前原


糸島市

平原遺跡
昭和40年に発見された曽根丘陵上の墳墓で、古代北部九州を知る上で貴重な遺跡です。日本一の大きさ(46.5cm)の銅鏡「内行花文鏡」5面を含め40面にも及ぶ銅鏡や、ガラス製勾玉3個・ガラス製管玉20個以上・小玉600個以上・琥珀蛋白石(後にガラス玉と判明)500個以上・メノウ製管玉12個・鉄製素環頭大刀1本が出土しています。
1号墓より出土した膨大な数の副葬品の中に武器がほとんど含まれていないこと、装身具の豊富さなどを考慮に入れると、そこには女性の存在が浮かび上がり、地元では「伊都国女王の墓」と呼ばれています。

旧藤瀬家住宅
江戸時代の大庄屋だった藤瀬家住宅が解体された際、 市教委が建材を引き取り、 平原歴史公園(同市有田)の開園に合わせ昨年3月、 同公園一角に、4800万円かけて移築し、 建築当時の姿を復元した。
かやぶき平屋建て、 広さ約137u。 柱に打ち付けられていた祈とう札から、 1737(元文2)年に建てられたことが分かっており、 建築年代が明確な民家としては、 九州最古級とされている。

三雲南小路遺跡
この遺跡は江戸時代に発見されました。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』(青柳種信著)には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)と書かれています。中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、璧1枚が出土しています。

端山古墳
三雲集落の東の水田の中にある前方後円墳です。前方部が北を向いた古墳でしたが、前方部が完全に壊されてなくなっており、後円部だけが残っています。墳丘は全長約 78.5m、後円部の直径約42m、高さ約8m、前方部の長さ38m、幅約23mです。後円部は2段に造られており、墳丘の斜面には葺石が施されていたと考えられます。前方部の先端が横に突出する柄鏡形の前方後円墳です。墳丘のまわりには盾形の周濠があったと考えられます。

築山古墳
三雲集落の東のはずれにある前方後円墳です。前方部を北西に向けた古墳ですが、前方部も後円部も一部が壊されています。墳丘は全長約 60m(推定)、後円部の直径約49m、高さ約8m(推定)、前方部の長さ30m(推定)、幅約25fm(推定)です。後円部の直径に比べ前方部がやや短めです。墳丘の斜面には葺石が施されていたと考えられます。墳丘のまわりには盾形の周濠があったと考えられます。また、周濠から壷型の埴輪が出土しており、墳丘には埴輪が立てられていたと考えられます。

井田用会支石墓
井田用会支石墓はもとは神社から北へ約600mの水田の中にありました。上石は355cm×302cm、厚さ約37cmで支石墓の上石としては糸島地方最大で、国内でも最大級のものです。埋葬施設は不明ですが、石室状の構造ではないかと推定されています。副葬品と思われる管玉22個が出土していますが、これは朝鮮半島にみられるものと同じです。この支石墓は約2400年〜2200年前(弥生時代早期〜前期)に造られたと考えられます。

怡土城跡
怡土城は前原市と福岡市との境にある高祖山(標高416m)の西斜面一帯に築かれた古代山城です。『続日本紀』によると、天平勝宝8年6月(756年)から神護景雲2年2月(768年)まで約12年の歳月をかけて完成したとされています。築城担当者は当初は吉備真備でしたが、途中から佐伯今毛人に交代し完成しました。

高祖神社
この高祖神社の創建は定かでありません。貝原益軒の続風土記では、中世の頃「怡土の庄・一の宮」として中座に日向二代の神、彦火々出見尊を、右座に神功皇后、左座に日向三代の玉依姫を祭ると記されています。
三代実録には「元慶元年(877年)高磯比盗_に従五位下を受給す」とあり、神話にちなんだ社だそうです。

千如寺大悲王院
樹齢約400年の楓の大木は、四季折々に美しさを誇り、11月頃には見事に紅葉します。中庭の室町時代作庭の心字庭園は力強い石組と、県指定天然記念物のビャクシン・楓・ツツジに彩られています。
鎌倉時代作の本尊の木造千手観音立像(4.54m)と清賀上人座像(0.70m)は国指定重要文化財です。

雷神社
雷山は真言の密教道場であり、中腹にはインドの僧清賀上人が開山したとされる千如寺大悲王院があり、その中の坊であった旧観音寺跡に、雷(いかずち)神社が祀られている。
また、雷神社の中宮は、石祠の上宮への途中にあり、かつて黒田藩時代の雨乞いの祈祷所でもあった。

波多江神社
波多江神社の主祭神は国常立神といい、天地創造のとき現れた別格神です。

志登支石墓群
この遺跡は前原市北部の田園地帯、標高約3mの低地にある墓地群です。発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

熊野神社
祭神は、熊野社系ということもあり「伊弉冊命」・速玉男命」・「事解男命」の、いわゆる熊野三神です。

志摩町歴史資料館
志摩町の歴史をわかりやすく展示している常設展示室をはじめ、企画展示室や埋蔵文化財の収蔵庫、調査・研究のための学芸員室、会議室等を備えています。

四反田古墳群
志摩町歴史資料館裏の丘陵上に分布する古墳群で、円墳で構成されている。古墳群中の一基からは墳丘上部より二基の竪穴式石室が検出されている。
現在でも半壊した一基の古墳では石室石材を確認することができる。

馬場六所神社
馬場六所神社の境内には樹齢千年を越える樟の大木が二本あり、大きさは胸高周囲8.5m、7.5m、樹高28.0m、39.0mある。35年4月12日に県の天然記念物に指定されている。

相薗橋
「このあいぞん橋はなぁ筑前中で一番早う架けられた石橋じゃったとばい
へへぇそげなこと。
やっぱぁ輿止姫さんと殿様のおかげふぁったとたい」
「それがくさ昭和28年の大水で流れてしもうたもんなぁ」
「そげないわれのある橋ばほんなこと、惜しかったなぁ」

桜井神社
糸島郡・志摩町の北部、桜井地区にあるその名も「桜井神社」は、寛永6年(1629年)、第2代黒田藩主・忠之公によってつくられた筑前地区の守護神・与止姫大明神をおまつりしているお社。33000平方メートルという広大な境内には杉やクスノキなどの大樹が見られ県民の森に指定されており、また本殿や拝殿、楼門なども全て県の重要文化財に指定されているという見所満載のスポットになっています!

浦姫宮
慶長15年(1610)6月1日早朝から2日未明にかけて、この桜井の地に雷鳴轟く大暴風雨があり、初めて岩戸の神窟が開き、神様が出現されました。その神様が大変霊験あらたかな神様であると、世に出された神女のりくら(浦新左衛門常治の養女)を、後に浦比賣大神として奉斎しているのが浦姫宮です。

桜井・二見ヶ浦
三重県の二見ヶ浦の朝日に対し夕日の二見ヶ浦として有名で玄海灘の落日はこの地方を代表する。

芥屋の大門
芥屋の大門は高さ64m、奥行90m、洞口の幅10m、その先端は小岬角となり、日本最大の玄武岩洞となって玄海灘に突出(伊都の国、神の住居の芥屋の大門、鯛と平目と出会う紺碧)

航空隊玄海基地之跡の碑
此の地は太平洋戦争末期昭和二十年春第六三四海軍航空隊本隊玄海基地として開設され前進基地として鹿児島県牛根村に桜島基地を置き両基地より奄美大島古仁屋基地を中継基地として菊水作戦に参加し水上爆撃機瑞雲隊による沖縄周辺の敵艦船夜間攻撃を敢行すると共に海軍航空史上初の零式水上雷撃隊を編成し本土決戦に備えた最大の秘匿海軍航空基地の跡である

深江神社
豊臣秀吉が名護屋城へ出陣中この宮に詣でて野点(茶宴)を催し、その時、淀君ご懐妊の知らせを受けた。秀吉は深江神社を秀頼の産宮にしようと思い、時の領主、小早川隆景に命じて社殿を再興。中津領以来さらに尊崇され、400年の伝統を持つ秋の神幸祭は多くの人々で賑わい、大正初期までは流鏑馬も行われる盛大な神事だったという。

一貴山銚子塚古墳
JR一貴山駅の北100m、二丈町大字田中字大塚に位置する一貴山銚子塚古墳は、墳丘の全長が103mで、糸島地方最大の前方後円墳です。4世紀後半に築かれたものと推定されており、国の史跡にも指定されています。




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