岩国


岩国市

錦帯橋
錦帯橋は山口県最大の河川である錦川(川幅200m)に架かっている5連の木造橋であり、今から約330年前の1673年(延宝元)第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建されました。

香川家長屋門
岩国藩五家老の一つ、香川家が1693年に建立したものと伝えられています。
香川家は、初め芸州八木城主で、吉川家が岩国に移封された当時、客分から家老に取り立てられた名門です。

旧目加田家住宅
18世紀中頃とみられる中級武家屋敷の数少ない遺構で、国の重要文化財。
目加田家は、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、その後、吉川家が岩国に移封された際に藩主広家に従い、この地に居を構えました。

吉香公園

山口県立岩国高等学校の跡地に造られた大公園。日本歴史公園百選に選ばれた。
中央の大噴水の放水時は、水が大きくアーチ状を連ねて虹をかける。公園内は芝生や木陰、ベンチで休憩・昼食などくつろげ、市民の憩いの場となっている。
随所に作られた花壇で、四季折り折りの花が咲き乱れ、秋は銀杏の大木が黄金色に染まる。


吉香神社

始祖吉川経義から、十三代岩国藩主吉川経健まで、吉川氏歴代23人の神霊を祀る神社で、現社殿は享保十三年(1728)横山の白山比盗_社内に造営され、明治十八年(1885)に旧城跡の現在地に移築された。
鳥居、神門、拝殿及び幣殿、本殿が南から北に一直線に並んだ構成。神門は、小型の四脚門で冠木中央に吉川家家紋があり、拝殿は、入母屋造妻入りで背面に幣殿が張り出し、本殿は三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。


吉香花菖蒲園
吉香公園の内堀を菖蒲園にしたもので、6月初旬から中旬にかけて50種類約10万本の花菖蒲が咲き誇る。

佐々木小次郎像

長大な刀を独特に構え、若武者らしく貴公子然とした凛々しい眼差しの佐々木小次郎像は、多くの観光客が一緒に記念写真を撮影をする人気スポット。
史実上の小次郎の出生やその生涯については、不明な点が多く謎に満ちているが、吉川栄治の小説「宮本武蔵」では、『小次郎は周防国(現在の山口県)岩国の生まれで、母から家伝の長光の刀(一名物干竿)を授かり、錦帯橋河岸一帯の柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に「つばめ返し」を編み出した』とされた。


吉川経家弔魂碑
吉川経家の英魂を弔うため、昭和十四年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石12個が使用されている。設置場所は、江戸時代に吉川経家の子孫である石見吉川氏の屋敷跡である。

岩国城

岩国城は、初代藩主吉川広家によって1608年に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山山頂に位置していた。
四層五階の桃山風南蛮造りだったが、築城後8年で一国一城制により取り壊された。現在の天守は、昭和三十七年に再建されたものである。


岩国城ロープウェー

吉香公園前の山麓駅から、標高約200mの城山の尾根の山頂駅まで約3分で結ぶ。吉香公園、錦川と錦帯橋、旧城下町から、遠く岩国基地、瀬戸内海の島々までの眺望が楽しめる。
移動中は定員30名のゴンドラ内で、音声ガイドで簡単に岩国の歴史を紹介する。


鉾八幡宮
貞観元年(859)豊前国宇佐八幡宮より勧請の時矛を建て以って備とした。故に鉾八幡宮と称す。祭神姫大神、誉田別之命、神功皇后、息長足姫命。境内に稲荷神社、恵比寿神社がある。

櫻井戸
古くから名水として名高く、初代岩国藩主・吉川広家公がお茶の水として愛用したという記録があります。現在も、お茶会の水やかんがい用水として利用されており、地元通津地区文化財保存会の手で保存・管理されています。

鞍掛戦死者之碑
谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。

周南市

遠石八幡宮
宇佐、石清水、鶴岡とともに日本四大八幡宮の一つ。境内にある洪鐘は、元暦元年、源平両軍が戦った際、流れ矢が当たって破損し、一度造りなおされたものの音色が悪く、再び鋳造されたもので、市の文化財に指定されています。

漢陽寺
大本山南禅寺別格地として山口県下屈指の名刹である。開基は室町時代応安7年(1374年)大内弘世のとき名僧用堂明機禅師によって建立されたものである。寺号の由来については、用堂禅師が杭州留学中にみられた漢の首都洛陽城の地形がこの地によく似ているところから漢陽寺とされたといわれる。

潮音洞
この水洞は岩崎想左衛門重友が鹿野台地に水田開作と生活用水を救うために、資財をなげうって、漢陽寺の裏山にトンネル100mを掘って、870mの水路を作り、錦川上流の水を引いたものである。慶安4年(1651年)工事を起し、当初は村人達も無関心であったが、工事がすすむにつれて協力を惜しまず4年の歳月をかけて承応3年(1654年)に完成した。

二所山田神社
明治40年に二所大明神と山田権前社が合祀されて社名をを二所山田神社と改めたもので、旧社格制度にいう「郷社」である。二所大明神の創建は昌泰2年(899年)といわれ、往昔からその社格は高く、元亨元年(1321年)大内氏によって月輪善居院が社房として建立され、毛利藩時代には御祈祷所の格に列せられている。山田権前社の創建は元慶2年(878年)伊勢の国(三重県)山田郷より勧請したものといわれる。それぞれ千年余の歴史のある神社である。

龍雲寺
開基は室町時代応永15年(1408年)用堂明機禅師の弟子悟竹瑞頓和尚によって開山されたものといわれている。瑞頓和尚入寂以後は中絶し、数十年間大内氏の末家である江良氏の屋敷として使用されている。現在の石垣はその頃造られたものとなっている。

岩崎想左衛門の像
慶安4年(1651)彼が54歳のある日、一日漢陽寺に詣で裏山を散策している途中、温見の谷あいを流れるその清らかな、そして水量豊かな錦川の支流渋川をみてこれをこの高地に引くことを考えついたのである。早速桑原甚左衛門に相談し、この裏山を掘って水路を作る計画を立てた。そして5月9日この工事の許可願を藩府に請願した。

下松市

花岡八幡宮
和銅2年(709)に、豊前国(大分県)宇佐八幡宮の分霊を歓請して祀られた由緒ある神社。拝殿には、従一位近衛忠熈卿の筆による「永受嘉福」の扁額や、江戸時代の風俗がよくわかる御神幸絵図などが奉納されています。

法静寺
法静寺の白狐伝説の由来
享保9年のある夜、住職の夢枕に白狐の老夫婦が立ち「私達はシラムが森で往生したした白狐です。私達を人間同様に葬り、畜生道から解脱できるよう願いを叶えてくださるなら、私達の法力をもって『和尚さんの失われた数珠はお手元に、寺や里人もお守りしましょう』」と言って消えました。
住職が目を覚ましてみると枕元には数珠があり、告げられた場所に行ってみると、2匹の白狐が大往生を遂げていました。住職は墓を建て、戒名をつけ、手厚く葬りました。

福徳稲荷社
毎年、秋に奇祭「きつねの嫁入り」が行われることでも知られている下松市花岡にある福徳稲荷社。由来は、法静寺に伝わる白狐伝説にまつわる話で、書物を探していた役人が、白狐の墓に参り『願』をかけたところ書物が発見されたため、そのお礼に<法静寺の境内に白狐を祀る社を建てたといわれている。

光市

清鏡寺
秀吉の水攻めを受け自害した備中高松城々主清水宗治は、関ケ原後、毛利家は嫡子・景治を重臣として迎え、光市立野村付近に領地を授けた。清鏡寺は宗治の菩提寺で、陣鐘や鐙が奉納されている。

清水宗治主従の供養塔
篋印塔・石殿とも無銘であるが、室町時代末期から江戸時代初期ごろのもので、『防長風土注進案』に「高松において殉死之御方孰も御廟之傍に石塔御座候」とあることと符合する。つまり、これらの石塔は、天正10年(1582)6月に羽柴秀吉の水攻めにあって備中高松城に没した清水宗治とその家臣の供養塔である。

浅江神社
浅江神社の境内にあるシャクナゲ苑には約45種、850本余りのシャクナゲが大きな花を咲かせる。
県下でもシャクナゲの群生は珍しく、4月から5月にかけ開花する。

松浦神社
島田市の一角には古くから「いざなぎ」、「いざなみ」の両神をまつった熊野神社があり、その末社「松浦神社」を里人は「祇園さま」と愛称して崇敬してきた。その祭典に奉納される「人形浄瑠璃芝居」は素朴な民衆たちの祇園進行とともに郷土芸能にまで高められ、同時に楽しいレクリェーションとして田舎の年中行事の1つであった。

熊野神社
社伝によると元明天皇の和銅3年(710)に神主大楽家の先祖兵太夫と宮尾の彦兵衛(通称鬼彦兵衛)の両人が紀州熊野本宮に参向し、同年9月15日、その神霊を島田市に勧請したとある。明治4年に社号を今の熊野神社に改め、明治10年10月村社に列した。例祭は10月17日である。

普賢寺
昔から「海の菩薩」として全国各地から広い信仰を集めてきた普賢寺(臨済宗)。
毎年5月に行われる普賢まつりには数多くの露店が軒を連ね盛大な賑わいをみせる。境内の奥まった一画には、雪舟作と伝えられる枯山水の庭園(県指定名勝)がある。

雪舟の庭
普賢寺境内の奥まった一角に、深山幽谷を思わせるようなうっそうとした樹木と自然石を巧みに調和させて築造された庭園があります。左奥に釈迦三尊石組みによる枯滝、前面を池に見立てた枯池式枯山水庭園です。

平康頼の碑
治承元年(H77年)6月、平家を滅ぼす謀を僧俊寛らと企てたことが平清盛に漏れ、平康頼と俊寛らは遠く鬼界ヶ島へ流されることになりました。
その途中康頼は、室積に立ち寄り近くの小寺で住職活堂和尚によって、仏道に入り名を性照と改め、「ついにかくそむきはてけむ世の中をとくすてざりしことぞかなしき」という一首を残しました。

高札場
高札場は、江戸時代、市場町・門前町・港町など、人の出入りの激しい要衝の地に、幕府または藩府の触書・捷書などが掲示された場所です。
市内では室積に設置されていたことが、地下上申(1738年)、防長風土注進案(1841年)などの記録によって分かります。

早長八幡宮
文安元年(1444年)、豊前(大分県)の宇佐八幡宮を勧請したと伝えられています。その地を早長の浦と呼んでいたので、この名をつけたといいます。
初め祀られたのは、宮ノ崎で、その後、人家がふえて、宮ノ脇に遷座し、寛文元年(1661年)に現在地に遷されたものです。

伊藤公記念公園
初代内閣総理大臣伊藤博文公は光市(旧大和町)で生まれ、幼年時代を過ごしました。
ここには、生家をはじめ、生涯を遺品と映像で紹介する資料館、伊藤公が設計した記念館があります。

伊藤公生家
天保12年(1841)9月2日、この地で生まれた伊藤公は、6歳までをこの家で過ごした。

田布施町

佐藤栄作宰相墓地
昭和39年から昭和47年の間日本の舵取りを任された名宰相。当時、米軍の施政下にあた沖縄を「沖縄返還なくして日本の戦後は終わらない」と名言をはき、本土復帰に尽力しました。ノーベル平和賞など、世界的な賞も受賞されています。

八尋石八幡宮
平安時代の清和天皇貞観元年(859)8月朔日、現社家の遠祖岡村巫豊前国宇佐神宮より勧請し、国木善福寺戸峠に鎮座され、田布施一郷の氏神として尊崇される。その後、堀川天皇承徳元年(1097)に故ありて、宗山に遷座、次いて室町時代の土御門天皇文明3年(1471)に西迫山に社地替えされた。

稲荷山古墳
竹部の稲荷山、山中にある。横穴式石室を内部主体とする小円墳である。 玄室部に稲荷社がお祭りされている。

柳井市

白壁の町並み
室町時代からの町割りがそのまま今日も生きており、約200mの街路に面した両側に江戸時代の商家の家並みが続いています。藩政時代には岩国藩のお納戸と呼ばれ、産物を満載した大八車が往来してにぎわった町筋です。昭和59年に国の伝統的建造物群保存地区に選定されました。往時の面影をしのばせる町並みで、心安らぐひとときを味わえます。

しらかべ学遊館
「しらかべ学遊館」は「柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区」内の西側に位置し、江戸時代後期から明治時代初期の頃に建築されたと推定される白壁土蔵造りの建物です。ここは、明治時代後期から油、呉服、繊維卸などの商家として白壁の町並みの繁栄を支えてきました。

掛屋小路
白壁通りから柳井川へ直接通じる唯一の通路であった、掛屋小路。江戸時代、かつてこの小路の突き当たりには、金融業を営んでいた「掛屋」という豪商があったことから、この名が付けられている。

国森家住宅
18世紀後半に建てられたもので、江戸時代中期の豪商の家造りの典型として国の重要文化財に指定されています。細部まで往時のままに保存されており、内部見学も可能。当時の商人の暮らしぶりを、垣間見ることができます。

むろやの園
山口県指定有形民俗文化財です。西日本でも有数の油商であった小田家の屋敷で、南北に119mの奥行きがあり、屋敷面積は約800坪と国内に現存する町家の中でも最大級のものといわれています。生活用具・文書などが展示してあります。

誓光寺
白潟山誓光寺は、浄土真宗のお寺です。
境内にある小高い丘の上から望む白壁の町並みは美しく、桜の名所としても有名です。
ヒマラヤ杉や、センダンの巨木は、やないの名木に選ばれています。

柳と井戸
「柳井」地名発祥の地です。
今から約1400年前、豊後の国(大分県南部)満野長者の娘般若姫が橘豊日皇子(のちの用明天皇)に迎えられ上京する途中、嵐に遭ってこの地に立ち寄ったそうです。
その時、ここに湧き出る水を飲み、井戸の傍らに柳の楊枝をさしたところ、一夜にして芽を吹き、柳の巨木となったと伝えられています。

湘江庵
柳の井戸のある湘江庵は禅宗曹洞宗岩国洞泉寺の末寺であった。
本尊は虚空蔵菩薩。柳の井戸は一名柳井山と呼ばれる。
また、真偽のほどはよく判らないが般若姫伝説なるものが約1、400年前にあり柳井の地名の由来がこれにより起こっているとされている。
日本三大虚空堂のひとつである。

国木田独歩旧宅
明治の文豪、国木田独歩は、青年時代の数年間を柳井のこの地で過ごしました。旧宅には独歩ゆかりの品などが展示してあり、随時見学できます。

光台寺
中国明朝様式で造られたちょっと変わった風貌の楼門です。
この楼門の下で手をたたくと、ワンワン・・・と反響するので、別名「ワンワン寺」とも言われ、人々に親しまれています。

柳井市町並み資料館
この建物は、周防銀行本店として明治40年(1907年)に建築されたもので、当時の銀行の重厚な姿を今日に伝える、日本でも数少ない建物の一つです。設計者は、明治期の洋風建築を多く手がけた長野宇平治氏の高弟佐藤節雄氏で、周防銀行はその後合併を重ね、最後の所有者の株式会社山口銀行から平成10年に柳井市に寄贈されました。

やない西蔵
醤油蔵を改装した体験工房で、金魚ちょうちん製作体験や柳井縞機織体験などができるほか、ギャラリーや休憩所の機能も備えています。

甘露醤油資料館
独特の製法による柳井の特産品「甘露醤油」の醤油蔵の一部を、資料館として公開。製造過程を見学できるほか、諸道具も展示してあります。

茶臼山古墳
茶臼山古墳は、4世紀終から5世紀初めに造られた前方後円墳です。全長約90メートルで山口県では平生町の白鳥古墳に次ぐ大きさです。
この古墳は、明治25年(1892)地元の二少年が偶然発見しました。このとき発掘された出土品の中で、単頭双胴怪獣鏡(大鏡)は直径44.8センチあり古墳から出土した鏡では日本で最大のものです。

平生町

野島神社
市杵島姫命厳島に降臨の時、この島に暫時御休止あり。

常春寺
開山は寛永19年一蓮社一誉上人旧地名海岸寺と言う。現在の場所に350年前に移す。此の地を開拓した阿曽沼常春氏を開起者とし一族が寺として風格をなす為、又子弟の教育に資する為に山門前の3反強の田地を寄進するなど僧俗一体となり寺門の興隆を図った。

神花山古墳
県指定史跡。古代女性の遺骨が発掘された全長約30mの前方後円墳です。発掘された頭骨をもとに復顔が行われ、それをもとにした女王像も建てられています。また、春には桜、秋には彼岸花が美しく咲く散策スポットでもあります。

回天碑
この慰霊碑は、「訓練した海が見える場所に」という元搭乗員の方々からの希望で、阿多田の海を臨むこの地に建てられました。
出撃や訓練などで亡くなった9名の名前が刻まれています。

白鳥神社
當社の濫觴は景行天皇の御宇勧請有之候由。往古は有限大社にして国君よりも資財をたまはり造営修復被り仰せ付き候由、中古以来次第に衰廃し候。

白鳥古墳
今から、約1500年前の古墳時代前期から中期のものと言われている山口県、広島県では最大の前方後円墳。室津半島のほぼ中央に緩やかな斜面、舌状の丘陵の上にあります。

心光寺
開基は光誉慶哉で、寛永19年(1642)11月7日この地に一宇を創建し、心光寺と称した。もと天台宗又は真言宗の旧跡で、境内に五輪塔の一部が現存している。

岩田遺跡
氷河時代が終わって暖かくなると、森林が広がり湖や草原だった瀬戸内海も海になっていきました。人々は磨いた石器を使い、弓矢でシカやイノシシをとり,魚や貝をとる漁労が始まり、縄文土器で食物を煮て食べることも覚えました。平生町内に人々が住みついたのは縄文時代中期(約4,500年前)からで、平生町佐賀の岩田遺跡はたくさんの土器や石器、ドングリの貯蔵大群が発見されて全国的に有名です。

上関町

上関大橋
上関海峡のシンボル。ループ式取付道路が特徴的。水軍まつり時には3週間ライトアップされる。

上関越荷会所跡
現在、保健センターのある場所に上関越荷会所があった。1794(寛政6)年に実質的な越荷業務を開始し、1810(文化10)年、長州藩撫育方により上関越荷会所が設けられたものである。諸国の廻船を相手に融資や倉庫業を営み、収益は藩財政立て直しや庶民救済費用等に充てられた。

上関城山歴史公園
上関城は、南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内水軍の海城であり、現愛媛県今治市宮窪を本拠とした能島水軍・村上義顕がこの地に海関を設け、代々居城しました。
しかし、豊臣秀吉の海賊禁止令(1588)により、村上氏は海上支配権を失い、上関城は廃城したと推定されています。

周防大島町

久賀の石風呂
国指定の重要有形民俗文化財である久賀の石風呂は、西日本最古の風呂で文 治二年(1186年)に築造されたものと伝えられています。
石風呂は花崗岩を積み、目地および室の内部は粘土を塗り込み構築されてお り、現在のサウナのように使われ一度に十七人の人が利用できました。
近郷住民の湯治場として、また社交場として昭和初年まで利用されていまし た。

土居の石風呂
土居の石風呂は大正から昭和の初期まで使われてきましたがこの度、使えるよう手入れをしました。石室の中で焚き火をして石を焼き、濡れたムシロや海草などを敷いて蒸気を発生させます。タオルなど被って入りますと、短時間で大量の汗をかきます。

星野哲郎記念館
星野哲郎記念館では大迫力の”星野えん歌”の映像による星野劇場、12のエピソードで綴る星野工房、唄って体感!星野歌酒場にて日本を代表する作詞家・星野哲郎氏の世界をお楽しみ頂けます。
聴いて、観て、唄って・・・大迫力の星野えん歌ワールドを体感してください。

淡島神社
総本社は和歌山・加太で、全国約1000社余りの分社の一つが周防大島・和田の淡島様である。婦人病、安産、子授けにご利益がある。毎年4月3日の大祭には針供養、餅まきが行われる。

正岩寺
慶長6年(1601年)村上武吉の二男景親は三田尻に役宅、和田には田屋を造った。隠居して和田で亡くなり、菩提寺として照岩寺(正岩寺)が建てられた。
明徳5年(1394年)に紀伊・須川で造った聖観音が正岩寺にまつられている。室町時代のすぐれた仏像である。

道の駅サザンセトとうわ
周防大島における海の幸、山の幸からなる特産品を一堂にお取り揃えしております道の駅サザンセトとうわにて、周防大島のお土産のご購入や即売所のじゃこ天やみかんソフトをご賞味ください。

東和町収蔵庫
東和町西端の「道の駅 サザンセトとうわ」の隣に民俗資料収蔵庫がある。ここには周防大島東部に残る重要有形民俗文化財の生活生産用具が収蔵されています。収蔵数は、お箸や茶碗などの小さな生活道具から、木造の漁船まで約3500点。ここでは、収蔵品の多くを囲いのない棚にずらりと並べて展示してあるので、展示品の細部まで、顔を近づけてじっくりと観察できます。

服部屋敷
長州大工の拠点であった周防大島、その長州大工の手により建築された服部屋敷は、仕口や継ぎ手などの細工に当時の伝統工法や高い技術が見受けられる建物です。
また、町指定有形文化財である服部屋敷は農村交流伝承館としても利用されています。

筏八幡宮
県の文化財に指定されている石鳥居は元禄14(1701)年、和田の領主村上景信が、武門繁栄、民屋豊穣を祈念して建立したもので、 大阪住の石大工、小戸六兵衛尉が手がけています。

『星野哲郎』歌碑
旧東和町和佐出身の作詞家、星野哲郎先生を称える「なみだ船」の歌碑。昭和60年(1985)2月に建立されました。碑文は星野先生、また作曲家の船村徹先生の自筆によるものです。当時の除幕式では、星野先生ご夫妻・船村先生・歌手の北島三郎さんらが出席されました。

陸奥記念館
戦艦「陸奥」は名実共に世界最強の軍艦(全長224.94m、排水量39050t)として長い間連合艦隊の旗艦として活躍していましたが、昭和18年に周坊大島沖合で謎の爆発を起こし、1121人もの将兵と共に瀬戸内海深くに沈みました。
陸奥記念館では散華された英霊の冥福を祈り、戦争の悲惨さを後世に伝え末永く平和を願うために建てられました。

なぎさ水族館
なぎさ水族館は日本一小さな?水族館ですが、海の生物を身近に感じ生き物とのふれあいを大切にした水族館です。
磯遊びの雰囲気をそのままに体験できるタッチングプールでは、海の生物を直接触ることができ小さなお子様に大好評です。
クツを脱ぎ、ズボンを膝までまくって、魚とふれあい心がふれあう水族館をご満喫ください。

和木町

瀬田八幡宮
瀬田八幡宮は和木町瀬田に鎮座の氏神社である。現在の本殿は、棟札によると、1715年(正徳5)に、吉川経永の命で建立されたものである。桁行4.06m、梁間3.97mの前室付き三間社流造りで、一間の向拝が付く。銅板葺きである。全体に装飾的要素が少なく、とくに妻飾りを豕叉首(いのこさす)とするなど、古形式をとどめている。細部の絵様も控えめで、虹梁の渦や若葉は細く張りのある線をもつ。

小瀬・上関往還一里塚跡
江戸時代、徳川秀忠が慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として、東海、東山、北陸の三道の道路の両側に一里ごとに築いた塚を一里塚という。
その後、各藩各地で、それにならって一里塚を立てた。





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