中部


高知市

はりまや橋
"土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た・・・"  今から百余年前、五台山竹林寺の僧・純信と、恋人のお馬さんの恋の情熱は2人を讃岐の国へ駆け落ちさせた。時は移り、街のたたずまい、人の姿に昔日のおもかげはないが、この橋をめぐる恋の情熱は、今も土佐に語り継がれている。

高知城
街の中央にあり、白亜の天守閣からは眼下にひろがる高知市街と四方の眺望を楽しむことができる。  関ヶ原の合戦の後、山内一豊が土佐の領主として慶長6年(1601)入国し、大高坂山にその居城として築城した。その後享保12年(1727)大火でほとんど焼失したが25年後に再建され現在に至る全国でも数少ない古城の一つ。国の重要文化財の指定を受けている。

日曜市
高知市の街路市は、遠く藩政時代の元禄3年(約300年前)には既にあったといわれ、月曜日以外は年中市内のあちらこちらで市が開かれている。特に高知城追手門から続く追手筋で開かれる日曜市は街路の両側にその延長1Kmに及び、野菜、日用品はもとより古着、骨とう、植木、庭石などが並び、土佐弁のやりとりでにぎわう昔ながらのショッピングに人気が高い。

ひろめ市場
土佐藩家老・深尾弘人蕃顕の屋敷、通称「ひろめ屋敷」の跡地ということから、その名が付けられた『ひろめ市場』。休日になると県外から多くの人が訪れ、平日は地元の人を中心に賑わっており、高知を代表する観光&食事スポットと言っても過言ではありません。

旧山内家下屋敷長屋
幕末に建てられた山内家の足軽屋敷は,本格的な武家長屋としてその姿を今に残しています。国の重要文化財にも指定される,全国的にも数少ない建物です。幕政後期の土佐藩士や庶民の生活を知ることの出来る用具や和舟などが展示されています。

山内容堂公邸跡
藩主の一門の屋敷を追手邸・東邸・西邸・南邸などと称していた。東邸・西邸は現在市役所のあるところで、鷹匠公園は南邸と呼ばれ、文政4年(1821)屋敷を父豊著が新築。嘉永元年(1848)15代藩主となった。

山内神社
明治四年(一八七一)廃藩置県の年の三月、最後の藩主で最初の知藩事山内豊範公が祖霊を祀るため、藤並神社の御旅所のあった現在地に社殿を造り、三代忠豊公より十四代豊惇公の霊を祀られた。

坂本竜馬誕生地
日本の夜明け、幕末に、海援隊長を勤め、薩長同盟、大政奉還の立役者となった、坂本竜馬。その誕生の地がビルの谷間にひっそりとあります。

桂浜
黒潮躍る太平洋に面したこの浜は、月の名所として名高く、歌人吉井勇に歌われ、文豪大町桂月にその雅号を与えた。
"みよやみよみな月のみの桂浜
  海のおもよりいずる月かげ ”
-大町桂月-

大町桂月記念碑
明治期の詩人・評論家。高知県出身。桂月の号は郷里の名所桂浜にちなんだ桂浜月下漁郎の号を縮めたもの。上京後落合直文の門に入りあさ香社結成に参加。東大入学後、「帝国文学」に寄稿。明治29年擬古的な詞華集「美文韻文花紅葉」を刊行、赤門派とよばれた。

桂浜水族館
桂浜公園の浜辺にあり、70有余年の歴史のある水族館。
また古くから博物館として親しまれている。飼育動物は、210種 ・約6500点にものぼる。イルカやアシカのショーも人気。

坂本龍馬像
桂浜の龍頭岬にあって、はるか太平洋を見すえている。土佐海援隊を率いはるか外国の事情に思いをはせていた龍馬には、桂浜のこの地こそふさわしいのではないだろうか。薩長連合に尽力し、新政府の基本政策ともなる船中八策を草した龍馬を慕う青年たちは多い。昭和3年、青年たちは全県下を募金行脚し、ついにこの日本一の銅像を建立した。

龍馬に大接近
龍馬像横の特別展望台に上ると、高さ13.5mの龍馬像と同じ 目線で雄大な太平洋を眺められます

坂本龍馬記念館
昭和60年(1985)11月15日、坂本龍馬150回目の誕生日を記念して「坂本龍馬記念館」の建設が発意され、県内青年団体の連合体として組織された「龍馬生誕150年記念事業実行委員会」が担い手となり、建設運動が始まる。募金活動、公開設計競技を経て、平成3年(1991)11月、黒潮躍る太平洋を一望する桂浜公園の丘陵に完成。龍馬がその生涯を通じて、どのように成長し、活躍したかを7つのステージで描く、演劇的な手法の展示形式をとっている。

浦戸砲台場跡
この場所には、万治年間(1658-1660)に建設された浦戸の灯明台があって、夜間舟の出入りする時の目印になっていた。
寛永15年(1638)に外国船来航を監視するために土佐藩内4ヶ所に遠見番所がおかれ、正徳6年(1716)の記録によると浦戸にもおかれていた。やがて外国船が日本近海に出没するようになり、文化5年(1808)に大筒を配備し、文久3年(1863)には本格的な砲台場を構築した。この場所は弾薬を貯蔵していたといわれている。

竹林寺
天平の昔、聖武天皇の勅命を受けた僧行基は、中国の五台山に似た山を探し全国を行脚した。そして土佐に至りこの地に当時は大島と呼ばれていたこの山を見い出し、五台山と命名したのである。行基は竹林寺(第31番霊場)を開基し、文殊菩薩をまつった。この寺は学問の寺として栄え弘法大師もこの寺で修行している。春のころともなれば四国巡礼の遍路さんの姿でいっぱいになる。全山が県立公園となっている

若宮八幡宮
文治元年3月、平氏を檀ノ浦に滅ぼした源頼朝公は、全国に守護・地頭を置き鎌倉幕府の基礎を固めました。同時に、祖父源為義公の冥福を祈り、源家の家運長久を願って京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、ここに新たに六條若宮八幡宮を御創建されました。
その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納せられ、神地鎮護の神として現在の地に御創建されたのが若宮八幡宮です。時に文治元年(1185年)12月30日のことでした。

長宗我部元親初陣の像
この銅像は元親公没後四百年に当たる平成11年(1999)5月に、地元有志の発案により建立されました。
元親公は永禄三年(1560)五月、二十二歳の折り、本拠地の岡豊城を進発し、宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。その後、約二十五年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長四年(1599)に六十一歳で京伏見の館に没しました。

雪蹊寺
桂浜から北東へ2キロほどのところにある雪蹊寺。四国霊場の中には2ヶ所だけ臨済宗に所属する寺の一つ。仏師運慶と湛慶による18体の仏像が国の指定文化財として収められている。また本堂には一つの額が奉納されていて、中には眼鏡が入っている。太玄と玄峰のエピソードから眼病祈願を行い、平癒した人が奉納したという。

長宗我部信親公墓
長宗我部元親の嫡男で,身の丈は六尺一寸(約183cm)の美丈夫,そして,言葉少なく礼節を重んじ,武にも通じていたそうです。そのため父・元親は信親を非常に寵愛し,家臣団の期待と信頼も厚かったそうです。

秦神社
明治初年の廃仏毀釈により、雪蹊寺が廃寺になったため、雪蹊寺に安置されていた元親の木像や、戸次川合戦戦死者の霊板などを御神体として創建された。
『秦』の名は、長宗我部氏の先祖が「秦」姓であったことに由来するものである。

土佐神社
土佐の一ノ宮。5世紀の創建と伝わる古社で広大な境内をもち、県道脇の楼門から長い参道が続く。正面奥には樹齢数百年の杉や檜が鬱蒼と茂る中、本殿・拝殿・幣殿・鼓楼・楼門など重要文化財の建築物が立ち並ぶ。幣殿・拝殿は、左右に翼拝殿を設けた「入りとんぼ」という珍しい建築様式。

善楽寺
桓武天皇(在位781〜806)の時代に、大同5年(810)弘法大師はこの地を訪れ堂宇を建立し、神宮寺(土佐神社)の別当寺として第三十番札所として定めました。
明治の廃仏毀釈により廃寺となり、本尊や大師像は国分寺に預けられ、明治9年(1876)に安楽寺(奥の院)に第三十番札所を開きましたが、昭和4年(1929)に善楽寺の地に埼玉県与野市にあった東明院を移し国分寺にあった大師像を迎え入れ再興しました。

種間寺
敏達天皇(在位572〜585)の6年(577)百済から摂津四天王寺を建立するため仏師達が招かれ、帰国の途中暴風雨に遭い秋山の港に寄りました。この時、航海の安全を祈って薬師如来を刻み本尾山頂に安置しました。後に、弘法大師が訪れ薬師如来を本尊とし堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種をまき、種間寺と号しました。そして第34番札所として定められました。

土佐市

青龍寺
弘法大師は唐の青龍寺で恵果和上から真言密教の秘法を授かり後継者として真言第八祖となりました。、和上への報恩のため和国で一寺を建立せんと唐から独鈷杵を投ぜられ、帰国後大師が四国巡錫中、この地で老松の木にとどまっている独鈷杵を見つけ、嵯峨天皇(在位809〜823)に奉上し、不動明王を刻み堂宇を建立して第三十六番札所として定められました。山号・寺号はこの由来によるものです。

蟹ヶ池
当地は県下に数少ない湿地の中でも最大の面積をもち、「サクラタデ」「コウホネ」等貴重な湿生植物が多く、トンボ類も多数生息し、渡り鳥の飛来地でもあるので、湿地そのものを指定し保護することとした。なお当地は、横浪県立自然公園の第一種特別地域に指定されていて、自然保護のため多くの行為が規制されている。

清瀧寺
第35札所 醫王山鏡池院 清瀧寺 弘法大師(空海)が山で17日間修行し、満願の日に金剛杖で壇を突くと清水が湧きだして、鏡のような池になったことから醫王山鏡池院 清瀧寺と名がついたそう。境内には、大きな薬師如来立像があり、台座の中で「戒壇めぐり」をすると、厄よけのご利益があるとされています。

琴平神社
本殿は一間社入母屋造平入り柿葺きで、正面に一間の向拝が付いている。「奉再建山神宮」の棟札に天保2年(1831年)の銘がある。江戸時代後期のこの年に建造されたと推定されている。

南国市

国分寺
清楚な趣をたたえた総素木造りの国分寺は国指定史跡土佐国分寺跡にあり、しんとした佇まいの中に落ち着きのある風格を備えた札所です。永禄元年に長宗我部元親が再建したもので、金堂、木造薬師如来立像(2体)、梵鐘は国の重要文化財に指定されています。

道の駅南国 風良里
南国I.Cを下りて南へ約1分。左手に道の駅「風良里」が見えてきます。緑あざやかな山並を背景に、明るい円錐形の建物が印象的。メインホールには郷土南国市のごちそうをはじめ、園芸果実や心なごむ地場産品の数々が所狭しと並べられ、連日県内外からの観光客で賑わいをみせています。

古今集の庭
南国市比江の紀氏邸跡に隣接。古今和歌集選者貫之にちなみ、和歌32首をその草木に掲示し「曲水の流れ」などを配した平安朝をテーマとした庭園。

紀貫之邸跡
国府小学校の東300mの南側に48代目の国司、紀貫之邸跡があります。邸跡では高浜虚子の句碑等もあり、この邸跡の南一帯が土佐の国衙跡です。

永源寺
土佐藩政初期より山内家の家老職をつとめてきた乾一族の墓地で、ひときわ大きな墓石が並び立っています。総面積は約330坪、300年の風雪に耐えてきた風格のある墓碑群が当時の権勢を偲ばせています。

禅師峰寺
久枝−十市間の約8キロの海岸線沿いにあり、屏風岩や蓮の花咲く池など美しいロケーションに囲まれた札所で、木造金剛力士像二体は国の重要文化財指定を受けています。

香美市

八王子宮
室町時代、近江の国から山田氏の家臣、野口総左衛門が勧請したと伝えられ、野中兼山が中井川を掘る際に、現在の北本町に移築しました。

香南市

大日寺
宝山西麓にある四国霊場第28番札所。天平年間(729〜749年)に行基が開基。本尊の大日如来像は行基の作といわれ、脇仏の聖観音像とともに国の重要文化財であるが、非公開。

西徳善八幡宮
応永19年(1412)、長宗我部氏の武将で、吉原城の城藍である丁野帯刀が、野崎五良左衛門を神主として、豊前宇佐八幡宮より勧請したと伝えられています。
社紋は山内家の三つ葉柏で、祭日には山内家より参拝があったといわれています。

絵金蔵
絵師金蔵、略して絵金。 もとは土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師でしたが、贋作事件に巻き込まれ、城下追放となります。 野に下った絵金は叔母を頼りにこの赤岡の町に定住し、酒蔵をアトリエに絵を描きました。 [絵金蔵]では、町内に残された23枚の屏風絵を収蔵、保存しています

弁天座
香南市赤岡町の新しい交流拠点「弁天座」。小さいですが、回り舞台やすっぽん。空井戸など本格的な設備を備えた芝居小屋です。
桝席からいろんなイベントを楽しんでください。

山城屋
四層の水切りのある土蔵造りは赤岡商家の代表的建築様式を留めている。
屋号から廻船業として京阪地方との往来があったのであろう。
暖簾分けとして塩の販売権を譲った話や、明治期は桑の種を信州方面へ送り出していたとかで、雇女が採種のため桑の実を踏み潰すそ、香宗川が真っ赤に染まったという話も伝えられている。

大豊町

豊楽寺薬師堂
薬師堂は、四国最古の建造物で桁行、梁間ともに五間の単層入母屋造り、柿葺で勾欄付きの廻縁をめぐらし、壁は板壁で全面中央の三間は板唐戸の観音開きになり、両脇の一間には連子窓がついている。屋根の勾配はゆるやかで、軒先の反りは、美しく優雅である。

定福寺
724年(神亀元)、行基の創建と伝わる寺。宝物館にある6体の地蔵菩薩立像(県指定文化財)のうち、3体は微笑を浮かべており、日本で唯一の笑い地蔵と伝えられる。境内には万葉植物園があり、6月下旬〜8月上旬にオオガハスの花が咲く。

本山町

若一王子宮
若一王子宮は、久安5年(1149)に熊野から若宮を吾橋山長徳時の守護神として勧請したものです。
地元では「若一さん」の呼び名で親しまれており、境内には椎の木が多く、秋には近くの子供達が椎の実拾いに集まり、終日にぎわいました。

金剛寺
明治後期頃 長徳寺跡にこの地に建立されました。山門をくぐると「六地蔵」さんが出迎えてくれます。そして正面には、ご本尊の「大日如来」を祀ったお堂、右手に「大師堂」左手に「毘沙門天堂」と並んでいます。

土佐町

道の駅 土佐さめうら
国道439号沿いにある道の駅「土佐さめうら」は、高知県下11番目の道の駅として平成10年にオープンしました。嶺北の道案内や見どころを紹介するとともに、休憩所としてトイレやシャワーも完備。地元の産品や民工芸品の展示、販売を行っています。

上吉野川橋
瀬戸大橋のミニモデルと言われ全長321m。橋のたもとでは、日曜日、祝日には、地元女性達の作った農産物や加工品の市がたつ。

大川村

早明浦ダム湖
多目的ダムとしては西日本一の貯水量を誇る早明浦ダムによって生れた湖。大型ブラックバスが数多く釣れるダム湖として有名。ボート等の湖面への乗入れは湖面利用者協議会への登録が必要。

小金滝
100mという四国一の落差をもつ小金滝。梅雨の頃の眺めは素晴らしく、運が良ければ虹が見える。

いの町

木の根三里
国道194号ぞいにあり、大きな吊り橋が架かっているのですぐわかる。トイレも休憩や揺れる橋で気分転換に寄る人も多い。橋の中央から北を臨めば、平家平が真正面に見える。

道の駅 633美の里
山と渓流の間にある駅のシンボルは、かわいい風車。地域の木材を使った木造建築は、よく光が入るように工夫されたバリアフリー構造になっています。

椙本神社
〜いののお祭りといえば、大国さま〜
歳旦祭(1/1)、大国祭(春祭り-旧1/22)、夏祭り(旧5/22)、わぬけさま(6/30)、秋の大祭(11/23)、と大きなお祭りが行われ、いの町民に親しまれています。また、境内では毎週日曜日には早朝から市が開かれ、賑わっています。

仁淀川町

土佐中津渓谷
雨と渓谷の流れで造られた自然のオブジェ、中津渓谷。
「紅葉滝」や「雨竜の滝」、「龍宮淵」など千差万別の奇観が連なり、たぐいまれな渓谷美を誇っています

石柱
中津渓谷の遊歩道の最上流部に千古の水流が彫刻を施した石柱があります。
ここは渓谷の中で最も幅が狭く、そして険しい岩盤が切り立ったところです。
この石柱は谷底から約8mの高さがあり、また切り立った岩盤をえぐるようにしてできているため容易にはその姿を見ることができませんでした。

大渡ダム
仁淀川をより安全で有効に利用するために、昭和43年工事に着手。
洪水調節、かんがい・水道用水等の補給や発電をも考えた多目的ダムとして計画され、昭和61年度に完成しました。

越知町

横倉山自然の森博物館
横倉山の貴重な自然や歴史を後世に伝え、地球の歴史までも紹介した博物館。化石やいん石に触れることのできるコーナーなどが人気!
世界を舞台に活躍する建築家:安藤忠雄氏が横倉山の個性を読み取り設計した建築。光・風・水そして木々に囲まれ、清流仁淀川と沈下橋、そして越知の街を一望できる博物館です。

横倉神社
横倉山の三神社の一つで、山の麓にあるので下ノ宮と呼ばれています。

佐川町

青源寺
藩政時代、この佐川を治めていた深尾家の菩提寺で、観音堂には後水尾法皇を祭っています。
庭園は禅的風格をそなえた日本式庭園で、乗台寺庭園と共に県指定文化財となっています。

乗台寺
乗台寺庭園は別名ひさご園と呼ばれ、深尾家二代重忠公の奥方の病気全快を祈願して築いたと伝えられています。
裏山を借景とした、地泉回遊式の寺院築山泉水庭で、四季それぞれの美しさを見ようと、訪れる人の姿が絶えません。

日高村

小村神社
土佐二の宮として有名な小村神社は用命天皇2(586)年に創建され、国宝の「金銅荘環頭大刀」が御神体です。
国宝の「金銅荘環頭大刀」は、毎年秋の大祭(11月15日)でのみ拝観することができます。

燈明杉
社殿の裏には樹齢1000年を超える牡丹杉と呼ばれる大木があり、有事の前に光るという伝説から「燈明杉」とも呼ばれています。





1