播磨西


姫路市

姫路城
江戸時代の初期には全国に大小180ほどの城がありましたが、そのほとんどが、明治維新の際に取り壊しや、太平洋戦争の戦災によって滅失した、日本3名城に数えられた名古屋城や、熊本城も例外ではありませんでした。そのなかにあって、姫路城は幾多の危機を乗り越え、奇跡的にも往時の姿をよく残すことができました。そして現在、その建築物のほとんどが、国宝や重要文化財に指定されており、名実ともに日本一の名城とされています。

天空の白鷺
この施設では、修理工事を機に大天守の大屋根及び最上層(5層部分)を外側から間近にご覧いただき、城郭建築の醍醐味を体感していただくとともに、時期によっては漆喰塗りや瓦の葺き替えなど「匠の技」を見学していただくことができます。

お菊井戸
播州皿屋敷のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたと言われる井戸で、もとは釣瓶取井戸と呼ばれていました。

姫路市立動物園
姫路城三の丸広場の東側に隣接した、お城の見える動物園。ゾウ、ライオンなどの大型動物から希少動物や小さな小鳥まで、110種、370点の動物を見ることができます。

好古園
姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、発掘調査で確認された姫路城の遺構を生かして、市制100周年を記念して、平成4年に造営された日本庭園です。
姫路城の南西に位置し、面積は約1万坪(3.5ha)。滝や池のある池泉回遊式の「御屋敷の庭」や本格的数奇屋建築の茶室、双樹庵のある「茶の庭」など9つの庭園群で構成。江戸時代をしのばせる築地塀や屋敷門・長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎のたたずまいが特別史跡地にふさわしい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。

播磨国総社
射楯兵主神社が正式名称ですが、総社伊和大明神とも呼ばれて、中世の赤松氏や歴代の城主に信仰されました。
本殿後ろに播磨国内の神様がすべて祭ってあるため、総社と呼ばれており、釣鐘は室町時代に赤松氏が、南参道の石鳥居は姫路城主榊原忠次が寄進したものです。
61年ごとに開催される総社一ツ山祭は、国家の変事・慶事に1基の山をつくり、神々を祭るもので、21年ごとに開催される臨時祭の総社三ツ山祭とともに奇祭として有名です。

白鷺宮 護國神社
姫路護国神社は、戊辰の役(1868年・明治元年)以降の国難に殉じた播州、但馬ゆかりの御英霊・戦没者約6万人を祭る神社です。

本徳寺
1492年、本願寺第8世蓮如上人の命により、お弟子らが播磨国「英賀の浦」に道場を建立し、布教伝道にあたったのが始まり。その後、姫路・亀山の地に移築され、東西分派の流れによって、1618年姫路城主・本多忠政の時代に真宗大谷派(東本願寺)船場別院本徳寺としてこの地に創設されました。

イーグレひめじ
姫路城の南、大手前公園に隣接した、男女共同参画センター(あいめっせ)、国際交流センター、コミュニティFM局、ギャラリー、レストラン、物販店、温浴施設などが入居する総合施設。姫路城を正面に臨む抜群のロケーションで、文化活動やショッピングを楽しむことができます。

播磨国分寺跡
国分寺は天平13年(741)年の詔により、国ごとに建立された官寺である。発掘調査によって、方2町(一辺218m)の寺域の中に、南から南大門・中門・金堂・講堂などの伽藍配置が考えられ、回廊や築地跡なども検出されている。東南部に位置する塔跡には、心礎を中心に礎石群が現存する。

国分寺
国分寺は牛堂山と称する。伽藍の造営の時に霊牛が現れて、山中から巨木を運んだ故事によるそうだ。この地は牛鹿氏という豪族の本拠で、その協力で国分寺が出来たことを暗に示しているという説もある。

福崎町

柳田國男記念館
本館は,『後狩詞記』や『遠野物語』などの多くの著作をあらわし,「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男(文化勲章受章,福崎町名誉町民第1号)と,医学・国学・言語学・美術などの分野で活躍した松岡家の顕彰を目的に,昭和50年に設立された記念館です。

柳田國男生家
生家は記念館の西隣に移設・保存されており、昭和47年に兵庫県指定民俗文化財となりました。柳田國男はこの生家を「日本一小さな家」といい、そこから民俗学への志も源を発したといってよいと著書『故郷七十年』の中に記しています。

大庄屋三木家
三木家は英賀城主の後裔と伝えられ、江戸時代のはじめに辻川に移り住みました。三木家はこの地域に頁献することが大きく屋敷構えも一揆によって焼き払われることなく今日に至ります。代々姫路藩の大庄屋を勤める家柄は、地域の文化面にも多大なる貢献をし民俗学の祖柳田國男も三木家にあずけられここの蔵書を読むことによって学問の基礎を築いたと言われています。

旧辻川郵便局
南側道路に面して建つ。建築面積91u、木造2階建、寄棟造桟瓦葺である。外壁は下見板張で、上下階とも上げ下げ窓を配し、軒先に瓔珞をまわす。1階玄関ポーチの庇に渦紋を象り、「〒」をモチーフとした意匠で天井を飾るなど、洋風の郵便局舎の好例である。

太子町

斑鳩寺
法隆寺領播磨国鵤荘の中核として創建された霊刹。
仁王門・講堂・聖徳殿・三重塔など伽藍配置は法隆寺によく似ています。往古には、七堂伽藍、十数の子院が甍をならべ壮麗を極めましたが、出雲の尼子氏の侵入で播磨が混乱していた天文10年4月7日の夜明け前の出火で全焼していしまいました。

稗田神社
古代より続いた由緒あるお宮です。
祭神は阿礼比売命(稗田阿礼)とも、また、聖徳太子の妃膳婦人を奉祀しているとも伝えられています。

たつの市

龍野城
龍野城は鶏籠山山頂の山城と現在の地の平山城との二期に分けられます。
山城は約500年前、赤松村秀によって築かれ四代続きましたが、天正5年豊臣秀吉に城を開け渡しました。その後山麓の平山城となり数回の城主交代があって、寛文12年に信州飯田から脇坂安政が入部しました。脇坂藩は明治初年まで続き、城主では赤穂城請取りの安照、寺社奉行の時、延明院事件を裁いて老中になった安董、井伊直弼が殺された桜田門外の変当時の老中安宅などが有名です。

うすくち龍野醤油資料館
龍野醤油醸造の始まりは、天正15年(1587)と伝えられています。
 現在は近代設備のもとで生産されていますが、昔は大豆をたき、小麦を炒り、全て人力で造られていました。当時の用具・文献資料を一堂にそろえて醤油造りの今昔を見ることができます。

如来寺
浦川に接して、寺院、醤油蔵などがあり、城下町龍野の情緒が残っています。
如来寺境内には、三木露風の歌碑と筆塚があります。

因念寺
因念寺山門は龍野城の大手門を、明治12年(1879)8月に移築したもので、鬼瓦や巴瓦には脇坂家の「輪違い」の定紋が入っています。現有する龍野城の数少ない建築物として貴重なもので、市の指定文化財となっています。

永富家住宅
「永富家」は、17世紀には大富豪で、庄屋を兼ねていました。 寛文12年(1672年)に脇坂氏が龍野の藩主となってからは、藩の財政を助けたり、あるいは年貢を大阪へ積み出すことを請け負うなど、たびたび功績があった家柄でした。そのため、永富家は藩から在郷家臣という武士並の特別待遇を受け、代々の殿様が領内見回りの折りに何回となく立ち寄ったので、建物には身分の高い武家屋敷のように上段の間や玄関があります。

秋恵園
永富家長屋門の前に広がる「秋恵園」では、6月の初旬から中旬にかけて、庭園の真ん中にある池のほとりに花菖蒲が咲き、茶会などが開かれ、風流を味わう人々に親しまれています。

一願地蔵
明治の初めのこと、揖保川の土手から永富屋敷に続く松林があった。そこへ夜な夜な女の幽霊が現れて「帯が縫えん。帯が縫えん」と言って泣くという噂がたった。
富永家第19代当主撫松山人の夫人が、これを聞いて何とも哀れに思い、老松の根元にお地蔵さまを祀って供養をした。その後、幽霊は現れなくなった。
この話を聞いた近在の里人が、手仕事の上達を願ってお参りするようになった。

龍野藩西組大庄屋 山下家
山下家は龍野藩の西組大庄屋で、1595年の「太閤検地帳」に残る播磨に現存する唯一のもの。同家に残る324点の近世文書は市指定文化財である。

神戸神社
神戸神社は、兵庫県たつの市にある神社。秋祭りにちなみなくわずの宮とも呼ばれる。昭和52年に本殿が再建されている。

相生市

坪根古墳群
5世紀後半から6世紀にかけての集団墓地であり、1979年に相生市側10基の墓が発掘された。

道の駅・海の駅・まちの駅
あいおい白龍城
あいおい白龍城では、露天風呂のある天然温泉やレストラン、特産品の販売所などの施設があり、ドライブの休憩所や市民の憩いの場として親しまれています。特産品売場では、相生・西播磨の特産品を豊富に揃えており、地元農家の野菜や果物、花など販売しています。

赤穂市

大石神社
浅野家江戸詰の家老、藤井又左衛門と大石内蔵助の屋敷跡に大正元年に四十七義士を祀る神社としてご鎮座。祭神は、大石内蔵助以下四十七義士、中折の烈士萱野三平を主神とし、浅野家三代、本能寺の変に散った森蘭丸ら森家の武将を合祀しています。四十七義士が苦労を重ね、長い時間をかけて大きな望みを達成したことにより、願望成就、大願成就の神として知られ、全国から多くの参拝客が訪れる神社でもあります。

大石邸庭園
大石神社内にある大石内蔵助の邸宅跡で、見事な庭園を見ることができます。また、庭園から見る長屋門内には、刃傷事件の知らせを持って参上した早水藤左衛門、萱野三平、その内容を読む内蔵助、主税父子の姿をリアルに再現した人形も展示されています。

大石邸長屋門
浅野赤穂藩の家老、大石家三代の屋敷の長屋門で、屋敷は畳数にして308畳の広大な邸宅でした。浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早かごで駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が実際にたたいたのもこの門です。享保14年(1729)、建物の大半が火災に遭いましたが、長屋門だけが焼失をまぬがれ、その後建て替え等を経て数少ない江戸時代建築として現在も城内に残っています

源八長屋
近藤源八宅跡長屋門は「源八長屋」の愛称で親しまれている 赤穂城内に残る江戸期の貴重な建物で、 平成11年3月に復原整備されました

赤穂城跡
浅野長直の指示によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。赤穂城跡は軍学に従って築かれた城であり、徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、その構造は戦を強く意識しており、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違える諸門に特長があります。

花岳寺
浅野家をはじめ、歴代赤穂藩主の菩提寺。境内には四十七義士の墓、250余年前に造られた義士木像・大石家代々の持仏千手観音を安置する義士木像堂、宝物館には浅野家や義士関連の資料を数多く展示しており赤穂義士ゆかりの史跡となっている。

息継ぎ井戸
早水藤左衛門・萱野三平の両士が主君による刃傷事件の凶報を持って江戸から早かごを飛ばし、ようやく赤穂に到着した時、ひと息ついたと伝えられる井戸です。

穴栗市

音水湖
県営「引原ダム」の人工湖で、山間の深い緑に囲まれ、湖畔ではダム釣りや散策ができ、湖畔を彩る春の桜と秋の紅葉など、素敵な1日が満喫できます。また、ダム湖ではカヌー体験もできます。

長源寺
音水湖畔の高台に佇む長源寺は、平安時代 征夷大将軍坂上田村麿の一子氏助公が、参拝者の繁栄と、揖保川流域の水の恵みを願って、観世音菩薩と弁財天を祭祀された伝説を起こりとし、祈りの寺として現在に至っています。又、豊臣秀吉が、鳥取城攻略の際に立ち寄り、沓を脱いだとされる「太閤石」もあります。

道の駅 はが
山陽と山陰を結ぶ「因幡街道」のほぼ中間点に位置し、ログハウス風の建物と大きな「りんご」が目印の近畿第1号に登録された道の駅





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