松島町 |
松島 | |
松島は、宮城郡七ヶ浜町字御殿崎の突角から桃生郡鳴瀬町波島(端島)の南端を見通す線と、同郡鳴瀬川河口右岸から波島東端を見通す線との結合線内の海面、島々の全部および沿岸の大字全部が指定地域であり、総面積は9,717ha、海岸線の長さは約33kmである。この大湖水の観を呈する海上に230余の大小の島々が浮び、日本三景の一つとして四季それぞれに趣を変える景勝の地をなしている。 |
観光遊覧船 | |
仁王島、鐘島、桂島など大小の奇岩が次々と移り変わる風景が満喫できます。松島発着ですので、お車の方にも便利です。 |
瑞巌寺 | |
天長5年(828年)慈覚大師によって創建されたと伝えられる。「瑞巌寺」は奥州随一の禅寺で、伊達政宗の菩提寺である。現在の建物は慶長14年(1609年)政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたもので、政宗が心血を注いだ荘厳な大伽藍といえる。 |
瑞巌寺洞窟遺跡群 | |
元来、納骨や供養の為の施設で、造営は鎌倉時代に遡り、江戸時代まで続いた。 松島は古来「奥州の高野」と呼ばれ、浄土往生を祈念する神聖な霊場であった。 |
円通院 | |
瑞巌寺の西隣にある円通院は、伊達家二代藩主忠宗の次男である光宗の墓所(県重要文化財)。光宗は、文武両道に長じていたため、外様大名から名君が出ることを警戒していた幕府から恐れられ、毒殺されたというのが定説です。その死をいたんで建立された御霊屋(三慧殿)は支倉常長がヨーロッパから伝えた西洋文明の影響が強く、厨子(ずし)の右扉の内部には、日本最古といわれる西洋バラの絵が描かれています。 |
三聖堂 | |
天和2年(1682)瑞巌寺101世鵬雲によって建てられたこの堂は方3間の素木造、屋根は宝形造で茅葺、正面に一間の向拝のついた、素朴端正な建物である。堂内正面中央に聖観世音菩薩、左に達磨大師、右に菅原道真を安置したことから三聖堂という。堂は当初北向きに建てられたが、宝永6年(1709)に参拝者の便をはかるため、南向きに改められ現在に至っている。創建以来、屋根替え以外の修理は行われていない。「三聖堂」の扁額は創建者鵬雲の筆による。創建当時の棟札が残されている。 |
五大堂 | |
松島のシンボル・五大堂は、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征のおり、毘沙門堂を建立したのが最初。後に、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、大聖不動明王を中心に、左右降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれています。現在の建物は、伊達政宗が再建したもので桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。 |
解脱院 | |
堂は江戸時代初期に建造。屋根は宝形造の茅葺です。 堂は最初、五大堂の裏手の丘にあり、寛永17年(1640)に瑞巌寺第99世雲居希鷹によって、水族館の場所に移され、昭和12年、水族館の建設によって現在の地に移されました。 |
マリンピア松島水族館 | |
日本三景のひとつ松島にある水族館です。全国的にも珍しい民営の水族館で、アミューズメント施設も園内に併設されています。 約270種3500点の海の生き物たちがいます。「おもしろアクア・ラボ」では海に住む生き物たちの不思議な能力を実験を通して体験できます。また、ひょうきん者のアシカショーも見どころです。 |
塩竈市 |
鹽竈神社 | |
古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として崇敬を集めてきた鹽竈神社。現存する建物は伊達政宗公が再興を始め、綱村公の時代(1704年頃)に完成した。国の重要文化財に指定された社宝の太刀、国の天然記念物のシオガマザクラなど貴重な遺産も多い。裏坂(女坂)と呼ばれる参道の途中に博物館があり、宝物などが展示されている。 |
志波彦神社 | |
鹽竈神社の境内にある。国土開発・殖産、とりわけ、農耕守護の神として信仰されている。みなと祭では、鹽竈神社の神輿とともに練り歩き、御座船に奉安し、百隻をこえる供奉船とともに、松島湾を巡幸する。 |
多賀城市 |
陸奥総社宮 | |
陸奥国の統府で延喜式内社100社を合祀し、国司自ら祭りごとを行った神社。 |
多賀城跡 | |
8世紀前半頃に創建された多賀城は、10世紀にかけて陸奥国府として、さらに陸奥・出羽両国を統轄する按察使が常駐し、奈良時代には鎮守府も併置されるなど、東北経営の中枢的な役割を果たしました。多賀城跡は、東の塩竈市から延びてくる低い丘陵上に立地し、多賀城市市川・浮島にかけて所在しています。 |
多賀城碑 | |
多賀城碑は、多賀城跡の外郭南門から30mほど城内に入ったところにあります。高さ196cm、最大幅92cm、最大厚さ70cmの花崗岩質砂岩で、古い覆屋の中にほぼ真西を向き垂直に立っています。碑面は加工されていますが、背面は自然面です。碑面上部に「西」の1字があり、その下の界線で囲んだ中に11行140字が次のような内容で彫り込まれています。 |
多賀城廃寺跡 | |
多賀城廃寺跡は、国府多賀城の南東約1kmの高崎地区の低丘陵上に立地しています。 この寺院は古代に建設されたものですが、当時の文献には何ら記されてなく本来の名称はまったくわかりません。 多賀城廃寺の「廃寺」という言葉は、廃れてしまって本来の名称がまったくわからなくなった寺院をさすものであり、「廃寺」の前に多賀城を付けるのは、この寺院が多賀城と密接に関わっていたと考えられるからです。 |