備後



福山市

福山城
1619年(元和5年)水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。伏見櫓、筋鉄御門は共に国の重要文化財となっています。天守閣の内部は、歴代藩主の遺跡や資料のほか、考古・歴史資料などを収蔵・展示する博物館として公開されています。

備後護国神社
備後護国神社は広島県福山市丸之内の福山城北側にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。旧称阿部神社。
祭神は備後国出身の護国の英霊、大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主である。

宮本武蔵 腰掛石
伝承によれば寛永年間(1624年〜1629年)に武蔵が福山を訪問したとき勝成の従兄弟で水野家二番家老である中山将監の屋敷で饗宴が催され庭園で腰を掛けた石がこれであるという。

宮の前廃寺跡
宮の前廃寺跡は、南に派生する低丘陵の中腹に位置し、現在は八幡神社境内に所在する古代寺院跡である。「海蔵寺」の名を伝えて、文献に伝える「深津市」「深津荘」付近に建立されていたと考えられている。
東に塔、西に金堂を配したいわゆる法起寺式の伽藍配置である。塔・金堂ともにせん積の基壇で、その規模は塔跡が一辺12.6m、高さ1.2mを、金堂跡が東西25m、南北15mをそれぞれ測る。塔跡には心礎を中心に4個の礎石が遺存している。

蔵王八幡神社
福山市蔵王地区で伝承されている「はね踊り」は、その名のとおり、「大胴」、「諫鼓」、「鉦」の3種類の打楽器を奏でながら、「はね」あがるような所作をまじえて軽快に踊ります。その形態は江戸時代後期の隊形、所作をとどめています。
かつては雨乞いなどでも踊られていたが、現在は、毎年10月第3日曜日、蔵王八幡神社の秋季例大祭で踊られ、この地域の大イベントとなっています。

明王院
807年(大同2年)、弘法大師の開基と伝えられ、本堂は全体に和様、細部には唐様を用いた折衷様式で、この様式としては現存する最古の建物です。五重塔は、全国の国宝塔の中でも5番目の古さを持つ美しい塔で、本堂と共に国宝に指定されています。

草戸稲荷神社
祭神は保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神であり、境内には二十社近い稲荷神社が末社として祀っている。この神社は福山市ではもっとも初詣の参拝客が多く、広島県内でも広島護国神社についで2番目に多く毎年概ね40万人以上が訪れる。

備後安国寺
鎌倉時代(1270年代)に創建され、後に南北朝時代足利尊氏により安国寺と改称されました。釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師坐像などは国重文に指定されています。

沼名前神社
この神社は「大綿津見命」を奉る渡守神社と「須佐之男命」を奉る祇園宮が一緒に奉られています。平安時代につくられた「延喜式」という法令にも記載されている古い神社です。

鞆の津の商家
主屋(切妻、平入)と土蔵(切妻、妻入)からなり、いずれも2階建で連接する。本瓦葺。
主屋は江戸時代末期の建築で、内部は通り庭(土間)に面して、店の間、中の間、奥の間が一列に並ぶ古い商家の間取りである。土蔵は明治の建築で、商品の収納場所として使用され、床を高くし、登り梁とするなど機能的にすぐれている。
本建築物は、鞆の典型的な町屋の好例である。

福禅寺 対潮楼
海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。

太田家住宅・鞆七卿落遺跡
1863年8月23日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家は公武合体派に追われ長州に下る途中、鞆の浦に寄港。ここ旧「保命酒屋」に立ち寄りました。国重文に指定されています。

常夜灯
鞆の港の中心部に位置する「常夜灯」は、港町 鞆の浦のシンボルです。
基礎石からの高さは約10mで、江戸時代の石造の常夜燈では国内最大級であり、雁木とともに鞆の浦の代表的な観光施設となっています。

いろは丸展示館
潮の香りと史跡を訪ねて、1867年鞆沖で沈んだ龍馬と海援隊の船、いろは丸の引き揚げ物、龍馬のかくれ部屋、沈没状況のジオラマ等を江戸期に建てられた太い梁など堂々たる建物、鞆の町では「大蔵」と呼ばれている蔵の中に展示しています。

府中市

首無地蔵
霊験あらたかで何でも願い事をかなえてくれると言われ、多くの人に親しまれ、遠方からも参拝者が後を絶たないありがたいお地蔵様。

府中八幡神社
府中八幡神社は大昔、現社殿の裏山にある「宮の壇」(天狗松ともいう)といわれる場所に八尾城の守護神として祀られました。

白壁の町並
かつては幕府の天領として、また石見銀山からの銀を運ぶ銀山街道の中継地点として栄えていた「上下」。今でもメインストリートを歩くと、白壁やなまこ壁、格子戸といった懐かしい町並みが続き、時間が止まったかのような錯覚を覚えます。

上下キリスト教会
白壁の町並みの一角にある上下キリスト教会は、明治時代、財閥の蔵として建築されたものです。戦後はキリスト教会として利用されており、上下のシンボル的建物のひとつです。

旧警察署
白壁の町並みの中にあり、明治時代の建物で、風情ある見張り櫓が当時の姿のまま残っています。

神石高原町

上八幡神社
1065年に豊前国(現大分県)宇佐八幡宮より分霊を勧請し、その後1163年正宮山に遷座した。 本殿は数回改築されており、現本殿は1691年に再建されたものである。

阿弥陀堂
上八幡神社境内には1701年建立の阿弥陀堂がある。神仏習合時代の事象を留める歴史的建造物であり、昭和51年5月1日に町の重要文化財に指定された。

安養寺跡
元神石郡農協上支店裏の小高い所の安養寺跡に、無縫塔(大きいのが3基、小さい五輪塔が約10基)が祀られていた。無縫塔は俗屋では使われず、住職の墓ではないかと思われる。

亀山八幡神社
樹齢300年を誇るツガ、杉の大木が精悍な雰囲気を醸す亀山八幡神社。3つの間口を持つ三間社としては県内最大の規模を誇っています。

尾道市

千光寺公園
尾道のシンボルになっている「千光寺公園」。
春は”さくらの名所100選”に選定された桜が公園を彩り、秋には「尾道菊花展」が開催され四季折々の表情を楽しむことができます。
また恋人の聖地に認定され、頂上の展望台から見る夜景は夜景100選にも選定されているデートスポットとしても人気。
公園内には「文学のこみち」があり、山道にある自然石に尾道にゆかりのある作家の詩が刻まれています。

千光寺
尾道のシンボル的なお寺です。
寺伝によると大同元年(806)の開基されたそうです。
朱塗りの本堂「赤堂」や”日本の音風景100選”に選定された「鐘楼」があります。
また境内にある大岩「玉の岩」があり、その昔、岩の頂に光る玉があり海を照らしていたとの言い伝えがあります。

文学のこみち
点々と続く自然石に刻まれた25の文学碑。
千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の名作がつづる静かな散歩道です。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
この道をたどると千光寺にたどり着きます。

中村憲吉旧居
中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。
昭和8年12月25日、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地療養し、昭和9年5月5日に46才で惜しまれて世を去りました。

天寧寺
開山は普明国師と言われています。
貞治6年(1367)に足利義詮が建立した国重文の塔婆(海雲塔)があり、本堂左手の羅漢堂には五百羅漢の群像がズラリと並んでいます。
五百羅漢堂は座禅堂にもなっていて、無料で体験することができます。
また「ボタン」や「しだれ桜」のお寺として有名で、春になると多くの花見客でにぎわいます。

持光寺
石のまち“尾道”にふさわしい堂々たる構えの石の門が特徴的。国宝「絹本著色普賢延命像」があります。
その他「あじさい」や「にぎり仏」の寺としても有名です。

光明寺
承和年中(834〜847)、円仁和尚の草創といわれています。
収蔵庫には、平安後期の作「浪分観音(国重文)」や尾道市最古の仏像「金銅観音(国重美)」があります。
この寺には第12代横綱 陣幕久五郎の墓と手形があります。
また境内下には地面を這うように枝を伸ばした「幡龍の松(市天然記念物)」があります。

吉備津彦(一宮)神社
尾道では「一宮さん」として親しまれています。
毎年11月3日に行われる「ベッチャー祭」は秋の尾道を代表するお祭です。

宝土寺
裏庭には、開山上人融海の墓と伝わる古い五輪塔があります。
また西の坊の墓地には、江戸時代に御所崎の沖に突出していた「浮御堂」の最後の住職・義順の墓があります。
そのほかお寺の窯「無尽窯」も作られています。

志賀直哉旧居
大正元(1912)年志賀直哉が尾道に移り住んだ棟割長家が現在でもご覧になれます。
代表作「暗夜行路」もここ尾道のこの部屋で執筆されました。

信行寺
建保2年(1214)、浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来です。
元は向島に草庵を結んで住み始めたのがはじめと言われています。
正面石段の左側には「尾道志稿」の著者である油屋・亀山士鋼の墓があり、右側には幕末維新のころ、尾道〜大阪間の船使を開いた回船問屋 竹内要助一門の墓があります。

艮神社
旧市内で最古の神社と言われています。
境内に生えている楠は樹齢900年と言われ、幹の周囲は約7m。天然記念物にも指定されています。
ロープウェイから見下ろす楠もおすすめです。

三原市

三原城跡
新幹線三原駅の上りホームに立ち、目を窓外に転じると目の前に見えるのが国の史跡三原城跡の天主台です。
三原城は永禄10年(一五六七年)小早川隆景により築城された城です。

大善寺
増上山広度院大善寺は、沼田の新高山城の麓にあって、小早川隆景室(慈光院月渓永知大姉)の菩提所でしたが、三原城築城に伴い天正8年(1580)この地に移されました。

寿徳寺
妙栄山寿徳寺は、長禄元年(一四五七年)高山城古城の麓に日親上人によって、創建されました。後に小早川隆景によって天正年間(一五七三年)この地に移され、特に家臣によって整備されました。境内には京都において新撰組に暗殺された勤王志士丹羽精蔵の墓や槍術佐分利流宗家の墓地などがあります。

香積寺
桂谷山香積寺は明応3年(一四九四年)小早川14代興平氏の誕生祈願により、高山城北側の麓に建てられ、文禄2年(一五九三年)三原城築城に伴いこの地に移されました。

順勝寺
高隆山順勝寺は古くは天台宗として高山城の麓にありましたが、小早川家の家老田坂善慶の弟善應が出家し、一時禅宗に変わっていたのを、文明3年(一四七一年)蓮如上人に教えを受け浄土真宗に変わり三原城築城に伴いこの地に移されました。

佛通寺
佛通寺は、応永4(1397)年、沼田高山城主の小早川春平が、名僧愚中周及禅師を迎えて開いた日本屈指の参禅道場として知られる臨済宗佛通寺派の大本山です。

吉田山甌穴群
小高い丘の地中から、大昔の河原として発見された甌穴郡。大小さまざまなくぼみは、川の流れの中で小石が回転し、長い時をかけて岩盤から削られてできたものです。

御調八幡宮
備後国総鎮護御調八幡宮は、神護景雲3(769)年、臣下の身で帝位を望んだ道鏡の野心を、宇佐八幡宮の神託を得て退けた和気清麻呂公が直諌の罪により大隅国へ流されたとき、姉法均尼(和気広虫姫)は備後国に配流されこの地に流謫の身を留め、斉戒沐浴、円鏡を御神体として、宇佐八幡大神を勧請して清麻呂の雪寃を祈願したことを創祀とするといわれています。

貞丸古墳
第1号と第2号の二つが発見されており、第1号は1949年に県史跡として指定されました。東約300mほどのところにある御年代古墳と同様、石室を築いた横穴式で玄室には1基の石棺がおかれています。
第2号もつづいて1950年に県の指定を受けました。いずれも7世紀はじめころの円墳ではないかとみられています。

御年代古墳
巨大な花崗岩で築かれた横穴式石室(全長10.7m)7世紀ころの畿内型古墳で国指定史跡に指定されています。玄室は前後2室にわかれ、全国的に珍しく、この地方まで大和政権が普及していた事を語っています。発見された副葬品の一部は東京国立博物館に保管されています。

大日堂
本郷町南方の旧国道(西国街道)沿いに大日堂というお堂があり、本尊は宝冠阿弥陀仏坐像という大変珍しい仏像です。本来、如来像は袈裟と裳を身にまとうだけで、他には一切、荘厳具をつけません。しかし、この仏像は頭に立派な冠をかぶっていることから、宝冠阿弥陀仏と呼ばれています。

二本松古墳
組合せ式家形石棺で、兵庫県産の竜山石が使われています。石棺の蓋石に縄掛突起がついています。この石棺は分解されて南方神社拝殿の踏石や手水鉢に使われていましたが、地元の人たちによって復元されています。

南方神社
梨葉郷は鎌倉末期に北方村と南方村に分かれ、北方村は上下に分かれ、下北方村から善入寺村が分離し、「梨葉四郷」と呼ばれる。
南方村の宗長に鎮座する当社は、御祭神は八幡大菩薩で、周辺の古祠を合祀するため、現在は南方神社となっている。

世羅町

康徳寺
創建は古く、白鳳時代(672−)と言われています。
大田庄の豪族によって建立され、当時の宗旨は、法相宗(奈良・薬師寺)か華厳宗(奈良・東大寺)あるいは天台宗(比叡山延暦寺)とも伝えられていますが定かではありません。

康徳寺古墳
直径15m、高さ5mの円墳で、石室は奥行き9.5m、幅2.45m、高さ2.4m。
初期の康徳寺建立に関係した豪族の墓と考えられています。

今高野山龍華寺
弘法大師により開基されたと言われる甲山の古刹
秋の紅葉の素晴らしさは隠れた名所です。

丹生神社
紀州高野山から勧請された今高野山の守護神である。
祭神は高野明神と丹生明神で、社殿は入母屋造、妻入、桧皮葺である。

大田庄歴史館
高野山領として歴史を刻んできた備後大田庄に関する数多くの文化財の展示を行っています。観光ボランティアガイドも行っています。

極楽寺
室町中期1473年(文明5年)徳誉上人開基。
世羅郡唯一の浄土宗寺院吉舎南天山城主和智家一族で善逝寺、大慈寺創建、今高野山再建などから、ほぼ同時期に極楽寺創建にも関わったと考えられる。

世良八幡神社
世良八幡神社は貞観二年(約千百三十年前)世良彦社に八幡大神を併せ祀り世良彦八幡宮とも唱えている。

夢吊橋
世界一の夢吊橋。青い湖面に赤い欄干が美しい。橋脚を持たない吊床版橋工法としては世界一長い橋。長さ172.6m幅2.5mギネスブックにも掲載。





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