筑豊


宮若市

犬鳴ダム
犬鳴ダムは、県が管理する重力式コンクリートダム。平成6(1994)年竣工。ダムサイトから「司書の湖(うみ)」ともども、四季折々の景色を堪能したい。ダムの奥へ車で走ると東屋やベンチ、滝、鯉の泳ぐ池などが整備された親水公園があり、山中の澄んだ空気の下で清々しい気分に浸れる。

司書の湖
ダム湖は、江戸時代後期、筑前福岡藩の家老職だった加藤司書の功績をたたえて、「司書の湖」と呼ばれる。加藤司書は中国地方の製鉄技術を学び、犬鳴字金山に鉄山を開いた。また犬鳴御別館(山城)をつくり戦火から藩主をかくまう準備もした。現在も、大手門、、石垣などが残っている。

清水寺
僧行基が奈良時代の天平年間(729〜748)に建立したとされる。秘仏の千手観音菩薩と十一面観音菩薩坐像(県指定文化財)を所蔵。西山の中腹、標高300mに位置し、晴れた日には若宮盆地をはじめ遠く北九州まで見渡すことも。前日が雨天で湿気の多い翌日朝に見られる、神秘的な雲海の眺望ポイントとしても有名。秋に美しく色づく境内の大銀杏は、嘉永3(1850)年に土石流を食い止めたとことで知られる、寺のシンボル的存在。

竹原古墳
6世紀後半に築造された直径約18m・高さ約5mの円墳。複室の横穴式石室の計3カ所に、黒や朱の古代顔料で船や龍、朱雀、馬を引く人物、翳(さしば=うちわのようなもの)などが描かれている。これほど鮮明に残った装飾古墳は全国でもまれで、国の史跡にも指定。石室からは装飾品や馬具、武器などの副葬品も出土。

羅漢岩窟
県道真上の岸壁中腹に十六体の羅漢石仏が安置されている。平安時代の文治年間(1185〜1190)に痘瘡(天然痘)が流行した際、極楽寺住職道心上人がこの岩窟にこもって治癒を祈願。無事に治めたことを感謝した村民が建立した。宮田八十八ヶ所の五十四番札所でもある。

石炭記念館
筑豊の炭鉱産業を約1世紀にわたって支えた貝島炭砿の歴史を網羅。炭坑機器や模型、写真、文献、篤志家による炭坑壁画などを展示。小学校の校舎を生かした造りも郷愁を誘う。

極楽寺
1174年に太蔵道場として開かれ、黒田長政の室の仮墓がある。

鞍手町

長谷寺
浄土宗、亀甲山。通称、長谷観音。開山、仁和元年(885)萬賀。長谷観音建立のいわれは、行基の作をはじめとして、いろいろな説がありますが、専門家の説によれば11世紀の初頭に地方の仏師が地産の樟で彫刻したものとも云われている。十一面観音立像は平安時代前記の様式を受けた、九州で最も古式で気品のある美しい姿です。

円宗寺
毎年8月に八尋の盆踊りが開かれる。
八尋地区に古くから伝わるといわれているが、詳細は不明である。戦後の昭和21年、八尋地区に疎開していた旅役者の池田氏が、村の青年団を指導して、復活させた。

古物神社
伊藤常足は、古門にある古物神社(もと剣神社・八幡神社、明治4年改称)神官の家に生まれました。

伊藤常足旧宅
天明6(1786)年11月、国学者伊藤常足が13歳の時に建てられたものです。平成元〜2年、ふるさと創生事業によって整備するまでの間、数回の増改築が行われていましたが、残されていた屋敷図などをもとに復元が行われました。神職の家ではありますが、一般的な農家の構えで、広い土間、牛舎も付設されていました。

古月横穴
大正15(1926)年に発見された横穴は、現在までに41基が確認されています。古墳時代後期の6世紀後半から7世紀に使われたこれらの墓群は、丘陵の斜面に造られています。墓室内部壁面に装飾された横穴墓は3基で、2号基、6号基には内容が不明の線刻による文様、9号基には朱の彩色のある斜格子の文様が描かれています。また、9号基、12号基の上部には、墳丘があります。

中山身代り不動尊
正式名称を「木造不動明王及二童子像」といいます。明治36年高村光雲によって認められた本尊の由来は不明ですが、神仏習合の信仰による、八剣神社との関連が考えられます。

飯塚市

嘉穂劇場
古い木造建築の芝居小屋として建てられ「桟敷」や「木造桝席」「回り舞台」などがある全国でも数少ない劇場の一つです。
昭和6年から72年間個人経営を行ってきた劇場も平成15年7月19日の水害で経営存続が危ぶまれましたが、全国からの温かい支援や励ましのもと、新たにNPO法人として平成16年に見事復興を果たしました。

旧伊藤伝右衛門邸
この建物は筑豊の著名な炭坑経営者であった伊藤伝右衛門の本邸として明治30年代後半に建造。大正初期、昭和初期に数度の増改築が行われました。
高い塀は旧長崎街道に面しており、昭和2年に焼失した福岡市天神町にあった別邸(通称銅御殿)から移築された長屋門や、伊藤商店の事務所が目を引きます。

川島古墳公園
飯塚市は数千年もの昔から豊かな古代文化が栄えたところです。それを伝えるのが市内に点在する立岩遺跡をはじめとする古代遺跡や古墳群です。
川島古墳は昭和63年(1988)に道路改良工事中に発見され、調査の結果、市内では唯一の装飾古墳であることが明らかとなり、考古学上その学術的価値が極めて高いことが認められ、平成4年(1992)に県指定史跡になりました。

小正西古墳
平成8〜9年にかけて発掘調査を行った結果、1つの墳丘に2基の横穴式石室を構築するなど全国的にも大変珍しく、学術的価値が非常に高い古墳であることが明らかになり、平成11年3月に福岡県指定史跡として認められました。

椿八幡宮
宇多天皇寛平9年(897年)に勅命によって大宰府庁が社殿を創立しました。
それ以来、多くの神領や封戸をもって威勢を誇っていたお宮だと伝えられています。

弥勒菩薩
椿八幡宮近くの菩薩堂にあります。弥勒菩薩は約2.1mの寄木づくりの木像で、耳の仏様として多くの参拝者があり、耳の悪い人達がお参りして治癒したら、火吹き竹を奉納するという風習が残っています。

久保白ダム
このダムは、オシドリ・マガモ・ヒヨドリ・ウグイスなど渡り鳥や野鳥の宝庫で、30種類以上の鳥が観察されます。また、釣り人も多数訪れ、四季折々レジャー・レクリエーションの場として親しまれています。

大分八幡宮
大分八幡宮は奈良時代の神亀3年(726)に創建されたといわれます。祭神は八幡神・神功皇后・竈門山神です。
平安時代の延長元年(923)には、八幡神が大分宮から博多湾岸の筥崎へ遷座するという出来事が起こりました。大分八幡宮が筥崎八幡宮の前身といわれるのはこのためです。

養源寺
明治の廃仏までは長楽寺と呼ばれていたが、明治の廃寺の折、福岡市湊区(西公園)より移る。本尊は不動明王、脇仏として平安末期に製作された聖観世音菩薩(県文化財指定)・薬師如来および十二神将がある。

大分廃寺塔跡
大分廃寺塔跡は奈良時代の寺院の塔跡として昭和16年に国指定史跡となりました。
現在も塔の中心柱を支えた心礎を中心に17個の礎石がほぼ創建当時のままの良好な状態で残っています。
また、心礎と共に大分廃寺を特徴づけるものは、出土した華麗な新羅系古瓦です。当時大宰府から田川・豊前地方を結ぶ官道沿いで、新羅系古瓦を葺いた三重塔を有する大分廃寺は威容を誇っていたことでしょう。

一里塚
飯塚と内野の間、長尾に一里塚があります。今は榎が立っていますが南畝の頃には松が左右にあったようです。

内野宿
長崎街道は江戸時代、小倉−長崎間57里(約228km)を25ヵ所の宿場で結んでいました。そのうち黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の六宿場を筑前六宿といいます。
内野宿は慶長17年(1612)、黒田二十四騎の1人である母里但馬守友信が建設に当たり、その後に内野太郎左衛門が引き継いで建設しました。福岡藩がその開通を急いだのは参勤交代の諸大名が福岡城下を通過するのを嫌ったためと言われています。

御茶屋跡
本陣のことで、福岡藩主の別館でした。参勤交代の大名や長崎奉行などの宿泊施設です。本陣建物の一部が馬敷にある西光寺に移築されています。

宗賢寺
内野宿、冷水越の建設に当たった内野太朗佐衛門重信は藩主黒田長政公が歿する(1623)と小庵を結んでこの菩提を弔った。重信は長政公の戒名の一字を贈られト祐宗賢と号した。寛永16年(1639)62歳で重信が歿した後、碓井の永泉寺12世和尚は、その霊を祀り一寺を開き宗賢寺とした。

藤井政太郎頌徳碑
藤井政太郎(1855〜1920)は内野村の人で、郡会議員や内野村長などの要職を長年勤め、村政に尽くす。その間、冷水県道(現在の国道200号)開通に20年間奔走し、大正9年(1920)に完成した。又、林業にも力をいれ村の財政基盤を作り、学校の改築、電信局や病院の設置を実現した。その多大な功績をたたえ村民により大正3年(1914)建立された。

鹿毛馬神籠石
神籠石の築造年代や目的については諸説がありますが、現在ではおおよそ七世紀頃(1400〜1300年前)に造られた古代の山城というのが一般的です。

桂川町

大塚古墳
王塚古墳は、昭和9年に発見され、多数の馬具・武器・鏡・装飾品・土器等を出土しています。墳形は前方後円墳で、前方部は半分ほど削られていますが、復元すると約80mほどの大きなものです。墳丘内部の埋葬施設は横穴式石室で、石屋形や石枕・灯明台を設置するなどその構造には技巧をこらしています。石室の壁面には、赤・黄・緑・黒・白の顔料で彩られた靫・盾・騎馬・星・双脚輪状文・蕨手文・三角文などの文様がいたるところに描かれており、その豪華絢爛さは我が国における装飾古墳の白眉として、昭和27年国の特別史跡に指定されています。

老松神社
老松神社では、春に例祭、秋に大祭が行われる。春の例祭では獅子舞が行われた後、神楽が奉納される。上土師と下土師が毎年交代で奉納するが、上土師の獅子舞は勇壮活発で力感にあふれ、下土師の獅子舞は優雅なさびのある舞い方。神楽は、1922(大正11)年に発足した神楽座によって舞われる。

直方市

石炭記念館
筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に、約8億トンの石炭を産出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきました。
筑豊の炭鉱が閉山によって少なくなった「炭鉱の歴史」を後生に伝えるため、昭和46年7月、直方市石炭記念館が誕生しました。

多賀神社
壽命の神、鎮魂・厄除の神として有名な多賀神社は、伊邪那大神(男神)伊邪那美大神(女神)の二柱の神をお祀りしております。
この、御夫婦の神は、日本の国土山川草木を造り給い、八百万の神をお生みになりました。天照大神の御両親に当たらせられる神であります。

直方城跡
黒田藩主館の跡。直方体育館の向かい側の住宅地がかつての館跡で、体育館の横に「直方城跡の碑」を残すのみとなっている。

庚申社
庚申社は猿田彦大神を主神として元文二年二月(1737)に唐津の庚申神社より現在地に鎮座されました。

圓徳寺
浄土真宗本願寺派寿光山圓徳寺。寛永元年(1624)黒田高政公が東蓮寺(直方)藩をおこし、城下町形成のおり、鞍手郡植木村より圓徳寺をこの地にうつしたのが始まりである。
当初は城下町の出入り口のひとつ「植木口」(今日の須崎町商店街入り口)に面しており、ここをまもる要害として建てられたことがわかる。

長遠寺
寛永元年甲子歳、黒田家直方藩主黒田隆政の命により、宰臣明石助九郎安行が、藩主と藩民の為、「寿命長遠」の祈願所として、直方町鬼燈谷妙見山に建立する。依って山号を顕寿山、寺号を長遠寺と呉す。

須賀神社
当社は今からおよそ1350年前の舒明天皇の御代(七世紀前半)岩熊麻呂が神憑を蒙りこの地に素戔嗚尊をお祀りし武徳神社と号したのがその始まりであります。
その後貞観15年(873)には社号を祇園神社と改めましたが、境郷の総鎮守として人々の尊敬最も篤く神仏習合の社として人々の信仰の中心として永く尊崇を集めてきました。その間貞観3年(861)には当神域に隕石の落下を見たり、建武3年(1336)には建武の板碑の建立があるなど数々の歴史を閲してきたのであります。

直方隕石之碑
平安時代の初め 貞観3年(861)4月7日の夜 境郷一帯が突然真昼の明かさにも増して光り輝いたかと思うと 本社境内で激しい爆発音がおこりました 翌日 深くえぐられた土中から黒く焦げた石を掘出し 天から飛来した石として丁寧に桐箱に納めて保存したということです

水町遺跡公園
この遺跡は、福岡県指定史跡「水町遺跡群」です。弥生時代中期から古墳時代後期(今から約2000年前〜約1300年前)にかけて古代人の生活や埋葬の場として利用されていました。
遺跡の中心は、古墳時代後期(6世紀中頃〜7世紀後半)の横穴墓群で、岩盤をくりぬいてつくられた横穴墓が密集しているのが特徴です。

筑前植木天満宮
植木天満宮は直方市大字植木上町にあり植木の町の総社である。
この天満宮のおくんち(放生会)は、昔は隔年ごと9月15日(旧暦8月15日)に行われていたが、現在では社会機構が変化し、いろんな事情で4年に1度の大祭となっている。

植木の堰跡
堰は洪水の時、道路に板を渡し道路を閉ざして水の侵入を防ぐための施設です。
この植木の堰跡には、その板をはめ込む石柱、又まわりの石垣の一部が残っています。

小竹町

御徳神社
祭神は、伊弉諾命、伊弉冉命、少彦名命、大己貴神の四神です。
この辺りは、南北朝時代、征西将軍懷良親王が足利勢に対して布陣したと伝えられています。御徳神社は古くは蔵王社と呼ばれ、大和吉野の蔵王堂と同じ蔵王権現を祀っていました

境松
境松は、1630年頃すでに大樹で、嘉麻郡と鞍手郡の郡境、村境としてこの名前が付いています。
しかし、干ばつのため枯れ、現在では石碑を残すのみです。また、永正3(1506)年権現山の合戦で敵の捕虜の首を斬った所で、昔は首洗い池もこの辺りにありました。

田川市

石炭記念公園
田川の炭鉱の歴史を後世に残し伝えていくために、田川伊田駅の裏にある炭鉱跡地、2本煙突一帯を公園として整備。「石炭資料館」では、石炭採掘の歴史資料や、昭和初期の炭坑住宅の再現、運搬に使用されたSLなどが展示されている。伊田坑の2本の煙突は、田川市のシンボルともいわれている。2002年に展示替えを行っている。

田川市石炭・歴史博物館
田川地方の歴史が学べる資料館。昭和58年に「炭坑発祥の地」としての景観を残す旧三井田川鉱業所伊田坑跡地に開館したもの。石炭の成因、採掘、運搬方法、炭鉱労働者の生活などを模型や実物資料によって解説。炭坑のなかから生まれた絵画、文学作品、考古遺物なども収集展示。また全国で唯一、炭坑住宅を復元設置している。

炭坑節発祥の地

「月が出た出た、月が出た」でおなじみの炭坑節は、明治期以降わが国の近代産業の発展を担ってきた石炭産業の隆盛のなかで、過酷な労働のなかから自然発生的に生まれてきた多くの仕事唄の一つです。


風治八幡宮
風治八幡宮は古く伊田大神と称して海津見神を祀りし地主神にてありしが、神宮皇后御征韓の砌り、筑紫より穴門の豊浦に還御の折、俄かに暴風雨起こりし為、社前の大石に腰を掛け給いて、親しく御佩しの太刀を献上して天神地祇及伊田大神に祈願せしに暴風雨忽ちに治まりつつがなく穴門に至り給う。

セスドノ古墳
県内でも有数の大型円墳で、古墳時代中期(5世紀末?6世紀初)の築造と言われています。朝鮮半島との交流がうかがわれる形態の石室や、貴重な遺物が出土しています。

天台寺跡
田川地方唯一の古代寺院跡でここから出土した新羅系軒瓦は、華麗な唐草文で飾られ、日本の新羅系軒瓦の代表的なものとして知られています。寺の創建の時期は、白鳳時代(7世紀末頃)と考えられています。

糸田町

金村神社
この金村神社拝殿の天井に15枚の絵がはめ込んであります。これは「金村神社天井絵」といって、70センチ真四角の杉板の材料に虎・猫・鳥などの代表的な動物の絵や、花菖蒲や水仙等の草木画取り混ぜて色彩鮮やかに描かれています。
また中国や日本の故事をもとにした天井絵も3枚ほど書かれてあります。

泌泉
泌川の上流には、糸田町の地名の起こりとされている伝説の「泌泉」があります。
田川市との境に近い水田地帯に石の鳥居と石垣をめぐらせた小さな池で、関の山一帯に降った雨水が地下の石灰岩水脈をくぐり抜けて湧出するこの泉は、古来から生活水として、またかんがい用水として1300年以上にわたってこの地域の稲作を支えてきました。

岩屋古墳
この古墳は、平成8年8月に発掘調査されました。この古墳は鼠ケ池の丘陵突端部に位置しております。発掘当時、前室の天井部分より進入口を掘られ、石室内部は盗掘を受けておりましたが埋葬施設、墳丘は、ほぼ当時のまま残っております。この古墳の詳細については墳丘の大きさが約25メートルの円墳で、埋葬施設が後室構造の横穴式石室、全長7.5mあります。副葬品としては、須恵器の提瓶・大壷の破片・土師器等が出土しており、この古墳の築造時期は6世紀後半だと考えております。

千人塚
側面には、享保17年(1732)稲が腐り、老若男女44人が餓死したという意味の碑文が刻まれております。糸田町には先に見た「宮床村供養碑」とこの「千人塚」と、伯林寺にある「糸田村供養碑」と三基が現存しております。享保の飢饉の死者は、糸田村において382人・宮床村で39人・鼠ケ池村で44人・大熊村で18人死亡しており、当時の糸田町住民の約半数が死んだ計算になります。

福智町

金田菅原神社
建武二年(1335年)太宰少弐頼尚が高取城主として来住の時、領土安全、武運長久祈願のため、金田村宮床河原の浄地に社殿を創建し、黄金八寸の菅公の御像を神体として奉安しました。

碧眼寺
元禄三年(1690)守靖という道心者が、この村の石橋上に仮泊したところ、夢の中に菩薩が現れ「われは観音なり久しくこの橋となって人の踏むところとなす。早くこの村の高き処に安置すべし」と告げたので、この観音像を山に安置し、草庵を結んだのが起こりとされています。

黒田天麟和尚の供養塔
碧眼寺第十七代住職黒田天麟和尚の供養塔です。この塔は黒田天麟和尚の存命中に門人たちによりその業績をたたえ建立され、逝去後供養塔となったものです。黒田天麟和尚は、明治政府による「学制」の発布に伴い、明治六年に昭倫舎金田小学校(後の金田町立金田小学校)を設立し郷土の学校教育の発展に尽力しました。

餓死者供養塚
保17・18(1732〜33)年の大飢饉の際、金田村148人、神崎村100人、南木村49人の死者が出たと伝えられています。このときの犠牲者供養のために立てられたのが供養塚です。現在、金田村の供養塚のみ現存しています。

稲荷神社
弘仁年間(810から823)イザナギノ大神を金田庄の産土神として奉斎していましたが、天長7年(830)深草稲荷を分祀勧請して、稲荷金田宮と称したのが始まりです。戦国時代社殿が焼かれた時、御神体を根元に埋めたという大銀杏が境内にあります。

河村光陽の碑
福智町上野(当時は上野村)出身の河村光陽は「かもめの水兵さん」「うれしいひなまつり」「グッドバイ」「赤い帽子白い帽子」「仲よし小道」「りんごのひとりごと」など千余曲を作曲し、日本童謡史に一時代を築いた作曲家です。上野には「童謡一路の碑」や「河村光陽生誕地記念碑」などがあります。

福智下宮神社
足利尊氏が九州敗走の折り、毎日祈った伝説の地。

上野の里ふれあい交流会館
「上野焼陶芸館」と農産物直売所の「ふれあい市」からなる特産物と食、伝統と旬を融合させた施設です。福智山麓の大自然に囲まれたのどかな陶郷は、美しい自然と深い文化が息づく上野の資源を連結させ、「ならでは」を大切にした「おいしさ」と「うるおい」を発信しています。

興国寺
7世紀後半の創建とされ、足利尊氏が国家安泰のために建てた安国寺第一位の寺です。無隠元晦禅師の座像や興国寺文書、観音堂など数々の寺宝や県指定文化財があります。また足利尊氏ゆかりの寺であり、尊氏が身をひそめたといわれる「隠れ穴」や、枝を切り落とし、土中にさかさまにさして戦運を占ったという「墨染桜」、「馬蹄石」などが伝えられています。

定禅寺
弁城の定禅寺境内にある藤。樹齢500年以上といわれる見事な藤で、幹周囲約4mの一本の樹が庭園を覆っています。毎年ゴールデンウィークのころには1.2mから1.5mの紫の花が咲き誇り、近隣はもちろん県内外からの花見客でにぎわいます。天然記念物「迎接(こうじょう)の藤」と呼ばれ、藤は福智町の花としてシンボル的な存在となっています。県指定天然記念物に指定されています。

法華屋敷遺跡
法華屋敷遺跡は弥生時代前期末(約2200年前)の遺跡です。
弥生時代(約2400〜1700年前)とは米作りが始まる時代で、安定した食物の確保がおこなわれるようになります。この遺跡では、米などの食物を貯えていた穴(貯蔵穴)が5基発見されました。

伊方小学校遺跡第3地点
伊方小学校遺跡第3地点は、弥生時代前期末(約2200年前)と弥生時代後期後半(約1800年前)の遺跡です。
弥生時代前期末のものとしては、法華屋敷遺跡や伊方小学校遺跡第2地点でも発見された食物を保管する穴(貯蔵穴)が4基見つかりました。弥生時代後期後半のものとしては、方城町で初めて、地面を掘り下げてから作る竪穴住居跡が1軒発見されました。

伊方古墳
伊方台地の先端近く、伊方小学校の北側にあります。6世紀の終わりころ作られたと考えられます。封土は著しく削られていますが、高さ約5メートル、直径32メートルと考えられる円墳で田川地方においてはこの時期では最大規模の古墳です。古墳の内部は前後2室からなる複室構造の横穴式石室です。石室は巨大で、全長12メートルを超え、高さは後室で約3メートルあります。

大任町

野原八幡神社
宇佐弥勒寺喜多院所領主進に今任荘四十町とあり、鎌倉末期には宇佐八幡弥勒寺寺領たりし事明白なり、荘園地頭は宇佐社人なるを以って、宇佐宮を勧請して領土の守護神となす。中世末村勢隆昌し、八幡宮を寛永5年今任村を上下ニヶ村に分割の際野原山柳瀬山の二ヵ所に分霊し、社殿を営み奉斎せり。

建徳寺古墳
建徳寺古墳は直径20メートル、高さ3メートルで横穴式石室をもつ円墳。石室は複室構造で、奥室は縦横2メートルほどの正方形になっており、 内部からは鉄刀・鉄鏃・刀子・馬具・耳飾が出土しました。古墳が築かれたのは今から1400年前の6世紀後半ごろ。現在は公園として整備され、 出土品のレプリカで復元された石室内部をガラス越しに見学できます。

十輪院
和歌山県の高野山金剛峯寺に属し、本尊は鎮火地蔵尊。火難守護の寺として有名です。
『享保二年、小倉城主二代小笠原忠雄公が江戸の藩邸にいる時、大火災が起った。勢いが激しく館に火が燃え移るのを防ぐことが出来ずにいると、一人の怪僧が殿上に現れ、火をくい止めた。その僧は「我は領内豊前田川郡今任村の地蔵なり」と告げ姿を消した。後日調べたところ、僧が告げた十輪院のお堂には確かに地蔵菩薩が存在した。』という記述が残されています。

出雲神社
彦山川のほとりにある出雲神社は、島根県にある出雲大社の分神。古事記『因幡の白うさぎ』で知られる大国主命が奉られ、境内には大国主命が皮を剥がれたうさぎを助ける場面の銅像があります。『縁結び』で有名なだけに、恋多き世代の密かな人気スポットとなっています。

松長竜神社
松長竜神社には、願いが叶うなら軽く、叶わないなら重く感じる『かかえのお石様』といわれる不思議な石があります。運命の人を探している人は、出かけてみてはいかがでしょう?

赤村

内田三連橋梁
平成筑豊鉄道が通る橋ではほとんどがレンガで造られています。
このみつあんきょうは平成11年11月には文部省(現文部科学省)登録文化財になっています。

正一位吾勝稲荷大明神
十津川、今川、両河川の中州で旧上・下赤村の境界に位置し、両河川の度々の氾濫、行政の疎遠等、近年まで色々の逆境にも減げず、再度皆様の守護神として鎮座四給う。

岩嶽稲荷
三次郎ぎつねの伝説があり商売繁盛の稲荷として数多くの参拝者が訪れます。

蛇巻き岩
蛇巻き岩は山浦畑地区の今川にあります。
その昔、戸代城に小夜姫と呼ばれるきれいなお姫さまがおりました。しかし、思いを寄せていた家臣に裏切られ城攻めにあい、今川に身を投げて大蛇となり、その大蛇が大岩に巻き付いたまま死んでいたという伝説からきています。

嘉麻市

織田廣喜美術館
芸術院会員、二科会理事、郷土出身画家、織田廣喜画伯の作品を常設展示するいわゆる『個人型美術館』です。織田廣喜美術館は、5つの展示室から構成され、画伯の画歴を時系列にそっての作品の展示や代表作である「讃歌」、「水浴」などの大作、織田廣喜が描いた水彩、デッサン等を展示しています。

皿屋敷跡
草木も眠るうし三時、亡霊が現れ、皿の数を「1枚、2枚、3枚・・・ 9枚」まで数えるという、『番町皿屋敷』の本家「皿屋敷跡」です。小さなお堂があって、その裏側にお菊が身を投げたと伝えられている直径60センチの井戸があります。井戸の上には、石碑の笠石のような大きな石で、ふたがしてあります。お菊の墓は永泉寺にあります。

道の駅 うすい
道の駅うすいは、福岡県のほぼ中央に位置しています。遠賀川、千手川両域に広がる東北部の平野では野菜づくり、米づくりが盛んであり、新鮮な農産物を販売いたします。また、石釜(スペイン製)パンはパリッと香ばしく、中はしっとり!上品な石釜ならではの食感を堪能できます。建物は美術館とのつながりを重視して、平屋建で美術館をイメージした建物です。

上臼井日吉神社
江戸時代の文献「筑前国続風土記附録」の上臼井村の項に「日吉神社」と記されています。この文献によると、江戸時代に臼井村が分村する以前から村の鎮守神として鎮座し、分村後は上臼井村の鎮守となりました。
かつて下臼井村のお宮までご神幸があったとも伝えられています。

沖出古墳
県の史跡に指定されている漆生の沖出古墳は、後円部に竪穴式石室をつくり、中に割竹形石棺をおさめた、長さ約68mもある古墳時代の初め頃に造られた前方後円墳です。

稲築八幡宮
神功皇后が応神天皇とともに朝鮮から、大分、穂波、飯塚を通り、田川から都へお帰りになる途中、急に漆生にお立ち寄りになりました。村人たちは驚いて大急ぎでお迎えの用意をしましたが、座布団が間に合わず、ちょうど取り入れたばかりの稲を築き上げ、その上に座っていただきました。その時に座られた稲一束を、風景の勝れた山の頂上に七尺ばかりの穴を掘り、そこに埋めたという言い伝えがあります。
それからは、その山を稲築山と呼び、稲築と号した社殿が建立されました。

善照寺
大永年間(1521〜27)に創建されたと伝えられる古刹。その山門はかつて益富城の正門だったといわれている。

千手愛宕神社
千手愛宕神社は、防火の守護である雷神が祀られる。1770(明和7)年、本町から横町のほとんどが焼失した千手町の大火の際、京都から勧請されて、1833(天保4)年に建立された。以来目立った火事はないという。

大屋家史跡
秋月35万石の城主秋月種實公の重臣秋月善九郎義種は豊臣秀吉との戦に破れ天正15年6月(1587)武士道を捨て千手の住人となり後秋月黒田家より上庄屋大屋姓を名のる様申出有り。以降大屋善右ェ門を以って初代庄屋となり代々千手の此の地に居住する。

添田町

英彦山神宮
天平12(470)年の建立といわれていますが、現在のものは江戸時代初めの元和2(1616)年、当時の小倉の城主、細川忠興公の寄進によって再建されたものです。
和様建築ですが一部には唐様手法も取り入れられています。
また江戸初期の建築なのに、桃山風の部分もあり、大きい木割りと規模の広壮さ、細部に華やかすぎる装飾のない姿に豪壮な感じを受けます。

旧亀石坊庭園
旧亀石坊庭園は、室町時代の画僧雪舟が築いたものだと伝えられています。広さは699平方メートルで池泉鑑賞式庭園です。庭園の東側が一段高く、西南へ傾斜していることを利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られています。

英彦山大権現
明治元年(1868)、神仏分離令が発布され神仏習合の英彦山から、英彦山大権現は廃止され、その社は英彦山神宮として、神(天忍穂耳尊)を祀ることになり、修験者の多くは山を降りました。
その後、百拾余年、英彦山大権現の尊称はまさに歴史の彼方に消え去らんとしていました。昭和45年権現信仰発祥の地である玉屋渓谷の坊跡、滝の坊にお祀りさせていただくことになりました。

道の駅 歓遊舎ひこさん
道の駅歓遊舎ひこさんは、福岡県の東南端に位置し、霊峰英彦山の玄関口として多くの方に親しまれています。物産センターでは豊かな自然に育まれた米や野菜、果物をはじめとする農林産物や郷土色豊かな土産品、陶芸品の展示販売を行っています。

添田神社
田川郡添田町の中央、岩石山のふもとにある「添田神社」は、旧添田村の産土神で知られるお社。その昔、山頂に天忍穂耳命なる神様がおまつりされていたことに由来し、保元3年(1158年)、かの平清盛が同地に岩石城を築いた際に、ふもと(現在地)に新しいお宮をつくらせ、太宰府天満宮(菅原神)の分霊を合祀したことがはじまりと言われています!

岩石城址
保元二年平清盛がその臣大庭平三景親に命じて築いたもので、爾来城主は幾代か移り変わり天正元年から秋月種実の臣熊井越中守、芥田大兵衛が守護していたが、天正十二年豊臣秀吉の征討よって落城し、その後徳川氏に移り、小笠原忠真に与えられたのである。
現在城門の礎石や古瓦が残っていて二百数十年の盛衰を寂しく物語っている。

油木ダム
油木ダムにせき止められている川は今川と言います。今川は英彦山を源として、添田町、赤村、犀川町、豊津町、行橋市を通り、最後に周防灘に注ぎます。
この川はダムがなかった頃は、大雨が降ると大洪水で田畑や家を押し流したり、雨が降らないと飲料用水や農業用水が不足したりして人々を困らせていました。
そこで、洪水を防ぎ、飲料用水、農業用水などを安定的に供給するために油木ダムが造られました。

高住神社
高住神社は明治まで豊前坊と呼ばれていましたが、神仏分離令により,現在は高住神社となっています。
豊前坊天狗神として有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらい、家に火を付けたりして慈悲の鉄槌を下し,心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ総ての天狗を集めて,願い事を遂げさせ其の身を守ると伝えられてきました。

川崎町

戸山原古墳
6世紀末〜7世紀初頭に造られた横穴式石室を有する直径約15m、高さ4.7mを測る円墳で、古墳の周りに溝が廻り、玄室、前室が良好な形で残っています。

藤江氏魚楽園
雪舟が中国で学んだ山水の技術を生かして築庭されたとされている。天然の山を利用して、岩清水を引いた池には中の島を作り、ツル、カメを表し周囲にツツジや老松を配し、四季おりおりの美しさが満喫できる。紅葉見頃の11月中旬、多くの人が訪れる。

淡島神社
「黒木の淡島さま」と町民から親しみを持って呼ばれる淡島神社は、安産、婦人病、子どもの夜尿症などに霊験があるといわれ、多くの参拝客を集めています。
毎年5月3日には、餅投げが行われる大祭が催されます。

黒木のケンボナシ
変わったカタチだけど熟すと甘い実をつけるケンポナシ。黒木のケンポナシは樹高約25m、胸高周囲約3.15m、根周約8m、樹齢約300年と推測される巨木で、平成13年5月16日、町指定文化財第2号(天然記念物)に指定され、町民に親しまれています。

香春町

香春神社
祭神は辛国息長大姫命大神。崇神天皇の時代に香春三山の山頂にあった祠を709年に現在の位置に合祀したのが始まりと伝えられております。また「豊前国風土記」によれば「昔、新羅の神が自ら渡ってきてこの地に住み着いた」とあり、この神社の前身は渡来人の氏寺だったらしいということです。

神宮院
神宮院は最澄ゆかりの寺で、次のようないわれが残っています。平安時代、最澄は修行のため唐へ渡る際に、まず宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に参り、そこで八幡大菩薩の勧めにより、香春の神に航海の無事を祈りました。その後、西暦815年に唐から無事に帰国後、お礼のため再び香春を訪れました。
そこで最澄は、法華八講の法会を行い、寺院を建立、そこを賀春山神宮院と名づけ、延暦寺別院と定めました。また、その近くには六坊を建立しました。

神宮院の大銀杏
神宮院境内には、樹高40メートル、枝下7.4メートル、推定樹齢800年の木があり、福岡県天然記念物に指定されています。

石割ビワ
石灰岩に根を張り生育している非常に珍しいビワの木で、大銀杏とともに福岡県天然記念物に指定されています。

高座石寺
最澄が建立した六坊の一つ。
「そこもここも 岩の上には 仏さま」
流浪の俳人として活躍した種田山頭火が詠んだこの情景のとおり、「わび」「さび」の世界を体現したような高座石寺境内には、至る所に仏さまがあり、訪れた人を見守っています。

河内王の墓
勾金地区の鏡山にある、天武天皇の孫河内王を葬った陵墓といわれています。河内王は持統天皇の時代、大宰帥として筑紫に下向した人で、その死を悼んだ妃の手持女王の歌が三首、万葉集に収められています。

鏡山大神社
仲哀天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものであると御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。
その途路、此の岡に天神地祇を祭り必勝を祈願し、皇后の御魂を鎮め給い御鏡を祀り崇め給いしが、御社の草創と伝えられる。

道の駅 香春
古くから交通の要衝にある宿駅の里として、歴史と文化につつまれた町と豊かな自然を大切に保持し、この地域資源を活かしたまちづくりを進めるため「人と道と風がクロスするまちづくり」に取り組んでいます。





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