久留米市 |
石橋文化センター | |
久留米市が誇る文化施設の一つ。園内には石橋文化ホール、石橋文化会館、石橋美術館、久留米市中央図書館のほか、白鳥の池、憩いの森、日本庭園、ツツジ園などがある。 |
石橋美術館 | |
青木繁、坂本繁ニ郎、古賀春江などの著名な郷土画家の作品をはじめ、国内の秀作100点ほどを展示。明治期の洋画を代表する青木繁の出世作『海の幸』を収蔵している。 |
久留米城跡 | |
江戸時代の久留米藩、約250年間を治めた有馬氏の居城跡で、その昔は笹原城の名で呼ばれていました。 今は平山城づくりの本丸跡が残され、見事な石垣や正面側の内濠に往時の雄姿をしのぶことができます。 また城内には藩祖豊氏を祀る篠山神社や歴代藩主の武具、工芸品などの有馬家資料を中心とした久留米藩政資料を主に展示する有馬記念館があります。 |
篠山神社 | |
明治十(1877)年有志が有馬豊氏公、頼永公の偉業を偲んで祀り二年後、久留米城跡に篠山神社として鎮座した。 本社は筑後旧久留米藩士民が、その旧藩主有馬氏累代の恩徳に対し追慕感謝のあまり、旧城阯に社宇建設せんことを請願し、明治10年7月25日官許を得て、始祖有馬豊氏公並びに頼永公の霊を祀り、同12年7月15日篠山神社と称し県社に列せらる。 |
水天宮 | |
水天宮は全国水天宮の総本宮です。 創建は、建久年間(1190〜99)と伝えられ、平家が壇ノ浦の戦いで破れた後、官女按察使局が筑後川の辺り鷺野ケ原に逃れ来て初めて水天宮を祀ったもので、後、慶安3年(1650)2代藩主有馬忠頼公の時、筑後川に臨む現在地になりました。 水にゆかりの社として海運守護神となり河童伝説との結びつきも伝えられ、信心を集めました。 |
山梔窩の摸式家屋 | |
勤王の志士として後世に名を残した真木和泉はこの水天宮の神官でした。幽居した「山梔窩」の摸式家屋があります。 |
梅林寺 | |
九州の代表的な修行道場として知られる古刹で、また久留米藩主有馬氏菩提寺となった寺です。 寺の起源は、初代藩主豊氏が故地丹波福知山の瑞巌寺を移したもので、父則頼の分霊をここにうつし、その法号梅林院から寺号を改めたものです。 本堂正面には浮彫りの扉を持つ唐門が優れた威容を見せ、裏に廻ると始祖を初め歴代藩主の霊廟や墓塔が、静かな小松林の中に風格のあるたたずまいを見せています。 |
筑後大堰 | |
筑後大堰は、佐賀県三養基郡みやき町(右岸)と福岡県久留米市(左岸)に設置された堰長501.6m、総貯水量550万立方メートルの可動堰で、河道の洪水疎通機能の確保と河床の安定を図るとともに、筑後川下流部における有明海の高潮による塩害防除や既得かんがい用水の取水位の安定を図るものです。 また、新たに水道用水約30,000立方メートル/日が確保されるとともに、上流ダムにより確保された水道用水の取水位の安定も図られます。 |
つきほし歴史館 | |
月星化成内に靴の歴史を展示したミニ博物館(つきほし歴史館)があります。いつでも見学可能です。 高村光太郎の彫刻遺作「倉田雲平像」、明治時代のミシンなど珍しいもの陳列しています。 |
青木繁旧居 | |
わが国近代絵画の歴史の中で一際あざやかな光を放つ天才画家・青木繁。 その青木が少年期を過ごし、豊かな芸術の才能を育んだふるさとの家が復元整備され、一般公開しています。 建物は、木造2階建、延床面積110.6平方メートル。 漆喰の壁が緑に映える静かなたたずまいで、内部には青木の実像にせまる資料や写真パネルなどを展示しています。 |
玉垂宮 | |
国の重要無形民俗文化財で、日本三大火祭りの一つである鬼夜が行われる玉垂宮は玉垂命、八幡大神、住吉大神が祀られています。 神功皇后の三韓出兵に大功のあった藤大臣(高良大明神・玉垂命とも称す)が、ここで没したと言われ、天武天皇のころ、672年(白鳳元)三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祀らせ、そばに1宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号したのに始まるといわれます。 |
大善寺旧庫裡 | |
明治5年、大善寺の跡に開設されたのが宮本洋学校です。これは久留米洋学校と柳川洋学校を合併移転したもので、校舎はこの大善寺の建物の寄贈を受けて使用し、外国人教師として英国人宣教師ジョージ・オーエンを招いたことは有名な話です。宮本洋学校閉校後も、その建物は宮本小学校、宮本高等小学校等として利用されてきました。 |
御塚古墳 | |
外観は前方部が短く平坦なため、その形状から帆立貝式前方後円墳とも呼ばれるものである。築造時期は5世紀頃と推定されている。弘化5年(1848年)に測量を行った久留米藩の学者矢野一貞の写生図では、3重の堀で囲み直径が130m程あったことが分かる。 |
権現塚古墳 | |
御塚古墳の北隣にある。2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150m、墳丘は径55m。外濠は一部埋め立てられた所があり渡ることが出来るが、墳丘は内濠があり渡ることが出来ない。内堤上からは埴輪片や土器などが発見されているが、古墳そのものの築造年代判定資料に乏しく内部構造も不明である。 |
目安町の一里塚 | |
久留米市指定史跡・天然記念物。久留米と柳川を結ぶ柳川往還(現・県道23号線)にある榎の古木は、かつて旅程の目安に植えられたものです。西側に榎、東側に松を植え、旅人の緑陰休憩や雨宿りにあてがわれました。400年前にはすでにあったとされ、久留米札の辻(現・通町)から一里(約4キロ)に当たります。現在は榎だけが残っていますが、東側に松の若木が植えられ、往時をわずかに再現しています。久留米市内に残る数少ない一里塚です。 |
安国寺甕棺墓群 | |
安国寺の西側には、東西60m南北90mの草むらが広がっています。 昭和54年、区画整理に伴う発掘調査によって65基のカメ棺が発見され、翌年には「安国寺甕棺墓群」の名称で国の指定史跡となった貴重な遺跡です。 |
安国寺 | |
安国寺は天武天皇の御代、白鳳(白雉)二年(651)、中国の南都東大寺より来朝した萬法唯一大師が萬法寺と号し開山したのが始まり、と伝えられている。この地は古くは武内宿禰の遠孫である神代氏の館があったといわれ、その神代氏が開基となっている。 時代は下がって暦応二年(1339)、足利尊氏は国家安泰を祈願するために、諸国に安国寺の建立を発願したが、この安国寺もそのときに号を拝し、月庭和尚を開基として後醍醐天皇の冥福を祈るために再建された。 |
高良大社 | |
耳納連山の最西端、標高312メートルの高良山に鎮座するのが、旧国幣大社で筑後一の宮であった高良大社です。 |
御手洗橋 | |
ここは、もと谷あいで土橋がかかっていました。 安永年間(1772〜80年)、久留米藩が今のように整備して放生池を営み、享和3年(1803)9月に石橋ができました。橋の擬宝珠(欄干のネギの花の形をした飾り)は、藩の御用鋳物師植木家の作であります。 左手前方の中島には、厳島神社があります。池の南岸の玉垣は、高良の神がここで御手を洗って山に登られた、といういわれのある井戸の名残りです。 |
高樹神社 | |
古くより元高良山地主神といわれています。境内は明治十年に定められ同六年三月十四日、郷社になりました。 |
久留米成田山 | |
千葉県の成田山新勝寺から分霊を勧請して1958年に開山された。身代わり不動尊で有名。内部が展望所になっている高さ62mの慈母観音像は日本最大。近年、建立されたインド村・平和大仏塔と極楽殿はインドのブッタガヤ大仏塔同型のものであり、世界で2基目、日本唯一のもので38mの高さを誇っている。
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浦山古墳 | |
古墳時代、5世紀後半につくられた全長60mの前方後円墳。その歴史的価値から現在は国指定史跡となっています。中心部にある石室と内部の家型石棺は保存施設となって一般公開されていますが、普段は施錠されているので、見学の際は成田山の本堂にてカギと懐中電灯を借りることになります! |
二軒茶屋弘法山 | |
弘法山は浦山古墳の南東にあたる小高い山で一連の浦山古墳群の霊地であって古来より交通の要路でみい街道が通過していた。由来は古く文政年間にさかのぼる。 |
藤山甲塚古墳 | |
古墳は、明星山から複数延びる丘陵の先端標高約60mに位置します。平成元年(1989)の発掘調査の結果、5世紀中頃に造られた全長約70mの帆立貝式前方後円墳であることが解りました。 |
高良下宮社 | |
高良下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400)、或は天武天皇の白鳳2年(664)の創建といわれています。 上宮を遥拝する位置にあり、平安時代には国司の司る名社で「高良下宮」と呼ばれていました。南北朝時代の天授3年(1377)征西将軍宮懐良親王が当社に願文を納められたことは有名です。 有馬家入国の際、神領を寄進され府中町の氏神となりましたが、今日でも「祇園さん」の名で親しまれています。 |
上津天然温泉 遊心の湯 | |
こんこんと湧き出る湯、四季の彩りに包まれながら、湯ったりとくつろげる露天風呂です。 0.5ミクロンの気泡が全身を快く刺激する絹の湯をはじめ、泡の湯など表情に富んだ温泉をたっぷりとお楽しみください。 |
熊野神社 | |
創建 安政3丙辰歳(1856) 祭主 井上伊豆守盛禮 熊野大明神を謹請す 再建 明治12年 再々建 平成3年9月・台風19号により被害、平成11年11月再建 寛延記(寛延2年=1749)に開基の義不相知、尤 従前々所の祭礼所に仕居申候。とある |
東林寺 | |
聖武天皇の勅願寺で行基菩薩の開基と伝わる。創建当初は上津荒木村字大寺にあったという。 元禄年中久留米藩第四代藩主有馬頼元公の崇拝を受け鎮護国家の道場として御井郡藤光村に再建され、真言律宗の筑後総本山と称されていた。 本尊の千手観音像は将軍綱吉の等身大で将軍家からの寄進と伝えられる。 |
高良御子神社 | |
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に9躰の皇子あり、人皇20代允恭天皇の御字(412−453)、高良の神の御詫宣(おぼしめし)により阿志岐山上に9躰の社を、大宮司孝成造立す。 48代称徳天皇神護景雲2年(768)阿志岐山上より現在地へ遷宮された。 |
動乱蜂花火 | |
悪疫退散、五穀豊穣を祈願して花火が打ち上げられる「花火動乱蜂」は、その昔、豊作と平穏を祈願し、住民が花火を奉納したのが由来で、その後、久留米藩の砲術指南役が本格的に改良して今の形になった。蜂の巣をつつかれた親蜂・子蜂が一斉に外に飛び出すように花火が四散することからその名が付けられた。県の無形民俗文化財に指定されている。 |
日吉神社 | |
承平2年(932)今より約千年余前宮一品、兼基親王、山王宮を御建立せらる。これが当地に日吉神社が鎮座された始めである。戦国時代天正7年(1579)社屋兵火により焼失したが、寛永9年(1632)国分村庄屋国分十右ェ門により再建され爾来住民は産土神(生まれ土地の守護神)として尊崇して来た。 |
筑後国分寺 | |
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の勅願によって、筑後の国も国分寺が建てられました。この日吉神社にその遺跡があります。 |
柳坂曽根の櫨並木 | |
昭和39年5月県の天然記念物に指定されたハゼ並木で、南北約1.1kmに現在約200本が現存します。 ハゼの実は西日本の特産物1つで、18世紀前半から各地で栽培されました。久留米藩でも、享保15年(1730)竹野郡亀王村(現田主丸町)の庄屋竹下武兵衛が初めて栽培し、宝暦年間頃、著名な「松山櫨」を発見して他国にも普及しました。市内では寛保2年(1742)に御井郡国分村鞍打にハゼを植えたことが確認できます。 その後、小郡の内山伊吉が優良種「伊吉ハゼ」を生み出し、筑後ハゼの名声は高くなりました。 |
善導寺 | |
開山は承元2年(1208)といわれ、浄土宗の開祖法然の高弟聖光上人が、筑後国在国司草野永平を大檀那として建立した草野家の菩提寺で大本山の格式をもった古刹です。 山門を進むと右手に樟の巨木(県指定天然記念物)が見られ、左手には大梵鐘(県指定文化財)があって、荘厳な境内ぶりをうかがうことができます。 |
龍護山千光寺 | |
1192(建久3)年に、筑後在国司草野永平が千光国師を招いて建立した日本最古の禅寺の一つ。アジサイが美しいことでも有名で、6月のアジサイの時期は見学料として200円が必要。 |
若宮八幡宮 | |
草野永平は源平合戦のおり、摂津国平野若宮社に祈願して功をあげ、源頼朝から筑後国在国司、押領使の両職を授けられました。 その神徳に報いるため、文治3年(1187)に分霊を勧請したもので若宮八幡宮縁起二幅、宋風狛犬などが保存されています。 なお2年に1度(西暦奇数年)9月5〜16日に行われる御神幸祭は市指定無形民俗文化財(昭和59年6月29日市指定)です |
下馬場古墳 | |
6世紀後半に築造された直径30m、高さ5mの円墳で、石室は、羨道、前室、後室からなる横穴式古墳です。壁面には青、赤の彩色を施した同心円や三角文が見られる装飾古墳で、国指定の史跡です。 |
山辺道文化館 | |
久留米市の東部、耳納北麓に広がる草野の伝統的町並みの中にある建物で、病院として使われていました。建築年代は久留米市花畑で建設中であったものを大正3年(1914年)に草野町に移築し、完成されたといわれています。九州地区でも珍しい大規模な木造洋風2階建てであり、デザイン的にも優れ、堂々としており、内部にも繊細なデザインを用いるなど優れた建物と評価されています。 |
寿本寺 | |
天文元年(1532)城主草野重永の二男永秀が剃髪、善宗と称し開基したもので、座敷は武家造りにみられる「さやの間」造りです。 |
鹿毛邸 | |
草野には、明治から大正期の農家や蔵がいくつか見られます。中でも鹿毛邸は草野町最古の家屋で、江戸時代中期の代表的民家として、福岡県における民家の変遷を辿る貴重な資料となっているそうです。 |
草野歴史資料館 | |
昭和59年2月1日開館。建物は、明治43年7月、株式会社草野銀行本店として建てられていたもので、和洋折衷の均整のとれた様式です。 国の登録文化財です。 唐草文をあしらった門扉や垣棚などのデザインは、旧三井郡の中心地として栄えていた草野人の先進文化吸収への自信を表すものとなっています。 資料館には、当地方の豪族草野氏ゆかりの絵縁起や古文書等が展示されています。 |
専念寺 | |
1204(元久元)年に創建されたと伝えられ、「九州の日光」と称される美しい寺。本堂内部は、朱・緑青・金泥のきらびやかな彩色が施されている。本堂内部は見学不可。 |
須佐能袁神社 | |
建久8年(1197)時の権力者・草野永平の創建といわれ、旧名草野祇園社です。 本殿・拝殿・楼門がいずれも県指定文化財であり、中でも特に見事な彫刻がほどこされた楼門は圧巻です。 また、権現造りの社殿は、荘厳さの中に美しくたたずんでいます。 夏休みになると、最初の土・日曜日で1年おきに(西暦偶数年)開催される御神幸祭では、風流獅子舞、大名行列が行われます。 |
石浦大橋 | |
浦大橋は江戸から昭和まで利用された橋で、地元大橋町の町名の由来となった由緒ある石造桁橋である。1698(元禄11)年に造られ、豊後街道の巨勢川に架けられていた。この橋は福岡県内の中でも、大牟田市の早鐘眼鏡橋、筑後市の熊野神社の眼鏡橋に次いで古い石橋であり、横に渡した桁で荷重を受け、橋脚などで支える構造の桁橋としては県内最古である。石材は、かつては良質の石材の産地として知られた浮羽郡の山北石が使われている。 |
植木苗木発祥の碑 | |
田主丸の植木・苗木の生産は、今から約300年前の元禄元年、藩の財政建て直しのために、はぜ、桐、桑の栽培から始まりました。現在では全国でも1・2を競う植木・苗木の大生産地になり、多くの樹種が育成され、緑の供給基地として全国から業者や観光客が訪れています。 |
田主丸ふるさと会館 | |
田主丸町の玄関口、JR田主丸駅の駅舎は、この町に多く河童伝説が残っていることなどから、カッパがねそっべている形になっていています。 ふるさと会館の中には、田主丸町観光協会があり、他に特産品展示場にはカッパにちなんだ地元のお菓子町の特産品などが展示され、2階はカッパ伝説などを紹介した河童資料室があります。 |
楽太郎河童 | |
「楽しく生きる」という田主丸の人々の願いがこめられた21世紀のシンボルです。両手に田主丸特産の柿と武道を持って経済効果をアピールしています。 |
観音寺 | |
和銅元年元明天皇の詔命で行基菩薩によって開創されました。今もなお多くの寺宝を残し、2月には寺内にある樹齢約350年のハルサザンカを祝う「さざんか祭り」が行なわれます。 |
石垣神社 | |
創立は西暦709年。旧竹野郡七ヶ町村の宗廟であり久留米藩主有馬公の祈願所でした。 |
田主丸大塚古墳 | |
田主丸大塚古墳は、山包の道沿いにある全長103mの前方後円墳で、北部九州の中では最大級の大きさを誇る。平成10年に発掘調査が実施され、墳丘には葺石が確認され、石垣状になっているなどの特徴が見られた。石室は、大きな盗掘にあっていない可能性が高いが、内部の調査は後世に譲られ、現状のまま埋め戻された。 |
千代久地蔵尊 | |
このお地蔵様は、今より169年前、即ち紀元2502年、元千代久庄屋古賀家(後に住吉に改め)の当主が信仰心に燃え当町大字富永字正池に祀られていた関係上正池のお地蔵様(俗に疣地蔵)と称され崇拝者が多かったのであります。 |
郡境石 | |
元禄8年11月に有馬藩が建立した生葉・竹野両郡を分ける郡界標石。 この郡境石から久留米側が竹野郡、日田(大分県)側が生葉郡であった。生葉郡と竹野郡の一部(船越)が吉井町となる。<歴史>藤原鎌足らによって大化の改新のとき律令制(中国)をならい、公地公民・班田収援法を定め、九州は筑後国を含め9国に分かれた。それを統括していたのが大宰府政庁である。国は郡に分かれ、郡は50の里を単位として治めたとされる。後に郡郷制(里を郡へ)に変わり、生葉郡は7郷、竹野郡は6郷に分かれていた。 |
月読神社 | |
月読神社は、目の神様や先が見えるという開運の神様といわれ人々に親しまれています。 毎年1月23日〜25日に開催されるお祭り「三夜さま」では、縁日や植木市もあり、商売繁盛や家運の盛隆を願う大勢の参詣者で賑わいます。 |
天然の湯 あおき温泉 | |
城島に本格天然の温泉『あおき温泉』ができました。 天然の湯でゆっくりくつろげる温泉! ここの湯は肌触りが良く、ヌルヌルとした手触りです。 あおき温泉は久留米・城島地区では珍しい含硫黄成分の温泉で、浴室の中は硫黄の臭いがします。 大浴場と露天風呂、サウナと水風呂もあります。 |
城島鬼瓦 | |
城島瓦は17世紀初頭、有馬氏戸ともに筑後に移ってきた瓦師が、当地に瓦に適した粘土層を発見、製造したのが始まりだという。いぶし銀の光沢と格調高い姿形、耐久性に定評があり、九州各地の神社仏閣、高級日本家屋などによく使われている。棟の両端を飾る鬼瓦は特に有名で、注文があると昔ながらの技法を用いてつくりあげる。 |
城島天満宮 | |
城島天満宮の鳥居は元禄十年(1697)時の大庄屋大石家から献納された明神鳥居系の台輪鳥居である。 柱には、柳川藩の儒者安東省菴の銘文があり、日本人の精神生活の原点が示されている思いがし、この鳥居の付加価値をより大きなものにしている。 |
城島城 | |
城島城は、城島小学校と隣の天満宮境内一帯に築かれていた。かつては水堀によって幾重にも区切られた縄張りの城であったとか。小学校の周囲にもこの堀が残ってたようだが、現在では埋め立てられてしまった。 |
朝倉市 |
朝倉三連水車 | |
筑後川の流れを受ける堀川にかかる朝倉の水車群には、菱野三連水車を始め、三島・久重の二連水車2基があります。 いずれも実働する水車としては朝倉町だけで35ヘクタールの農地を潤しています。 また、当時の高度な農地感慨の粋と多大な労力を費やした貴重な文化財産である事から「堀川用水及び朝倉の揚水車」として、平成2年7月4日には国指定史跡に指定されています。 |
藤井養蜂場 | |
創業明治42年、藤井養蜂場は南は九州、種子島から北は北海道、釧路まで季節の花を追って、はちみつの生産を続ける日本で古い歴史をもつ専業養蜂家です。自家生産の国産はちみつから、世界のはちみつまで約30種類以上。その他、蜂産品であるローヤルゼリーやプロポリス、花粉などを主に各種天然素材健康食品を販売いたしております。 |
三連水車の里あさくら | |
朝倉市やJA筑前あさくらなどが出資し、今年4月28日にオープンした「三連水車の里あさくら」。 約32,000平方メートルの敷地内には、農産物直売所「三連水車の里」を含む交流館のほか、芝生広場が広がる公園には、三連水車の実物大モニュメントがあります。水車は電動で、一年中迫力ある力強い水車の動きを楽しむことができます。 |
隠家の森 | |
樹令1500年以上たち、目通りの幹の周りは18m、樹高は21mある。昔、昼朝倉の関所を通 れぬ人が、夜になるのを隠れて待っていたので、この名前がついたといわれている。 |
恵蘇八幡宮 | |
朝倉市山田にあり、上座郡(じょうざぐん)(現在の朝倉市東部である旧朝倉町及び旧杷木町と東峰村)の総社で、中大兄皇子(天智天皇)は国の発展と戦争の勝利を祈願し、宇佐神社の祭神である応神天皇を祭る。その後、673年に斉明天皇、天智天皇が合祀される。 また、裏山には斉明天皇藁葬地の「御陵山」や中大兄皇子が喪に服された「木の丸殿跡」、その時詠まれた『秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ(小倉百人一首第1番)』の歌碑がある。 |
御陵山 | |
斉明天皇の殯のあとといわれる。 |
山田井堰 | |
筑後川三大井堰の一つ。1663年(寛文3年)、筑後川から水を引き、150ヘクタールの新田が開発された。1790年(寛政2年)、筑後川いっぱいに石堰を築造し、現在も670ヘクタールの水田をうるおしている。 |
杷木神籠石 | |
7世紀ごろの築造とされ、列石線の外側は急斜地であり、南端は筑後川に面し、大宰府と豊前を結ぶ交通の要にある。川という自然の地形を利用した例は他の神籠石には見られず、水陸を視野に入れた山城として築かれたのではないかと考えられる。 |
道の駅 原鶴 | |
福岡県第1号の道の駅です。その一角にあるのが、産直施設「ファームステーション・バサロ」。四季折々のとれたて野菜やフルーツ、”お袋の味”の加工品などが大人気です。モットーは「新鮮・安全・安い」。健康とお財布にうれしい品々が毎日並んでいます。 |
ひまわりフェア | |
福岡県杷木町は、筑紫地方でいち早く日の出を迎えることから「日迎の里」が愛称です。太陽に向かって咲くひまわりは町のシンボルで、平成2年から町をあげてひまわりの植栽を始めました。最初は少ない面積でしたが、平成8年の物産館バサロのオープンにあわせ、現在の「道の駅 原鶴」前の1・6haに植栽されています。通常ひまわりの開花時期は7月〜8月ですが、杷木町では秋の風が吹き始める9月中旬に開花させています。じっくりとひまわりを見てもらいたいと、この時期に咲くように植栽しているのですが、16万本の大ひまわり園なので手入れも大変です。それでも、車から降りてゆっくりと、歩きながらひまわりを楽しむお客さまの満足な様子を見ると、作業にもやりがいがでてきます。 |
ひまわりの湯 | |
道の駅原鶴バサロ前にある日帰り入浴温泉。 ひまわりのような黄色いお湯が楽しめる。 |
平塚川添遺跡 | |
弥生時代後期を中心に堅穴住居や掘立柱建物跡が発見された平塚川添遺跡。周辺を公園として整備し、発掘した遺跡の一部を公開。火おこしや勾玉づくりができる体験学習館がある。 |
あまぎ水の文化村 | |
寺内ダム河畔にある「あまぎ水の文化村」は楽しく遊びながら、水のありがたさや水を大切にする心を学ぶ水源の町甘木ならではのテーマパーク。アクアカルチャーゾーン、グリーンスポーツゾーン、水辺のふれあいゾーンの3つのゾーンに分かれており、屋内施設「せせらぎの館」では水の不思議な力を使った実験や水をテーマにした映像ショーを展開。また屋外では子どもたちに人気のローラースライダーや緑あふれるコミュニケーション広場など自然とたっぷり楽しめます。 |
寺内ダム | |
寺内ダムは、巨大な水ガメとして、私たちの生活を潤すため、また、ある時は、洪水をガッチリ受けとめ、下流を守るため、多くの人々の理解と協力のもとに造られました。
ダムの特徴は岩や土を積み上げて造るロックフィルダム構造。周囲の環境と美しく調和するようにと、水資源開発公団が手がけた最初のロックフィルダムなのです。 |
美奈宜神社 | |
神功皇后の羽白熊鷲征討が創建された伝えられる。旧下座郡惣社。秋月氏や美奈木黒田氏の信仰も厚く、多くの神領や社僧があったと伝えられる。秋の大祭(おくんち)は10月22日。その際に奉納される御神幸行列は市指定文化財。 |
美奈宜の杜温泉 杜の湯 | |
夕暮れの空にうっすらと紅が差し、古民家風の建物に入る・・・。 木の薫りがする趣のある山門をくぐり抜けると硫黄の香りがほんのりと漂う。そう、ここは、甘木・秋月三奈宜の杜温泉「杜の湯」。地下一千百メートルから湧き上がる豊富な湯量だからこそできる贅沢かつ清潔な「掛け流し式」が大きな特徴。春夏秋冬いつ来てもリラックスできる。そう、ここは癒しの空間。 |
黒門 | |
垂裕神社の参道に建っている黒門です。 この黒門は鎌倉時代に古処山城の城門として造られましたが、江戸時代初めに秋月城の大手門として移されました。 そして明治時代からはお宮の神門に使われるなど700年の歴史をもつ古い御門で、福岡県の文化財に指定されています。 |
長屋門 | |
秋月城跡の梅園の入り口に建つ長屋門です。 江戸時代初めに、御館奥御殿の御門として造られました。 門の両側に門番などが住む長屋が続いているのがこの門の特徴です。 この長屋門も福岡県の文化財に指定されています。 |
垂裕神社 | |
秋月城跡にある黒門の石段を登りつめたところにある神社。創建は1880年(明治13)で、黒田長興が祭られている。また、4月第1日曜には秋月春祭りが開催され、秋月どんたくともよばれる。 |
瓦坂 | |
瓦を縦に並べて、土の流れを防ぐ。坂道を通って、大手門に至る。秋月黒田藩時代のお館正門です。 |
秋月八幡宮 | |
秋月八幡宮の歴史は古く、平安時代中期の940年、朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神布皇后の旧地とされる宮の丘で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することが出来たことから、946年、この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりだと記されています。 |
日照院 | |
黒田家の祈願所であった天台宗の寺であり、およそ370年の歴史をもつ 宝筺印塔は安政4年(1857年)建立正面の彫刻は梵字(古代インド文字)が刻んである。 |
武家屋敷 久野邸 | |
城下町秋月の中でも、武家屋敷の様相を残している数少ない家屋のひとつ。腕木門仲間部屋、母屋、蔵資料館、離れ座敷、庭園など、当時のままを忠実に再現している。 |
小郡市 |
七夕神社 | |
七夕神社の縁起としては、肥前風土記(730年頃)の記述があり、荒ぶる神を鎮めるために宗像の珂是古が神意を訊ねると、その神の本拠は大崎にあって機織りの女神を祭る姫社のやしろであったと記されています。 さらに七夕神社(題額は棚機神社となっている)には、姫社神と織女神が祭られています。 姫社神は饒速日尊であり、織女神は饒速日尊の御母、万幡秋津姫命で、御名のとおり機織りの精巧な技術をもった方であろうと思われます。 |
小郡官衙遺跡 | |
北九州では太宰府に次ぐ官衙遺跡で、奈良時代の群衙跡。最近の調査で築地や二重の溝などが発見されて、南側の勢力から太宰府を守る軍事的な機能を持っていたことがわかっています。 |
御勢大霊石神社 | |
仲哀天皇が熊襲征伐の折り、この地で崩御されたが、神功皇后は、天皇の御魂代として霊石を船に積み、三韓征伐を行った。その御魂代である霊石を祭る。 |
横隈宿と本陣跡 | |
横隈宿は筑前街道に沿った筑後最後の宿場で、参勤交代のため九州の諸大名はこの街道を往来していった。 有馬伊予守豊範が筑後の内一万石を賜って、寛文8年(1668)に入部するにあたり、その年12月28日に横隈宿に入り、その本陣に泊まった。その後松崎城を築城し松崎宿が創建され、松崎街道が天下道となり、筑前街道が廃止されて脇街道となったため、横隈宿は次第に寂れて長い年月の間に宿場の構造は見られなくなった。 |
如意輪寺 | |
天平年間729年に行基菩薩が創建したとされる「如意輪寺」には、いつの頃からか愛らしいカエルたちが集まり始め、その楽しげな演出が噂を呼び、通称"かえる寺"として親しまれるようになったそうな。とにかくカエルづくし!今や境内だけでも1千匹を数え、本堂近くのカエル座敷には展示館も真っ青のコレクション約2000点が所狭しと並べられています。 |
横隈山遺跡 | |
現在「みくに野東団地」の名で呼ばれる23万平方メートルに及ぶ範囲を横隈山遺跡という。1973年3月より実施された発掘調査により、この遺跡が旧石器時代から縄文、弥生、古墳、歴史時代と間断なく生活の場であったこと、特に弥生時代の遺構群は、ほぼ全域にわたって存在することが明らかにされた。 |
光行土居と一里塚 | |
光行土居は本来、宝満川や大刀洗川などの氾濫に備えた土手で、薩摩街道の設置に伴い、街道として利用されたものと考えられます。 光行土居には大正ごろまで十数本の榎の大樹があったといいますが、今はそれも無く、光行一里塚の記念碑と土手の跡が当時の面影をかろうじて残し、往時をしのばせてくれます。 |
太刀洗町 |
今村教会堂 | |
16世紀後半にこの地方にキリシタン集団が生まれた。キリシタン弾圧の時期は隠れキリシタンとして、1892年信徒発見までその存在は明らかでなかった。双塔ロマネスク様式のレンガ造の教会は、本田保神父は熱心な信者のもと建設を計画し、信者の奉仕作業、外国からの資金援助を受け大正2年に完成した。設計施工は、当時、教会建築の名工鉄川与助氏で、彼の作品の中でも最大かつ秀逸。 |
大堰神社 | |
この地方の水田を潤す床島堰は正徳2(1712)年難工事の末完成をみた。床島堰の恩恵はこの地方の農業振興に欠かす事ができない。大正年間に床島堰建設の指導者をたたえ、草野又六・高山六右衛門・秋山新左衛門・鹿毛甚右衛門・中垣清右衛門・丸林善左衛門を追加合祀した。 |
床島堰用水路江戸前水道 | |
床島堰は正徳2(1712)年に難工事の末、完成したが、関連施設で現在当時の面影を残すものは多くない。その中で昔をしのぶものができるものとして水門に使われていた「享保十二年」銘の石材が南水道に残っている。 筑後川の水は恵利堰から床島用水を経て、江戸前に至り大堰神社の地点で大きく二分されていた。水路は小石原川を潜り、南北の二水道にわかれ、南北水門を経て各支線へと分岐された。 |
三原城跡 | |
中世の在地豪族三原氏の居城跡。東西110m、南北150mの範囲に外堀・内堀を構え、角矢倉・物見櫓等を設けた平城であった。天正14(1586)年当主三原紹心が筑前岩屋城で討ち死にし、この城も役割を終わったとされる。外堀・内堀は今でもはっきりと残っており、平城としては貴重である。 |
本郷高良玉垂神社 | |
建久元年(1190)筑前高祖城主原田種直の子種朝が三原氏を継ぎ三原城に入城しました。このとき筑前筥崎宮に願い出て高良新宮の神霊を分祀し城内に奉り三原城の守護神としました。その後延元3年(1338)城中では兵火にかかる恐れがあるとして、三原種昭が現在の地に奉祀し、相殿に八幡神、住吉神を合祀しました。 |
菊池武光銅像 | |
正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隅原まで進出した。この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。 |
下高橋官衙遺跡 | |
一辺が150m規模の大溝で囲んだ方形区画が東西に並びその中に大規模な掘立柱建物群が整然と建ち並んでいる。建物の性格から西の区画は税の米を納めた正倉院、東の区画は政務などを行う郡庁・曹司院、併せて奈良時代のこの地方の郡役所と推定される。古代の郡役所の典型がここにある。 |
筑前市 |
仙道古墳 | |
九州では珍しい「盾持武人埴輪」がほぼ完全な形で出土したことで知られる装飾古墳。石室には、赤や緑で丸や三角などの不思議な絵が描かれており、春と秋には一般に公開されます。あずまやには、原寸大の石室模型があり、こちらはいつでも見学できます。 |
焼ノ峠古墳 | |
城山の北麓にある古墳時代前期(4世紀後半)の築造で、類例が少ない前方後方形をしています。全長39.8mで、当時この地方一帯を治めていた首長の墓と考えられています。 |
四三嶋虚空蔵菩薩 | |
朝倉郡筑前町は四三嶋地区、花立山(城山)の中腹付近にお祀りされている「虚空蔵菩薩」は、地域住民に"こくぞうさま"と呼ばれ親しまれている菩薩像です。毎年1月13日と9月13日に「虚空蔵まつり」が行われ、お参りする際に菩薩さまから5円玉をお借りして、願い事が叶ったら次の大祭で借りたお金を倍返しして感謝をする風習があるそうな。 |
うきは市 |
道の駅うきは | |
うきは市の日森園にある「くど造りの民家」をモチーフにした木造建築で、うきは市の情報ステーションとして観光協会や物産館、お食事処、家宝資料館などがあります。 |
宇土遺跡 | |
当遺跡は、道の駅うきはの建設に伴って調査を行いました。検出した遺構は、方墳一基と箱式石棺十基と竪穴系石室三基が検出され、このうちの五基(方墳一基・箱式石棺一基・竪穴系石室三基)を現状保存しています。時期は、四世紀から五世紀と推定され、この周辺を治めていた有力者のお墓と考えられます |
清水寺 | |
建長元年(1249年)、常陸国の出身、日用比丘という人が錫杖(しゃくじょう)を負うて各地を遍歴して浮羽に入りました。 たまたま観音山に詣って、佳木がうっそうとして茂り、泉石がしょうしゃたる処、俗塵を洗うような清浄な処であることを愛し、遂に自ら茅屋を結んで、閑居すること数年、郷人がその徳行の非凡なことをみて大変尊敬し、比丘のために競って浄財を喜捨し、たちまちにして寺院が出来たといいます。 |
清水湧水 | |
臨済宗清水寺の境内にこんこんと湧き出る清水湧水は、昔から飲料水や生活用水、農業用水として利用され、地域住民の生活を支えてきた貴重な命の水。昭和60年には環境庁の「日本名水100選」にも選ばれた。湧水量は1日あたり1000立方メートルで、水量は1年中安定している。水温17℃、無色透明、無味無臭でPH7・8度のきわめて良質の湧水である。 |
珍敷塚古墳 | |
珍敷塚古墳は、昭和25年に開墾作業中に偶然発見されたが、損壊が激しく、現在は横穴式石室の奥壁と側壁を残すのみである。しかし、装飾古墳としては貴重であり、古墳時代の文化や信仰を推察することができる。 壁画には、赤、青、黄色を使い分け、船や舳先に止まった鳥、船を漕ぐ人、その他、弓と盾を持つ人やヒキガエルが描かれている。画の構図が素晴らしく、表現豊かに古代人の様子が描かれている。 |
原古墳 | |
珍敷塚古墳の南110mに位置する径約12.4m、高さ約3.5mの円墳で、内部主体は西に開口する全長8.9mの単室の横穴式石室です。奥壁の腰石と側壁の一部に赤色の壁画が残ります。奥壁の絵は、中央に準構造船のような大型の船が描かれています。右側が船首で、大きな櫂が2本描かれています。船上には弓を持った人物と櫂を操る人物が乗っており、馬もしくは遺体を納めた屋形を見ることができます。船尾の近くには3個の靫が、また、右上部には弓を持った人物が描かれています。奥壁は採石のため一度抜き取られ戻されましたが、反対向きに置かれたため、壁画が外を向いて保存されています。 |
鳥船塚古墳 | |
原古墳の南135mに位置する円墳で、内部主体は西に開口する単室の横穴式石室ですが、奥壁の腰石2段が残るだけで石室は破壊されています。奥壁の絵は、2段目には大きな盾が描かれ、1段目には同心円文と船、2個の靫が描かれています。船は人物が乗った大型の船で、帆を張る柱は2ヶ所、大きな櫂もあります。船の舳先と艫には鳥が各1羽止まっています。 |
古畑古墳 | |
鳥船塚古墳の南200mに位置する径約20m、高さ約3m程の円墳で、墳丘は2段築成で段築面に円筒埴輪が並んでいました。内部主体は南西に開口する副室の横穴式石室です。奥壁の鏡石には赤色で同心円文・三角文・人物が描かれています。 |
三春天満宮 | |
三春天満宮に於いては、毎年12月7日の例大祭礼式の当日当番区では総出でその準備、一切の世話を行うのであるがその中にこの古式豊かな火鑽の神事がある。火鑽杵(桧の丸太棒)を火鑽臼に立て、火鑽杵を2人がかりで上からおさえ、その杵にかけた綱の両端を各2〜3人で交互に引合い、その木のまさつによって火をおこす方法である。こうして得られた火を斎火といい、神に供える食べ物の煮炊きのほか、各神前の燈火などの火種として用いられるものである。 |
大生寺 | |
仏殿は5間半4方(約98u)本尊薬師如来は行基菩薩の作という。貞亨4年(1687)博多聖福寺より移築された建物である。殿内に安置されている 頭尊者木像は日本にある三体の一つといわれている。奇端あるをもって当時九州各地より参詣者が多く、その多額のお賽銭をもって仏殿が建立されたという。 |
浮羽島 | |
うきは市浮羽町は、その昔「景行天皇」が浮羽の地を巡行されたときに「我がうきはや」("うき"は盃の意)と、随行のものが盃を忘れたことを嘆かれた故事から地名が付いたとされています。酒と盃ということで、天皇が立ち寄られた地「浮羽島」にお酒を棒げ、お出でいただいた皆さんに「酒を楽しんでいただく祭り」として『酒楽祭』と名づけられた。 |
若宮神社 | |
若宮神社は鎮西八郎為朝が、仁平3年(1153)に、源氏の守護神鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したもの。 10月17日、収穫感謝の神事の後、お旅所の高橋神社へ向けて、五庄屋川に沿って白壁の土蔵が軒を連ねる通りを、2頭の道分獅子を先頭に神幸行列がはじまる。この行列の主役は奴姿の毛槍衆。槍を巧みに回して威勢をつけ、「ヨイヤ、マカセ」の掛声とともに投げ上げる毛槍振りには、観客から拍手がおこる。そのほか、稚児行列、鎧武者の行列もこの毛槍行列に続く。 |
日岡古墳 | |
日岡古墳は若宮八幡宮境内の東にある、古墳時代後期に造られた全長約74mの前方後円墳で、一重の周濠が巡っています。後円部にある横穴式石室の壁全体に様々な文様が描かれており、壁画系の装飾古墳の中で古いタイプのものです。 |
月岡古墳 | |
月岡古墳は若宮八幡宮境内北西隅にある、古墳時代中期に造られた全長約80mの前方後円墳で、三重の周濠が巡っています。江戸時代に発掘され、後円部には、竪穴式石室は現存していませんが、長さ5.5m×幅2.7m程の多量の副葬品が出土した長持形石棺を御神体とした社が建っています。尚、出土品についてはうきは市立吉井歴史民俗資料館特別収蔵室に展示しています。 |
村田英雄生誕地記念碑 | |
1929年1月17日、福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)に生まれる。梶山春雄の養子となり、梶山春雄一家は佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)へ引っ越す。3歳で茶目丸と称し初舞台を踏む。7歳で九州の大物浪曲師酒井雲門下に弟子入りした。 |
賀茂神社 | |
賀茂神社は南北朝時代の正平元年(1346)に征西将軍、懐良親王が九州を兵乱や戦禍から守るため、領主山北四郎大蔵永高に命じ、山城国愛宕郡賀茂下上大神を祀ったのがおこりといわれています。時の大宮司は熊懐平馬太輔行景でした。 その後天正七年(1579)に大友宗麟の配下柴田嶺能の兵火にみまわれ、社殿や宝物などが焼失しましたが御神体は境内を流れる川中の石に移され、水を注いで類焼を免れたといわれ、みそぎ石として現在も残っています。 |
塚花塚古墳 | |
塚花塚古墳は、古墳時代中期といわれる円墳で径約30m、高さ約6mで、南面した石室が構築されている。羨道は破壊されて見ることはできないが、前室は長さ2.2m・幅2.7m、後室は長さ3.3m・幅2.9m・高さ3.7mである。天井石や後室壁など巨岩を使用している。壁画はこの奥壁を主体として描かれ、赤・緑・黄の三色を用い、3個の大わらびて紋や5個の同心円をはじめ、靭や三角紋などが岩面いっぱいに描かれている。 |
重定古墳 | |
重定古墳は現在長50m余、後円部径44m高さ約8mの古墳時代後期の前方後円墳で、石室は南面した横穴式である。石室は安山岩の巨石を用いた全長約17mもある豪壮なもので、前室は長さ、幅ともに3m高さ2.6m、後室は長さ3.7m、幅3.2m、高さ3.5mである。前・後室の壁画には、朱や緑青をもちいて多くの靭、同心円その他の壁画が描かれている。なお奥室に接して厚さ60cmの石棚が造られていることも珍しい。 |
楠名古墳 | |
楠名古墳は重定古墳と同時に1件として指定されたもので、古墳時代後期と思われる径約30m〜18mの石室は安山岩の巨石を用いて築かれている。装飾古墳ではないが、特に、11mもある長い羨道や、前室が後室に比べて大きいことなどはこの古墳の特徴である。 |
調音の滝 | |
「調音の滝」は、筑後川に注ぐ巨瀬川の源流で、標高400mの高地にあります。魚返りの滝、斧淵の滝とともに、巨瀬の3滝と呼ばれています。杉木立と棚田、茶畑に囲まれ、平成7年には林野庁の『日本水源の森百選』にも選ばれました。流れ落ちる滝の音は、耳を澄ませば、まるでメロディーを奏でるように聞こえることから、「音の調べ」すなわち「調音の滝」と名づけられたといわれています。滝壷から吹き寄せてくる涼しい風は、天然のクーラーのよう。 |
東峰村 |
岩屋神社 | |
ひょっこり空に飛び出した大きな岩が目印の岩屋神社は、欽明天皇の8年(547年)のある日、岩屋に輝くものが振ってきました。社僧はこれを宝珠石と名付け、ご神体として神殿を造ったのです。 大化4年(648年)には村人に「星の玉・宝珠石を茅薦で包んでまつれ」と神のお告げがあり、以来、閏年の旧暦9月19日(現在は10月19日)には「薦替えの儀」が行われています。 |
国境石 | |
豊後と筑前の国の国境を示す国境石。向かって右側に従是北筑前国(これより北筑前の国)と書いてある。 |
福井神社 | |
福井神社の祭神は伊弉諾尊・言解男尊・速玉男尊である。英彦山神社神領内48大行事のひとつに比定されているが、近辺の大行事の主祭神が高皇生霊尊であるのと異なり、この社の主祭神は伊弉諾尊、英彦山俗体権現を勧請したものと伝えられている。 |
一本杉2号古窯跡 | |
一本杉2号古窯跡は、17世紀後半の中野焼の窯跡で、胴木間とよばれる燃焼室と6つの焼成室を持つ、全長20mの連房式登窯。中野焼は、小石原焼へとつながる窯である。出土品は擂鉢(すりばち)が主で、その他に雑器などがあった。現在は、当時の様子を推定復元し、公園として整備されている。 |
道の駅「小石原」 | |
「小石原焼」の窯元50軒が陶器コーナーを出店! 地元の新鮮な野菜等を即売する物産コーナー、レストラン、情報コーナーなども設置しています。車を降りれば新鮮な空気がとても気持ちいいですよ! |
高木神社 | |
高木神社は、JR日田彦山線大行司駅を出た正面にあります。明治維新以前は、大行事社と呼ばれていました。819年・弘仁10年に彦山霊仙寺が寺領として七里四方を嵯峨天皇から与えられ、彦山神領・彦庄が成立すると、彦山は、822年・弘仁10年に、神領内の各村に鎮守神として、高皇産霊尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊をご祭神とする大行事社を置いたと言われています。 |