熊本市内



城下町エリア

熊本城
日本三名城の一つ熊本城は別名銀杏城とも呼ばれ、名将加藤清正によって慶長6年(1601)に着工され、7年の歳月をかけ築城されました。城郭の広さは約98万平方メートル、周囲約9キロメートル(築城当時)、そのなかに天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で、築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。明治10年西南の役では、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しましたが、総攻撃の前日に原因不明の失火により宇土櫓他12棟を残し焼失しました。現在の天守閣は昭和35年、清正公350年祭と市制70周年を記念して熊本市によって再建されたものです。

本丸御殿大広間
往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大台所を復元する。
建築面積:約2,161平方メートル。建築費:約41億8千万円で復元中。平成19年12月完成予定。

加藤神社

戦国時代の武将加藤清正を主神とする加藤神社。明治4年(1871年)、現在の熊本城本丸と宇土櫓の間に「錦山神社」として建立され、その後、明治7年(1874年)熊本市京町へ、昭和37年(1962年)に現在の熊本市本丸に移りました。境内には肥後三大手水鉢、文禄・慶長の役記念の太鼓橋、旗立石などが残されています。毎年7月第4日曜日に開催される清正公まつりは、熊本の夏の代表的な祭りで、子ども等の「千人清正」などが街中を練り歩く神輿行列で賑わいます。

旧細川刑部邸

細川刑部家は、細川家三代忠利公の弟、細川刑部少輔興孝が正保3年(1646年)に2万5千石を与えられて興したものです。この建物は、その後、子飼、現在の熊本市東子飼町で下屋敷として使用していたものを平成2年から5年にかけて移築したものです。同邸は建坪300坪あり、唐破風の大きな玄関は、重臣などの訪問や当主だけが使ったとされています。また、入側造りの表御書院は、江戸時代の大名邸宅の造りを残しています。他にも、二階建ての「春松閣」や一階の「銀之間」が、別棟には書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、全国有数の上級武家屋敷としての格式を持っています。

熊本県護国神社

藤崎台球場の隣に建ち、神社の前には梅の木が植えられた公園があります。昭和14年に内務省令により熊本県護国神社と公称し、昭和32年に現在の社殿が完成。境内には戦没者のためのさまざまな慰霊碑が建ち、戦争歴史資料館があります。神風連の乱の際に本陣が置かれた場所で、神風連挙兵本陣跡の碑が建っています。

藤崎台県営野球場
スコアボード横の大きなクスノキが名物の藤崎台県営野球場は、昭和35年の熊本国体の時に完成し、以来、高校野球をはじめアマチュア野球からプロ野球まで数々の球史が繰り広げられています。
平成8年にメインスタンドの改修工事を行い、近代的な野球場に生まれ変わりました。

熊本県立美術館
熊本城二の丸公園の一角にあります。特色の一つとして、千金甲古墳やチブサン古墳の装飾壁画のレプリカも地下の装飾古墳室で見ることができます。定期展としては「熊本の美術展」シリーズ、「永青文庫展」、「今西コレクション名品展」等があり、民間の寄付金などによる記念コレクションとして出発した総数700点にも及ぶゴヤ、レンブラント、デュラー、ピカソ等海外の著名作家の版画収集があります。また、ルノアールの「胸に花を飾る少女」も展示されています。

加藤清正公像 (熊本城)

日本三名城の一つに数えられる熊本城を築いた加藤清正は、現在も清正公(せいしょこ)さんとして熊本市民に親しまれ、熊本城のそばと廟のある本妙寺の2か所に像が建てられています。熊本城のそばの清正公像は甲冑)と長烏帽子姿で、自らが築いた戦国の要塞熊本城を背に、戦いの陣中に座るような姿で、まさに熊本を守らんとしているかのようです。周辺には、演劇やコンサートなどが行われる市民会館や熊本を訪れている外国との人々の交流拠点である国際交流会館があり、銅像の背後にのびる行幸坂は熊本城内へと続いています。

千葉城跡
室町時代の応仁・文明(1467年~87年)のころ、菊池一族の出田秀信が築いた城跡で、城の名前「千葉城」が現在の地名「千葉城町」のもとになっています。出田氏が居城とした当時は、城がある崖の下を坪井川が湾曲して流れ、中世の山城の一つだったと思われますが、今は河川改修されて元の地形が分かりにくくなっています。出田氏の後は、鹿子木寂心がこの城に入りましたが、狭いという理由で寂心は古城に移りました。その後の加藤・細川氏の時代には、高屋敷と呼ぶ武家屋敷があり、宮本武蔵もここに住んでいました。今は、NHK熊本放送局が建っています。

熊本城稲荷神社
加藤清正(かとうきよまさ)が入国(1588年) にあたり、熊本城の守り神として勧請し、四百年の歴史があります。白髭(しらひげ)さんと親しまれています。最大の祭りは、毎年2月の最初の午の日に開催される「初午大祭」で、この日に参拝することを「福詣り」と呼び、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛などを願う多くの参拝者でにぎわいます。

熊本大神宮
元は上通りの熊日新聞社の近くにあったようです。祭神は、天照皇大神と豊受大神です。境内は有料駐車場になっています。

谷干城像
熊本城を囲むように流れる坪井川沿い、千葉城橋と厩橋の間に位置する高橋公園内にある銅像。天保8年(1837年)、土佐藩に生まれた谷干城は、明治10年(1877年)の西南戦争で、政府軍の熊本鎮台司令長官として少数の兵とともに籠城。52日間にわたる薩軍の猛攻に耐えたことで名を馳せました。以前は熊本城内の天守閣南側にありましたが、熊本城本丸御殿の復元に伴い、高橋公園に移設されました。

横井小楠と維新群像
熊本城を囲むように流れる坪井川沿い、千葉城橋と厩橋の間に位置する高橋公園の中に、横井小楠のほか、彼と親交のあった坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久の5人の銅像が維新の群像として立てられています。横井小楠は、熊本市内坪井出身の思想家で、坂本龍馬や吉田松陰などとも交流のあった歴史上の人物で、維新群像は小楠と志士たちの功績を讃えたものです。

宮本武蔵旧居跡
細川忠利は武蔵の名誉を重んじ、客分として招き千葉城の大邸宅を与えた武蔵はここに5年住み62才で死去した。千葉城跡である石碑はたっている。

里程元標跡
熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後(熊本)藩の種々の政令を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場がありました。
この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られました。
その際に、一里、二里、三里…と進むごとに、街道の両側に榎を植えてこれを里数木と称していました。
現在でも、バス停や駅の名称に、「一里木」、「二里木」、「三里木」などといった当時の呼称がそのまま使われているところがあります。

清爽園
明治11年(1878)、西南戦争を戦いぬいた熊本鎮台の将兵は、これまでの四戦役の戦没者を祭る記念碑をこの地に建立しました。つづいて県の役人たちの戦没者の碑もつくられ、どう2年に記念碑周辺の敷地を広げて庭園としました。
さらに同19年、この庭園に美観を添えるため、当時の歩兵第十一旅団長であった乃木希典が官民有志へ寄付を呼び掛け、旧「花畑邸」の庭石の払い下げを受けて、見事な庭園を完成させました。
その後、この庭園は次第に荒廃していきましたが、昭和4年(1929)新町の青壮年団の奉仕により美観が取り戻され、第8代熊本市長辛島知己によって、新たに「清爽園」と命名され今日に至っています。

みずあかり
「みずあかり」は今年で2回目を迎える、熊本の暮らし人の祭りです。
「故郷・熊本の魅力を再発見し、ここに暮らす喜びや切なさまでも共感できる、市民と地域でありたい」という願いの下、企画から運営までの全てを、地域住民、一般市民、企業、行政が行っています。

熊本城城下町
坪井川精霊流し
ライトアップされた熊本城と、精霊船の灯りが幻想的なイベント。

夏目漱石内坪井旧居
明治29年(1896年)、第五高等学校(現在の熊本大学)の教師として来熊した夏目漱石。彼は4年3か月の熊本滞在期間中に6回も転居。そのうち、5番目に移り住んだ家で、最も長い1年8ヶ月を暮らしたのがこの家です。当時、新婚だった鏡子夫人と暮らし、長女筆子さんが誕生した夏目家にとっての思い出の家。後に、鏡子夫人は「熊本で住んだ家の中で一番良かった」と語ったといわれています

横井小楠の生誕地
清正公井跡
幕末期の維新志士に多大な影響を与えた思想家で、「清正公井」跡が横井小楠の生誕地にあたります。

正福寺
「坪井の仁王さん」の名で知られる高野山真言宗の寺院です。寺伝では細川忠利入国の際、豊前から随伴した宥専(山)が寛文年間(1661-73)に建立したと伝えられています。明治10年、西南戦争で消失しましたが、のち再建されました。秘仏として歓喜天を祀ることから「聖天さん」とも呼ばれます。

明八橋
熊本の「通潤橋」や「霊台橋」を造った明治の名石工・橋本勘五郎が、東京の「日本橋」や「江戸橋」、皇居の「二重橋」を架設したのち、帰郷して手がけた石橋のうちの一つ。明治8年(1875年)に架設されたので「明八橋」と呼ばれ、熊本市を流れる坪井川に架かり、新町2丁目と西唐人町を結んでいます。上流には、その兄弟ともいえる、明治10年(1877年)に架設された「明十橋」があり、それぞれの橋の上からお互いの姿を眺めることができます。「明八橋」は昭和に架設された「新明八橋」に役目を譲り、現在は人と自転車のみが通行できるようになっています。平成に入り、桜の木を植えたり、レトロな街灯やベンチを設置するなど、公園として整備。夏の夕暮れには、川面を眺めうちわを手に夕涼みをする人も見られます。

城の湯

熊本城に程近い天然温泉利用の温泉施設。露天にジャグジーがある洋風浴場と露天岩風呂がある和風浴場があり、座り湯やサウナなどを設置。泉質は弱アルカリ性で神経痛、筋肉痛などに効能があります。アカスリコーナー、マッサージルーム、エステサロンを備え、レストランや売店もあり、充実した施設です。

ゲンキ・スクエア
地下1000mより湧出する特別深い所のお湯なので、温泉効果のもととなる鉱質含有量が多い天然温泉です。和風呂と洋風呂があり、1ヶ月おきに男女が入れ替わります。露天風呂、ジェットバス、サウナバスなどがあります。泉質は弱アルカリ単純温泉、レストラン、仮眠室、ホットヨガスタジオなどを備えています。

琴平神社
当神社は、鎌倉時代創建「瑞応山善光寺」の鎮守「金毘羅大権現」としてお祀りされて以来、今日に至っています。
大物主大神様は、神代の昔より幸魂・奇魂という偉大な神霊をお持ちの大神様であります。
幸魂と申しますのは、吾々人間生活の幸福を御支配される神霊であり、奇魂と申しますのは、目に見えない霊の世界、精神世界を支配され、常に霊妙なおはたらきをなされている神霊であります。
昔から地上最高の大神をしてお徳が高く、おはたらきがきびしい神様であると、本居宣長翁も有名な古事記伝に説明しており、今日只今も広大無辺なおはたらきが続けられているのであります。

熊本製糸大煙突
この地もと旧藩時代の演武場であった。始祖長野濱平翁は城北の人、横井小楠先生の門下で養蚕立国を志し先進地を視察して明治5年県に建策しこの地に蚕業試験場を建てた。
その後幾変転、明治26年熊本製糸合資会社を創立して後の基礎を築く。
大煙突は大正13年三代友博氏の建立にかかる。高さ62米、上部径2.8米、下部径4.35米、市中到る処より仰望され、熊本製糸の名とともに、市中の一偉観として広く親しまれた。

厄除地蔵尊
厄除地蔵尊は昔、木山街道と渡鹿の分かれ道の処に鎮座されて、庶民に親しまれて尊崇されていた。お姿は、ご円光を背に、浮き彫りされた温顔の大きい地蔵尊であった。
創建は、加藤清正公が大井手川を築造された慶長年間の380年前と推定されている。

北岡神社

JR熊本駅近く、花岡山の麓に位置する北岡神社。承平4年(934年)の創建当初は、熊本市二本木に山城国旧官幣大社八坂神社の御分霊をまつりましたが、その後花岡山山上に移り、正保4年(1647年)、現在地へ移転しました。明治10年(1877年)、西南戦争時、熊本城を見下ろすことができる高台だったため、薩軍の本営が置かれたといわれています。現在の社殿は昭和8年(1933年)に改築されたものですが、樹齢1000年の大きなクスの木が参道にそびえ、歴史の長さを物語っています。

北岡自然公園
熊本市にある花岡山の麓にある公園で、熊本藩主細川家の菩提寺妙解寺跡として、国の史跡に指定されています。妙解寺は細川家三代、初代肥後藩主である忠利公の菩提寺。昭和に入り、熊本市が細川家から譲り受け公園として整備、一般に公開しています。木々に囲まれて立つ石灯籠の横を通り、突き当たりにある石段を登ると、熊本県の重要文化財に指定されている細川家の霊廟があります。霊廟は、忠利公とその妻、細川家四代の光尚公の三つが並び、脇にそれぞれに殉死した人々の墓があり、歴史を感じさせます。また、森鴎外の名作「阿部一族」のモデルとなった阿部弥一右衛門の墓のほか、吉良邸へ討ち入りを果たした赤穂浪士のうち、大石内蔵助をはじめとする17人の浪士を預かった細川家五代綱利公の墓もここにあります。

六角堂観音 本覚寺
加藤清正公入府して後、その後室・本覚院殿月心妙光日圓大姉[菊池武朝の子・菊池香右衛門武宗(武宗は佐々陸奥守成政軍と戦い上益城郡福田左目神社付近にて敗死)の娘、川尻殿と称す」の菩提寺として日蓮宗寺院となり本覚寺と称す。

妙永寺
当山は1600年に逝去された加藤清正公の御母堂、聖林院殿天
室日光大尊尼の菩提を弔う為、1602年(慶長7年)の三回忌に加
藤清正公が建立。開山は、本妙寺と同じ発星院日真上人です。

繁華街エリア

小泉八雲熊本旧居

耳なし芳一」、「雪女」、「むじな」などの作者として知られる小泉八雲。小泉八雲熊本旧居は、明治時代、第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した際、最初の一年を過ごした住居です。八雲の作品の一つである「知られぬ日本の面影」はここで執筆されたといわれています。平成7年(1995年)に復元された住居内には、八雲の足跡を紹介したパネルや作品のほか、当時、八雲が毎朝礼拝したといわれる神棚も残されています。

横井小楠旧居跡
(水道町の家)
現在は、鶴屋パーキングとなっている。蓮政寺公園の一角に標木が建てられている。ここでは、兄夫婦と14歳から37歳まで過ごしている。6畳の畳は破れ、壁はボロボロに崩れ雨戸がないので藁蓆を軒からつり下げて雨風をふせぎ、縁は青竹を束ねてあった。

おてもやん像

熊本の代表的な民謡「おてもやん」の銅像は、熊本市の中心部、熊本阪神デパート前にあります。熊本民踊会が会の創立25周年を記念して市に寄贈したもので、作者は熊本大学教授の石原昌一(いしはらしょういち)氏です。毎年8月12日に「火の国祭り」で、おてもやん総踊りが行われています。

下通アーケード

熊本県内最大のショッピングアーケード。デパートやブティックが立ち並び、ファッションやアミューズメントの中心地であると同時に、カフェや郷土料理店などの飲食店が軒を並べるグルメ街としても有名です。長さ510m、幅15mの通りは、ストリートミュージシャンによる演奏や、各種団体の展示の場としても利用されています。

手取天満宮
後光照天皇の御代承応年間に管公を尊崇していた平井勘右衛門正垣私邸内の井中に管公の霊像を得て、神祠を建て創祀されました。
宝永5年の大火にて鎮護山長安寺(現在地)に御選座され、今日、学問の神として受験生や多くの方々に崇敬されています。

熊本市現代美術館
熊本の中心市街地の複合ビル(びぷれす熊日会館)内にあり、九州では初めての「現代美術」の名称の付く美術館。企画展示を行うメインの展示ギャラリーのほか、井手宣通(いでのぶみち)ギャラリー、美術図書室でもあるホームギャラリー、メディアギャラリー、キッズファクトリー(子ども用アトリエ)などの施設があります。また、国際的に活躍するジェイムズ・タレル、マリーナ・アブラモヴィッチ、草間彌生(くさまやよい)、宮島達男(みやじまたつお)による作品が様々な場所に設置されています。

JOGK放送発祥の地
昭和三年(1928)六月十六日この地にNHK熊本放送局が開局し九州で最初のラジオ放送が始まりました。

藤崎八旛宮
熊本の総鎮守といわれ熊本市の代表的な神社の一つで、熊本市街地の北東、国道3号線沿いに大きな鳥居が建っています。そこから東へ広い参道が神社に向かって延びており、その先の大きな木々に囲まれた境内の中に、鮮やかな朱色の楼門があります。この藤崎八旛宮は承平5年(935年)に朱雀天皇が承平の乱平定を祈願され、京都の石清水八幡大神を、国家鎮護の神として、熊本の地に迎えまつった神社です。当初は藤崎台に建てられましたが、西南戦争で焼失し、現在の場所に移りました。藤崎八旛宮の「旛」の字は天文11年(1548年)後奈良天皇宸筆の勅額によるものです。秋には「藤崎八旛宮秋の例大祭」として勇壮な随兵行列や馬追いなども行われます。

藤崎八旛宮例大祭
この祭りは、「随兵祭り」「馬追い祭り」とも言われ、藤崎八幡宮の放生会の例祭です。放生会は、八幡宮の秋祭りに、生き物を放つ儀式です。また、随兵祭りと呼ばれるのは、加藤清正が朝鮮出兵で苦戦した折り、八幡の加護により無事凱旋したので、兵を従えて祭りに参加したのが始まりと伝えられます。本番の18日は、早朝の御神幸から始まります。御輿3基はそれぞれ牛車にひかれ、鎧をつけた随兵50人、陣笠に槍を持った長柄50人が続き、その後に各町内からの「馬追い」が続く一大豪華絵巻が展開します。数十頭の奉納飾り馬と1万数千人のハッピ姿の勢子が、向こうはち巻きで鉦やラッパ、太鼓を打ち鳴らし、人馬一体となって終日街中を練り歩きます。

光のページェント
中心市街地の街路樹にイルミネーションを設置、企業等のイルミネーション、「築城400年祭」との連携により、熊本市の象徴である熊本城と城下町を光で繋いでいきます。ロマンティックに彩られた熊本の夜の街をお楽しみ下さい。

県令安岡良亮旧居跡
安岡良亮は、樋口真吉に従って国事に奔走し、薩土密約にも参画した。戊辰戦役にも出陣し、捕縛した新選組局長近藤勇を斬罪に処したのは谷干城と安岡だったとも言われている。西南戦争前夜、熊本県令となって不満分子の懐柔に努めたが、明治九年(1876)神風連の乱に遭い殺害された。

藤崎温泉 天望の湯
ビルの11階にあり、熊本城を一望できる眺めのよさが魅力。露天風呂の他にジェットバスやジャグジー、サウナなどがあります。単純温泉(弱アルカリ性温泉)で、筋肉痛や神経痛に効能があります。レストラン、マッサージルームを併設。

熊本市役所
熊本の中心に位置する熊本市役所。熊本城を観光すると隣に建っているので、すぐに分かるほど立派な建物だ。

大甲橋
 一級河川白川にかかる熊本市一の永久橋で市の東西を結ぶ動脈橋としての機能を果たしている。
 大正13年、熊本市が電車を敷設するとき電車専用橋として架設する予定であったが、地元の熱意と熊本電気㈱の寄付金とによって人車併用の鉄筋コンクリート橋として架設された。
大正13年甲子の年にできたので大甲橋と命名されている。
昭和28年の大水害にも流失を免れたが、40年4月に橋脚の少ない鋼橋として拡幅架替を行い、更に平成4年、歩行者優先の快適でゆとりのある空間をめざすため、歩道部の拡幅工事を行った。

熊本市電
大正13年に開通した歴史ある市電で、今でも熊本市民の足として活躍しております。現在、熊本駅及び上熊本駅から繁華街、熊本城、水前寺公園などを結ぶ2系統があります。

味噌天神
「日本で唯一味噌にご利益がある」といわれる神様をまつった神社で、約1300年前に建立されたものです。和銅6年(715年)に悪疫が流行した際、平癒を祈願して「御祖天神」を御祭神としてまつったのがはじまりとされています。その後、国分寺で大量に腐ってしまった味噌を美味しい味に変えたという言い伝えから「味噌天神」と呼ばれるようになりました。毎年10月25日には例大祭が開催され、味噌のプレゼントやみそ汁の試食などが行われます。

徳富記念園
明治時代を代表するジャーナリストでもあり、歴史家でもある徳富蘇峰と、小説『不如帰』などで知られる弟・徳富蘆花。二人が少年時代を過ごした住居跡には、記念館と旧居があり約2000点に及ぶ資料や遺品が展示されています。またここは、蘇峰が生徒の自治を尊重する民主的な学校を目指した私塾「大江義塾」跡地でもあります。園内にあるカタルパの木は、5月中旬頃に白い花をつけ、来園者の目を楽しませてくれます。

熊本県立劇場
熊本県立劇場は、1982年12月に落成された施設。大江のシンボルとも言えるもので、連日イベント等が開催される熊本の文化発信地でもあります。コンサートホール、演劇ホールをはじめ、敷地面積44,896平方メートルの広大な敷地の中には、さまざまな施設が含まれています。

立田口大神宮
本宮は南北朝以前より神明宮として御鎮座あらせられるが御創建の年代は不詳である。
其後、人皇114代中御門天皇の享保12年藩主細川宣紀公の命により新に立田口大神宮として造立されたが宝暦12年7月8日に類焼 其後再建せられ殊に藩主細川宗孝公の崇敬篤く、しばしば御社参御祈願せられし 特に社頭にあたる赤鳥居は往時より熊本北部方面の道標として広く世人に親しまれ其由緒は真に深遠である。

水前寺・江津湖エリア

水前寺成趣園
桃山式の回遊庭園。寛永9年(1632年)、肥後藩主・細川忠利公が水前寺という寺を建立、後に廃寺となりましたが、三代目藩主網利公のときに庭園が完成し、中国・東晋時代の詩人陶淵明の詩「帰去来の辞」に因み、成趣園と名づけられました。東海道五十三次を模したといわれる庭園には、湖に見立てた池が配され、ゆるやかな起伏の築山とともに、庭園美を楽しめます。

出水神社
明治11年(1878年)、水前寺成趣園内に創建された神社。細川家初代・藤孝公のほか、二代・忠興公、三代で肥後初代藩主となった忠利公、八代で肥後六代藩主・重賢公を主神として、細川家の歴代がまつられています。また、敷地内には能楽殿があり、奉納される出水神社の薪能は、全国に伝えられる薪能の中でも五番目の古い歴史を誇ります。春と秋に行われる能楽式では、薪が赤く燃え上がる幻想的雰囲気のなか、熊本に伝わる金春流の舞が奉納されます。

古今伝授の間
桂離宮を建てた智仁親王の幼少時代の学問所を復元したもので、大正元年(1912年)に京都から水前寺成趣園内に移築されました。桂離宮建設の際には古今伝授の間の様式が参考にされたともいわれています。また、細川藤孝公、別名幽斎が智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授した間というエピソードも有名。昭和39年(1964年)には熊本県指定重要文化財に指定されています。

江津湖
江津湖は、つながる二つの湖、上江津湖と下江津湖からなっています。長さは2.5km、周囲6km、水面の面積は約50ヘクタール。一日の湧水量は40万トンです。交通量の多いバイパスや電車通りがすぐ側を通りながら、その豊かな水に貴重な植物や野鳥が育まれ、「水の都熊本市」を実感できる場となっています。代表的な植物としては、江戸時代に細川藩から幕府への献上品として使われていた、現在は絶滅危惧種に指定されている「スイゼンジノリ」のほか、九州ではこの江津湖だけに分布する、同じく絶滅危惧種の水草「ヒメバイカモ」などが有名です。

ジェーンズ邸
県指定の重要文化財でもあり、熊本洋学校に外国人教師・ジェーンズ氏を迎えるために、明治4年(1871年)に建てられた、熊本で最初の西洋建築です。5年間ここで生活をしたジェーンズ氏は、明治9年(1876年)の廃校まで教鞭をとり、自由・自主独立の気風や男女平等思想を教え、日本で初めての男女共学を実施したとされています。また日本赤十字発祥の地としても有名で、洋学校関係の資料のほか、日本赤十字関係の資料も展示されています。

夏目漱石第3旧居
目漱石が熊本で住んだ3番目の家で、漱石はこの家から同僚の山川信次郎とともに「草枕」の旅へ出かけました。かつては大江にありましたが、現在水前寺公園の洋学校教師館の敷地内に移築されています。内部の見学はできません。

肥後国分寺
奈良時代天平の頃、各国に国分寺と国分尼寺がおかれ、都にはその総本山として東大寺・法華寺が造られた。肥後の国分寺も国府の東に造られ壮大な伽藍を誇っていたと考えられる。
この礎石はその七重塔の心柱のものである。ただし、元位置より移動しているとみられる。

熊野坐神社
創立不詳
現社殿は安政4年8月建立。
祭神は伊奘冉神ほか五柱。

熊本県庁のイチョウ並木
熊本県庁のメイン門であるプロムナードは立派なイチョウ並木になっており、毎年秋には辺り一面を黄金色に美しく染めています。期間中の夜間はライトアップもされ、より幻想的な雰囲気になり、散策はもちろん、写真撮影や写生に訪れる人も多く、若者の間ではデートスポットとしても人気があります。

天然江津湖温泉
ばってんの湯

天然温泉を利用したスーパー銭湯。塩化物泉炭酸水素泉で、切り傷、やけど、慢性婦人病などに効能があります。リラックスバス、エステバスや子ども向けのキディーバスを備え、スチームサウナやソルトサウナと充実した内容。家族風呂もあります。レストラン併設。

アピス温泉 庭園の湯
肉の大塚の温泉。ALLかけ流し。
露天風呂・歩行浴・フィットネス・軽食が楽しめる温泉施設。

健軍神社
熊本市では最も古い神社で、昔は「たけみや」と言い、のちに「けんぐん」と読まれるようになりました。阿蘇四社のひとつで、電車通りの大鳥居から神社まで続く、八丁馬場と呼ばれる約1200mの長い参道には、加藤清正の頃植えられたと伝えられる杉並木の一部が残っています。明治10年2月22日、西南戦争で、薩軍を救援するため結成された熊本隊の挙兵の場所です。

健軍自衛隊祭り
西部方面隊創隊51周年記念行事

西部方面隊は、11月26日(日)、健軍駐屯地で西部方面隊創隊51周年の記念行事を行います。
当日は、健軍駐屯地を午前8時30分から開放し、記念式典(午前9時45分)、自衛隊通りでのパレード(午前11時)等がおこなわれます。また、装備品の展示車両の体験試乗、ヘリコプターの体験搭乗(抽選)、キッズコーナーなどの催し物があります。


天然温泉 ぶぶたん
気泡湯、ジェットバス、水風呂などがあり、大きな岩と樹木を配した大露天風呂が人気を集めています。 弱アルカリ性単純泉で疲労回復などに効能があります。焼肉レストランも併設されています。

沼山津神社
沼山津神社の額が掲げられている大きな鳥居(昭和15年と記載してある)をくぐり、まず石段を3段だけ登ると左手に子供サイズの相撲の土俵がある。この土俵を使って毎年9月9日に子供達の相撲が行われているそうである。昔はこの場所で、大人も子供も相撲を取っていたそうである。平坦な道を10mほど進むと中段に権現宮の石額を掛けた旧鳥居がある。

四時軒
幕末維新の開明思想家として知られる横井小楠の旧居。内坪井(現在の熊本市坪井)に生まれ、安政2(1855)年に沼山津に移り住んだ小楠は、家塾「四時軒」を開き、多くの門弟を養成しました。かの坂本龍馬(さかもとりょうま)や「五か条の御誓文」を起草した由利公正(ゆりきみまさ)、「教育勅語」の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)、「大日本帝国憲法」の草案をつくった井上毅(いのうえこわし)らもこの「四時軒」を訪れています。

横井小楠記念館
「四時軒」の隣りには横井小楠記念館が建てられており、小楠に関する資料のほか、勝海舟(かつかいしゅう)や吉田松陰(よしだしょういん)、西郷隆盛(さいごうたかもり)などの、小楠にゆかりのある人々の書も展示されています。また、「四時軒」から北東方向へ10分ほど歩いたところに、小楠の銅像や頌徳碑(小楠の徳をたたえる碑)などが建てられている、小楠公園もあります。

立田山エリア

小幡八幡宮
小幡八幡宮の起源は定かではありませんが、言い伝えでは和銅年間(8世紀)には社が立っていたといわれています。「肥後国誌」には、次のような縁起が記されています。「中国(唐)の皇帝の皇女が七歳の時に男子を生み、怪しまれて母子ともども海に流され、日本の薩摩(鹿児島県)に流れ着いた。人々は憐れみ養っていたところ、皇帝の迎えが来た。帰国するとき、皇女親子の石像を立てられたが、その後石像は割れ、そこから八本の白旗が飛び出てきた。その内の一本が当地に飛んできたので、その地に八幡宮が建立された…。」

一夜塘
小幡宮から道沿いに進むと右手側に高さ3メートルほどの土盛が80メートルほど続きます。これは江戸時代に築かれた堤防です。
堤防は当初、豊年塘と呼ばれていたようです。堤防が完成したことで豊年になったのかそれとも豊年になるよう願いを込めて名付けられたのでしょうか。その豊年塘もいつの頃からか、後期が短くすぐに完成したこと(約半年間)から一夜塘と呼ばれるようになりました。

立田自然公園
熊本大学の北西部にある立田山の麓にあり、元来は細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡である。寛永14年(1637)肥後藩主細川田忠利が泰勝院として建立。寛永19年(1642)に京都の大渕和尚を招いて住職とし泰勝寺と改めた。
ここは細川初代藤孝夫妻と二代忠興とその妻玉子(ガラシャ)の「四つ御廟」をはじめ藩主の墓や宮本武蔵の供養塔、泰勝寺住職の墓などがある。
木立に囲まれた園内には苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒」などがあり県の名勝および史跡に指定されている。

武蔵の引導石
寛永17年(1640年)、57歳の時に細川忠利公より客分として熊本に招かれた宮本武蔵。正保2年(1645年)に62歳で生涯を閉じるまでの5年間を熊本で過ごしました。細川公に与えられた千葉城跡の屋敷で息を引き取った武蔵の葬儀は、熊本藩により盛大にとり行われたといわれています。旧国道57号から弓削に向かう葬儀の途中、禅の道を通じて武蔵と親交の深かった細川家の菩提寺、泰勝寺の二代目和尚・春山和尚が待っていました。そのとき、棺はいったん参道の石の上に置かれ、和尚が成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられています。以来、この石は引導石と呼ばれるようになりました。大人3人が両手をまわしたほどの大きな石は、今も国道沿いにひっそりと佇んでいます。

桜山神社
(神風連資料館)
神風連資料館には西南の役の3ヶ月前、明治政府の急激な欧風化政策に対して「敬神党」と呼ばれた神官を中心とする人々が挙兵し、わずかな手勢で熊本鎮台を襲撃した「神風連の乱」。首領、太田黒伴雄以下123名の墓があり、彼ら憂国の士の思想を支えた、林桜園の資料ほか遺品が展示されている。

つつじヶ丘横穴群
自然の崖面に横に穴を掘って造る横穴式の墓地は共同墓地と考えられており、立田山(たつだやま)南麓には、古墳時代の終わり頃の横穴群が集まっています。なかでも、このつつじケ丘横穴群は、前庭部分を共有する横穴のグループが15群確認されており、一つの前庭部を共有する横穴群は同じ一族の墓であるともいわれています。人骨をはじめ、須恵器(すえき)、土師器(はじき)、鉄製品や装身具などが発見されており、一族の構成や埋葬の制度などを解明する貴重な資料です。

立田阿蘇三宮神社
祭神は神武天皇の第一皇子国龍命と妻室比羊命で、元弘二年(1332年)上立田牧鶴に勧講・創建されたものである。寛文元年(1661年)藩主綱利公の時大道往来の諸人の安全のため、現在地に移転されたものである。旧藩時代から細川歴代の崇敬を受けていた。

武蔵塚公園

二刀流の剣豪・宮本武蔵はその晩年を熊本で過ごし、熊本の千葉城にあった家で、62歳の生涯を閉じました。熊本時代は、肥後藩主細川忠利公の客分として招かれ、金峰山の霊巌洞という洞窟で「五輪書」を完成させ、茶や書画の道にあたるなど、剣と人生の集大成ともいえる時期を過ごしたといわれています。その死後も藩主を見守りたいという遺言から、参勤交代の行列が通る大津街道(現在の県道337号)沿いに墓が建てられ、そこが現在の武蔵塚公園となっています。宮本武蔵の墓所は熊本市にはほかに数ヶ所、また熊本県外の数ヶ所にも存在し、その偉人ぶりがうかがえます。園内には、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園となっています。

極楽湯 麻生田店

遠赤外線サウナ、各種気泡湯、露天風呂、日替わり湯、水風呂、塩サウナ(女湯)などがある、充実したスーパー銭湯。垢すりや、指圧道場もあります。

代継神社
応和元年(960)の創建と伝えられ、本来紀氏の祖先神として奉祀されたものと考えられる。その後加藤清正の慶長7年(1602)、花畑邸創設のために神社は白川左岸に移転した。

弓削神社
白川をはさんで一対の弓削神社があります。龍田町弓削の弓削神宮(女神)と、弓削町の弓削法皇社(正式名上弓削神社)(男神)です。男神が対岸の女神のもとに川の中の飛び石を渡り行き、毎夜の逢瀬を楽しんでいたという言い伝えから、農作物の豊穣、子授け、多産や夫婦仲のよさと子宝に恵まれた、至極円満な家庭の守り神とされてきました。最近は浮気封じのご利益を求めて、絵馬に釘を打ち奉納する人も多いといわれます。

八景水谷公園
八景水谷公園は、第5代肥後藩主細川綱利公によって開かれた公園で、八景水谷水源があります。豊富な湧水量を誇り、大正13年(1924年)、熊本市の上水道が敷設されてからはその水源として利用されています。園内には4つの井戸があり、そこで取水された地下水は、立田山配水地を経由して市の中心部へ送られています。公園にはソメイヨシノ200本が植えられ、周囲を流れる小川には豊かな水に育まれた水生動物が多く生息しています。

加藤清正像
大正14年に開催された「熊本市三大事業記念国産共進会」(上水道通水、市電開通、23連隊移転を記念)の際に、巨大な噴水塔の頂上に立像した清正公の像を、会終了後、八景水谷公園へ移設したものです。その後水道創設60周年を記念して修復されました。製作者は、原図が上益城郡御船町生まれで、熊本中学(現在の熊本高校)で美術を教えるかたわら、九州美術協会の中心となり活躍した甲斐青萍、塑彫が熊本県ゆかりの著名な彫刻家の松原象雲です。

熊本市上水道発祥之地
熊本市の上水道整備の歴史は、明治42年(1909)の上水道建設計画案に始まります。その後、多く関係者の御努力により大正13年(1924)11月27日、八景水谷を水源地、立田山を配水池として4,617戸へ一日平均3,141㎥の配水を開始しました。
この場所には創設の時、レンガ造りのポンプ室などが建てられていました。現在も当時の浅井戸は残されており、80年経った今、なお良質な地下水を供給し続けています。

拝聖院
西南戦争の時に旧細川藩医の鳩野宗巴(はとのそうは)が同僚の医師七人とともに拝聖院や近隣の寺院、民家で官軍、薩軍の区別無く治療にあたった事に由来します。
看護婦の活動も行われ、日本赤十字社の前身で熊本で設立された博愛社よりも約3ヶ月ほど早く活動をはじめました。

梶尾温泉
熊本市北部に位置する泉源を循環させずに用いた天然温泉。単純温泉で慢性リウマチ、神経痛などに効能があります。露天風呂、サウナ、ジャグジーなどがあり、家族湯、レストランも併設しています。

カントリーパーク
「学習」「遊び」「解放感」の三つの視点から農業への理解が深まるよう配慮されています。
また、「食べる」「買う」「触れる」「遊ぶ」などの行動も、農業体験の一環となるように、農業館を核として農業公園全体が ストーリー性のある展示の場となっています。

御馬下の角小屋
豊前街道を往来する島津、細川などの大名が休憩所として使用したお茶屋で、庄屋であり質屋・酒屋を営んだ、元堀内家の住宅であった。旧北部町が寄贈を受け、現在は熊本市が記念館として一般公開している。建物は、自宅兼店舗使用部分と藩主の休憩所に使われた座敷部分(御成の間)の二つから成っている。堀内家の古文書によると座敷部分(御成の間)は文政10年(1827)と弘化4年(1847)に増築されたことがわかる。自宅兼店舗部分はそれ以前に造られたことになり江戸末期の町屋を表していると同時に座敷の導入過程を知る上で貴重である。

明徳官軍墓地
明治10年(1877)の西南戦争では、田原坂の激戦等が有名であるが、最前線と熊本城の中間に位置する旧北部町内も重要な地点であった。この地で戦闘が交えられたのは、向坂における2月22日と3月20日の2回がある。戦闘期間中、町内では254戸の家と204の小屋が焼かれ、戦いにまきこまれて死傷した人も有り、民間の損害も少なくなかった。明徳官軍墓地は向坂バス停から東に入った旧道沿いにあり、将兵軍夫123柱の墓石が並ぶ。主に3月20日の向坂の戦いの戦死者の墓である。

山伏塚
熊本城の築城に際して、清正は上方から山伏の龍造院を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事に終わったのですが、上方に帰る龍造院を送るために開かれた宴席で、龍造院がふと城構えについて話したから大変です。城の秘密が漏れると考えた武士たちは、龍造院の後を追い、熊本城の北、現在の熊本市池田町あたりで龍造院を切り殺してしまいました。この塚は、殺された龍造院を葬ったものといわれています。

釜尾菅原神社
尾地区の氏神社。由緒、創立は不詳。釜尾天神木の信仰があり、その後釜尾古墳の横に社殿が創建されたという。平成十一年の台風十八号により神殿が倒壊。

フードパル熊本

食に関する施設が集まる食のテーマパーク。園内では工程の見学やソーセージづくりなどの体験ができます。イベントや料理教室が開かれる「熊本市食品交流会館」、手作りのお菓子やとうふ、惣菜などを販売し、アクセサリーや花篭づくりなどの体験コーナーもある「こだわり工房村」があり、「とれたて市」では、地元の新鮮な野菜や食品を販売しています。

西浦三寶荒神社
西浦三寶荒神社は荒神様をおまつりしております神社であり、鎮座地が西浦という地区ですので、西浦の荒神さんと呼ばれ、昔から大変信仰の厚い神社であります。
口伝によりますと、加藤清正公は荒神様の熱心な信者で熊本城を築いた時、お城の守り神として荒神様をおまつりしていましたが、のち細川家の四代綱利公の時代、この西浦の地に別荘が造られましたが、その別荘の鬼門にあたる現在の地に、方除けの神として、熊本城の荒神様をお移ししましたのが西浦の荒神社の始まりといわれております。

瑞巌寺跡
寛文年間、中世の寺院跡に、熊本城下の本覚寺(加藤清正公後室の菩提寺)の光朝法印が創建しました。その後廃跡となったものを、正徳元年(1711)に広朝法印が再建しましたが、現在は廃寺となっています。境内は趣きも深く、地蔵堂・仏像・絵画・石像物を拝観できます。地蔵堂の石段下には小川が流れ、周辺はゲンジボタルの育成地域に指定されていて、最近近隣の山林中にヒメボタルの群生地があることも判明しており、広い敷地は瑞厳寺公園として整備されています。

釜尾の天神木
このイチイガシのある場所は、現在釜尾の村中に鎮座する菅原神社(天神社)の旧所在地であるという。その名残で、この木は「天神木」ともよばれる。古老の話では神社が台地上に移った後も樹下にお神酒が供えられていたらしいが、今では途絶えてしまった。樹高は21.5m幹周は6.02m(h1.3m)根廻りは11.0mある。

釜尾古墳
丘陵端部に位置し、東麓を流れる井芹川両岸との比高差は約50mである。円墳で、墳丘は変形しているが径18m、高さ6mと推定されていた。平成2年の周溝確認調査によって、内径28~29m、幅3~4mの周溝が検出されている。

釜尾天神
釜尾天神の祭神は菅原道真公です。設立年代などは不詳ですが、天神木(イチイガシ)信仰や、地区の高台にある古墳の隣に移築された経緯などを見ても、釜尾地区の氏神様として尊敬され、永く信仰を集めていることが分かります。

寂心さんの樟
幹周りが13.3m、高さは29mにもおよぶ熊本県の指定天然記念物の大きなクスの木です。樹齢は約800年といわれています。戦国時代、菊池氏の重臣であり、現在の熊本城の南側に位置していたといわれる「隈本城」の城主となった鹿子木親員のちの寂心の墓をその根元に巻き込んでいると伝えられていることから、「寂心さんの樟」と呼ばれるようになりました。見事な根元や、1本の木であるのにまるで森のように枝を広げ、葉を茂らせている姿は、地域の人々をやさしく包み込み、しっかりと見守っているようにも感じられます。

金峰山エリア

岳林寺
熊本市島崎にある岳林寺は、曹洞宗の寺として天平宝字年間(757年~764年)に建立されました。明治30年(1897年)の大晦日、文豪・夏目漱石が、ここから天水町にある小天温泉まで歩いたというエピソードが残っています。また、敷地内には、天正年間(1573年~92年)の城主・城親賢(じょうちかかた)公の墓があり、現在も白川河川敷で行われる「くまもと春の植木市」は、城親賢が命じて始まったといわれています。植木市が始まる前の1月20日前後には岳林寺で墓前祭が行われます。

三賢堂
熊本出身の政治家安達謙蔵が昭和11年,精神修養の場として建てたものです。釣耕園の庭園の奥にある円形の堂で、肥後の三賢人として、菊池武時、加藤清正、細川重賢の座像が、田島亀彦、朝倉文夫、長谷秀夫ら彫刻家によって制作され、安置されています。

原泉荘
安達漢城の旧居。
書斎は備於斎と名づけられ昭和24年遺言により熊本市に寄贈された。

長命水
崖に埋もれるようにして作られた石の祠の下から湧く長命水は、かつては肥後藩主・細川氏が茶の湯に使用したほどの名水でした。飲用はできませんが、古い石造りの祠の屋根にはつる草が茂り、年代を感じさせます。

少年の家跡地湧水池
実業家、古荘健次郎氏の別邸であったものを、昭和17年(1942)青少年健全育成のための施設として熊本市に寄贈されたものである。
その後、老朽化が進み解体されたが、跡地の北側、岩の間から湧き出る自然の水は、今も島崎湧水群の一つである。

釣耕園
細川家五代藩主綱利が作った「お茶屋」と呼ばれる別荘の一つで、続弾右衛門に与えられました。細川藩の中老で漢詩人の米田波門が、その景観を「釣月耕雲」と詩に詠じたことから、「釣耕園」と名づけられました。庭園は飛石を配した広い池に山渓を取り入れたもので、4月下旬から5月上旬ごろには、しゃくなげが花をつけます。

叢桂園
釣耕園の下手にあり、藩の医学校再春館の師役村井家の別荘で、見朴の子椿寿(琴山)が作庭したと伝えられています。庭には釣耕園の水を引き曲水をつくり、その下手に中国の洞庭湖に模した池を設けました。その北には簡素な茶室があり、西側の小窓を開くと荒尾山が望めます。頼山陽などの文人が訪れたといいます。

谷尾崎梅林公園
谷尾崎公園のある谷尾崎地区は、昔から梅の木が多い一帯で、旧藩時代には年貢がわりに梅干を納められていたと伝えられています。今でも公園内には、13種の梅の木が約178本が植えられ、梅の開花時期には、色とりどりの花や春を感じることが出来ます

武蔵ゆかりの座禅石
梅の名所として知られている谷尾崎梅林公園の林の中に、たたみ二畳ほどの巨石があり、宮本武蔵がこの上で座禅を組んだと伝えられています。

本妙寺
加藤家の菩提寺で日蓮宗の名刹。天正13年(1585)、清正が父の菩提寺として大阪に建立したものを、同16年、肥後入国後、熊本城内法華坂に移し、後、清正の逝去後、現在の中尾山中腹に移建されました。壮麗な仁王門から桜並木の参道を行き、「胸突雁木」と呼ばれる急勾配の石段を登りつめると、清正公を祀る浄池廟に至ります。裏山には槍を手にした清正公の銅像が、今も熊本の街を見下ろしています。

桜灯籠
桜の季節に本妙寺の参道に手作りの和紙灯籠約3000個を並べ、桜の枝には吊灯籠約800個をつるし、胸突雁木(参道の急勾配の石段をこう言います)の石灯籠約500基が夜桜をライトアップします。
竹あかりのオブジェとろうそくの灯りにより、幻想的な世界がつくり出され、浮かび上がる桜並木の風景は非日常で幽玄な雰囲気を醸し出します。また、至るところで演奏される琴・琵琶・バイオリンの音が、このまつりの魅力を一層引き立てます。

加藤清正像 (本妙寺)
加藤清正の銅像は浄池廟から、さらに長い石段を登ったところに建っている。昭和10年が清正没後325年に当たったので記念事業として銅像が建てられた。それゆえ長い石段も25段くぎりで300段ある。その後、銅像は太平洋戦争末期に金属供出で撤去されたが、昭和35年に再建された。ここから見る熊本市内の眺望はすばらしい。

花岡山

茶臼山の上にそびえる熊本城から市街地を縫って流れる白川の流れなど、熊本市街地を一望できる展望スポットの一つ。JR鹿児島本線熊本駅のすぐ北側に位置し、標高133mと気軽に登ることができる山です。加藤清正公が熊本城築城の折、必要な石をこの山から切り出したといわれ、頂上には、清正公が工事を指揮したときに腰掛けたといわれる石が「腰掛石」として残されています。また、ここは札幌、横浜と並ぶ日本キリスト教(プロテスタント)の3源流の一つ、「熊本バンド」ゆかりの地でもあります。熊本洋学校教師であったジェーンズからキリスト教を学んだ徳富蘇峰や海老名弾正ら生徒約40人が、明治9年(1876年)、キリスト教信奉を誓ったのがこの花岡山で、「熊本バンド・奉教の碑」が建てられています。また、インドから寄贈されたお釈迦様の骨である仏舎利を納めた仏舎利塔もあり、夜景や桜の名所でもあります。

熊本バンド・奉教の碑
熊本市の西北部にある花岡山。かつて祇園山と呼ばれ、春には山全体が満開の桜で薄紅色に染まる。花見や夜景見物で賑わう山上広場の隅に、ざわめきに背を向けるように立つ石碑がある。横浜バンド、札幌バンドと並ぶ日本プロテスタント三源流の一つ、熊本バンドを記念する「奉教の碑」だ。明治九年一月三十日、ここで歴史的な事件が起きた。
花岡山山頂に一株の老松があった。それを目印に上ってくる青年たち。彼らは口々に英語で賛美歌を歌いながら、闇に閉ざされた山頂を目指す。集まったのは熊本洋学校の生徒約四十人。十一歳から二十二歳までの血気盛んな若者たちだ。徳富猪一郎(蘇峰)や、海老名喜三郎(弾正)などの姿も見える。どの顔も緊張と決意に満ちていた。ジェーンズから教えられた賛美歌が歌われ、聖書のヨハネ伝第十章を朗読する凛とした声が冷気の中に響き渡り、奉教趣意書が読み上げられた。「此ノ教ヲ、皇国ニ布キ大ニ人民ノ蒙昧ヲ開カント欲ス・・」熊本洋学校の青年たちによるキリスト教信奉の結盟は、大迫害に遭いながらも、京都同志社へと引き継がれ、後に「熊本バンド」と呼ばれることになる。

岩戸の里公園
岩戸の里駐車場の隣が岩戸の里公園です。この奥にある黒岩展望所からの眺めは抜群です。
眼下には肥後耶馬溪、手前には有明海、そして雲仙嶽を望むことができます。

黒岩展望所
岩戸の里駐車場の隣が岩戸の里公園です。この奥にある黒岩展望所からの眺めは抜群です。
眼下には肥後耶馬溪、手前には有明海、そして雲仙嶽を望むことができます。

雲巌禅寺
金峰山の西麓にあり、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永よが建立したと伝えられる曹洞宗の寺。九州西国三十三観音第14番霊場としても知られています。隣接する雲巌禅寺宝物館には「霊巌洞」にこもり「五輪書」を書いた宮本武蔵の木刀、自画像などを収蔵しています。熊本市立熊本博物館には、東陵永よの木像が展示されており、鎌倉時代の作風を残す室町時代の優れた作品として国の重要文化財に指定されています。

五百羅漢
五百羅漢は、熊本市西部に位置する金峰山の西側の麓にある雲巌禅寺内にある石仏群。岩山を削って作られた細道に面した岩の斜面に安置されています。雲巌禅寺は、宮本武蔵が「五輪の書」を書いた霊巌洞という洞窟を境内に持つ曹洞宗の寺院。この五百羅漢は、熊本の商人渕田屋儀平が、約200年前、24年の歳月をかけて奉納したと言われています。座る姿も表情もすべて違うたくさんの石仏は、見ていて時間を忘れるほど興味深く、岩山にずらりと並んだ様は、神秘的な空気に満ちています。

霊巌洞
熊本市の西方、金峰山山麓にある洞窟。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像が安置されています。晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書」を著したことは、あまりにも有名。霊巌洞の歴史は寺より古く、いい伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。この洞窟には武蔵だけでなく、平安期の歌人・桧垣も訪れています。雲巌禅寺から霊厳洞に至る岩山を削った細道には、五百羅漢が安置されており、さまざまな表情を見せてくれます。

峠の茶屋公園
明治30年(1897年)、文豪夏目漱石は、友人の山川信次郎とともに熊本から現在の天水町へ旅をしました。その時に通ったのが、鳥越峠と野出峠。当時この2つの峠には茶屋があり、有名な「草枕」の一節「おい、と声をかけたが返事がない」はこのどちらかの茶屋が舞台といわれています。現在、野出峠は有明海や島原半島を望む展望公園として整備されていますが、茶屋はありません。しかし、この鳥越峠には茶屋が再建され、峠の茶屋公園として整備されています。公園には、休憩所や売店があり、今も、ハイキング途中の人々やドライブ途中の人々が一服する場所となっています。また、再建された茶屋の内部は、漱石に関わる資料を展示した資料館として公開されています。

金峰山
熊本市の西部に位置し、山頂のテレビ塔が目印の金峰山。熊本市内のどこからでも見渡せる市のシンボルとして、地元の人々に親しまれています。標高665mの山頂からの眺望は素晴らしく、熊本市街をはじめ、有明海や雲仙、阿蘇、九州山地、天草の島々など広大な景色を一望。夜景の名所としても知られています。また、金峰山一体はハイキングコースとして整備されており、夏目漱石の「草枕」にも登場する峠の茶屋から山頂までのコースもあります。

金峰山頂上神社
山頂には、金峰山神社(蔵王権現社)があります。金峰山は昔は飽田山と呼ばれていたようですが、832年に淳和天皇が奈良県の金峰山蔵王権現を勧請されてから、金峰山と改称されたと伝えてあります。

南越展望所
有明海(ありあけかい)や雲仙岳(うんぜんだけ)を展望できる名所のひとつです。昭和37年、天皇陛下が皇太子のとき皇后陛下とご一緒に立ち寄られました。
漱石(そうせき)の「降りやんで 蜜柑まだらに 雪の舟」の句碑もあります。

高橋稲荷神社
日本五大稲荷の一つに数えられ、全国的に商売の神様として知られています。毎年2月の初午(はつうま)の日に行われる初午大祭には、商売繁盛や五穀豊穣を願う大勢の参拝者が訪れます。数回に分けて行われる「福餅まき」では、高い石垣の上からまかれる紅白の福餅を拾おうと人々が詰めかけ、盛り上がります。神社の前には江戸時代から続く老舗の田楽屋があります。

熊本港

熊本港は、熊本の西部に位置し、熊本駅から車で約20分のところにある熊本の海の玄関口です。
ここから、船で長崎県の島原や天草・本渡に渡ることができます。
きれいに整備されている広々とした敷地からは島原と雲仙が望め、きれいな夕日スポットとしても人気です。
夜になると、ロマンチックな雰囲気の船着場やビアレストラン、物産館などがあり、ドライブにも最適です。
また、夏には各種イベントや花火などがあり、多くの人でにぎわいます。


高橋西神社(若宮社)
高橋西神社の御祭神は天照皇太神、住吉大神、天児屋根命、鍵盤龍命をはじめとする阿蘇十二宮の分霊で白川天皇の応徳乙丑三年(1085)に高橋村の産土神として、ここ堂園に創祀され、若宮社と唱えました。
高橋はかって津(港)として栄えたことから若宮大神は海上の安全を祈って祀られました。

千金甲古墳
熊本市の西部、権現山(ごんげんざん)の中腹にある装飾古墳群。国の史跡に指定されている2基は、勝負谷の1号墳(甲号)と高城山の3号墳(乙号)です。1号墳の石室内には凝灰岩の板石6枚を使って石障がめぐらされており、その内側に赤・青・黄の三色で彩色された靱の文様が刻まれています。早くから石室の天井部近くが開口していたため、副葬品は残っていませんが、5世紀後半から6世紀初め頃の築造と推定されています。

河内阿蘇神社
河内神社は中川内区の南小高丘にある。別に阿蘇官ともまた河蘇十二社大明神とも去う。社は丘を背にして南面し境内は広漠にして老松古梅等老い茂り、前面は悠々たる有明海に臨み風光明媚の地である。本社は旧藩時代五町郷の氏神として崇敬篤く戦前までは郷社として極めて由緒ある社である。祭神は阿蘇郡一の官町にある官幣大社であった阿蘇神社たる十二宮をお移し祭ってある。

船津(弁天社厳島)神社
船津神社は船津東区海岸近くの丘上にある。ここは温泉新地の出来なかった以前は海上曲浦絶勝の地で殊に汐の満ちた時は格別であっただろうと思う。本社の祭神は日本三景の一として有名な厳島神社の祭神市杵島媛命及び田心姫・湍津姫を分祀してある。このお宮には不思議な伝説がある。即ち文化十年(1807)御神体を盗む者があって百方手を配って探したが見つからぬので、別に御神体をお造り申上げたところが、その後氏子の人に御告げがあったのでその通り探したら元の御神体が見つかったと云われている。

川尻エリア

南州翁本営跡
西南戦争の際の西郷隆盛(さいごうたかもり)の本陣であったことから、「明治十年戦役南州翁本営跡」の碑が建てられています。
川尻地区が、水上交通の要所・商業の拠点として肥後五ヶ町に数えられた繁栄期を代表する建物で、国の登録有形文化財になっています。

河尻神宮

別名、若宮(わかみや)さんとも呼ばれるこの神社は、建久8年(1197年)河尻三郎源実明が、鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請したのが始まりといわれます。創建時は富合町小岩瀬(とみあいまちこいわせ)にあったものが、天正15年(1587年)に現在地に移されました。毎年恒例の秋の例祭(10月17日)には、氏子民が巧みな手綱さばきと度胸の良さを神様に見てもらい感謝の気持ちを表わす行事として受け継がれてきた「下がり馬(さがりうま)」が奉納されます。参道でラッパが吹き鳴らされる中、馬のたてがみと鞍をつかんだ勢子(せこ)が走り、大勢の観客を沸かせます。また境内には、長寿・魔除けの神木として名高い大柊がそびえています。

大慈禅寺

古くから曹洞宗の本山として人々の信仰を集めている禅寺。創建は弘安元年(1278年)で、曹洞宗の開祖である道元の高弟寒厳禅師によって開山されました。寒厳義伊文書四幅や梵鐘といった、数々の貴重な寺宝が保管されており、これらは、国の重要文化財に指定されています。その他、掛け軸や仏像、石造物なども保管されています。また、坐禅堂では、毎月第三日曜日の坐禅会が開かれているほか、随時一般公開もされています。境内には俳人種田山頭火の句碑も建てられています。

鹿宮の森
住宅街のはずれにある鹿島神社の樹木は「鹿宮の森」として地元の方々に親しまれています。
熊本県の「ふるさと熊本の樹木」として、昭和56年3月26日に登録されている樹木たちは、過去2度の戦火を経験しているという。最初の西南戦争二度目の第二次大戦と多くの大木を失いながらも今も人々の憩いの場として利用されています。

ガメ堰
小亀堰は、通称「ガメ堰」の愛称で親しまれ、天明新川と加勢川を結ぶ無田川に農業用水を確保するために約100年以上も前に造られています。従来の堰は、石組みの構造で堰の上部を道路として利用していましたが、20m上流に橋と堰を切り離して新設しました。改修により堰体そのものを越流するよう建設され、農地への越水被害がなくなり、管理も省力化されました。
又、本体には亀の甲羅をイメージした地元の馬門石を張付けて地域景観に配慮しました

富合町

木原不動尊
木原の谷にあって境内の広さは、約6,600平方メートル。門前十数段の石段を登ると仁王門があり、その両方に丈九尺余りの仁王像二体がおかれています。
天台宗に属し院号を尊乗院と号し、本尊は不動明王、木像一躯、立像厨子入りです。比叡山延暦寺の末寺で、伝教大師の開基による西国第一の談義所と言い伝えられています。
金錦不動、火伏不動、水引不動として有名で、日本三大不動の一つ。2月28日の大祭では、特に火渡り、湯立ての荒行が行われ、県内外から大勢の参拝客で賑わいます。

六殿神社
守富荘の鎮守・六殿神社は、治承2年(1178年)平重盛による鎮座と伝えられています。10月9日の大祭には、古式豊かな神楽と流鏑馬(やぶさめ)が奉納されます。特に国指定重要文化財の楼門は、入母屋造(いりもやづくり)の茅葺(かやぶ)き、丸柱などは全て朱塗りで、巧みな手法による複雑な組みものや装飾など、室町時代の代表的な建造物です。昭和61年には天皇在位60周年を記念し、参道入口に大鳥居が建立されました。

城南町

下田のイチョウ
国指定天然記念物「下田のイチョウ」は、県下有数の大イチョウで樹齢は700年近いといわれます。場所は、町の中心部美少年酒造の北側に隣接する旧下田家の庭にあります。
 高さ21メートル幹まわりが9メートルもあり、秋の黄葉はまさに絶景です。
※「宇城三十六景」にも選定されています。

塚原古墳公園
町立塚原古墳公園は、塚原古墳群を中心に整備された公園で、歴史民俗資料館も併設されています。国指定史跡であるこの古墳群には、約500基にものぼる前方後円墳や方形周溝墓、円墳があり、芝が張られた古墳の上でのんびり過ごすことができます。資料館前には、古代祭石像群が作られ、古代人の祭りが再現されています。公園内には、熊本県民天文台や遊園地もあり、遊具で子供から大人まで楽しむことができます。

城南町歴史民俗資料館
塚原古墳公園の中にある資料館です。考古・歴史・民俗の3つの展示室があり、豊富な収蔵品を備えています。塚原古墳群の出土品をはじめ町内各所からの縄文・弥生時代の出土品や民俗資料などを約400点を展示しています。

熊本県民天文台
1982年5月の開設以来、市民への公開活動を続けている、ユニークなアマチュア天文台です。
これほど活発な活動を長年にわたって続けているアマチュアの天文台は、日本中探してもここだけ。
世界でも大変珍しい天文台といえるでしょう。

城南町火の君まつり
町外の人にも塚原古墳をはじめとする文化財や、町の特産品・農産物等を知って貰おうと開催されているお祭りです。有名タレントによるステージショーや子供たちに人気のキャラクターショーをはじめ、地元の特産品・農産物の即売会などで賑わいます。又、会場内では、「ふれあい動物園」や「体験・伝承コーナー」など、多彩なイベントが行われ、ファミリーで楽しめるお祭りです。

隈庄城跡
隈庄城は中世における益城地方の重要な古城でした。天正15年(1587)4月18日に、薩摩の島津氏追討の豊臣秀吉がこの隈庄城内に宿泊しています。現在城の鼻公園になっています。

御領貝塚
シジミやアサリなどでできた、縄文時代後期の西日本最大級の貝塚で、国指定史跡にもなっています。土器や石器なども多数出土しており、その土器は御領式土器とよばれています。

阿高貝塚
海産物カキやハマグリなどでできた縄文時代中期の貝塚です。すぐ近くに御領貝塚があり、その貝塚を形成する貝の違いに、古代の海岸線の変化をみることができます。
国指定史跡。

黒橋貝塚
縄文時代中期から後期にかけての貝塚。マガキ、ハマグリのほか、ヤマトシジミが目を奪う。赤褐色で西九州的な土器と、北九州や瀬戸内と関係が深い土器が出土しました。石器類も多く出土しており、縄文時代を知る上での貴重な貝塚です。
近くの阿高貝塚から出土した土器は、深鉢で凹線紋で押点を特徴としており、阿高式土器の名前で呼ばれています。

陳内廃寺
白鳳時代~奈良時代(約1200~1300年前)に建てられた熊本県最古の寺院跡です。規模は、160m四方にも及びその中に金堂や塔が立ち並んでいました。現在は、五重塔の心礎(柱を支えた基礎石)が残っています。
また、南へ500mほど離れた斜面には,瓦を焼いた窯跡を見ることができます。この時代の窯跡としては、国内でも良好な形で保存されている珍しいものです。

メリ穴
公園近くの洞窟から勢いよく水が流れていて、住民は昔からそこの水の神を祀りました。その「参り穴」から「メリ穴」と呼ばれるようになったそうです。現在は住民の憩いの場となっています。

尾窪横穴墓群
尾窪の本村から南西寄りに200m程いった町道沿いの深い谷間の崖にあり、現在10数基の横穴墓を見ることができます

くまもと城南温泉
スポーツ文化センター
松橋インターから車で5分のところにある、豊かな自然に囲まれた天然温泉(単純性アルカリ泉)です。4コース32ホールの本格的なグランドゴルフ場やテニスコートもあり、家族やグループで楽しめます。館内には和室や家族風呂、ふれあいホール(60畳)、食堂などあります。また、くまもと城南カントリークラブも隣接しています。

植木町

田原坂公園
明治10年(1877)日本最大、最後の内戦である「西南の役」の激戦地です。「雨は降る降る人馬は濡れる・・・」の民謡でも有名な官軍と薩軍との攻防は、17昼夜に及び1日当たり32万発の銃弾が使われ「西南の役」全体での戦死者は両軍合わせて約14000余名にものぼりました。現在、春には桜やつつじが咲く美しい公園に整備され、西南の役に使用した銃器、弾丸等の遺品を集め展示してある田原坂資料館、官軍と薩軍を一同に祀った慰霊塔や美少年の銅像があり、点在する両軍の基地などにその激しい戦いの跡が見られ、歴史散策ができます。

田原坂資料館
日本の夜明けを夢見て散っていった若き英雄たちの写真や遺品、銃器類や戦死を伝える電文、錦絵ほか小銃弾同士が空中で衝突した「空中かちあい弾」実物大の大砲模型などが展示されており、また、「田原坂の戦い」のビデオも常時放映しています。
明治10年(1877)日本最大、最後の内戦である「西南の役」の激戦地、田原坂の戦いは17昼夜にも及ぶ壮絶な戦いで1日あたり32万発の銃弾が使われ「西南の役」全体の戦死者は両軍合わせて約1万4千余人にものぼると言われています。

小野泉水公園
平安時代の絶世の美女、小野小町が産湯を使ったと言い伝えられている小野泉水は、小町小説の他、ホタルの生息地として”くまもとホタルの里100選”のひとつとしても知られています。池畔には小野小町の像が安置されている小町堂があり、その横には小町が詠んだ歌が刻まれた歌碑が建立されています。岩の隙間や池底から湧き出る水が美しいこの小野泉水公園は、植木町の新名所として、休日には家族連れやグループ等で賑わいます。
「花の色はうつりにけりな・・・」の歌で知られる六歌仙で唯一の女流歌人であり、絶世の美女であったといわれる小野小町が、この泉水を産湯に使ったと云う伝説が残されています。

正院めがね橋
安政三年(1856)に正院川に架設されていた橋であるが、河川工事により昭和52年3月に正院より現在地に移転して復元されている。凝灰岩製単一のアーチ橋である。幅2メートル10センチ両脚間の幅4メートル80センチ水面までの高さ2メートルである。楔石に陰刻銘がある。

七国神社
同神社は小野の泉水公園にあり、五十四代任明天皇の承和年間に、当時権力を欲しいままにしていた藤原氏の讒言で同地へ流罪となった小野良実に由来する。

鬼のいわや古墳

直径約20メートル、高さ7メートルの円墳で、南に開口する横穴式複室墳である。玄室の奥壁から羨道端までの全長9.6メートル。玄室の奥行3.58メートル、幅2.67メートル、床面より天井までの高さ3.77メートル。奥壁と両側壁に石屋形を構築している。側壁は床面より1.76メートルまで一枚の凝灰岩を用い、その上は持ち送り式に積みあげ、一枚の巨石をのせて天井としている。


天然温泉 ゆうぜん
落ち着いた佇まいの中に、一回毎入れ替え式の12の家族湯(内5室は露天風呂付)やサウナ付き大浴場を完備しました。ファミリーからグループの皆様までお楽しみいただけます。そして極め付けは、いま女性に人気沸騰の温床浴“珊瑚美ら砂温床浴”を導入しました。

味取観音堂
曹洞宗瑞泉禅寺は江戸中期のこの地出身面山和尚に関係する寺で、放浪の詩人「種田山頭火」が1年半も投宿した味取観音堂。山頭火をも魅了した風情あるお堂には、山頭火ソックリの住職さんがあたたかく迎えてくれ る。門前町として味取町が加藤清正時代から栄え、細川忠利入国時正式の町となった。味取町から元禄時代植木町が分かれ、当初は味取新町といった。

加茂の六地蔵付板碑
六地蔵、凝灰岩で作られていて、高さ約2メートル49センチメートルである。全体に風化がひどく紀年銘などは不明であるが、室町時代に建立されたものと推定されている。
 板碑、高さ143センチメートル、幅146センチメートル最大厚25センチメートルの安山岩の板状自然石の板碑。碑面の中央上部に飛雲、蓮台上に阿弥陀如来立像。その右下に、道泉禅門、妙泉禅尼。左に永正十一年甲戌二月吉日、角田掃部頭藤原益吉敬白 と陰刻がある。

植木温泉納涼花火大会
植木温泉を流れる合志川河畔で、約3,000発の花火を打上げます。昼間は温泉の無料開放もあり、多くの人が植木町内外から訪れています。西南戦争の傷を癒したといわれる植木温泉は、合志川沿いに湧く田園温泉で、熊本市の奥座敷とうたわれる名湯です。ラジウムを含有する弱アルカリ泉で、泉度は45度から52度とちょっと熱めのお湯となっています。 植木温泉河川敷の夜空を彩る花火大会は、例年開催されています。

宝田温泉 宝の湯
「宝の湯」温泉は、昨年NHKテレビで全国に紹介され、「田の中から湧き出た温泉」、「長寿の里」として有名になりました。お湯の発見から70有余年、植木町宝田地区では地区住民の健康と幸福と万病に効く「宝」として代々、
大切に受け継いできました。この程、温泉堀削に経験豊富な(株)肥後ハウスに依頼して、同社独自の掘削工法により、数度にわたって岩盤を掘削したところ、塩岩盤から湧き出る43度Cの豊富な湯量とうすいグリーン色をしたこれまでどうりの良質な温泉を得ることができました。私たちは21世紀を迎えた年を記念して大きな浴場を新築し、より多くの皆さんのご利用をお待ちしています。

宮原温泉

明治27年に発見され、単純炭素鉄泉で、鉄分を多く含んでいるため、湯の色がやや赤みを帯びている鉱泉で、タオルも染まる程です。鉄分を多く含んでおり、飲用すると新陳代謝を促すと言われています。また、神経痛、リウマチ、婦人病等に効果があると言われており、昔から湯治場として親しまれています。


あしはらの湯
源泉掛け流しの温泉は ヌルヌルすべすべで上がったあとも気持ちいいです。家族風呂全6部屋露天風呂トイレ付きでゆっくりできます。

菱形八幡宮
「神皇正統記」(北畠親房)によれば”肥後の菱形の池”に応神天皇の霊(八幡神)が再降臨し八幡大菩薩の姿で現れたとされる。これが日本の神仏集合のもとになったといわれる。後にこの神は宇佐に移ったとされる、神社後方の白龍窟は応神天皇の母神功皇后のヘソ石をまつるとされ、安産の神として古代の姿を伝える。ここでは穴ごもりが行われ輪くぐりのもととなった。

菱形の池
八幡神出現の伝承地・円台寺真下の谷川の一部を切石で菱形に囲んだ池は、常時清水が湧き出している。 かっては菱形八幡宮の横、古代には白龍窟の中にあったと伝えられる。ヒシの実の形が菱形とされ今日このいわれは雛祭りのヒシモチとして残っている。

円台寺磨崖仏群
円台寺の参道の上がり口にあたる崖の中腹の岩肌に、見事に彫られた麿崖仏がある。かすかに残る彩色が、鎌倉時代と推定される石仏の作者の心を、時を越えて伝えている。 この坂、仁王坂の登りにはかって仁王像が立ち、七曲りの坂を登ると円台寺三十六坊のあった寺院群跡に至る。

七本官軍墓地
西南戦争で戦死した政府軍人・軍夫・ 警視隊を埋葬した官軍墓地は県内に21ヵ所つくられている。この七本官軍墓地には、「田原坂の戦い」のあと、植木や吉次・木留、辺田野・平野・滴水などで戦死した各鎮台および近衛兵300余名が埋葬されている。 大きな二本の木の下に実際の死体は埋められたと伝えられる。カエデの木の下に軍夫の墓や連隊旗手河原林少尉の墓もある。

七本柿木台場薩軍墓地
明治十年三月初旬から 四月中旬まで続いた田原坂周辺の戦いで、木留・七本原付近で戦死した薩軍や熊本隊の兵士329名が埋葬されている薩軍墓地。地域的に見て官軍が田原坂の攻略に成功 した時期の死者とみられる。ここが三月二十日田原坂陥落のきっかけとなった陣地である。

豊岡眼鏡橋
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、三の坂と頂きまで1.5Kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曵いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めない。また薩軍にとっては生死を制する道である。ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となったのである。この橋は享和二年(1802年)江戸時代後期に作られた橋で、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では熊本県内で最古の橋といわれている。橋の北側川沿いに続く道が当時のままの高瀬街道の一部である。

内空閑城跡
この城跡を城の越(古跡)と呼び、公園として永年内空閑顕彰会によって管理されていたが、昭和57年に内区に移管されている。以来、4月3日を祭り日として定められている。当日は区役で公園の清掃を行い、その後、内空閑氏の遺徳をしのび小宴が開かれている。

砥石の宝筐印塔群
内空閑神社の境内に二基の墓碑がある。凝灰岩でつくられ、宗活禅定門山本郡主内空閑鎮資、天正三乙亥(1573)八月廿七日の銘、他の一基は妙間禅定尼同年十一月二日と刻印がみえる。この塔は階段状の笠と、四隅の突起した飾りが特色である。日本では鎌倉時代中期から供養塔または墓塔としている。塔の四方には梵字が刻まれている。