宮崎市 |
宮崎神宮 | |
旧官幣大社。神武天皇を祭神とし、左の相殿に父ウガヤフキアエズノミコト、右の相殿に母タマヨリヒメをおまつりしてあります。狭野杉で造営された流れ造りの清楚な社殿です。 社伝によれば「崇神天皇の御字、宮殿の御造営あり、次いで景行天皇熊襲御親征に当り、御建宮あり、更に応神天皇の御字日向国造老男これを鎮際し、後世後鳥羽天皇代建久8年(1197)地頭土持氏社殿を造営し、正保元年(1644)文化10年(1813)天保10年(1839)に造営改築される。 |
青島 | |
青島は古くは淡島・歯孕の浮島とも称される周囲1.5kmほどの小さな島です。この島の植物はビロー樹をはじめとする種子植物の自生および栽培品併せて74科174種2亜種5品種計209種、これに洋歯植物17種を加えて高等植物総計226種が島内にあります。 |
鬼の洗濯板 | |
俗に「鬼の洗濯板」と称され、新第三紀(約1500〜3000万年前)に海中で出来た水成岩(砂岩と泥岩の累層)が隆起し、長い間の波蝕により出来たもので、青島から南の巾着島までの約8kmの海岸線に見られます。 |
青島神社 | |
祭神は海幸、山幸の伝説で知られる山幸彦とその妻豊玉姫と塩土の翁。 奉祀の年代は明確ではありませんが、国司巡視記「日向土産」に″嵯峨天皇の御字奉宗青島大明神″と記されており、820年代以前から奉祀されていたと思われます。 |
青島亜熱帯植物園 | |
宮崎県のMと波状岩をあらわした大温室(幅47m、奥行22m、高さ16m)を中心にフェニックス、女王ヤシ、ガジュマルなどの各種の珍しい亜熱帯植物が繁茂。世界的に有名なシンガポール植物園とは姉妹植物園になっています。 |
道の駅 フェニックス | |
道の駅 フェニックスは、 日南海岸の入口「堀切峠」から南へ約1kmにあり、 眼下に波状岩(鬼の洗濯岩)と美しい海が見渡せる絶好のビュースポットです。 四季を通して美しい花々が咲き誇る当駅は、約20本のフェニックスやジャカランダ、ブーゲンビリアなど南国情緒いっぱいです。 また近くには、青島神社や青島海水浴場、白浜オートキャンプ場もあります。 |
野島神社 | |
野島神社は、天暦3年(西暦949年)今から1056年前の野島の漁民達などが建てました。 その後、1446年に武将田口久次が再興しました。天暦3年、野島の漁民は、浦島太郎と思われる老人をまつるやしろを建てました。 |
生目神社 | |
本神社は古来、生目八幡宮(活目とも書く)と称えていましたが、明治維新に至り、生目神社と改称せられた。 昔より眼疾に霊験あらたかなりとして崇敬殊に厚く、「日向の生目八幡様」として、広く知られ、九州はもとより、北は北海道、本州から直参祈願される参詣者も多い。 |
天ヶ城公園 | |
標高120m、展望は抜群で大淀川の雄大な流れと西に霧島連山、東に日向灘、宮崎市街地が望めます。国道10号線から見る天ヶ城も雄大で、街並みとの調和も良く高岡の町を引き立てています。 |
清武町 |
船引神社 | |
祭神は足仲彦尊、誉田別尊、息長足姫。 つまり、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。 1087年創建で、当初は正八幡大神と言われていたそうです。 |
清武の大楠 | |
樹齢およそ900年といわれる大楠は船引神社の境内にあり、社殿を見守るように常緑の葉を繁らせています。 高さ25m、幹回り13.2m、根回り18mの堂々とした姿は、県下最大の楠として知られ、昭和26年に国の天然記念物に指定されました。 |
西都市 |
西都原古墳群 | |
東西2km、南北4km、標高約70mの平坦な洪積層台地に4世紀後半頃から6世紀にかけて築造されたと推定される古墳群です。さまざまな形をした古墳の数は311基。昭和27年に国の特別史跡に指定され、さらにわが国第1号の風土記の丘として昭和41年から44年にかけて整備されました。その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの古代の謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けています。周辺には神話を伝える場所がたくさんあります。歩いて約1時間のこのルートは「記・紀の道」と名付けられています。 |
西都原ガイダンスセンター このはな館 |
|
西都原ガイダンスセンター「このはな館」は、西都市の大型総合案内拠点施設として、平成15年10月16日にオープンしました。 おかげさまで、18年10月16日に3周年を迎えました。 「このはな館」には、古墳群の概要をはじめ西都市周辺の史跡などの案内や観光情報の提供、地場産品等の展示・販売や古代食の体験(レストラン)など、多彩なサービス機能を備えてあります。 |
日向国分寺 | |
日向国分寺の建立時期については定かではないが、『続日本記』の天平勝宝8(756)年12月20日の条に、越後・丹波をはじめ日向など26か国が記載されていることから、国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられた741年から756年までの16年間に建立されたと思われる。 |
木喰五智館 | |
日向国分寺を江戸時代再興したのが木喰上人ですが、住職となって3年後の寛政3年(1791)国分寺は火災により消失しました。翌年、国分寺再建の大願を立て、伽藍の再興に着手するとともに、五智如来像の彫刻にも取りかかりました。それが現存する宝生・薬師・大日・阿弥陀・釈迦の五智如来像であります。木喰五智館は、その五智如来像を安置するためのもので、平成7年度に国分寺跡の一角に建てられました。 |
都萬神社 | |
「さいまんさま」とも呼ばれており、日向式内社の一つで、コノハナサクヤ姫を御祭神としている。 |
千畑古墳 | |
墳丘測量が行われていないため、詳しいことは不明だが、自然の地形を前方後円墳形に整形したものと考えられている。内部主体は横穴式石室で、南側に開口している。切石を横積みし、天井には巨大な板石を使用した横穴式石室は県下最大のものであり、全長9.2メートル、玄室の幅2.7メートル、高さ2.8メートル、羨道の長さ1.7メートル、高さ1.5メートル。 |
高鍋町 |
舞鶴神社 | |
旧高鍋城(舞鶴城)内二の丸にある。高鍋藩政時代に応神天皇、菅原道真、漢高祖等別個に祀られていた神社を、明治四年の廃藩にあたり、高鍋の住民の総意により合祀し、併せて秋月家歴世の神霊を配し、旧城名をとって舞鶴神社となりました。 |
高鍋城本丸政庁・奥御殿跡 | |
高鍋城本丸、奥御殿は第3代藩主、種信公の延宝4年(1676)に完成した。 長峰御門を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。 |
寒山拾得の石仏 | |
「かんかんぼとけ」と呼ばれる二体の石仏は、代々高鍋藩主秋月氏の守り神として関わりが深く、「秋月家に何か異変が起こると、石仏の傷がはっきり出て夜泣きしてしらせた」という話が残る |
新富町 |
百足塚古墳 | |
祇園原古墳群の東側の斜面を南北に連なるグループの前方後円墳群のほぼ中央にあります。前方部をほぼ正南に向ける前方後円墳です。 前方後円墳で,後円部・前方部ともに2段に造られています。周囲には盾形のみぞが巡らしてあります。長さ約80m,後円部の高さ約9m,前方部の高さ約8.5mもあります。みぞを含めた長さは110m以上です。祇園原古墳群では4番目に大きいものです。祇園原古墳群がたくさんに造られ始める最初の前方後円墳です |
木城町 |
永山古墳 | |
この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。 |
高城城址 | |
戦国時代、この城は当時日向国を支配した伊東氏が配置した48城のなかでも重要な城として栄えていました。しかし、伊東氏没落後1578年、島津藩の支城となっていた高城は島津軍二万、大友軍五万による攻防戦の舞台となり、激戦ののち大友軍は敗走します。 下って1587年、今度は九州平定に乗り出した豊臣軍二十万の軍に包囲されましたが、この時も城は落ちることはありませんでした。 |
根白坂古戦場 | |
根白坂古戦場は、1587年大友氏が島津氏との戦いで援護を求めた豊臣秀吉の弟である秀長が率いる軍勢が戦いのために砦を築いた場所といわれています。 |
川南町 |
宗麟原供養塔 | |
天正6年11月島津氏と大友氏の壮絶な戦いが高城川を挟み行われた。西の関ケ原といわれた九州を二分する合戦である。両軍の戦死者の数は2万人といわれる。この戦いに勝利した島津義久は高城主山田新助有信に敵味方の区別なく手厚く葬るよう命じた。 山田新助有信は大旋餓鬼のとき豊後塚に六地蔵塔建立を計画し翌年2月建立。これが後に、土地の人々が呼んでいる「宗麟原供養塔」である。 |
川南古墳群 | |
正式には、国指定史跡川南古墳群といいます。1961(昭和36)年2月25日に指定されました。約0.5平方キロメートルの広さに、前方後円墳24基含む古墳群です。おそくとも、4世紀には、最初の前方後円墳が造られたと推定されています。そして、川南古墳群に葬られている豪族の勢力が強かった時期は、4世紀の終わりごろと考えられています。このころの大きな墳丘は、柄鏡形墳丘といわれ、東九州独特の形です。 |
都農町 |
都濃神社 | |
大己貴命をご祭神としてまつっている一之宮都農神社。 神武天皇がご東征の際にここに立ち寄り、祈願されたと伝えられています。 当時日向国の国府の近くにあるどの神社よりも神位が高く扱われ「日向国一之宮」となったそうです。 一之宮都農神社の周囲には一之宮公園があり、人々のいこいの場となっています。約2,600本の杉の木に囲まれた緑あふれる神社です。 |
西米良村 |
菊池記念館 | |
菊池氏は、文亀元年(1501年)頃から幕末に至るまで、米良一帯を領していた殿様で、藩籍奉還に際し所領の土地、山村をすべて領民に分配し、その生活を助けました。昭和8年村民は菊池氏を永遠に顕彰するため菊池邸を建設し、30代武夫公に贈りました。その後昭和31年菊池記念館と改称し、菊池氏の遺徳を偲ぶ象徴的存在となり現在に至っています。
|
歴史民族資料館 | |
古くから焼畑農耕の地であった西米良の農法の歴史や人々の暮らしを伝える民俗資料館をはじめ、菊池一族の遺品や書簡など、村の歴史を伝える約1,000点の貴重な資料を収蔵・展示しています |
西米良村古墳第1号 | |
本古墳は西米良古墳第2号(狭上古墳)及び第3号(小川古墳)甲斐右膳大蔵父子の墓とともに宮崎県史蹟として指定されている。先代の地域住民は本古墳を神の山として伐木等を禁じていたという。 また本古墳の下方で昭和8年4月11日林道工事中に土器や鉄製品が発掘された。その古墳が円墳であったか前方後円墳であったか不明である。 |
村所八幡神社 | |
伍西将軍宮懐良親王と米良重鑑を祭ったこの神社は役場横の細い坂道を登った小高い丘の上にあります。例大祭で奉納される村所神楽は約600年の伝統を持ち、多くの見物客が訪れます。 |
米良家墓地 | |
米良家墓地は旧米良郷の領主のかつての居留地に散在している。 本墓地には、第3代重治公や代4代重艦公、代7代重直公などの墓がある。 |
かりこぼうず大橋 | |
車が通る木造橋としては日本最長の橋(140m)です。米良三山をイメージした三角形のトラス(けた組み)が美しい木橋は、横から見ると高さ24.1m、長さ50mのトラス2基と、高さ11.6m、長さ25mのトラス1基が連結しており、とても迫力があります。 道路は幅員7mの2車線。橋脚と路面のアスファルト、トラスを引っ張る鉄筋、接合部分以外はすべて県産スギの集成材を使用しています。 |
国富町 |
法華嶽公園 | |
風になびく1,000本の桜の木、季節を告げる約80種類の花や木があでやかに揺れ、緑に色を添えます。はるかに望むのは釈迦ケ岳、森林浴をたのしみながら約2時間ほどの登山は爽快。愛染川の渓谷で、ヤマメ釣りをたのしんでみるのもいいですね。 |
法華嶽薬師寺 | |
奈良時代718(養老2)年に釈迦岳(881m)の山頂に金峯山長喜院として建てられたのが創建とされる。 平安時代に入り伝教大師(最澄)がここを訪れた折り、薬師如来のみ中腹の法華嶽に移して本堂を建立した。 |
深年神社 | |
夏と秋に祭りがあります。秋の大祭は11月14日となっていますが、最近は日曜日に行います。 昔は、ヨイマカや子ども奉納相撲などが行われていました。 |
剣柄稲荷神社 | |
国富町の本庄にある稲荷神社は、彦稲飯命・玉依姫命・神倭磐余彦命を祀っています。 通称剣柄稲荷と呼ばれ、古墳の上に建てられた神社です。 鎮祭は12代景行天皇の12年11月、または同天皇の32年11月ともいわれ、昔から崇敬の念が厚く、古い由緒が想像できます。 |
稲荷のクスノキ | |
樹齢(伝承)750年と言われており生育状態も良好天然木としての姿をよく維持している点では 県内有数のクスノキといえます。 幹周 8.1m 樹高約30m 県内では11番目の大きさとの事。 |
本庄古墳群 | |
国富町の本庄台地に分布する古墳群、4世紀後半から6世紀にかけての古墳群で、昔から本庄四十八塚と呼ばれてきました。町の中心部にある本庄台地上を中心に、東は宮王丸、西は飯盛にかけて分布しており、台地上に散在する丘地はほとんど古墳とみなされています。 1934年(昭和9)、前方後円墳17基、円墳37基、横穴2基、地下式横穴墓1基の57基が本庄古墳群として史跡に指定されました。 |
萬福寺 | |
天台宗の名刹、万福寺。彦火火出見命の故事に由来する、犬熊(本庄)にある寺です。ここは、熊が襲ってくるのを知らせて吼えた犬を、怒って殺してしまった彦火火出見命が、犬と熊を弔った場所だと言われています。 見どころのひとつ、枯山水の庭園(楽山園)は見事。中央に数百年を生きた紅梅の名木を配し、吉野の石、京都の白川砂、北山杉などを取り寄せて作られた桃山式の庭園です。遠くにかすむ鰐塚山を借景にして、落ち着いた小庭園です。 |
綾町 |
綾城 | |
綾城のはじまりは、今からおよそ660年前の元弘年間(1331年〜1334年)足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠が収納使として綾を領有し、綾に山城を構え、綾氏と称したころと考えられています。 綾氏は数代城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代八代将軍義政のころ、都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりました。したがって、綾城も伊東氏48城の一つとなり島津氏と戦う伊東方の重要な役割を果たしました。 |
綾国際クラフトの城 | |
綾町では、森林が育んだ文化を永い歳月大切に守ってきました。そのひとつが綾町のいたる所で見ることの出来る伝統工芸品づくりです。使う人の身になって制作される心のこもった絹織物・木工品・竹細工・陶器など多くの工芸品が工芸者の手によって作り継がれています。 この「綾 国際クラフトの城」は、そのような文化を後世に残すようにと、町内の職人達の手で、町内に自生するカヤ、ケヤキなどの銘木を使い、一つひとつ丹念に作り上げられました。 |
綾神社 | |
綾神社の由緒は古く、凡そ 1,150年前、天長年間の創建で、仲哀天皇、仁功皇后、応神天皇の三神を正祀とし、三之宮大明神と称し、国の安泰、五穀の豊穣、家内安全を祈るところとして建立された。 その後、天和年間と天明年間に改築がなされ、明治初年にまた大修築を行い、町内25社を合祀して綾神社と改称した。 |
酒泉の杜 | |
日本一の規模を誇る照葉樹林と国土庁選定の『水の郷』、宮崎県綾町に昭和60年12月雲海酒造3番目の工場として綾工場は誕生しました。 地元の自然を守りながら、そしてその自然を生かせる産業を町におこしたい・・と考えていた当時の町長からの働きかけもあり、できたのがこの綾工場です。工場の設計・建設にあたっては、綾町の観光拠点となるよう本格的な見学コースも設けました。 |