柳川・八女


柳川市

川下り
町の中を縦横に流れる堀割に、しだれ柳の緑が映え、赤煉瓦の並倉や白いなまこ壁が、ゆったりと影をおとし、水面に浮かぶウォーターヒヤシンスや種々の水草、くもで網などを間近にして、どんこ船による1時間10分の船遊びは、人々を優雅な詩の世界にひたらせてくれます。

松濤園(御花)
柳川市新外町に所在する名勝松濤園は、旧柳川藩主立花家の屋敷です。同地は、初め3代藩主鑑虎が池庭のある別荘「御茶屋」と屋敷「集景亭」を造営したといわれ、休息の場として利用されました。後に「御花畠」と呼ばれ、藩主家の居住地が柳川城二の丸から同地に移りました。
明治期に入り、最後の藩主立花鑑寛が敷地内に「御隠亭」と呼ばれる邸宅を建て隠居し、その後明治40年代に大広間、小部屋棟、西洋館、庭園が造られて現在の形となりました。仙台の松島を模したといわれる庭園は城堀の水を引き入れた池泉を中心とし、池中には石組みによる小島が多く配され、池の周囲は約380本の古松により立体化されています。
明治期としては出色の庭園で、昭和53年(1978)に戸島氏庭園と共に国の名勝に指定されました。

御花史料館
御花史料館(殿の倉)では旧柳川藩主立花家に伝来する御道具、いわゆる「大名道具」を展示しております。昭和26年より御花史料館の前身である御花歴史資料館にて伝来品の公開を行ってきましたが、文化財を展示するのによりふさわしい施設として平成6年に新たに御花史料館が開館いたしました。当館の収蔵品は江戸時代の大名家において実際に使用されていた御道具類であり、その種類は多岐にわたりますが、主として立花家歴代藩主所用の武具・甲冑、藩主夫人所用の装束、婚礼調度、雛人形や雛調度、茶道具、書画、能面・能装束などを収蔵しています。近世大名家の御道具類は維新期、戦後にその大部分が散逸しており、柳川立花家伝来の大名道具コレクションは大名文化を今日に伝える貴重な資料といえます。

沖端水天宮
沖端水天宮は、稲荷社・祇園社・水天宮の三神を祀ってあるが、稲荷社は天正15年(1587年)立花宗茂公によってまつられ、 祇園社は文化年間(1804〜1817年)に合祀、、水天宮は明治2年久留米水天宮総本社の分霊を合祀したものである。

北原白秋生家
北原白秋の生家は幕末から明治にかけての建築と考えられています。
地元を中心とした募金活動により、昭和44年(1969)に白秋の少年時代の姿に復元されました。現在は白秋の遺品や初版本、関係資料などが展示されています。

旧戸島家住宅
旧戸島家住宅は、柳川藩で中老職の要職に就いていた吉田兼儔が文政11年(1828)に隠居後の住処として庭園と共に建築した葦葺二階建の建物で、後に藩主の立花家に献上されて藩の茶室として利用されたといわれています。数寄屋風の意匠が随所にみられ、掘割から水を引き入れた池を持つ庭園と併せて趣のある落ち着いた空間を形成しています。
明治以降は主に住宅として使用されましたが、柳川地方の武家住宅の典型例として昭和32年(1957)に建物と庭園がそれぞれ福岡県の文化財に指定されました。昭和53年(1978)には庭園が国の名勝に指定されています。

柳川城址
永禄の頃、天下に誇る水の城として完成し三百余年続いたが、現在天守閣は灰燼と化している。本丸及び二の丸跡には柳川高校、柳城中学校が建てられています。

柳川温泉 南風
温泉でも有名な柳川。昭和40年に発掘された含重曹食塩泉の良質の温泉です。水の郷の南風(はえんかぜ)で日ごろの疲れを癒します。

三柱神社
文政9年(1826〜)藩親立花宗茂公,夫人及び岳父戸次道雪公の三柱を祀る宮で,日光東照宮の陽明門を象どった楼門,安芸の厳島を模した廻廊など名工の手になる建造物です。神域は筑後地方随一の高畑公園となっています。

天満神社
古くから驚風、高熱の神様として名高く、山門郡誌によれば「享保年間、氏子の祖先、大宰府天満宮の分霊を奉祀、守護神となす。
宝暦年中に流行病が蔓延し、幼児の驚風に悩むものが多かった。ところが、本社に祈願した者は、皆全快して、それから遠近を問わず参詣者多し」とある。

鷹尾神社
鷹尾神社は、平安時代の869(貞観11)年に、西海鎮守を願い清和天皇の命によって祀られたと伝えられる。
地域でも古く由緒の深い神社で、平安時代末期には、筑後国の一の宮である高良大社の別宮であった。またこの地域一帯の荘園、瀬高下庄の鎮守であった。社の造営や修造は、朝廷、鎌倉幕府執権、室町幕府管領の命令によって行われ、南筑後有数の神社として栄えた。

慶長本土居跡
筑後藩主田中吉政は、大川新田から柳川〜渡瀬までの有明海沿岸32キロメートルに及ぶ慶長本土居を築きました。このうち大川新田から鷹尾までの25キロメートルは、山門・三潴・下妻3郡の領民を総動員して、慶長7年(1602)8月6日から8日までのわずか3日間で完成させました。吉政は佃町新田の潮止め口の完成後、慶長12年(1607)に本土居上に新田龍神の石の祠をつくり、田33アールを寄進しました。

江越八幡神社
江越八幡神社は鷹尾神社の分社として1730(享保15)年に皿垣村に建立された。東御風流はんや舞は海で働く人の安全、氏子の豊作を願って、泰仙寺村より譲り受けたのが東風流で古代の里神楽の名残りといわれている。1830(天保元)年の古文書「八幡宮祭典儀式帖」に基づき、改正されつつ現在まで運営されている。

海童神社
この神社には、第10代横綱雲龍久吉が寄進した鳥居や灯籠があり、北の海や千代の富士などの歴代の横綱も参拝に訪れたそうです。
雲龍が16歳の時、矢部川の改修工事の人夫として働いた帰りに、天秤棒で約12キロの道のりをかついで持ってきたという重さ108キロと72キロの「雲龍石」。

中山の大フジ
柳川市三橋町の中山地区にある「中山の大フジ」。この大藤は熊野神社の境内にあり江戸時代に、大阪から持ち帰ったものを植えたと伝えられており樹齢は約300年です。開花の時期には多くの花見客が訪れ花房の下にシートを敷いて宴会となります。

立花いこいの森
沖端川の畔に「立花いこいの森」と呼ばれる閑静な公園があります。今の風景からは想像もつきませんが、ここには当時としては珍しい農作物が何百種類も植えられていました。
柳川市三橋町中山、この地はその昔全国的にも有名な農事試験場でした。その名を中山農事試験場と言います。またの名を試験場の運営者の名前を採って立花家農事試験場とも言いました。その運営者こそ旧柳河藩主立花家の14代当主寛治です。

大川市

古賀政男記念館
ト音記号のついた白い建物が、作曲家古賀政男の偉業を偲ぶ『古賀政男記念館』です。昭和初期から約4000曲にあまる歌謡曲を大ヒットさせた郷土が誇る大作曲家です。館内には愛用のギターや譜面などが展示されています。リスニングルームでは、古賀メロディーのリクエストができます。
また、毎月第4日曜日の午前中に、古賀メロディーギターアンサンブルによるミニコンサートが開催されています。

風浪宮
愛称『おふろうさん』。神功皇后ゆかりの神社です。白鷺がとまった所に宮殿を建てたのが起源とされます。柳川の戦国武将の蒲池鑑盛が永禄3年(1560)に再建したものです。五重塔『正平塔』と本神殿は国の重要文化財に指定されています。境内の樹齢約2000年の老樟は県の天然記念物で『白鷺の樟』といわれ、堂々たる風情です。

大川公園
3月下旬から4月上旬にかけて、桜(ソメイヨシノほか)約400本、つつじ約2,000本が咲き誇る。夜間は50本のボンボリ、100個の堤灯を点灯し、シーズンには多くの花見客が訪れる。

影を慕いて歌碑
公園内には、古賀政男直筆の『影を慕いて』(古賀政男が昭和3年に発表した処女作)歌碑があります。この曲から古賀メロディーの歴史が始まりました。

酒見貝塚
大川公園内にあるこの遺跡、今から約二千百年前の弥生時代ごろのもの。
大正15年大川公園を作る時に出土、石包丁、矢じり、網などの生活用品も出ている。

旧吉原家住宅
柳河藩小保町の別当職を代々務めた吉原家の居宅です。建物は大規模で内部の意匠にすぐれ、複雑な屋根の構成と大壁造りの重圧な外壁に特色があります。文政8年(1825)に構築され、藩の公用に利用されました。

光楽寺
寛永元年(1624)旧柳川藩主立花宗茂により創建されたと伝えられる寺院です。
本堂は旧全長21メートル・奥行き12.6メートルの堂庫裏形式の建物で、県下でもこのような大型堂庫裏は珍しいものです。
建築年代については「文政4年(1821)に許可を得て、弘化4年(1847)に完成した」と古文書に記されています。

緒方家住宅
家伝によれば、当家は関が原の戦い(1600)の後、旧柳川藩に仕え、その後小保に居を構えたということです。
天保頃(1830-1844)、緒方元郁氏が現在の屋敷を建築したとの事で式台玄関蟇股は、旧吉原家住宅の蟇股と比べると彫りが多く、おそらくその頃のものと思われます。

東正行家住宅
現在の当主は四代目に当たります。
屋号を錨屋といい、明治期に船道具を製造販売していたそうです。
間取りは一階と二階に座敷をもつタイプで数間幅の通り土間は、当時は作業場として利用されていました。

吉原義朗家住宅
戸時代からの旧家で、棟高が9mもある「大型町屋スタイル」をとっている建物です。

法泉寺
天正年間(1573-1592)榎津と小保の境に開山され、寛文5年(1695)に柳川藩主の援助を受け、現在地に移転し、小保町で最初の柳川藩本陣となりました。
本堂は宝形造り、本瓦葺、正面向拝一間つき。平面は内陣、外陣にわかれ、西側に脇間があります。内陣・外陣境と来迎柱のみ円柱でその他は角柱となっています。

小保八幡神社
小保八幡神社の境内には長さ2.6メートル厚さ0.6メートルの巨石が横たわっている。
この巨石は神社の記録によると「慶安2年(1649)神告によって社殿の裏の堀から三昼夜かけて引き上げた大昔の石橋である」というが疑わしい。

藩境石
さかのぼること約300年。江戸時代の久留米藩と柳河藩との藩境にたてられた藩境石。石柱は石質が異なっていて、それが交互にたてられています。

浄福寺
浄福寺の山号を地名をとって小保山といい、境内に略縁起を刻んだ石碑が建っている。それによれば、天正年間(1573〜)の頃までは、津村城主津村秀門の祈願寺・天台宗小保山受信寺と称していたが天和6年(1620)二世了世のとき、本願寺に帰属して小保山浄福寺と改称された。

中村家住宅
当家は榎津本町筋と長町筋の角地にあたる要地にあり、旧久留米藩領内に属していました。江戸時代には高札場が設けられた場所でした。昭和58年に取壊した嘉永6年(1853)の銘がある蔵の妻に五と屋号がはいっていました。これは、長崎の五島と海産物の取引を行っていたことに由来するそうです。

大川昇開橋温泉
旧佐賀線の筑後川に架かっていた昇開橋のそばにある日帰り温泉施設。大浴場からは橋の中央が上下する昇開橋が望める。

筑後市

羽犬
久留米市と高田市を結ぶ国道209号線と、大川市と大分市を結ぶ国道442号線が交わる、山の井交差点に設置された2番目の羽犬像です。

山梔窩
山梔窩は、幕末の勤皇志士・真木和泉守保臣が久留米藩の藩政改革に失敗して謹慎させられ、9年9カ月を過ごした家です。
1852年5月17日、水田天満宮に勤める直弟大鳥居理兵衛のもとに謹慎させられることになった和泉守は、大鳥居家の一隅に4畳半と4畳の家を建て(大工は尾島の茂吉で、完成は翌年8月6日)移り住みました。1862年2月16日、藩の許可なく薩摩へ脱出するまで、この地で門弟教育に従事し、多くの倒幕・尊王運動家を世に送り出しました。

水田天満宮
水田天満宮は、菅原道真公をまつるお宮で、鎌倉時代の嘉禄3年(1226年)に菅原為長が、後堀河天皇の指示で建てたといわれています。今の本殿は、江戸時代の寛文12年(1672年)に再建されたもので、太宰府天満宮の建築様式が受け継がれた、美しい景観をもつ建物です。
ここは市内一の文化財の宝庫で、参道のほぼ真ん中に建っている「石造鳥居」、本殿裏の柵内にある「石造狛犬」、そのほか「木造火王水王面」「木造獅子頭」が県文化財に、境内のクスノキなどの樹木が「水田の森」として県天然記念物に指定されています。

六所神社
六所神社は、承平年間(931〜8)熊野板東寺より勧請され、羽犬塚町・秋松村・徳久村の鎮守総社である。祭神は、天照大神・住吉大神・霧島権現・高良大神・恵比寿神・春日大明神の六柱であるから六所宮の名がある。神体は木像である。

えびす神像
夫婦えびす神像は、六所宮境内の西側に祭られている4つのえびす神像のひとつで、幅35p、高さ30p程度の凝灰岩の表面に男女並んで彫られています。この神像には「正平12年(1357年)11月吉日」の文字が刻まれていて、このように男女像がともにえびす神として祭られているのは、国内最古級ではないかと考えられています
宗岳寺
浄土宗鎮西派。慶応元年(1596)善導寺の僧久伝が当寺を開基した。
羽犬の伝説の墓五輪塔が建立されている。この寺の薬師如来坐像は藤原期以前に製作されたもので、他に類例のない貴重なものである。
明治5年(1872)排仏稀尺の時、板東寺が廃寺となり、当寺に売却された。数年前犬の塚は薬師堂前に移されている。

羽犬の塚
羽犬のお墓(羽犬塚)は、筑後市内宗岳寺の境内にあります。ここに羽犬の塚があることは、江戸時代にかかれた2つの書物に記されています。しかし、2つの書物の内容は少し異なっていて、一方には「豊臣秀吉のかわいがった犬が、この地で死んだ」と紹介されていて、もう一方には「人に害をなす悪い羽犬が成敗された」と書かれています。

一之塚源平古戦場跡
源氏の平家落人狩りで多くの武者が処刑された。

船小屋温泉共和国
福岡県の南部、筑後平野の中心に立地し、九州道八女ICよりわずか5分。男女各々8種類のお風呂(ラドン泉・露天風呂・サウナ・人間洗濯機など)があり、年中泳げるウォータースライダー付プールも好評。

船小屋鉱泉場
船小屋温泉、船小屋鉱泉として親しまれている。泉温十九度の含鉄炭酸泉で、炭酸含有量は日本一。胃腸病、婦人病、貧血症などに効能があり、特に胃腸病には飲用が効くとされている。

欠塚古墳
 平成の調査当時「欠塚古墳」は、古墳全体を覆う墳丘や、石室を形作る石のほとんどが取り去られ、無残な状態でした。しかし、昭和の調査時には、崩れてはいたものの石室はまだ残されていて、その報告書には石室の「壁面や床面は朱で彩られていた」と記されています。また石室内からは、ガラス玉や円筒埴輪、須恵器などが多数出土し、これらの出土品からこの古墳が造られたのは5世紀後半あたりではないかということが分かりました。

大木町

聖塚の板碑
現在は、納骨堂敷地内にありますが、以前は北へ100mの地にあった聖塚に建立されていたものを土地改良事業の整地のために現在地に移転したものです。板碑には「奉納陸舎念佛一石、阿弥陀大○名王」「天正三年(1575年○月○日」とあります。

天満神社
大木町大字八町牟田字宮内にある。祭神は菅原道眞を祀る。承久三年(一二二一年)野口道覚が勧請した。寛延記によれば、天満大自在天神絵体を承久二年(一二二〇)野口道覚が筑前宰府より勧請したとある。
明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。尚、境内の楠の大木群は、町内唯一の町指定の文化財天然記念物として保護されている。

天然温泉大木の湯アクアス
大木町から湧き出した天然温泉。泉質・湧出量それに湧出温度も52.9度とすべてにおいて恵まれた温泉です。しかも、炭酸水素イオンの働きで湯上りがすべすべとしたアルカリ温泉の「美人湯」です。

大藪三島神社
木町大字大薮字大薮にある。祭神は事代主神・春日大神・住吉大神である。寛延記によれば鎌倉時代正安三年(一三〇一)大薮地頭高橋丹藤兵衛藤原基氏が、伊豆国より勧請して建立し、九月一七日より一九日まで、田中村・大薮村・奥牟田村の三村から祭礼を勤めた。

広川町

石人山古墳
筑紫君「磐井」の祖父時代のものといわれ、甲胄姿の石人像が立っているところから、この名がついています。特に家型石棺のふたには直孤紋といわれる精巧な彫刻が施されており、古墳では貴重なものとされています。

弘化谷古墳
当地方最大級の円墳。石室の中の石屋形奥壁に靭、双脚、輪状文、円や同心円、三角文様などが赤、黄、緑色などで描かれている。11月の第二日曜日には「古墳まつり」が開催される。

八女市

八女福島の町並み
16世紀末、郡領主筑紫広門は八女福島の地に福島城を築城しました。現在の八女公園が本丸跡となります。城自体は、一国一城制により約30年ほどで廃絶されますが、町人地はそのまま残り、形成された城下町はその後商人と職人の町として栄え、現在の「八女福島の町並み」(重要伝統的建造物群保存地区)が作られました。

旧木下家
「堺屋」の屋号で酒造業を営んでいた旧木下家住宅。13代当主木下和夫氏が広大な敷地とともに八女市に寄贈、一般に公開されている。1908年(明治41)建築の豪邸は保存状態が良く、見事な離れや庭園などが見られる。特に屋久杉[やくすぎ]の一枚板で作られた欄間は圧巻

八女伝統工芸館
地域の特性を生かした伝統工芸等の保存、継承を行い、またその振興を図り地域住民の地域活動を支援するための施設として昭和61年11月にオープン致しました。

福島八幡宮
福島八幡宮は1661(寛文元)年開基。はじめ、氏子は放生会には家々に神灯を飾っていた。やがて山鹿の大宮神社の燈籠を譲り受け飾るようになる。1744(延享元)年より、自前の人型の燈籠が飾られた。動くものではないが、「燈籠人形」の始まりと古文書は伝えている。1772(明和9)年、浄瑠璃作者福松藤助(松延甚左衛門)が大阪より帰郷し、人形を動かす工夫や、当番町制の上演に力を貸した。以後、動く人形が登場し、それが主役となり、燈籠は照明役に転じた。

鈍土羅の樟
胸高周囲15.2m、根周り31.2m、樹高30.2m。昭和28年に県指定となりました。熊襲が朝廷に反逆した際に、討伐に参加して戦没した将士の墓標としてこの樟が植えられた、という言い伝えがあります。大正時代初めに、樹の根元から内部に朱を施した石棺が発見されています。

福島城跡
天正15年(1573年)、筑紫広門が郡内支配の拠点として立てていた館を、関ヶ原合戦後田中吉政が大改造し上妻郡支配の拠点として構えたと伝えられています。それ以後福島町は城下町として発展していきました。初代城主は吉政の三男田中康政。

岩戸山古墳
北部九州最大の前方後円墳で墳丘長約135m、後円部径約60m、前方部幅約90m、高さ約17m、周堤を含めると185mにもなります。古墳の東北部には祭祀が行われていた別区を持っています。その規模や内容が筑後風土記の逸文とほぼ合致することから、古事記や日本書紀にも登場する「筑後国造磐井」の生前に造った墓といわれ、築造者と築造年代が判明している貴重な古墳です。

岩戸山歴史資料館
八女古墳群からは多数の出土品があり、特に、岩戸山古墳並びにその周辺より出土したと思われる石人・石馬等の石製品は学術的にも高く評価され、大部分が国の重要文化財、福岡県の有形文化財として指定されています。さらに、八女古墳群からの主な出土品としては、埴輪、須恵器、金環、金製垂飾付耳飾り、鉄製の武器・武具などがあり、このような出土品は、わが国の歴史・文化等の正しい理解と研究に欠くことのできない貴重な文化遺産で、岩戸山歴史資料館はこれらの文化財を保存し、展示、公開しています。

乗場古墳
墳丘長約70mの前方後円墳で、6世紀中頃の装飾古墳です。大正11年に国指定となりました。後円部に南に開口する複式構造の横穴式石室があります。石室内部には赤・黄・青の3色を使った三角文や同心円文などの文様が描かれていますが、保護のため現在は閉鎖されています。出土した環頭大刀柄頭・人物埴輪・玉・馬具などは岩戸山歴史資料館に展示されています。国史跡。

べんがら村
天然温泉、レストラン、地ビール工房、農産物直売所、ふれあい農園のほか市民プール、ジム、フィットネススタジオなどを備えた施設が、平成10年4月にオープンしました。中でも、薬食同源という考えに基づき食文化を生かす郷土料理などのレストラン。旬で新鮮な農産物と女性や高齢者が丹精込めて作った農産加工品を提供できる直売所、市民の健康に一役かっている天然温泉が大好評です。

童男山古墳
円墳。八女古墳群の終末をかざるわが国の代表的巨石古墳。

八女中央大茶園
62haの広大な敷地に緑のじゅうたんを敷きつめたような茶園。地質的にも気候的にも恵まれた八女の地に茶樹が初めて植えられたのは1410年頃。以来、色・味・香りよしの高級茶として全国的に知られている。

五社神
五社神の祭神は大玉命、武雷命、斉王命、天児屋根命、姫大神、以上五つの命であって昔から水田時の旱魃にはなくてはならない雨乞いの神様として、或いはその他全般に亘る願い事の神様として村民は崇拝し続け、毎年9月15日は御日として各町内より各々が里芋の焚煮を奉納してお祭りが挙行されていた。

洗玉眼鏡橋
単一アーチで、橋の長さ32.5m、アーチの直径22.5m、幅員5mです。阿蘇凝灰岩を使用して、熊本の名工・橋本勘五郎が完成させました。橋本勘五郎は、通潤橋を架けたことで有名です。大工棟梁も熊本の人で、吉沢大七といいます。明治26年(1893)5月3日完成の眼鏡橋は、橋本勘五郎最後の石橋となりました。

黒木町

黒木の大藤
九州で最も有名な藤の名所は?と聞かれたらまずもって大半の御仁はここの名を挙げるに違いない。
「黒木の大藤」、その人、いやその植物である。一説によればこの大藤が植樹されたのは応永2年(1395)後征西将軍・良成親王によるものと伝えられており、違いないとすれば樹齢610年余りとなる。勿論、それにふさわしく四方に広げた藤棚面積は約2,700uにもおよび、ご覧(←写真)のように枝から垂れる無数の花房はまるで紫色の雨を降らせているかのようである。
開花時期は4月中旬〜5月初旬で毎年多くの観光客が訪れている。

素盞鳴神社
創建1319年。素盞鳴神社の国指定天然記念物「黒木のフジ」は、応永2年(1395)後征西将軍であった良成親王が植栽したと伝える。その後、度重なる戦火や大火にもかかわらず、藤は600年の樹齢を保ち、今日に至っている。

シバザクラ園
黒木町の地域交流センター「ふじの里」の川の対岸に1万8千株の「シバザクラ」が植えられています。
広さは他県の有名芝桜公園とは比べものにならないくらいの小さな規模ですが、黒木町のシバザクラ花園は福岡県初です。

津江神社
津江神社の樟由来記に、平安末期の嘉応元年丑年(1169)2月初丑日黒木城(猫尾城)主、源助能の創設とあります。
助能氏は豊後の大友氏に疑いをかけられ、豊後津江山浦に閉じ込められました。助能は、「この無実の疑いが晴れ黒木に帰城できたときは、津江宮を黒木庄中の宗廟としてお祀りします」と願をかけてお祈りしました。やがて疑いが解けて帰城ができたので、津江宮の神霊をうつし津江神社と名づけ建立しました。

津江神社の樟
樹は樹齢800余年。根元土ぎわ周囲36メートル、幹部周囲12メートル、枝下9メートル、樹高40メートル、枝張東西43メートル、南北40メートルの老樹、巨木で境内をこんもりとおおい、なお今日も樹勢は旺盛です。末社春日社の御神身体となっています。

後藤酒造場
創業1677年(延宝5年)の老舗。三百年余りの歴史と、良質の水、自然の中で育まれた酒は旨みのあるきれの良い酒、全国新酒鑑評会で5回の金賞受賞。昭和59年には、九州で初めてパック充填機を設置。本格焼酎黒木大藤は、樹齢600年といわれる天然記念物の黒木大藤に因み命名。米焼酎、麦焼酎ともに蔵で4〜5年貯蔵したもので口あたりの良い飲みやすい焼酎。又、旧国鉄矢部線のトンネルに5年以上カメで貯蔵した古久はアルコール40度以上あり絶品。

熊野宮参道橋

町指定文化財。神社参道入口の放生池(仏教的思想との混淆)に架かる橋。


黒木稲荷神社
京都伏見稲荷の分神。

グリーンピア 八女

グリーンピアは、広い敷地にすばらしい宿泊施設、各種のスポ-ツ施設、レクレーション施設、カルチャー施設、レジャープールがゆとりをもって設置されている総合施設、年間を通し四季を彩る花まつりを開催しています。
また、温泉館「くつろぎの湯」では和洋それぞれの大浴場に、趣の異なる露天風呂を完備。
夏はキャンプ場あり。
宿泊予約は1年前の1日より、受付。
その他詳細は問い合わせを。

グリーンピア八女
シャクナゲ園
奥八女地方の花として知られ、園内ホテル北側の茶室周辺に、ゴールデンウィーク頃からみごとな花を咲かせ来園者の目を楽しませる。また、平成8年11月に観覧車の南側に新しくシャクナゲ園を整備。

霊巌寺
八女茶発祥の地「霊巌寺」は、今から約570年前、栄林周瑞禅師が明から帰国した際、この地が蘇州霊巌寺の景観によく似ていることから寺を建立し、持ち帰った茶の実を境内に栽培して、製茶法を伝授したのが八女茶の起こりと言われています。
また、霊巖寺では自然の材料をふんだんに使った精進料理(要予約)も召し上がれます。

八女茶発祥の地
女茶の発祥は、応永三○年に周瑞禅師が明より茶の種を持ち帰り、笠原(黒木町)にまいたのが始まりとされております。

霊巌寺の奇岩
男岩,女岩,仲人岩,座禅岩などの凝灰岩の奇岩が屹立。県の天然記念物。

お茶の里記念館
八女茶の製法、紹介、製茶用具の展示。

霊厳の湧水
この水は記念館より歩を運ぶこと600mの地に湧き出ずる清水を引水したものです。
この湧水は悠久の時を刻みながら霊厳の厳谷をくぐりて夏は冷たく冬は温かい、絶えることなく湧く清水です

関屋橋
黒木の大藤から県道797号線を北西へ3Km、左手に小さな案内板があります。

日向神ダム
矢部川源流のダム。ダムの周回道路は、サクラの名所として親しまれている。 

星野村

石積の棚田
星野村を代表する棚田です。この棚田は長い年月をかけクワで山を切り開き、山石を一つ一つ積み上げて造られたものです。古くは奈良時代からおよそ1300年もの間この石積みの棚田が脈々と受け継がれてきました。
平成7年に棚田を持つ全国の市町村や、棚田保全に関心を持つ団体や個人が、棚田を通じてネットワークを図る組織として全国棚田連絡協議会を設立しました。2000年9月13日・14日と全国棚田サミットがここ星野村で行われました。

星の温泉館きらら
標高300Mの丘に建つ星野村で唯一の温泉宿泊施設。自慢は、なんといっても天然温泉の露天風呂です。星野村が一望できる「みはらしの湯」と、緑あふれる樹木に囲まれた「もりの湯」は、日常で疲れ切った心と体を癒すには最高です!

矢部村

矢部川源流公園
清流矢部川の源流であり、日向神ダム上流にある「矢部川源流公園」。
自然の河川をそのまま利用した「ふれあいプール」は無料で利用できます。
ほかにも、親水広場や巨大日時計などがあり、みんなで楽しめるスポットがいっぱい。
ファミリーやグループでの避暑地にピッタリです。

白鳥神社
鬼塚の村民グラウンドの北西、桜や楓、杉などの木立に囲まれた高台に白鳥神社がある。創建の年代や由来、どうして白鳥神社というのか詳しいことはわからないが、高台の崖下にあったのを大正時代に、今のところに移しかえたという。鬼塚地区の郷社で、毘沙門天が祀られ、毎年秋に例祭が執り行われている。

日向神峡
日向の神々が、美しさにひかれ降り立ったという伝説が残る渓谷。
天照皇大神とスサノオ尊、日向神大明神になぞられた10メートルもの大岸壁「正面岩」をはじめ、天馬の蹄が当たったという「蹴洞岩」、七福神の名の付く七つの岩と、迫力の巨岩・奇岩群が立ち並びます。

立花町

黒岩橋
春川流域には、数多くの眼鏡橋が残っていますが、その中で最も大きい眼鏡橋がこの黒岩橋です。黒岩橋の親柱に、『黒岩橋 明治二十五稔九月』と刻まれています。このように橋名年号があり、勾欄(欄干)が刻まれているのは町内ではこの橋だけです。橋は長さ10.3m、径観8.5m、幅1.8mです。

松尾弁財天
弁財天は、江戸時代初期に、辺春能登守義国によって創建されたもので、子宝祈願の社としても知られている。子供風流は、江戸末期から始まったといわれているが、起源は定かではない。

一ノ瀬橋(熊川橋)
明治23年頃石橋として架橋されていたが平成2年7月2日の災害により流出したため当時の眼鏡橋を基に再現したものです。

道の駅たちばな
道の駅「たちばな」は、国道3号線の福岡県の南玄関口に位置する自然豊かな緑に囲まれた場所にあります。夢実館「そろり」では、採れたての新鮮な野菜や果物などの農産品を「もてなしの心」をもって販売しています。一菜合菜「とびかた」では、地元の新鮮な食材にこだわった田舎料理を楽しむことができます。だご汁のセット「とびかた御膳」、地元のたけのこを使った「竹ん子カレー」など田舎ならではのオリジナルメニューをご賞味いただけます。

みやま市

金栗遺跡
古墳時代後期から鎌倉時代前期にかけて営まれた遺跡です。幅3m、1.5m、深さ1.5m、一辺40mの方形溝で囲まれた環溝(約480坪)の内に竪穴住居跡16、焼灰4、炉跡3、井戸跡6が発見され環溝集落として著名です。

蒲地山の大堤
享保2年柳川藩普請役田尻惣馬が人夫述べ7万6千人の労役で築いた大溜池。南北180m、東西468m、周囲1500mの大堤で、蒲地山にある。

江月寺
みやま市は山川町河原内にある「江月寺」は、文久2年(1862)に建立された黄檗宗の寺院です。ここの特徴は、本堂が日本式住宅建築のなかに組み込まれた、いわゆる座敷本堂という珍しいスタイルなところ。そして純和風の可憐な花々・植物に囲まれた情緒豊かなお寺スポット。庭園は四季折々の魅力があり、毎年10月に開かれるお茶会では、美しい琴の音が和の神髄を感じさせてくれます!

八剣神社
祭神は素佐鳴命。元禄元年の勧請で、京都八坂神社の御分霊を祀る。古来藩主の保護を受けて毎年藩主の武運長久を祈った。神事としては大名の参勤交替にちなんだ若殿様の行列及び大蛇山、花山がある。水天宮も祀られ、祭典には御幸あり、また農具市も開かれた。

西楽寺
寛永14年の建立。原町宿を偲ばせる唯一のものです。伊能忠敬一行が宿泊。

原町のお観音さん
元禄七年(1693年)清水寺の隆尚法印によって建立され本尊は千手観音と馬頭観音を祀る。
原町は薩摩街道の宿場町として栄え今の原町郵便局あたりに、お茶の接待をした「お茶屋」があり多くの人が往来していた。
毎年旧暦八月十七日・十八日の二日間は観音様の縁日で賑わった。町の両側は色々な出店や催し物が並んだ。

筑後、肥後、肥前からも参詣が多く大変賑わったということである。

物見塚
小萩村の小高地で要川最後の決戦の時に平家軍の物見の指揮所跡の伝承の地。ここからは要川を眼下に遠く野町・飯江方面を一望のもとに見渡すことができる絶好の物見の場所である。

菅原神社
物見塚の小高地の頂上には山川で最も古い文献に出ている長久3年(1042)建立の天満宮がある。

はなたれ小僧さま
むかし、正直者だが貧しい老夫婦がいた。ある日、おじいさんが売れ残った柴を、水神さまに捧げると、ひとりの女が現れ、柴の礼をいい、小さな小僧さまを差し出した。「このはなたれ小僧さまは、何でも願いごとを叶えてくださいますが、エビナマスしか召し上がりません。毎日作ってさしあげてください。」と
その言葉の通り、二人は村一番の大金持ちになった。そうなるとじゃまなのは小僧さま。水神さまのもとに小僧さまを返したとたん、二人はもとの貧乏暮らしに戻ったそうだ。

清水寺本坊庭園
室町時代に雪舟が造ったと伝えられる清水寺本坊庭園(国指定名勝)がある。四季それぞれに風趣に富み、紅葉はひときわ美しい。

清水寺
9世紀に唐から帰朝した伝教大師(最澄)が清水山に立ち上がる霊気を感じてここに寺を開いたという。
参道を登るとりっぱな山門があり入母屋2層の姿がこの寺の格式の高さを現している。本殿の右上には三重塔があり、もともとは天保7年(1836)に建立されたもので(昭和41年に全面補修され新しくなった)全体にずんぐりしたボリュウム感のある造りになっている。

女山神籠石
女山神籠石の配列の形状は、古塚山を中心に1辺約70cmの立方体に加工された礫岩が、山にほぼ馬蹄状に並んでいた。
列石を横切る横尾谷・長谷・源吾谷・産女谷には水門が設けられており、そのうち、横尾谷と長谷が比較的水門の原形をとどめている。
女山神籠石は全長約3qに及び、山麓最北端の横尾谷より北半分についてはまだ不明である。
築造の目的については、これまで「神域説」と「山城説」の両説の間で争われてきたが、近年の調査により七世紀頃に構築された山城遺構とする見解が強まっている。
列石の内部には多数の古墳があり、中広形銅矛・勾玉などの出土品も多い。

蜘蛛塚
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入り口に位置し、ここ大塚という地区の名の起こりである。今は石室の中心部のみ残り塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。
伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされる。又、一説に土蜘蛛の首長田油津媛の墓であるとも言う。

竹飯八幡宮
竹飯の花火は、柳川藩主立花宗茂公が朝鮮の役凱旋後、竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火を奉納したのが始まりと言われる。昔は仲秋の名月の夜に行われていましたが、現在では10月10日に奉納される。仕掛花火の稲すり、お城、万穂などは有名で、九州有数の花火生産地ならではのみごとなものである

光源寺
西暦1500年(室町後期)の初頭、寺院というより道場として、古くから門信信徒のための求道念仏の堂宇があったことは明らかである。寺号公称をおこなったのは、それより以降で、その開祖は祐閑である。祐閑は戸次道説雪公、立花宗茂公に仕え天正15年筑後柳川に赴いた。慶長5年関が原の合戦の後、宗茂公柳川を去り、程なく祐閑は浄土真宗に帰依して山門郷の瀬高下庄に庵居した。慶長10年に西本願寺より光源寺の寺号を賜り木仏本尊を授与された。その後真宗大谷派へ転じて今日に至る。第4世正吟は肥前長崎にも開教し寛永14年に寺を建立した。

下庄八幡神社
下庄八幡神社は古来、地元で親子代々親しまれている伝統と実績のある神社です。ひっそりとした木々の中に凛と立っている社殿の大きな建物の中、樹齢八百年といわれる神社のご神木「大楠」を仰ぎながら散歩されるご夫婦も見られ、雑誌にも掲載された地元でも話題の神社です。

江浦城本丸跡
江浦城は、田尻家の居城。鷹尾城の支城の一つで田尻了哲が守っていた。天正10年(1582年)龍造寺軍に攻められたもの撃退し翌年には、和睦し龍造寺軍は撤退した。元和元年に廃城。

大牟田市

石炭産業科学館
長い間大牟田の象徴でもあった石炭をテーマに、人間のエネルギーそして地球環境を考える科学館。模擬坑道やエネルギー体験遊具など遊び感覚で楽しく学べる施設です。また、三池炭鉱での出来事をまとめた映画も上映しています。

ナガスクジラ
鯨骨の化石が、昭和13年三井鉱山三川鉱大斜坑開削時および、同年東洋軽金属(現三井金属)銀水工場造成の際に数頭分が出土しました。椎体の特徴から体長は15Mのヒゲクジラ網ナガスクジラと考えられます。
この模型は、それをモデルに作られたものです。

諏訪神社
後醍醐天皇の延元2年の夏、長雨降りついて止まず洪水が出て里人は苦しんでいました。その時近くの来生川に日夜怪しい光が現れて人々は奇異に思っていましたが、ある夜、諏訪大明神が、猿渡弥三郎菅原正明という人の夢枕に立たれ、「この地に鎮座したいのでそのようにせよ」と言いました。正明は翌朝、不思議に思い川の中の光りに近づいてみると、平たな岩に一対のご神体が鎮座されています。正明は自分の屋敷内に急ぎ社を作ってお祀り申し上げたところ、忽ち天候は回復し、それ以来この里には大きな風水害もなく、平穏な里になりました。

大牟田神社
神社界でも珍しく一級建築士の資格を持つ宮司です。建築業界に身を置いた者として、地鎮祭や家祓など業者さん・施主さんの立場に立ったご奉仕が出来ます。
この度、境内整備を行い、@神事「庚申祭」を行うべく境内社「猿田彦大神」のお堂を「庚申堂」新設。A手水舎の造営。B稲荷社の朱色塗り替えを行いました。

諏訪公園
親子でピクニック感覚で楽しめるレクリエーションゾーン。健康増進・運動不足解消に最適のスポーツ休養ゾーン。 二十日えびすなどのイベントも行われる分化交流ゾーンの3つにわかれ、それぞれの”癒し”に合わせた幅広い目的に対応している。

三池港
三池港は、三池炭の積出港として明治41年に開港しました。昭和26年に重要港湾に指定され、昭和46年には福岡県が三池港の港湾管理者となりました。
三池港は、土砂が流れ込むのを防ぐために設けた長い防砂堤と、閘門によって仕切られたドックの形から、鳥がはばたく姿をイメージして作られたともいわれています。
干満の差の大きい有明海に面すため、渠内(ドック内)は干潮時に水門(閘門)を閉じて一定の水深を維持します。

三池港閘門式水門
三井三池炭鉱初代事務長団琢磨の発案によるもので、有明海の干満の差が日本一大きいという特長を克服しました。これにより、8.5mの水深を保つことができ、船梁内では常時1万tクラスの船の荷役が可能となりました。

宮浦石炭記念公園
宮浦坑は明治20年(1887年)に開坑、三池炭鉱の主力坑口として約4,000万トンの石炭を産出し、昭和43年(1968年)に閉坑。
ボイラー排煙施設の煙突は、国の登録文化財として、また炭鉱節のシンボルとして大切に保存されている。
宮浦大斜坑や採炭機械も展示してある。

弥劒神社
旧三池藩に属し、田町の祇園さんとして親しまれている。
当社の大蛇山を飾る山車(御前山)の龍の彫刻は特に有名。
延宝年間、早鐘眼鏡橋の完成にともない住民の協力に対し藩主立花種恭公が下腸されたものである。

普光寺
歴史と伝説の山、三池山の中腹にある天台宗の古刹。
樹齢400年といわれる「臥龍梅(がりゅうばい)」は、まるで地を這う龍のよう。県の天然記念物に指定されています。

臥龍梅
樹令400年前後。県指定天然記念物。龍が臥している姿に似ているので名付けられた。八重咲き紅梅。

紹運寺
1621(元和7)年1月、立花種次に一万石が再封され三池藩が成立すると、種次は三池新町に陣屋を構える一方、藩祖にあたる高橋紹運の名をとった菩提寺紹運寺を創建する。時に17歳であったが、もちろん伯父立花宗茂の援助があってのことである。
寺号を金剛山紹運寺といい、曹洞宗の寺である。正面左側に「不開葷酒入山門」の結界石柱が建っている。これは紹運寺第九代住職倪果山によって1726(享保11)年2月15日に建立されたものである。

定林寺
あじさいの名所として知られる曹洞宗の寺院。別名「あじさい寺」とも呼ばれ、シーズンには薄紫の花房が雨にしっとりと映えます。

早鐘眼鏡橋
かんがい用水路として三池藩が延宝2年(1674年)に早鐘池の用水を通すために、大牟田川に架けた石造アーチ型水路橋で、この様式の水路橋としては我国最古のものであり、国の重要文化財に指定されている。
橋の上には3方が板石で作られた深さ33センチ、幅45センチの水路が通っている。

大牟田温泉 満月の湯
福岡県大牟田市、炭鉱節の故郷に充実の温泉施設が誕生。
豊富な種類のお風呂とサウナ、どれから入るかはお好み次第。
ご家族団欒に、お仕事の帰りにいつでも楽しめます。
身近に手軽にぜいたくなひとときをごゆっくりどうぞ。

倉永諏訪神社
お諏訪さんと親しまれている当神社ですが、「百人一首のやしろ」とも呼ばれ、拝殿には百人一首の絵馬が100枚ぐるりと掲げられています。明治時代に奉納されました。大牟田がカルタ発祥の地というように、昔この地方では、百人一首やカルタを使って読み書きや国語を学んでいたようです。当神社に於いても寺小屋のような塾を開きカルタを学んでいたとのことです。

甘木公園
甘木公園は、有明海と市街地を一望できる公園です。春は桜の名所として知られています。また園内には、遊歩道が設けられており、散策やハイキングに利用されています。

甘木山古墳群
この古墳群は甘木山山頂からやや下った南斜面に、稜線とほぼ平行に九基の古墳が分布している。古墳の墳丘は、すでに削り取られ、天井石を失い、腰石だけが残っており、石室は、露出している。このために原形を推定できるものは少ない。

萩の尾古墳
6世紀後半(古墳後期)の築造で、石室は玄室、前室、羨道からなる複室の横穴式石室である。玄室奥壁は1枚岩の阿蘇凝灰岩で造られている。奥壁の文様は赤色顔料で施され、船形や、盾そして円などの幾何学文様がある。

弁財天
本弁財天石造は、中村伊右衛門定之という人が三池郡米生荘萩尾に弁天さんの霊窟があるけれど尊像が無いので、石像を安置し奉ろうと、元禄5年(1692)観音経五千巻を読経して石像観音を彫り祭られたもので「弁天さん」或は「穴観音さん」として大きな穴(古墳)の中で永らく信仰されてきたものである。

道の駅「おおむた」
花ぷらす館
道の駅「おおむた」花ぷらす館 は、”花”と”緑”をテーマに、自然、人、地域とのふれあいの中で豊かな時間(とき)を提供し、健康で豊かな暮らしを提案します。
館内では、ベーカリーショップやガーデンを見下ろしながら当館オリジナルの欧風創作田園料理が楽しめるガーデンカフェ&レストランなど、どれも地元の食材を使ったオリジナルメニューで楽しんでいただけます。
他にも、有明地域の特産品の展示販売。ハーブショップやガーデニングショップもあり「体験教室」も開催しています。 どうぞ、気軽に参加してみてください!!





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