国東


豊後高田市

富貴寺
六郷満山本山末寺の1つ。蕗の里の梅林につつまれた天台宗の古刹で、境内の大堂は藤原期の阿弥陀堂建築としては、宇治平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並び称されている。
現存する九州最古の木造建築物としても知られ、国宝に指定されている。
本尊背後の壁画は浄土教の世界を描いたものである。
藤原時代末期の作といわれる。

元宮磨崖仏
田染真中の県道655号線そばにある元宮八幡の境内北側の岩壁にある元宮磨崖仏。高さ3m、幅6mほどの 仏龕をもうけ、向って右から @毘沙門天 A矜羯羅童子 B不動明王 C持国天 D地蔵菩薩の五躯の5立像が薄肉彫されている。
制作年代は室町時代(1394〜1573)後期と推定されており、“地蔵菩薩の五躯”は後の時代の追刻であろうといわれています。昭和30年には国指定史跡となっている。

元宮八幡社
田染八幡三社の一ノ宮。
田染荘は、中世の村の呼称で旧田染村をいいます。荘とは荘園村落のことで、中央の貴族や寺社が地方で所有していた土地(荘園)から発生しています。
田染荘は、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、全国屈指の荘園領主(九州内に二万町歩を越える荘園を所有)であった、宇佐神宮が最も重要視した荘園でした。

真木大堂
富貴寺から南方約5kmにあり、六郷満山本山本寺の1つであった馬城山伝乗寺の跡。藤原時代の作の国重要文化財指定の9躯の仏像が収蔵庫に保存され、一般の人々に公開(有料)されている。
またすぐ北側には、石造美術品170点を集めた古代文化公園がある。

古代文化公園
国東半島に多い国東塔・板碑五重塔など石造美術を展示した文化財公園。

乱積み石段
鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段、九十九段にかかる。「昔、熊野からこの地に移られた権現様から、一夜でここに百段の石段を造ったら人間を食べて良いという許しを得た一匹の鬼が、九十九段を築きあと一段で仕上がるところで、慌てた権現様が鳴き真似をした鶏の声を聞いて夜明けと思って逃げ出した」という伝説である。

熊野磨崖仏
鬼が一夜で築いたと伝えられる乱積みの石段を登ると2体の雄大な石像が現われる。
左が像高8mの不動明王、右が像高6.7mの大日如来、この頭上には種子曼荼羅が刻まれている。
国重要文化財と史跡の二重指定。

熊野神社
鳥居から神殿の前まで鬼が一夜で築いたという自然石の乱積みの石段の左手の崖に大日如来像と不動明王像がある。ここは熊野神社の境内で不動明王左脇侍像の外側にある1.5mほどの方形の龕が2つ刻まれており、巾子冠を戴き袍を付けた男神像が認められる。この2躯は、家津御子、速玉の2神といわれ、右の崩れた所に夫須美神があったものと思われる。 伝説では養老2年(718年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩が作られたと云われている。

胎蔵寺
胎蔵寺は718年の開基と伝えられるから、磨崖仏の彫られる前から、あったらしい。史伝によると、12世紀頃に胎蔵寺の住職が熊野を訪れて、権現信仰に感動して、改宗をして磨崖仏を彫ったようだ。それから明治時代に、再び天台宗へ回帰した寺院だという。境内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは金ぴかに輝く七福神の像だ。ずらりと七体が並んでいる。

長安寺
長安寺は山号を金剛山という天台宗の古刹で、平安時代に六郷満山65カ寺を統括していた西叡山高山寺が衰微したのに伴い、その中核的地位を継承して発展した寺院です。その後、鎌倉時代には将軍家の祈願寺として隆盛しました。寺院のあちこちには往時の繁栄を偲ばせるものが数多く残っており、境内の収蔵庫には、太郎天・二童子像と銅板法華経(ともに国指定重要文化財)が保管されています。

天念寺
天念寺は六郷満山の中山本寺で、養老2(718)年仁聞菩薩によって開基されたといわれ、平安・鎌倉時代には他の寺院と同様に修験と祈願の寺院として繁栄しました。鎌倉時代の元寇の際には、満山寺院の僧を集めての戦勝祈願の法要が盛んに行われたとも伝えられています。周囲の景観はその美しさから「天念寺耶馬」と呼称されて人々に広く愛されており、加えてこの寺では六郷満山古来の正月行事である「修正鬼会」が現在でも行われていることでも知られています。

身濯神社
天然寺の講堂と本堂に挟まれた場所にある身濯神社は、明治の神仏分離以前は六所権現とよばれていた。八幡神と関わりの深い神々が祀られており、長岩屋の鎮守社として信仰されている。

川中不動
天念寺の前を流れる長岩屋川には、川中の巨岩に不動三尊が刻まれています。この川は幾度となく氾濫を繰り返したため水害除けに刻まれたと伝えられています。

割掛遺跡史跡公園
割掛遺跡は1992年の発掘調査によって確認された、弥生時代中期から古墳時代前期にかけての墓地を伴う集落跡と、鎌倉時代から室町時代にかけての堀 や土塁を廻らす館跡との複合遺跡です。
弥生から古墳時代にかけての遺構としては、竪穴式住居跡が20数基と石棺墓・石蓋土壙墓が5基確認され、石棺墓などの内容や副葬品からみてこの地域の拠点的集落の南端部を占める遺跡であることが解りました。
中世の遺構としては、13世紀代の館跡の一部が確認されました。館跡は1辺80m以上に及ぶ掘割を持つもので、この当時の館跡としては西日本では最大級の規模です。

国東市

旧千燈寺跡
半肉彫りの珍しい形式の仁王像、1,000基をこえる五輪塔、仁聞菩薩の墓と伝えられる国東塔や角塔婆、姫板碑などがあり、石造宝塔の宝庫である。
奥の院には岩洞の中の岩壁に、菩薩来迎図と思われる磨崖仏もある。(

尻付岩屋
この岩屋は行者の修験者の行場で旧千灯寺付属の霊場である。
六観音の木造を安置した西不動の一つで平地にあるが他に大不動、小不動、太郎天岩屋がある。
みな険阻な岩場で妙見岩屋を加えて五辻の岩屋という。

千灯石仏
自然石の前面を半肉彫りした高さ1m 幅2mの石仏「廿五菩薩来迎図」である。

安国寺
応永元年(1394)に足利尊氏公を開基として創建されました。等身大足利尊氏公坐像(県指定文化財)などが安置されています。

安国寺集落遺跡
安国寺遺跡は、昭和24年から27年にかけて初めて発掘調査が行われ、 出土した土器は、東九州の弥生時代後期を代表する標識土器「安国寺式土器」と命名されました。 また、 弥生時代の炭化米を出土した遺跡として東の「登呂遺跡」に対して 「西の登呂」と呼ばれ脚光を浴びました。

道の駅くにさき
4つの施設が一つとなった「道の駅くにさき」。安心安全な産直品が手に入る農産物販売所「夢咲茶屋」、太刀魚料理が味わえる「銀たちの郷」、特産品販売所「黒津之庄」など、それぞれの楽しみ方があります。また、「国東市サイクリングターミナル」はレンタサイクルや宿泊ができ、地元産の素材を使った昼食バイキングも人気です。

行入ダム
行入ダムは平成9年に田深川水系横手川に治水ダムとして大分県により建設されました。全国でも数少ないシビックデザインダムです。シビックデザインダムとはダムのデザインに景観的要素を取り入れ地域の観光資源としても有効利用を図ろうとするものです。

行入寺
養老二年(718)仁聞菩薩の開基と伝えられている。仁安目録(1168)によれば、末山本寺にその名がみえる。
本尊、不動明王、寺の真向い南側の山すそに本寺十二坊の一つでもあった法先坊という所がある。
法しょう院のあった所といわれ、無数の板碑、五輪塔、墓石などがある。

観清寺
2,000本の桜が植えられていることから桜公園とも呼ばれる観清寺は、高野山真言宗で、もと黒岩観音が祀られていたところに、大正時代に堂宇が建てられたもの。標高300mの所あたりから、大分市、佐賀関町、豊後水道などを望む眺めがすばらしい。

瑠璃光寺
藤原末期の作といわれる阿弥陀如来立像や夏にみごとな花を咲かせる樹齢600年のサルスベリを見ることができます。

地蔵伝の石造物群
この場所にはお堂があって住民もお祈りのため集まっていたが、昭和十六年(1984)秋の水害で流されてしまった。
「信仰動鬼神」(信仰は神をもうごかす)と題のある大正十一年(1922)の石碑には、お堂の建設費を奉納した人名が刻されている。

護聖寺
六郷満山中山十ヶ寺、当時は、般若経の溝瑞所であった。
吉野朝のころ泉福寺(国東町)、無着禅師の法弟、明巌禅師が応永十一年(1404)の春再興して、禅の曹洞派を奉し現在に至る古刹である。

大吉堂国東塔
大吉堂国東塔は一重目、一面二個の格狭間が刻まれ、上部反花のたいへん薄く、塔身、笠、相輪が一石でできている。
現在基礎は一重であるが本来他の二重の基石があったとおもわれる。

両子寺
両子山の中腹に両子寺があります。六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場に当たり、特に江戸期より六郷満山の総持院として全山を統括してきました。しかしながら時代の趨勢、明治初頭の神仏分離、第二次世界大戦等の法難、自然災害・人為災難等の遭遇により次第に堂宇は往時の姿を薄れてかけて来ましたが、歴代住職の懸命な精進と檀信徒の護持によりわずかながらも、面目を保ちつつ今日に至っています。

両子寺奥の院
建物は、弘化3年(1846)旧杵築藩主松平候の寄進によるものです。千手観音立像、両子大権現(男・女二天童子像)、宇佐八幡神像、仁聞菩薩像を崇め祀り、不老長寿と子授け申し子祈願の霊場として広く国内に知られている。

霊水走水観音
観音様の下から湧き出る貫水は干ばつでも無くならず、雨季でも増水せず、年中一定の水量を保っており、水温もまた常に変わらないという。

文殊仙寺
三人よれば文殊の知恵」の発祥地として知られ、秋には、文殊耶馬と呼ばれる周囲の自然林がみごとに紅葉します。

伊美別宮社
正応3年(1290)の銘があり、2番目に古いといわれる国東塔があります。子授けの神としても有名です。

国東塔
国東半島にしか見られない「国東塔」。伊美別宮社の国東塔は、正応3年(1290)の銘があり、国東塔の中では2番目に古く、大きさは最大です。

鬼塚古墳
竹田津港を望む丘陵にあり、11基の古墳からなる西山古墳群のひとつである。
東西方向の径が10m、南北方向の径が13mの円墳で、6世紀頃の築造と推定されている。斜面に半地下に埋め込まれた横穴式石室を有し、玄室の内壁に装飾が施されている。奥壁には鳥、舟、舟上の人物、左壁には多数の鳥の群れ、右壁には向かい合う2羽の鳥が、それぞれ線刻で描かれている。漁をする人物の絵が描かれていることから、被葬者は、海に関連が深いこの地方の権力者ではないかと考えられている。

狐塚古墳
柄鏡式前方後円墳であったと考えられているが、現状は円墳。頂上付近に竪穴式石室をもつ。現状は径45m、高さ5m。

道の駅くにみ
夏はキャンプ・海水浴でにぎわう権現崎ふるさと自然公園入口にある「道の駅くにみ」。直売所である「ちょるちょる市場」では、イチゴや温州みかん、メロンなどの農産物をはじめ、港で水揚げされたばかりの新鮮な活魚などが販売されています。また、「レストラン美浜」では、旬の食材を使った「周防灘御膳」、特産品の地だこづくしの「たこめし膳」などが味わえます。

富来城
富来城は、富来中学校の敷地一帯が城地であった。 現在では、地形も変わっているが、城の築かれていた台地は、城の東と北が海に面し、南に富来川が流れて城の堀となっていた。
現在は、本の丸の一部が中学校正門側に小さな公園となって残っているに過ぎない。 この公園の東側と南側に一部ではあるが石垣が現存していた。

岩戸寺
旧正月7日に修正鬼会の祭礼が成仏寺と一年交替で行われる山寺。鎌倉時代のものといわれる蓮華の台座に、坪形の石塔がのる国東独自の石造文化財・国東塔(重要文化財)は、銘文のある国東塔では最古といわれる。カヤの木の一木造りの薬師如来坐像も安置している。

旧大聖寺跡五輪塔群
大聖寺は延文3年(1358)の建立寺中には南北朝から室町時代にかけての宝塔・宝匡印塔・各種の五輪塔二百余りがある。
五輪塔群は鎌倉・室町時代に活躍した北浦辺衆の墓塔群だと思われる。

ペトロ岐部カスイ記念公園
国見が誇る17世紀の「日本のマルコ・ポーロ」。
日本人として初めて聖地エルサレムを訪問するが、日本に戻って殉職した。
この春、ローマ法王庁から名誉ある「福者」に認定されることに。

杵築市

中畑国東塔
この塔は大正10年頃、村道改修時に発見された。
塔下の田は、中畑長者屋敷跡と伝えられ、長者の供養塔と言われている。
現在破損している笠を修復すれば、総高4m以上の堂々たる国東塔である。
基礎は三重で、最上重の四面には格狭間が3個ずつ刻まれ、台座は一重複弁の8弁で、反花と請花からなり、非常に精巧にできている。
塔身は台座の割に小さく丸形で、塔身首部に角丸方形の孔があり、塔身内部の空洞に通じている。
また反花上部にも方形の孔があり反花胴部も空洞で掘り出した時、その中に一字一石が、ぎっしりつまっていたという。

重光家旧邸
外務大臣重光葵の生家。
重光 葵は昭和前期の外交官・政治家である。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。仮釈放と赦免後、政界に再復帰、日本の連合国(国際連合)加盟に尽力した。

飴屋の坂
谷町から南台武家屋敷へ上がる、「く」の字形のカーブを描いて特徴のある坂です。

南台裏丁武家屋敷
谷町を挟んで北台の反対側に位置するのが南台。石垣の上の土塀、長屋門に通じる石段など格式の高い家並みが続きます。

杵築カトリック教会
寺町通りの坂を上りきると山門が目に入る。でも、看板には「杵築カトリック教会」とある。寺ではないので山門とは言わないのかもしれないが、左右に出入り口のある三門である。その昔は寺院があったのだろう。緑をたたえる木々の奥に白亜の教会がそびえる。細長いチャペル、その屋根の上には十字架が天空を突き、壁面にはマリア像が見える。

一松邸
戦後の復興期に国務大臣を務めた故一松定吉氏の家。建物は故人から市に寄贈されたもので、平成12年に現在の位置に移転しました。

志保屋の坂
酢屋の坂と相対し、南台に上がる坂道。

酢屋の坂
角に酢屋があったことから名づけられた坂。映画やドラマの舞台として使われることもある杵築を代表する坂道。

綾部みそ屋
江戸時代の武家屋敷など歴史的景観を色濃く残す城下町杵築。『坂道の城下町』とも呼ばれています。その代表的坂『酢屋の坂』の下にあるのが『あやべみそ』。その前身は酢屋であったことが坂の名前の由来である。築200年の店内に残る当時の姿にも興味を引かれます。

勘定場の坂
土塀と石畳が美しい、海を見降ろせる杵築の代表的な坂。ゆるやかな傾斜と広い石段は、馬や駕籠かきの脚に合うように配慮されています。石畳、土塀、門、石垣、植栽は自然に融け込んで豊かな時が流れます。

藩主御殿跡
藩主御殿跡には庭園の遺構があります。庭園の北側に御殿の石垣が残っています。

杵築城
1394年、大友一族の木付頼直によって木付城として築城。現在の天守閣は1970年に復元されたものです。

城山公園石造物群
この地方の石造物のうち代表的なもの、祀る人のないもの、盗難破損の恐れのあるもの、保護管理を委託されたもの、170余基を集める。

青筵神社
青筵(豊後青畳表・安くて丈夫な庶民用の畳表)は江戸時代の豊後の経済に果たした役割が大きく、これに貢献のあった杵築藩主「松平親秀」「松平重休」日出藩主「木下俊長」、府内商人「橋本五郎左衛門」の4人を祭った神社です。(昭和11年建設)。

日出町

暘谷城趾
慶長6年(1601年)初代藩主木下延俊侯が姫路から移封入国後、築城にかかり、翌年完成しました。築城にあたっての綱張り(設計)は当時中津藩主であった義兄細川忠興侯(延俊夫人加賀の方は忠興の妹)が行いました。当時、三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではありませんが調和のとれた美しい城だったといわれています。現在その姿は石垣を残すのみとなりましたが、わずかに隅櫓の一つを町内東仁王地区に見ることができます。

若宮八幡社
元禄16年(1703)三代藩主木下俊長によって建立寄進され、矢大臣・左大臣の控えの間や花鳥の彫刻を配し、重厚さの中に華やかさが
あります。





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