。

天神山古墳
吉敷の地は高台であり農耕と狩猟をする民族が生活したと思われる地に、古墳2基と箱式石棺1基が復元されている。

野谷石風呂
1186年(文治2)東大寺大勧進であった俊乗房重源が東大寺再建造営の用材の主要採取地として現在の徳地町周辺を開発し、多くの建築用材を奈良に送った。野谷の石風呂は、重源が、作業をする人たちの病気治療のため現在の山口市徳地野谷の地に設けたのものの一つと伝えられている。

佐波川関水
1186年(文治2)、東大寺を建て直す役割を担った俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、佐波郡の山で木を切りだし、佐波川をつかって海まで流し、奈良へと送りました。このとき、川底が浅く木を流しにくいところでは、川をせきとめて水位をあげ、 その一部分を開いて細長い水路とし、材木がよく流れるように工夫をしたのが関水です。当時の人の知恵を知ることができます。

長門峡
阿東町と萩市川上にまたがる美しい渓谷。石英斑岩が川の水に侵食されてできたもので、屏風のような切り立った崖が両岸から迫り、深い淵が顔をのぞかせる。岩壁には甌穴[おうけつ]とよばれる水にうがたれた穴が無数にあき、独特の景観を造りだしている。

道の駅 長門峡
道の駅「長門峡」は、情報案内コーナー・特産品販売所「りんごの気持ち」・レストラン「聴秋」の3つからなります。それぞれの良さを生かしたサービスで皆様をお待ちしてますよ!
またふれあい市場や屋外ステージもありますのでドライブがてら気軽に寄ってくださいね!

道の駅 願成就温泉
阿東町徳佐片山地区に静御前のお墓があり、それにちなんで等身 大のブロンズ像を設置しました。是非見に来て下さい。

禅昌寺
1396年(応永3年)慶屋定紹の開山、大内義弘の開基により創建されたという。大内氏の帰依と得たが、大内氏の滅亡後は、毛利氏の帰依を受けた。

KDDI
山口衛星通信センター
パラボラ館
KDDIパラボラ館のエントランスホールでは、通信衛星を宇宙へ送るアリアンロケットがみなさんを出迎えます。コズミックロードを通過し進んで行くと、国際電話体験コーナーがあります。001を合い言葉に、世界のいろいろな国の観光情報やグルメ情報が入手できます。

源久寺
源久寺の開祖である平子重経は、鎌倉時代、源頼朝に仕えており、地頭として周防へ下国し仁保庄に居館を定めました。1199年源頼朝が亡くなり、平子重経が位牌安置として源久寺を建立します。のち、平子重経が没し源久寺に葬られ、これより後に、源久寺が仁保平子家の菩提寺となりました。

道の駅 仁保の郷
地元で採れた新鮮で安全な野菜はもちろん、お花や果物の他にも仁保の自然に育まれたたくさんの恵の直売所を中心に、地元産の野菜などをつかった菓子、餅、パンの工房やレストラン、うどん屋さんなどがあります。

防府市

防府天満宮

学問の神様、菅原道真公を祀った神社で、京都の北野天満宮福岡の太宰府天満宮と共に日本三天神と称せられています。道真公は九州への西下の途中、防府に立ち寄りすっかりこの地が気に入り、自分が死んだら魂となって帰ってくると約束します。九州で公が亡くなった翌年(904)日本で最初の天満宮として創建されました。


春風楼
文政5年(1822)藩主毛利斎煕は、五重塔の建立を発願し、地鎮供養の祈祷を修し、釿始めの儀も済ませたが、天保2年(1831)不慮の支障に遭い工事を中止し、天保10年(1839)工事を再開したが幕末多事な政情の変転が妨げとなり、五重塔は未建のままに幻の塔となり明治の廃藩に至った。明治6年に天満宮は塔の設計を断念し、文政着工の当時に造作した塔の一層部分軒下の組物をそのまま床下に組み入れた楼閣様式重層のお籠堂に変更した。

周防国分寺
聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のひとつで創建当初の境内に今も伽藍を残すきわめて珍しい例として知られています。境内地は国の史跡に指定されており、また重要文化財の金堂には、藤原時代初期の木造日光・月光菩薩立像をはじめ多くの仏像、宝物があります。

毛利氏庭園
旧萩藩主毛利氏により、大正5年(1916)に建てられたもので、邸宅は総ヒノキ造りの壮大な建築。庭園はひょうたん池を巡る廻遊式で、四季折々の景観が楽しめます。邸宅の一部は毛利博物館として、毛利元就ゆかりの品をはじめ、国宝や重要文化財を含む約2万点の宝物を所蔵、展示しています。

毛利博物館
旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品・歴史資料約2万点を収蔵、公開しています。これらの資料のうち、国宝が4件7点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られています。
あわせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷を公開しています。

多々良大仏
多々良大仏は、重源が防府を奈良に似せるために作らせたもので、辻福寺に置かれていましたが、1892年(明治25年)、毛利氏庭園の建設がはじまった時期に今の場所に移されました。
 多々良大仏は阿弥陀如来がすわった像なのですが、地方の職人に造らせたためか、出来ばえがあまりよくありません。

阿弥陀寺
東大寺再建のため周防国へ西下した俊乗坊重源上人が、後白河法皇の現世安穏を祈って、文治3年(1187)に建てた古刹です。国宝の鉄宝塔をはじめ貴重な仏像・古文書がたくさんあります。また、境内には80種約4000本のあじさいが植えられ、あじさい寺としても有名です。

春日神社
大平山山麓の春日神社は、今から約800年前、藤原氏ゆかりの人々が周防国庁への下向にあたって、奈良春日大社の分霊を祀ったものと伝えられています。この神社では暦の上で最も寒い日とされる大寒の日から三日間、冷水につかって心身を清め、無病息災を祈る行事「大寒みそぎ」が行われます。

枡築らんかん橋
枡築らんかん橋は、大浜に塩田が築かれた明和年間(1764〜1772)に、枡築間の通路として入川に架けられた石橋である。かつては木製の欄干が取り付けてあったが、現在は欠失している。

美祢市

秋吉台
秋吉台ははるか昔、遠い海でサンゴ礁として誕生しました。それから約3億5千万年、ドリーネや鍾乳洞が発達した石灰岩の台地、カルスト台地となりました。石灰岩の中にはサンゴ、ウミユリなどの地球と秋吉台の長い歴史を示す化石が見つかります。

秋吉台カルスト展望台
秋吉台バス停近くにある、円形2階建ての展望台。2階からは360度カルスト台地のパノラマが堪能でき、望遠鏡(有料)で迫力のある眺めが楽しめる。秋芳洞エレベーター口とは遊歩道で結ばれており、徒歩約5分。

秋芳洞
秋吉台の地下100m、その南麓に開口する東洋屈指の大鍾乳洞「秋芳洞」は大正15年昭和天皇が皇太子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜ったものです。
ひんやりと肌をさす冷気漂う杉木立を通り抜けると、秋芳洞の入口です。洞内からの水は三段の滝となり、飛沫を舞い上げながらコバルトブルーの川面へと流れ落ちています。

禅師かっぱ
正平9年(1354)旱魃に苦しむ村人を救うため、秋芳洞で雨乞祈願をされた寿円禅師と行を共にしたかっぱを禅師かっぱと呼び、大願成就の守り神として語り継がれて来ました。

長者ヶ森
広大なカルスト台地で唯一の原生林なのが長者ヶ森です。
昔、この地に住んでいた長者がいつしか没落し、それから幾年月、かつての長者屋敷の跡が森になったと伝えられています。

赤郷八幡宮
奈良時代、神護景雲3年(769)のころ、現在御鎮座の山(長生山)の南面の大迫谷という所に、朝廷よりの勅命をうけ豊前国宇佐八幡宮より勧請し創建したのが赤郷八幡宮の起源である。
当時は中西国の惣社とあがめられた。弘法大師が諸国巡行のおりに自刻の仏像を奉納したと伝えられ、現在安置されている二体の仏像がそれであると申し伝えられている。

末原窯跡群
『末原窯跡群』は今から1260〜1100年前、8世紀前半(奈良時代後半)から9世紀前半(平安時代初期)頃にかけて使用された、典型的な須恵器窯跡群です。

呑水垰 激戦の地
慶應元年(1865)正月14日8時頃より、萩政府軍(俗論党)の大田攻撃が開始された。諸隊(正義党)も奇兵隊を主軸にこれを迎え、正午頃より合戦となる。諸隊は、この地に地雷を埋め赤坂堤まで後退したが、地形不利のため政府軍優勢の中で大激戦となった。そのうち遊撃軍30余名が東側の小中山に登り、陣鼓・陣貝を鳴らして銃撃し、また、奇兵隊が大木津口より政府軍の側面を攻撃したので、政府軍は大いに驚き、雨で火縄銃も役に立たず赤村へ後退した。この戦いの後、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)等遊撃隊の応援を受けて、16日赤村の敵を夜襲し、決定的な勝利をあげた。

長登銅山跡
日本最古の銅山といわれ、奈良の大仏の銅を献上した折、奈良登がなまって長登になったと伝えられています。 また、寛永年間には銭屋に寛永通宝の鋳銭所が開かれていました。

長登銅山文化交流館
長登銅山文化交流館では発掘調査で出土した土器や鉱石、木簡等を展示しています。

別府弁天池
透き通ったブルーの水が不思議なほどの美しさを見せるカルスト地形特有の湧き水「別府弁天池」。この湧水は摂氏14度の透明度の高い水で、環境庁より、昭和60年7月20日、日本名水百選に選定され、灌漑や養鱒にも利用されている。マス料理を味わうもよし、釣り堀で釣りを楽しむもよしの恵みの水。

別府厳島神社
その昔、辺りを開墾したものの水不足に悩む長者が、夢のお告げ通りに弁財天を勧請すると水が湧きだしたという伝説を持つ。毎年秋にはこの神与の水に感謝の気持ちをこめ、念仏踊りが奉納されている。

茶臼山城跡
堅田地区の北に位置するこの城山は、茶臼山城、刺賀城とも呼ばれ、大内氏の家臣刺賀治部少輔正頼にちなむもので室町期の城山と伝えられている。
山頂の主郭を中心に周囲は腰郭となっており主郭下北側の腰郭には土塁も見られる。

国秀遺跡
この遺跡は、縄文時代晩期から江戸時代にわたる集落遺跡であるが、中心となる時代は古墳時代後期から奈良時代前半にかけての時期である。確認された竪穴住居跡は、120軒にも及び県下最大級の集落遺跡といえる。また多数の出土遺物があり、なかでも偏平打製石斧184点は出土総数としては県下最多である。

万倉の大岩郷
美祢インターから宇部方面へ車で15分の美祢市伊佐町の桜山に程近い山中に突然現れる岩海は、積み重なった石英閃緑岩。どうしてこのような大岩郷ができたのかははっきりしていませんが、大地変動起因説と洪積世の河川作用説があります。昭和10年に国の天然記念物に指定されています。

金麗社
慶応元年、大田絵堂の戦いの際、高杉晋作の輩下の正義派諸隊が本陣をこの神社に置き、奇兵隊の軍鑑山県狂介(後の山県有朋)以下が、髪を切って戦勝を祈りました。

道の駅 みとう
道435号線沿いにある道の駅みとう施設内では美東町の情報を入手できるほかに美東町の特産品が購入でき、地域の食材を使った郷土色豊かな料理も味わうことができます。道の駅の裏には河川親水公園が設置されており、水深の浅い河で水と親しむことができます。






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