備中


倉敷市

倉敷美観地区
江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しており、1979年に県内2件目となる重要伝統的建造物保存地区に選定されている。

大原美術館
1930(昭和5)年、事業家・大原孫三郎により前年に死去した友人の画家・児島虎次郎の業績を記念して設立された。西洋美術を中心とするものでは日本で最初の私立美術館。 西洋・日本の近・現代美術、民芸運動に関わった作家たちの作品、オリエントや東洋の古美術など幅広い作品を所蔵、展示している。

アイビー学館
アイビー学館には、西洋絵画の誕生から抽象絵画への流れを解説する「近代絵画の動画とその展開」コーナーと吉備路を紹介する「吉備国の残照」コーナーの2つがあります。また、建物はクラボウの発祥工場で、明治22年に建設された貴重な歴史的建造物です。床の石畳も当時のままで、窓ガラスも手作りの口吹きガラスであり、天井も英国のランカシャの紡績工場を模して設計されたもので、屋根が南北ともに勾配があります。

倉敷代官所跡
現在、倉敷美観地区内にある代官所跡の敷地はアイビー・スクエアと呼ばれている。敷地内には赤煉瓦で造られたホテルや土産物屋が建てられ、代官所があったことを知る手掛かりは何も残されていない。唯一、正門附近に代官所跡の石碑と遺構(堀)が残されているのみである。

井上家住宅
倉敷川畔の重要伝統的建造物群の中でも代表的な大型の町屋の一つで、古くから倉敷の中心の通りである本町通り(往還)に面して建っています。部材の仕上げ具合や文書などから、主屋の建築年代は美観地区内では最古のもので、江戸時代の正徳年間(1711〜1716)前後と推測されます。

観龍寺
慶応二年(1866)四月十日、第二奇兵隊は倉敷代官所を襲撃すると、倉敷市内の鶴形山の麓にある観龍寺に陣屋を置いて物資を調達した。観龍寺の山門の鴨居にはその当時槍で突かれてできた傷痕が残っている。

阿智神社
創祀1700年を超える倉敷総鎮守。美観地区内の鶴形山山頂に鎮座。主祭神は海または水の守護神の宗像三女神(天照大御神と須佐之男命の娘神)で、芸術の擁護神でもある。阿知使主ら渡来人がこの里に住みつき祀ったとされる。

鶴形山公園
倉敷市中心部、美観地区北側の小高い丘にある公園。桜のシーズンにはソメイヨシノなど約120本が咲き、白壁の町並みに彩りを添える。2本あるシダレザクラも見ごたえ十分。くらしき桜まつりの期間中、園内をちょうちんでライトアップ。隣接の阿智神社境内では、お抹茶などの接待がある。

楯築弥生墳丘墓
楯築弥生墳丘墓は、径約50mの主墳を中に二つの突出部を備えた弥生時代後期の墓で、現存全長約72mの大きさをもつ。1976年から1986年まで前後6回に亘る発掘が岡山大学文学部考古学研究室を中心に行われた。

総社市

備中国分寺
市南部のアカマツにつつまれた丘陵地のほぼ中心部に位置し、聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています。

吉備路もてなしの館
もてなしの館は北側正面に国分寺五重塔を臨む立地にあり、敷地内には休憩コーナー・展示ギャラリー・特産品コーナーなどを設置した館と吉備路の風を感じられる東屋があります。
館は木材の香りや温かみを感じられる作りとなっており、バリアフリーも考慮されています。

こうもり塚古墳
この古墳は六世紀後半に自然の丘陵を利用してつくられた全長約100メートルの前方後円墳です。
内部の石室は巨石を用いた横穴式石室で長い羨道とその奥の玄室とからなっています。
玄室には家形の大きな石棺がおさめられています。この石棺は井原市野上町産の波形岩(貝殻石灰岩) を材料としたくり抜き式の石棺です。ほかにも陶棺や木棺がおさめられており、後期古墳に一般的な複数埋葬であったことがうかがわれます。

作山古墳
全長286m。県下では造山古墳に次ぐ大きな前方後円墳(全国第9位)で、上・中・下段からなっており、各段には埴輪が巡らされていた跡が確認されている。5世紀の典型的な前方後円墳。

総社宮
総社の地名の由来となったといわれる社。
総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便をはぶくため、平安末期に国府の近くに造られるようになったもので、備中の総社は324社の神を合祀したものです。
前庭の三島式庭園は、古代様式を今に伝え、長い回廊が美しい影を水面に映しています。また、拝殿には多くの絵馬が奉納されており、円山応挙や大原呑舟といった有名作家の絵馬も奉納されています。

笠岡市

笠岡湾干拓地
笠岡湾を締め切って海水を干した干拓地で、日本で3番目の大きさを誇る。昭和41年に着工し営農開始が平成元年。総面積は1,190ha(工業用地を含めると1,650ha)で、一枚の畑は小さいもので1ha、大きいものは10haある。
干拓地内では牧草や野菜、花などが栽培されるほか肉用牛の飼育や酪農も営まれている。

道通神社
猿田彦命・応神天皇を祀り、交通安全・開運授福・諸願成就の神社として多くの信者を持つ。特に猿田彦命について西日本一由緒深い神社として遠くからの参拝も多い。元は、毛利元就の家臣陶晴賢が笠岡城主であった永禄年間(1560年頃)笠岡道通谷(現富岡地区)に建立され、近郷住民の崇敬社として栄えた。

新見市

新見大名行列
中央モニュメントは、新見駅前土地区画整理事業に伴い、本市の無形民族文化財である新見大名行列をモチーフにして建設しました。

新見美術館
新見美術館は、山と緑と水の豊かな備北新見の地に平成2年11月 1日に開館しました。
この美術館は、牛丸大山を背景として、前景に新見市街地の北西を一望することができ、眼前に中国縦貫自動車道・国道180号線・JR伯備線・姫新線の交錯する交通の要路に面しています。

高梁市

備中松山城跡
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、小松山の山頂(標高約四三0M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和十六年には国宝(昭和二十五年文化財保護法の制定により重要文化財)の指定を受けています。

高梁市商家資料館池上邸
古い商家の並ぶ本町通りでひときわ目を引く池上邸は、享保年間八代将軍吉宗の頃、この地で小間物屋をはじめ、その後、両替商、高瀬舟の船主等を経て醤油製造で財をなした豪商の家。当時の商売や生活の様子を興味深く伝える資料館として公開している。

頼久寺
暦応二年(1339)足利尊氏が安国寺として建立した禅寺である。特にその庭園は有名で小堀遠州の築庭と伝えられる禅院式枯山水蓬萃庭園(鶴亀の庭)で江戸初期の庭園としてはわが国を代表するものの一つである。

臥牛天神社
臥牛天神は、もと臥牛山天神の丸(標高480メートル)にあり、城の鎮守として歴代城主から厚く崇敬されていました。武士の子弟が十五歳を迎えて元服すると、旧暦2月25日の春祭りには必ず参詣して武運の長久と学問の成就を祈りました。

龍徳院
曹洞宗洞松寺(小田郡矢掛町)の末寺で本尊は釈迦如来である。山崎家治公は元和三年(一六一七年)、因州若桜城より成羽藩主三万石として入封し、祖父堅家公の法名龍徳院を寺号として山崎家菩提与龍徽院を成羽の地に建てた。

武家屋敷 旧折井家
この建物は、今から一七〇年前(天保年間)に建てられたもので、二〇〇石前後の武士が住んでいたものであります。
母屋と長屋門からなり、母屋は書院造り、また中庭の池や庭石、踏み石などはほぼ昔のままでありその庭に面して資料館があります。

矢掛町

矢掛宿
矢掛町は、参勤交代の頃、西国街道の第18番目の宿場町として栄え、産業、交通、文化の中心地として発展してきました。矢掛宿には、本陣、脇本陣と旅籠、茶屋など多くの店が軒を連ねていた。

やかげ郷土美術館
町木の赤松を使った伝統工法による建物で、高さ16mもある水見やぐらに登れば、歴史のある町並みが眼下に広がります。館内には町出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品を中心に郷土資料等を展示しています。

旧矢掛本陣石井家
国指定重要文化財の矢掛本陣は、当時大庄屋で酒造業を営む石井家が本陣職にあたりました。参勤交代で大名や公家、幕府役人の宿所に使われた屋敷は建築の粋をこらしており、当時の繁栄を現在に伝えます。

旧矢掛脇本陣高草家
本陣の予備にあてられ、当時、宿場の両替商で庄屋役でもあった草家が選ばれました。特に白壁、張瓦の堅固な建築様式が美しいです。本陣から400mの所にあり、本陣と共に国の重要文化財に指定されています。






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