鹿児島


鹿児島市

西郷隆盛銅像
江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、征韓論に敗れ下野。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刀しました。 没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8mの堂々たるモニュメントです。

照国神社
神社のシンボルともいえる大鳥居が目印の照国神社。第28代藩主・島津斉彬公を祭っている。大鳥居をくぐると巨大なイヌマキの木が鶴のようにカットされており、絶好の撮影ポイントともなっている。

小松帯刀像
江戸末期の薩摩藩士。薩摩喜入領主肝付兼善の3男。名は清廉。1856(安政3)小松氏の養子となり、1861(文久1)年の藩政改革で忠義の側役となり藩政に参与。のちに薩摩藩家老となり討幕運動や大政奉還、薩長同盟に尽力した。

中央公園
市民と観光客が快適に利用できる都心部の安らぎと憩いの空間として、「緑と水と光」をテーマに整備を進められました約2.0haの公園です。。
 園内には人工的に霧を発生させる「霧噴水」やチビッコ達が水遊びを楽しめる「ジャブジャブ池」、都心部にいながらにして清流の音色や流れを楽しめる「せせらぎ」などがあります。
 また、公園の下には収容台数約600台の駐車場「セラ602」があり、車で気軽に訪れることができます。

造士館・演武館跡
薩摩藩72万石の第52代藩主・島津重豪は、1773(安永2)年、有能な人材を育成するため、鶴丸城前のこの広い敷地に藩校・造士館(はじめ聖堂という)と演武館(はじめ武芸稽古場)を創設した・造士館では、教授・助教・都講などの指導者のもと、8歳から21〜22歳の城下士子弟数百名が朱子学を中心に多様な教科を学んだが、庶民の聴講も許されていた。中国高官や琉球国王の肩額が掲げられているように国際色が豊かであり、唐通事や朝鮮通事という通訳官も養成された。
演武館は、剣術・槍術・馬術など、藩中武芸の中心同情であった。示現流剣術の東郷家、御家伝犬追物の川上家など師範22家が厳しく指導にあたった。両施設の運営資金は藩から与えられ、生徒からは学費を徴収しなかった。
西郷隆盛・大久保利通ら、幕末維新に日本の歴史を動かした若者の多くが、この地で人格を陶冶したのである。

医学院跡
薩摩藩主島津重豪は、開化的な政策を掲げて人材育成に力を注ぎ、藩校造士館・演武館に続いて、翌年の1774(安永3)年、その南西隣の地に医学院を創設した。
医学院は、江戸の医学館に準じた学規八略を定め、医書の講習・討論などにより医師の養成と薬草研究などによる医療の進歩を目指した。希望する城下士・地方に住む郷士や足軽・町人も入学を許可され、七人前後の講師のもとで数十人から百人ほどの医生が学んだ。敷地内には、同時に医薬、農業祖神とされる神農像を祭る神農廟も同時に併設された。
重豪は薬草栽培を奨励し、山川・佐多・吉野薬園の経営や本草学(博物学)などの書物出版にも力を注ぎ医療の発展に貢献した。

ザビエル公園
1549年、イスパニアの宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島・祇園之洲に上陸。約1年を鹿児島で過ごしたザビエルは、日本にキリスト教をはじめ、さまざまな異文化を伝えました。 明治時代に日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父が、ザビエルの功績を讃えて建てたザビエル教会は第2次世界大戦で焼失しましたが、その石造りの旧聖堂の一部とザビエルの胸像がザビエル公園内に残されています。1949年にはザビエル渡来400年を記念してローマ法皇の寄付をもとに近代ゴシック建築の教会堂が再建され、平成11年には溝口守一氏によりザビエルと薩摩人ヤジロウ、ベルナルドの3人の等身大の像が制作されました。

ザビエル滞鹿記念碑
明治時代に日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父が、ザビエルの功績をたたえて建てた最初の教会は、第二次世界大戦で大半を焼失しました。
今では、その石壁がザビエル滞鹿記念碑として公園内に残されています。

ザビエル記念聖堂
ザビエル上陸450年を記念して、1999年に鹿児島市照国町に新築された鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂(新ザビエル教会)が落成しました。新聖堂は、鉄筋コンクリート一部3階建てで、延べ床面積は約1,300平方メートル。外観は大航海時代の交易船をイメージしたものです。収容人員は750人で、1949年に建てられた旧堂の約2倍。1階には資料室などもあります。一般入場可。

天文館
鹿児島最大の繁華街・天文館通りの名は、ヨーロッパ文明を進んで取り入れた島津重豪公が、1779年に天文観測や暦の作成などを行う施設「明時館(別名天文館)」を建てた場所にちなんでいます。この暦はさつま暦と呼ばれ、適時適作により農産物の増産をはかろうとしたものでした。アーケード内には郷土料理店やみやげもの店をはじめ、カフェやレストラン、ブティックなどが立ち並んでおり、南九州一おしゃれな街として人気のスポットです。

天文館跡碑
薩摩藩主島津重豪は1779(安永8)年、医学院近くの南東の地に天体観測や暦作成に携わる明時館(別称天文館)を創設し、これが繁華街天文館の名のおこりとなった。

千石天神社
天神馬場通りの名称の起源であり島津藩政時代からこの通りにあって正徳3年4月の鹿城大火により焼失した萩原天神を、昭和12年4月に復興が決まり昭和13年4月現在地に朱塗りの神殿が完成した。

石灯篭
鹿児島市内、天文館方面からの電車が市役所方向へと左折するあたりから海岸に向かっての通りを「いづろ通り」という。いづろを漢字で書くと「石灯篭」。その名は、島津氏第15代貴久の菩提寺松原山南林寺の石灯篭が立っていたことに由来する。松原山南林寺は、1557年(弘治3年)、貴久自身によって建立。1869年(明治2年)の廃仏毀釈により廃寺、跡には松原神社が建てられている。

鹿児島市電
鹿児島市民の足となっている鹿児島市電。県外からのゲートウェイとなっている鹿児島中央駅や中心部の天文館など鹿児島市内を網羅しており大変便利。ぜひ活用しよう!

黒田清輝誕生地
天文館と高見馬場間の電車通りにそった商工会議所ビル前に、黒田清輝誕生地の碑があります。
黒田清輝は、1866(慶応二)年に生まれました。五歳の時、父の兄である清綱の養子となりました。十八歳の時に清綱のすすめで政治家になる決心をし、法律を学ぶためフランスに留学しました。しかし、生まれつき絵をかくことが好きであった清輝は、すっかり本場の洋画のとりこになってしまいました。清綱は反対しましたが、それを押し切り、ラファエル・コランのもとで洋画を学んで帰国しました。

大久保利通銅像
明治の風にフロックコートをひるがえす、大久保利通のモニュメントです。西郷隆盛、木戸孝允と並び明治維新の3傑と言われた人物で、明治政府の中心的役割を果たしました。銅像は、没後100年を記念して昭和59年(1979年)9月26日に中村晋也氏によって制作されました。本体4.3メートル。

大久保利通誕生地
1830年、薩摩藩士の子として生まれた利通は、島津久光のもとで公武合体運動を推進。
しかしやがて討幕へと転じ、西郷隆盛とともに倒幕運動を推進した。薩長連合を成立させ、岩倉具視らと連携して王政復古の政変を実現。

西郷隆盛誕生地
「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれています。

薩摩義士碑
1753年、徳川幕府は薩摩藩に木曽川・揖斐川・長良川(岐阜県)の改修工事を命じました。この宝暦治水は非常な難工事であり、約1,000人を動員し工費40万両を費やした末、1年3ヶ月かけてやっと完成しました。その間、幕吏や地域住民との対立、 悪疫の流行などで88名の犠牲者をだし、その供養墓塔として薩摩義士碑が大正9年(1920年)に建立されました。藩の出費の責任をとって自刀した治水総奉行・家老平田靱負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような碑です。

鶴丸城
慶長7年(1602)に、島津家18代家久が築いた平城です。
 「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくった天守閣のない質素な屋形でした。天然の要塞で、その地形から鶴丸城と呼ばれるようになりました。

西郷洞窟
田原坂から敗走し鹿児島に帰ってきた西郷軍は、城山に立てこもります。
しかし、政府軍の総攻撃に、西郷隆盛は自刃しました。
桐野利秋などの将兵も壮烈な最期を遂げました。

城山
市街地の中心部に位置する標高107メートルの小高い山で、クスの大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の亜熱帯植物が自生する自然の宝庫です。遊歩道での散策も楽しめ、市民の憩いの場ともなっています。展望台からは桜島をはじめ錦江湾や鹿児島市街地を一望でき、天気の良い日には遠く霧島や指宿の開聞岳も見えます。また、夜景が美しいことでも有名です。 城山は西南戦争の最後の激戦地となったため、司令部のおかれた洞窟(西郷洞窟)や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在します。昭和6年に国の史跡・天然記念物の指定を受けました。

錦江台展望公園
愛称スカイぱれっとで親しまれている錦江台展望公園は、売店、展望デッキ、つばきの森、野鳥の森があり、吊橋を渡ると大隅半島、錦江湾の雄大な景色が一望できます。

鹿児島港新波止砲台
幕末の薩摩に欧米の力が忍び寄っていた。通商や艦船への補給を求めて開港を迫る諸外国の来航。次第に衝突の機会も増え、薩摩藩は他に例を見ないほど徹底した防衛策を講じていた。海に臨む要衝に砲台を築き大砲を備えた。城下の海岸線には防塁を築き、文久3年(1862)にはこれらの砲台によって英国軍艦を撃退したのである。

いおワールド
かごしま水族館
様々な視点からイルカについて学ぶ「いるかの時間」や、デンキウナギが電気でえさをとらえる様子を実演し、解説が聞ける「デンキウナギの放電を見よう!」、ふだん見ることのできない水族館の「うら側」を、水の浄化の仕組みなどの解説を聞きながら見学できる「バックヤードツアー」などいろいろな館内イベントが用意されている。

桜島フェリー
鹿児島市と桜島をわずか15分で結ぶ「海のバイパス」桜島フェリーは15分〜30分間隔で24時間運航。 薩摩半島と大隅半島を結ぶ大動脈として、人々の頼もしい足となっています。

火の島めぐみ館
桜島港のフェリーターミナル近く、国道224号沿いにある「道の駅」桜島の物産売店で、桜島大根や桜島小ミカンなど世界に誇れる特産物を安く提供しています。そのほか溶岩焼など桜島にしかない加工品の販売もしています。また、レストランや情報コーナーも完備しています。桜島小ミカンは、ギネスブックにも登録された世界一小さなミカンで、小粒ですがとても甘くて美味しく、人気があります。世界一大きい大根と世界一小さいミカンはお土産に喜ばれます。

有村溶岩展望所

1946年の大爆発で流出した溶岩原の小高い丘にあり、360度広がる眺めが望めます。全長1kmに及ぶ溶岩遊歩道の途中にあり、世界的活火山「桜島」の迫力と錦江湾を手にとるように望むことができます。

黒神埋没鳥居
大正3年(1914年)1月12日の大爆発は、黒神一帯を火山灰、軽石等で埋めつくしました。その際、原五社神社の鳥居は上部だけを残して埋まってしまいました。
当時の村長さんは、この鳥居を大噴火の記念物として後世に残すことにし、掘り出すのを中止して保存することになりました。
昭和33年に県の文化財(天然記念物)に指定されています。

仙巌園(磯庭園)
歴代島津藩主の別邸であった仙巌園は、ダイナミックな自然を生かした屈指の名園です。
書院造りの屋敷、桜島と錦江湾を借景にした和風庭園は、往時の栄華をほうふつとさせます。園内には明治維新の原動力となった知の宝庫尚古集成館をはじめ華麗な歴史絵巻を体感できます。

尚古集成館
尚古集成館は、1923年に開館した博物館で、島津家関連の資料が展示されています。尚古集成館の本館は、1865年に造られた機械工場の建物をそのまま利用しています。
1851年に薩摩藩主となった島津斉彬は、仙巌園(磯庭園)のとなりに工場を造ります。この工場群のことを集成館といいます。これらの事業では、紡績、製鉄、造船をはじめ写真やガス灯の実験、アルコールやガラス製造も行われました。

花尾かくれ念仏洞
島津家が禁止していた浄土真宗ゆかりの天然の洞窟。杉木立の奥にある8畳ほどの立ち歩きができる自然の部屋は、当時の弾圧のすさまじさを物語っている。

いちき串木野市

地頭仮屋跡
東西にわたる壁面は、串木野城外曲輪の一部である(現在の石垣は明治30年前後に築かれた)。上の住宅地区が地頭仮屋跡で広さは約33アール(三反三畝)。ここを中心として西之口・内村・麓・原郷の四つの郷があり、麓四郷と呼んでいる。

長谷場純孝誕生の地
明治大正期の政党政治家。薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)生まれ。薩摩学寮に学び、若くして西郷隆盛の知遇を得る。明治4(1871)年上京し、翌年警視庁巡査となり少警部に進む。18〜20年県会議員、20〜23年薩摩郡など4郡の郡長となる。23年の第1回以後、45年の第11回総選挙まで衆院議員に連続当選を果たし、立憲自由党、同志倶楽部、立憲革新党、進歩党、憲政党に所属。地価修正、足尾鉱毒問題に尽力した。

さつま焼発祥の地
島津義弘・忠恒(後の家久)父子は文禄・慶長の役の後の慶長3年(1598)12月、朝鮮の陶工70余名を日本に連れてきました。
その際、ここ串木野にも朝鮮の陶工、43名が上陸し、串木野市下名字本壺屋(もとつぼや)でさつま焼を始めました。
この地は日本陶芸史上重要な意味を持つ土地であり、現在この地の一角に記念碑を建立してあります。

日置市

有馬新七生誕地碑
有馬新七は伊集院町(現在の日置市)小城集落の坂木家・坂木貞常の三男として、文政8年に生まれていました。ところが、文政10年8月になって、鹿児島城下の御子性組・有馬与之介の跡を相続することになり、一家を挙げて鹿児島市に移住していました。この誕生の記念碑は大正7年に伊集院の有志によって建立されたものです。

徳重神社
幕末の廃仏毀釈によって滅却された妙円寺跡に島津義弘公を祭神として建てられた。10月第4日曜日、県下三大行事の妙円寺詣りが開催される。

ヤジロウの墓(伝)
初め薩摩の武士でアンジロウ、アンジェロとも(Angero)。日本人初のキリシタンという。天文十七年、罪を犯してマラッカ(マレーシア)に逃れていたが、ポルトガル商人の案内で同地に滞在中のザビエルのもとを訪ねて日本の情報を提供。ゴア(インド)で日本人初の洗礼を受けた。洗礼名パウロ・デ・サンタ・フェ。彼が気に入ったザビエルは日本へ向かうことを決意し、ヤジロウも案内役として同行。ザビエルが島津貴久から布教許可を得た際の通訳を務めた。

八幡神社
祭神は天照大神、天津彦彦火瓊々杵尊、?幡千々姫命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。文禄4年(1595)に日置島津3代常久によって、日置52社の総鎮守となっている。毎年6月の第1日曜日に「せっぺとべ」が行われている。

大乗寺跡
大乗寺は島津15代太守貴久の夫人雪窓の建立によるもので開山は一岳等忍和尚である。文禄4年(1595)に日置島津3代常久は初代歳久の冥福のためここを日置島津家の菩提寺にしたという。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。

園林寺跡
建立は応永24年(1417)で、文禄4年(1595)に禰寝重張が吉利に移封された時小根占からこの地に移した。初代清重以下の霊を集め祀る外、17代重張以下歴代領主の墓があり、明治維新の功臣小松帯刀の墓もある。

小松帯刀の墓
小松帯刀公の墓は、妻お千賀と並び、その横には昭和天皇より賜った石灯籠、幕末の横綱陣幕が奉納した石灯籠、また第二夫人の琴子の墓もあります。

吉利神社
祭神は鎌倉權五郎景政をはじめ、8座の神である。鎌倉景政は後三年の役(1083~1087)で敵将鳥海弥三郎に左眼を射られたが、その矢を7日間も抜かずに弥三郎を追い、これを射殺して勇名をとどろかしたと伝えられている。

西行石
国道270号線の小野川にかかっている花見橋から花熟里に入ると、西行坂といわれる坂がある。
その中程の東側に、「西行法師腰掛け石」はある。

大汝牟遅神社
ニニギの命が滞在されたこの地に、大和の国の三輪神社の御祭神 「大汝牟遅の神(大国主命)」を迎えて祀ったのが始まりである。
藩祖伊作忠久が文治2(1186)年に、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮から 八幡四神を勧請し合わせ祀った。
五穀豊饒の神として信仰があつく、各種の祈願祭が行われる。 6月に「お田植踊り」、11月は「流鏑馬」「武道」の奉納がある。 伊作で最も格式の高い神社である。

常楽院
建久7年(1196)に、島津家の祈祷僧として島津初代忠久に従って薩摩に下った宝山検校が、田尻中島に常楽院を建立したと伝えられている。薩摩琵琶発祥の地とも伝えられている。





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