播磨東


明石市

明石城址
明石城は、徳川2代将軍秀忠の時代にあたる元和5年(1619年)に造られました。この年は大坂夏の陣により豊臣家が滅んでから4年後に当たります。
明石城を造ったのは小笠原忠真で、以降本多家や松平家の譜代大名や親藩大名によって明石藩は治められました。

武蔵の庭園
剣豪宮本武蔵(1584-1645)の出生地についてはこれまで諸説がありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。
武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に 出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。
ここ明石においても、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割り(=都市計画)や城内樹木屋敷の設営にかかわりました。

魚の棚
地元の人たちは「うぉんたな」の愛称で呼ぶ魚の棚商店街。
明石ダイ、タコ、穴子、イカナゴ、カレイと新鮮な海の幸がいっぱい。
塩干物、練り製品など100軒余の店がずらり。午網(ひるあみ)は有名で、観光客も多く、とくにお正月用の買い物は大変なにぎわいです。

加西市

北条五百羅漢
羅漢寺の中にある五百羅漢は、いつ、だれが、なんのために作ったかわからず、今もなぞにつつまれています。大分県耶馬渓山、山梨県吉沢の羅漢とともに全国的に有名な石仏であり、古くから「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」とうたわれ、面貌の異なる石仏の中に、必ず親や子に似た顔があると言われています。

播磨町

大中遺跡
大中遺跡は海抜13mの洪積世台地の南端にあって、加古川の氾濫源の東端に位置してます。弥生時代中期から古墳時代中期にかけての代表的な遺跡で、約44,000平方メートルの範囲に多くの住居跡が残されています。そして、ここから様々な用途や機能に応じた土器や鉄器・砥石などとともに、中国と交流のあったことを証明してくれる分割鏡が出土しています。
これらの出土品や住居跡は稲作農業がようやく根づいて生活が安定し、階級の文化がはじまり、古代国家が形づくられようとする時代の社会や暮らしのようすを知る上で非常に重要なものです。

圓満寺
弘法大師空海が御修行のため全国を行脚の砌り、播磨の国阿閇の里の路傍 に奇瑞を感じ、その地を錫杖でトンと突かれたところ光明遍照と光り輝く岩 が出現し、この地を信仰の拠点と定められました。後にこの里に播磨の元・ 中本山 光明遍照山無量寿院が建立されました。

善福寺
善福寺の花崗岩製で基壇上からの総高は157cmです。基壇の正面左右束上に刻銘がありますが、風化、磨滅がひどく判別はできません。各部の手法からみて室町時代初期頃の建立と思われます。本町における数少ない貴重な石造美術品です。

加古川市

鶴林寺
589年、聖徳太子が16才の時、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ仏教をひろめるための道場として建てられました。釈迦三尊と四天王を祀り「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの寺のはじまりといわれ、播磨の法隆寺とも呼ばれています。平安時代の壁画が見つかった県下最古の木造建築物、国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が聞こえてきたため、改心したと伝えられている「金銅聖観音立像」など、多くの仏教美術が残されています。

尾上神社
祭神は、海の神様、住吉大明神です。境内には謡曲「高砂」に謡われた相生霊松「尾上の松」があり、現在の松は5代目、樹齢約100年です。重要文化財の「尾上の鐘」も代表的な朝鮮鐘として有名です。「尾上の鐘」にはその昔、海賊に盗まれて海に沈められた後、漁師の手によって引き上げられ高野山に奉納されたが、鐘をつくたび「おのえへ、いの〜」と聞こえたため、尾上神社に戻されたという伝説があります。

高砂市

鹿嶋神社
鹿嶋神社は、遠く聖武天皇の勅願によって国分寺と、国分寺の東院として大日寺が建立された時、その鎮護の神として奉祀されました。
天正6年(1578年)羽柴秀吉が、神吉城攻略の際、この地方も戦火を蒙り灰燼に帰してしまいましたが、幸いにも御神殿は焼け残りました。歴代姫路も藩主の崇敬篤く、祭礼には、常に特使を派遣され奉斎されていました。また、享和元年(1801年)の書である圓誉上人の掲額「鹿嶋大明神」や古い絵馬をみ見ても窺え、今日に及んでいます。






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