長崎市 |
大浦天主堂 | |
元治元年(1864年)に完成した大浦天主堂は、現存するわが国最古の教会堂。外国人宣教師の指導によって日本人大工が建設した遺構として、西欧の建築技術やその影響を知る上でとても貴重なもので、国宝に指定されています。 |
グラバー園 | |
四季を通じ様々な花が咲き誇る緑に包まれたグラバー園は、眼下に広がる長崎港の大パノラマを見下ろす絶景地、南山手の丘に立地している。 |
旧三菱第2ドックハウス | |
1896年(明治29年)、三菱重工長崎造船所第2ドックの側に建てられていた洋館。昭和47年、グラバー園に移築。 明治期建築の典型的スタイルの木造の2階建て。当時は修繕船の乗組員の休憩宿泊施設として利用されていました。 |
旧長崎高商表門衛所 | |
1905年(明治38年)の建築。 東京、神戸につぐ高等商業学校、長崎高商(現長崎大学経済学部)創立時の遺構です。モダンな装飾に障子の間と、和洋折衷の造りになっています。 |
旧ウォーカー宅 | |
明治中期の建築。大浦天主堂の近くにあったものを移築。 日本様式を取り入れた木造平屋寄棟造り。建設当時は西側の出窓や東側のベランダはなく、シンプルな造りだった。 |
旧長崎地方裁判所長官舎 | |
明治16年の建築。 元長崎会所跡(長崎歴史博物館付近)に建っていたもので、居留地外に建てられた洋風の官庁建築物としては、長崎に残るただ一つ現存する貴重な建物です。中には畳敷きの部屋もあった。当時居留地の外でも西洋化が進んでいたことが伺える。 |
旧リンガー邸 | |
明治2年(1869)トーマス・ブレイク・グラバーから借地権を譲り受けて建てる。 外壁は石造りの木造住宅で、建物全体を「列柱吹き放し」と呼ばれる角石、御影石敷のベランダで囲まれている。南欧風バンガロー形式の建物で、明治初期洋風建築として貴重な建物となっています。 |
旧オルト邸 | |
1865年(慶応元年)頃の築。 長崎に現存する洋風建築の中では最大規模のもので、本格的洋風建築、ウィリアム・オルト旧邸を建築したのは、天草出身の大浦天主堂も手掛けた職人・小山秀之進。 ベランダの高い天井を支えているタスカン様式の列石柱が印象的で、三方にベランダをめぐらせた重厚な木造・外壁石積の建築。裏手には当時の厨房・倉庫、また、崖に造られた天然の貯蔵庫(年間を通して20℃前後)がそのまま残されています。 |
旧スチイル記念学校 | |
この建物は、1887(明治20年)にアメリカのダッチ・レフォームド教会外国伝導局長スチイル博士が、18歳で亡くなった息子ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校「スチイル・メモリアル・アカデミー」で、東山手9番地(旧英国領事館跡)に建てられていました。 |
旧グラバー邸 | |
文久3年(1863)の築、正面玄関を設けない独特のバンガロー風様式を残す日本最古の木造洋風建築。もともとは逆L字形で周囲にベランダを設けていた。最初は接客用として使用していたが、のちに住居となり改築を加えていく。 |
ボウリング日本発祥地 | |
ボウリングは安政開港後、わが国で初めて長崎に伝えられた。文久元年(1861)6月発行の英字新聞に、居留地広馬場に「インターナショナル・ボウリング・サロン」開設を知らせる広告が出ている。 |
長崎市歴史民俗資料館 | |
長崎はかつて海外との交易が盛んであり、その影響は市民生活に溶け込んでいます。 資料館では、今日まで伝承されてきた風俗習慣や年中行事等長崎特有の各種資料が展示されています。 |
旧羅典神学校 | |
明治6年(1873)キリシタン禁教が停止となり、各地に配流されていた浦上村の信徒が釈放されたのを契機として、大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画し、明治8年(1875)に完成。設計と監督に当たったのはドロ神父。わが国最初の木骨煉瓦 造り。大正15年(1926)までラテン神学校校舎兼宿舎として使用。以後司祭館や集会所にも使用され、その間若干の一部改造があった。昭和47年(1972)5月15日、国指定重要文化財となる。 |
カトリック大浦教会 | |
国宝大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、司牧のためには不都合となってきたため、昭和50年(1975)11月、小教区信徒のために、長崎教区が大浦天主堂の隣接地に新たに建立した。 |
国際電信発祥の地 | |
明治4年、デンマークの電信社が長崎〜上海間に海底線を敷き、外人居留地のホテルの一室で日本最初の国際電信業務が開始されました。同年、長崎〜ウラジオストック間の交信も開始されています。 明治6年には東京・長崎間、横浜・長崎間に電線仮設工事を終わり、同年に月大北電信会社の一部を局舎にあて、長崎電報局と名付け公衆電報の取扱いを始めています。市民病院の大浦海岸通りに「国際電信発祥の地」の石碑があります。 |
十六番館 | |
長崎市の南山手にあるグラバー園出口の向かいに建つ十六番館は、1860年(安政7)に初代アメリカ領事館員の宿泊所として利用された洋館です。作家・故 遠藤周作氏が長崎を訪れた頃は、観光展示室として利用され、歴史ある遺品を公開する施設でした。このとき見た“踏絵”が小説『沈黙』を描くきっかけとなったそうです。 |
大浦東山手居留地跡 | |
幕末の安政開国(1859年)で多くの欧米人が長崎に居住するようになった。 この外国人専用の居留地が大浦の東山手、南山手、出島などに設定された。ここにはヨーロッパ風の建物(洋館)が建ち並んでいた。ホテル、事務所、劇場、バーなどが町並みをつくって洋風の街が出現。今もなお異国情緒が残っている。 居留地は日本の治外法権の地区で外国人の自治地域であった。 |
湊会所跡 |
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歴史でも知られているように江戸時代、鎖国政策のなかで長崎は海外に開かれた唯一の貿易港でした。 幕末の安政5(1858)年、五カ国(ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカ)との修好通商条約が締結され、翌安政6(1859)年に長崎は横浜、函館とともに新たな貿易港として出発しました。そして、この年湊会所が設置され、貿易・外交に関する事務がこの地で開始されました。 |
オランダ坂 | |
東山手の丘に建つミッションスクール、海星高校体育館の登り口に「英国聖公会会堂跡」の記念碑が石垣に埋め込まれている。ここは文久2年(1862)、日本初のプロテスタントの会堂・英国聖公会会堂が建設された場所。 |
東山手十二番館 | |
ロシア領事館として建設され、その後アメリカ領事館やメソジスト派(婦人外国伝道協会)の宣教師の住宅として利用されてきた初期の洋風建築形式を用いた木造洋館。長崎港に向かって建ち、眺望を重視した配置になっている。 |
旧香港上海銀行長崎支店記念館 | |
香港上海銀行は明治25年(1892)に長崎に支店を開設。明治37年(1904)に竣工したこの建物は、明治から昭和初期の建築界の異才・下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構で、ギリシア古典建築様式のコリント式を用いた長崎市内の石造り洋館として最大級のもの。この支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行だった。 |
ピースミュージアム | |
長崎出身のさだまさし氏の呼びかけで全国から集められた募金によって建立。名誉会長にグラフィックデザイナーの原田泰治氏を迎えボランティアスタッフが運営。国内外に広く公募した企画展やコンサート会場として利用されている。 「平和の素晴らしさを身近に感じられること」を展示の基本としているため、一般の人が写真展や絵画展を開くことも可能だということが何よりの魅力。平成13年(2001)4月の開館から現在まで、メッセージ性あふれる個性豊かな企画展を行ない続けている。建物の規模は小さいが展示内容は世界規模なのだ。 |
旧長崎英国領事館 | |
大浦海岸通りに面するレンガ造2階建の領事館建築が印象的。安政5年(1858)、諸外国との修好通商条約が結ばれた後、長崎は開港場として自由貿易を開始。この建物は外交事務がはじめられた際、上海の英国技師ウイリアム・コーワンの設計に基づき、長崎市大浦町の後藤亀太郎が施工したもので明治41年(1908)に完成した。 |
梅ヶ崎ロシア仮館跡 | |
文化元年(1804)レザノフ使節上陸のロシア仮館跡地。 |
気球飛揚の地 | |
1805年(文化2年)、和紙で作った熱気球がロシア人の手で長崎の空に初めて気球が浮かびました。 梅香崎町に「気球飛場の地」の石碑が建っています。 |
運上所跡 | |
1863年、それまでの呼称であった湊会所が運上所と改称されました。1869(明治2)年の廃藩置県後は、所管が県や外務省に移行、1871年、大蔵省所管となり、1872(明治5)年、現在の「長崎税関」と改称されるに至りました。 |
鉄道発祥の地 | |
日本で初めて鉄道が開通・営業したのは明治5年。東京〜横浜間というのは周知のことですが、それより7年前の1865年(慶応元年)グラバーはこの地に600mの鉄道を敷き、イギリスから取り寄せた蒸気機関車に客車を引かせお客を乗せて走らせました。彼は当時上海で開かれていた英国博覧会に出品の蒸気機関車と客車を取り寄せ西欧の先端技術のデモストレーションを行なったそうです。 市民病院の大浦海岸通りに「鉄道発祥の地」の石碑があります。 |
長崎電気軌道 | |
1914年(大正3年)8月2日設立の軌道事業者である。1915年(大正4年)11月16日、病院下(現・大学病院前)〜築町間の電気軌道(路面電車)を開業し、現在、5路線4系統を営業する。以前はバス事業も行っていたが、1971年に長崎自動車(長崎バス)に事業譲渡して撤退している。通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間では電車という名称もよく使われている。 |
日本ニ十六聖人殉教地 | |
慶長2年(1597)、豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。キリストが十字架に架けられたゴルタゴの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれている。26聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑された。戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。 |
日本二十六聖人記念館 | |
二十六聖人等身大のブロンズ像の裏手にひっそりと建つこの記念館には、「キリシタン時代から伝えられたもの」「現代その歴史を現すために制作されたもの」という大きく2つに分けられた内容が展示されている。聖フランシスコ・ザビエルのポルトガル国王ヨハネ3世宛の手紙、天正少年使節の中浦ジュリアン神父の手紙、島原の乱の記録、マリア観音、16世紀のブロンズ・ピエタなどの資料や、様々な作家による油絵、フレスコ画、日本画などを展示している。 |
聖フィリッポ西坂教会 | |
西坂の丘で殉教した26人が列聖、つまりキリストに続く偉い人として聖人となったのは殉教から約250年後。この聖堂は、列聖100年を記念し日本二十六聖人記念レリーフが建立された昭和37年(1962)、日本二十六聖人記念館と同時期に日本のカトリック系の人々が中心となって建てられた。設計は日本二十六聖人記念館同様今井兼次氏によるもの。彼は昭和の初め頃、スペインの有名な建築家アントニオ・ガウディを日本に紹介した有名な人物。 |
西坂地蔵尊 | |
寛文8年(1662)此処に安置す。椛島町民が大波止の海中から地蔵尊を拾い上げた。それを井樋の口に在る聖徳寺に納める為人夫が運搬して此処に来た時急に重くなり動かせなくなったのでそこに置いて帰った。夜に夢枕に地蔵尊が立ち西坂に安置せよとのお告げがあったので此処に安置した。 |
本連寺 | |
元和6年(1620)、大村本経寺の僧・日彗によって建立された日蓮宗の寺院。 |
高木家墓地 | |
高木家は,初期の頭人の一人で,その後町年寄に任ぜられ,1739年9代忠興の時,長崎代官3000石をたまわり,代々勝山町に住み代官をつとめた。 墓碑は,4代宗能から8代忠栄まで,代官墓碑は9代忠興と10代忠興で1798年まで見られる。これは1721年8代忠栄が本蓮寺二天門横に位牌所達心院を創設し,11代忠任以後の墓碑はその場所に建てられたからであろう。ただし達心院墓碑群は明治以後別地に移され今はない。 |
サン・ラサロ教会跡 サン・ジョアン病院跡 |
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本蓮寺が建つ以前、この場所には天正19年(1591)に入港したポルトガル船長ベレイラの寄附によって建てられたハンセン病のためのサン・ラザロ病院があり、この病院の傍らには病院附属のサン・ジョアン・バウチスタ教会があった。 |
勝海舟寓居の地 | |
本蓮寺は、開国に向けて力を注いだ幕末・明治の政治家、勝海舟寓居の地でもある。安政2年(1855)、長崎奉行所西役所(現県庁)内に設けられた海軍伝習所の伝習生頭役として来崎した勝海舟は、本蓮寺の境内の太乗院に4年間滞在。熱心に海外文化を学んだという。また、長崎の梶クマ(通称お久)なる女性とのロマンスもあり、二人の子孫はアメリカに住んでいるのだという。 |
カトリック中町教会 | |
現在地はかつての大村藩蔵屋敷跡。明治維新にこの屋敷は廃され、「殉教の歴史を持つこの地に日本人のための教会を」と、創立者の島内要助神父が日本二十六聖人殉教300周年を記念し、明治30年(1897)にカトリック中町教会を建立。 |
大村藩蔵屋敷跡 | |
長崎市中町、中町教会横にこの碑が建っています。ここには江戸時代の初期から大村藩の出先機関がありました。もともと長崎は大村藩の所領でしたので幕府の直轄地になってからも長崎港警備の役目にあたりました。多数の大村藩士が長崎に駐屯して港の番所に勤務し、藩の通商の事務や情報収集などの任務を務めました。 |
万国霊廟長崎観音 | |
昭和54年(1979)、原爆被災者と戦没者の慰霊と平和祈念のために建立されたもの。霊廟の上に立つ慈母観音は高さ34m、重さ35t、間近で観たらそのあまりの迫力にのけぞってしまう程の大きさ。一方、福済寺前の筑後通りを何気なく通っていると、民家と民家の間から突如現われたりして、それはそれでまた楽しめるのだ。 |
福済寺 | |
崇福寺、興福寺、聖福寺と共に長崎四福寺といわれる黄檗宗の唐寺。寛永5年(1628)、唐僧・覚悔が弟子である了然と覚意を伴い長崎に渡来し、現在地である岩原郷に媽祖聖母(航海の神様)を祀ったのが起源とされていて、キリシタン教徒禁制の高潮に達していた当時、キリシタン教徒でないことを証明するために在住する唐人達が地方別に建立した寺院のひとつ。福済寺は明国ちゃく州人の檀家が多かったという。 |
幣振坂 | |
幣振坂の名前は、官営11年(1634)、諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に降ろした際、宰領が御幣を振って、人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では、この坂のほか皓台寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎ロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。 |
東本願寺長崎教務所 | |
平成11年11月9日「非核非戦の碑」が建立されました。長崎教務所では、戦後直ぐおびただしい数の遺骨収容作業を行い、長崎教務所に仮安置所を設けました。そして毎月9日には、名前も分からないこれらの人々の法要も勤めていたそうです。 |
観善寺 | |
山門奥の坂段脇に大きくそびえ立つ大クスは、市指定の天然記念物。 胸高幹囲8メートル、樹高は20メートルで、市内にあるクスノキの巨樹のひとつだ。 |
聖福寺 | |
延宝5年(1677)、隠元禅師の高弟木庵の弟子鉄心によって創建された黄檗宗の唐寺。興福寺、崇福寺、そして同じ筑後通りに面した福済寺と並び長崎四福寺とよばれる。境内には黄檗建築の特徴が多くみられるが建築様式は和風で、崇福寺や興福寺とは違い、朱色塗りを極力さけているため、2つの寺とはまた違った独特の威厳と静寂を放っている。文化財も豊富で大きな木々に覆われ、威厳と静寂に満ちた風情漂う寺院。 |
聖徳寺 | |
1626(寛永3)年、稲佐の悟真寺の開租聖誉の弟子、専誉が建てた浄土宗の寺院で長崎港と浦上との間に突き出たでた丘陵の先端に位置し、むかしは浦上平野の奥深くまで海水がはいっていたので、港湾一帯を見わたす絶景の地でした。 この寺は山里村・渕村一帯を管轄し、浦上キリンタンの檀家寺でもあり、“浦上四番崩れ“はこの寺との関係をやめようとしたところからはじまったのでした。この寺は原爆で焼失、いまの建物は昭和46年再建されたものです。 |
銭座跡 | |
銭座は寛永通宝を鋳造した所で、その最初は万治2年(1659)に開設されたという中島銭座で、その後、築地銭座(1725-38)、稗田銭座(1731-31 場所不明)、銅座銭座(1741-45)と移転した。この地には寛保3年(1743)以降、開設され、馬込銭座と称された。 ここがその中心で、かつて小学校の建設工事中、砥石その他の工具類が発掘されたという。同銭座は延亨2年(1745)に廃止され、、明和4年(1767)以降は、稲佐に設置された稲佐銭座にその機能が移された。 |
出島 | |
出島は、寛永13年(1636)、ポルトガル人によるキリスト教布教を禁止するために徳川幕府が築いた扇形の人工の島。しかし、寛永18年(1641)には幕府の命令で平戸に置かれていた和蘭商館が出島に移転。その後、218年もの間“鎖国期における世界に開かれた唯一の窓”としての役割を果たした。 |
ミニ出島 | |
江戸時代の鎖国期に、日本と西欧を結ぶ唯一の窓口であり、経済・文化・学術の交流拠点として日本の近代化に大きく貢献した人工島「出島」を、昭和51年に川原慶賀の作といわれる「長崎出島の図」を参考に長崎市が制作した模型で、出島和蘭商館跡にあります。 |
旧長崎内外クラブ | |
1903年(明治36年)、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられました。1階は休憩コーナー、2階は居留地時代の展示を行っています。 |
旧出島神学校 | |
1878年(明治11年)に建てられた、現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。1階は料金所や出島売店として利用、2階は当時のゲームなどができる体験展示室があります。 |
長崎電話交換局之跡 | |
長崎で電話交換業務が開始されたのは、明治32年(1899)4月1日で、九州最初の開局であった。交換業務は昼間は女性、夜間は男性が従事したが、明治36年(1903)には女子交換手だけとなりニックネーム「紫式部」(和服に紫の袴着用)が職場の花として市民にもてはやされた。 |
出島和蘭商館跡 | |
鎖国の際に平戸より移され、約200年間唯一の海外貿易所だった商館の跡地。近代の港湾埋立によって市中に埋もれてしまったが、現在19世紀初頭の出島を復元する事業が進行中。10棟の復元建物を見学できる。約15分の1のサイズのミニ出島、出島の歴史やオランダ商館員の暮らしを映像で紹介する出島シアター(無料)などもある。 |
出島橋 | |
「出島橋」は出島跡の東側の中島川に架かる鉄製のトラス橋である。この橋は明治23年(1890)に中島川の河口付近に「新川口橋」として架設された橋であり、その後、明治43年(1910)に現在地に移設され「出島橋」として再デビューした橋である。この橋の鉄骨はアメリカから輸入されて造られたもので、我国の現役の共用道路橋では最も古い鉄製の橋である。 |
思案橋跡 | |
路面電車の思案橋電停、道路をはさんだ両側に橋の欄干を模した思案橋跡の碑が建てられている。この付近にはかつて川が流れ、花街時代、遊廓へ“行こか戻ろか”と思案したので名付けられたという思案橋が架かっていた。 思案橋という名前以前は、川口橋、黒川橋と呼ばれた時代もあり、地元はもちろん外国人の利用も多かったことから、土橋から木の橋、屋根が付いた木廊橋などへと幾度となく変転を重ねたという。思案橋の名前が付いた時期は不明だが、おそらく丸山花街最盛期の頃だろうといわれている。 |
長崎大水害水位 | |
1982年に起きた長崎大水害の水位を示す碑。 長崎大水害とは、集中豪雨による洪水で300人近い犠牲者が出たというもの。赤い点線のラインまで水位が上がったという。眼鏡橋も壊れた。 |
正覚寺 | |
長崎市街地におけるキリシタン滅却後、最初に開かれた真宗の寺院。この寺の門前に「長崎茂木街道ここに始まる」と刻まれた石碑がある。 |
崇福寺 | |
日本最古の興福寺に遅れること9年、寛永6年(1629)に長崎在住の中国福建省の人達によって建てられた。そのため古くは福州寺とも呼ばれていた。 一つの寺でこれだけの文化財を擁するのは京都や奈良を除けば西日本随一という崇福寺。全部で21もの文化財がある。なかでも長崎にある3つの国宝のうち、2つ(大雄宝殿、第一峰門)がこの崇福寺にあることにも注目したい(もうひとつは大浦天主堂)。 また、通常寺の門は“山門”というが、崇福寺は3つの門扉があるため三門といい、さらに二階建ての楼門でもある。竜宮城に似ていることから竜宮門とも呼ばれるこの三門に掲げられた扁額の「聖寿山」の文字は隠元禅師の筆。 |
大光寺 | |
慶長十九年(1614)僧慶了が創建はじめ、すすき原橋のたもとにあったが、万治三年(1660)現在地に移建。 300年以上もの間、一度の火災にも合わず、原子爆弾にもさしたる被害をうけなかった由緒ある寺。 |
大音寺 | |
元和三年(1617)浄土僧伝誉が本博多町(現在の万才町)のミゼリコルディア教会跡地を賜り創建。 寛永十五年(1638)現在地に移転。 現在も大音寺があった万才町の坂道を「大音寺坂」という。 |
発心寺 | |
はじめは宝永七年(1710)に創建されたが、明治十一年(1878)三栗円照のとき寺号公称独立。 |
幣振坂 | |
大音寺と皓台寺、長照寺と延命寺の間の、いずれも風頭山頂へと続く坂道。寛永15年(1638)、当時諏訪神社は現在の諏訪町(寺町周辺)にあったが、その諏訪神社の大鳥居(現在の二の鳥居)を造るため石材を風頭山から切り出し運んだ。途中、あまりに石が大きくて人々が思いあぐねていると、一人の宰領が突然石の上に乗り御幣を振って励まし、何とか石材を麓へ下ろす事ができた。この坂の名前の由来は、そのときの光景からきている、つまり「幣振り坂」。違う意味に考えた人も多いのでは? |
眼鏡橋 | |
名前の由来は川面に映った影が双円を描き眼鏡に見えるのでズバリ眼鏡橋!寛永11年(1634)に、日本最古の唐寺である興福寺の2代住職唐僧・黙子如定(もくすにょじょう)が架設した日本最初の唐風石橋。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋と共に日本三橋の一つといわれている。あまり知られていないが、この眼鏡橋、なんと!皇居・二重橋のモデルでもある。 |
中島川バイパス | |
歴史的建造物の保存を考慮した河川改修 中島川は、昭和57年 7月23日に発生した長崎大水害により甚大な被害を受けました。この水害で国の重要文化財である眼鏡橋も大きな被害を受けました。 河川改修においては、眼鏡橋の保存を考慮し、両岸にパイパス水路を設けることで、洪水に対しても安全な川づくりを行っています。 |
黙子如定の像 | |
長崎の地に370年余りもの長い歴史を持つ眼鏡橋は『黙子如定(1597-1657)』という中国の江西省の僧が寛永9年に日本に渡来し同11年(1634)に我が国最初のアーチ型石橋として眼鏡橋を完成させた。 川面に映るその姿から古来より『めがね橋』の名で長崎の人たちに親しまれ、明治15年に正式に眼鏡橋と命名された。 |
上野彦馬生誕地 | |
長崎市浜の町アーケードからアルコア通りを北方向に進むと右手に医療法人「是真会」が見える。その向かい側に上野彦馬生誕地とされる看板がある。銀屋町16番地である。さらに、この銀屋町通りを西方向に進むと上野彦馬を顕彰する石像がある。 |
えごばた | |
長崎では古くから“溝より大きく、川より小さい流れ”を「えご」と呼んでいます。このししとき川の「えご」は、水質を保つため流れの両脇と底には板石が張られ、水量が少ないときは、流れの真ん中に集めるように工夫されています。 |
裏眼鏡橋 | |
一部で「裏眼鏡橋」とか「第2眼鏡橋」とか呼ばれている隠れた名所。 |
福地桜痴生誕の地 | |
福地源一郎は、幕末の幕臣、明治時代のジャーナリスト、作家、劇作家。幼名は八十吉。号は櫻癡。福地桜痴として知られる。 |
古川町天満宮 | |
肥前鳥居と呼ばれる特異な形の石鳥居が,佐賀県を中心とする北部九州に分布しているが,この鳥居には笠木・島木に肥前鳥居の流れを汲む独特な形が認められる。 「寛永18年] (1641)の年号があり,寛永15年(1638)造立の諏訪神社旧一の鳥居に次ぐ古いものである。 また,「川添町」の町名が刻んであるが,新歌舞伎町・古川町等の町名変遷を考証する資料として,また寛文3年(1663)市中大火にも耐えてきた遺構として貴重である。 |
上野彦馬生誕之地 | |
日本初のプロカメラマンである上野彦馬は、苦労して写真術を研究・開発し、幕末から明治にかけての激動の時代をカメラを通して切り取り、結果として多くの貴重な資料を後世に伝えました。 |
一覧橋 | |
初代の石橋は1657年架設。1795年流出し1801年再架設。1982(昭和57)年の長崎大水害で流出、現在はコンクリートアーチ橋。 |
光永寺 | |
慶長十九年(1614)龍造寺家出身の武士唐津久兵衛(慶西)が浦上に念仏堂を設けたのち、現在地に一寺を建立。 山門は御朱印地様式の遺構で、原爆や水害などの災害にも耐えて創建当時の姿を保っています。 |
袋橋 | |
「中島川の第11橋。この橋は記録がなく、架設月日、架設者とも不詳。中島川の下流の石造アーチ橋では、眼鏡橋につぐ古い石橋との説もあるが、確証はない。しかし、享保6年(1721)閏7月以降、度々の洪水にも流失を免れており、壁面を整然と積む、長崎型石造アーチ橋の形態を良く残している。 |
皓台寺 | |
山号は海雲山。開創は慶長13年(1608)、開山は亀翁良鶴。もと洪泰寺と称したが、寛永19年(1642)現寺号に改称。 |
長照寺 | |
元和寛永八年本蓮寺開山、日慧が創建。 弟子の日与を開基とした。 境内にある水徳浄行菩薩は、この菩薩様の頭から水をかけて清め、体の治してほしい所と同じ所をタワシでこすると病気が治るといれているとか。 |
延命寺 | |
元和二年(1616)長崎奉行 竹中采女正重次の援助で僧・阿門利(あじゃり)龍宣が開山。 境内には、手に数珠を持ち静かな祈りを捧げる弘法大師が88体並ぶ「八十八大師」がある。 それぞれに表情や大きさは微妙に違い、味わい深い。 |
興福寺 | |
日本初の黄檗宗の唐寺である興福寺は、中国・明の商人が長崎と行き来をはじめた頃に渡来した中国人が元和6年(1620)、航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが起源となっている。そして、当時は幕府のキリスト教禁令が激しく長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、興福寺を筆頭に仏教徒であることを証明するために次々に唐寺が建てられていった。 |
旧唐人屋敷門 | |
寛永13年(1636)の出島埋築に遅れること54年、元禄2年(1689)十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が完成。来舶唐人の民宿を禁じて、皆ここに居住させることとした。 約3万平方メートルの敷地には住宅・店舗・祠堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。この門の用材は中国特産の広葉杉で建築様式も中国式特有のものであり、天明大火以後の唐人住宅門と思われる。 旧唐人屋敷内に遺存していたものを、保存のため,昭和35年現在位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用。 |
浄安寺 | |
寛永元年(1624)唐津の僧・誓誉が草庵を結んで開蒼庵としていたが、後に一寺を建て浄安寺の寺号を得た。 |
三宝寺 | |
元和九年(1623)浄土僧・転誉、長州萩から阿弥陀如来像を負って来崎、教化に努め、長崎奉行長谷川権六の助力で堂宇を建立した。 「三宝寺のコンコン婆さん」と言えば寺町界隈では有名人らしい? 実はこの婆さん、三宝寺本堂前にある閻魔堂に納められた閻魔様の像のこと。 昔は「腹痛」に利くと言われていたのに、いつのまにか「風邪やぜんそくに利く」というようになったとか。 |
深崇寺 | |
元和元年(1615)僧・浄慶が現在地に創建。最初は禅寺だったが、廃寺となったのを浄慶がゆずり受け、西本願寺の末寺となった。寺町に現存する中で最初に建てられた寺院。 |
禅林寺 | |
正保元年(1644)久留米の禅僧・石峯祖芳が長崎奉行所において書物改の役を命じられ、その功労を賞し、奉行・馬場三郎左衛門は一寺の創建を許可。 祖芳は現在の場所に禅林寺を創建した。本山は京都花園妙心寺。 |
龍馬通り | |
寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から龍馬ゆかりの地・亀山社中跡を経て、風頭公園へ至る石段まじりの坂道。坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同志達が、どこへ行くにもこの通りを上り下りしていたというこの道筋は、現在「龍馬通り」と呼ばれ地域の人に親しまれている。「長崎歴史探訪路」として整備されてからは特に観光客が上り下りする光景も目につくようになった。この古くて新しい散策路には所々に休み石が置かれ、風景や花木をゆっくりと眺められるよう配慮されている。 |
亀山社中跡 | |
亀山社中とは慶応元年(1865)、薩摩藩などの援助によって土佐の浪人・坂本龍馬が設立した貿易商社。長崎・伊良林の亀山という場所に同志と組織した日本初の商社のことだ。顔ぶれは長岡健吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞など龍馬と共に幕末の激動期を生きた志士達。 亀山社中の活動は海運業を中心に、政治活動にも参加。薩長同盟の結成に大きく貢献し、幕末維新史において重要な役割を果たした。後に“海援隊”と改称。 |
龍馬のぶーつ像 | |
亀山社中跡のすぐ近くには、日本で最初にブーツを履いた龍馬にちなみ、亀山社中設立130年を記念して造られた『龍馬のぶーつ像』がある。舵輪に手をかければ、130年も前に長崎港から世界に向けて船出して行った龍馬達の気分が味わえるのではないだろうか? |
亀山社中資料展示場 | |
会員数100余名の「亀山社中ば活かす会」が管理・運営する資料館。公開は土・日曜、祝日のみだが、社会科見学や研修などの目的によっては予約制で見学することができる。 |
若宮稲荷神社 | |
「古いお宮を若宮」と親しまれる若宮稲荷神社は、出来大工町乙名・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられている。また、元文元年(1736)に長崎奉行・細井因幡守安明が参道を開削し、社殿を改築したのをはじめとして代々の奉行、人々の尊崇を集めてきた。現在は、毎年10月14、15日の例大祭に奉納される竹ン芸で広く知られている。 |
亀山焼窯跡 | |
かつては、木下逸雲や鉄翁、
三浦梧門といった長崎の有名な画人らも絵付けを行ったこともあり、白磁に美しい絵柄が特徴の亀山焼。 今では「幻の亀山焼」ともいわれているそうで、愛好家だったらのどから手が出るほど欲しい逸品のようです。 |
光源寺 | |
寛永八年(1631)筑後柳川(現在の福岡県瀬高町)光源寺の僧・松吟(しょうぎん)が来崎し、布教をはじめ、寛永十四年(1637)長崎奉行から寺地を銀屋町に与えられ光源寺を開山したが、延宝四年(1676)火災により類焼したので現在地の伊良林に移転した。 |
伊勢宮 | |
現在の伊勢町がまだ新高麗町と呼ばれていた頃、伊勢内宮天照皇太神宮を奉祀した小さな社があったが、キリシタンにより破壊。 その後、キリシタンに対する禁教令が強化され、仏教・神道の復活の体制づくりがとられた。 寛永5年(1628)新高麗町民が伊勢宮再興を祈願し奉行所に願い出て唐津出身の天台宗修験南岳院存祐を神主に推挙。 存祐は伊勢に赴むき外宮長官の桧垣常晨から許状をもらって長崎に帰り、寛永16年(1639)創建された。 |
桃渓橋 | |
桃の名所だった地に1679年(延宝7年)、唐僧が架橋、長崎大水害後に復元された。 |
諏訪神社 | |
長崎市民から“お諏訪さん”と親しまれる長崎鎮守の神社は、秋の神事「長崎くんち」の大舞台だ。 |
まよい子志らせ石 | |
諏訪神社の長坂の中段あたりに「まよい子志らせ石」というのがあります。これは、参拝客の迷子になった子供達を捜すのに一役かってたという石碑です。長崎県警の有志によって建てられたこの石碑には、昔のよき日本の優しさがあふれているような気がします。 |
マクドナルド顕彰之碑 | |
ラナルド・マクドナルドは嘉永元年(1848年)、日本に憧れて利尻島に上陸。 長崎に護送されて、此の地で日本人に初めて英会話を教え、それが日本の英語教育の飛躍的な向上の基礎となった。 |
松森神社 | |
諏訪神社の参道、4つ目の鳥居を上がった所から右に曲がった場所にある松森神社は、諏訪神社、伊勢宮と共に長崎三社のひとつ。菅原道真を祀る天満宮で、長崎の学問の神様として古くから人々に親しまれてきた。 |
古橋(中川橋) | |
この石橋は承応3年(1654)、唐通事・林守でんが私費を投じて架けたアーチ型石橋で江戸時代、長崎街道の玄関口だった橋。 |
シーボルト通り | |
シーボルトが鳴滝塾を開いていたのは文政7年(1824)から11年までの約4年間。その間、全国各地から多くの俊英達が集まったが、シーボルトは彼らに西洋医学を教えるために、月に数回、四季折々の草木が織りなす風情を愛でながら塾生に医学や植物学を教える屋外授業を行っていたそうだ。 |
桜馬場天満神社 | |
大生山宝生院威福寺の開山なる射福院高順に源を発する。慶長元年に早岐から長崎に至り、同12年に筋違橋の袂に小堂を構え天満宮の尊像を祀ったのが起源という。 |
ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑 | |
「1567年、ルイス・デ・アルメイダ この地に渡来し布教す」と刻まれたこの碑は、すでに洗礼を受けていた長崎甚左衛門純景の元に派遣され、長崎ではじめて布教をはじめたイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダの渡来を記念して建てられた記念碑。 |
トードス・オス・サントス教会跡 | |
現在春徳寺が立つ場所は、長崎甚左衛門純景が居館近くの菩提寺にしていた寺をイエズス会に寄進し、その場所に建てられた長崎で最初の教会トードス・オス・サントス教会跡である。 |
春徳寺 | |
開港当時(1570年頃)の長崎を治めていた長崎甚左衛門純景が、居城近く、菩提寺にしていた寺をイエズス会に寄進。現在の春徳寺が建つのは、永禄12年(1569)、長崎初の教会トードス・オス・サントス教会が建てられた場所だ。 |
東海の墓 | |
東海家は10代にわたって唐通事を務めた家柄で、相当なお金持ちだったのだろう、5段から成る墓は、完成まで数年を要したというだけあってとにかく壮大だ。広大な敷地に全部で29基の墓碑があり、獅子頭を施した石柱まである。 |
シーボルト宅跡 | |
オランダ商館医として出島に赴任していたシーボルトが開いた鳴滝塾の跡地。彼の名声を聞き全国から集まってきた高野長英など約50名の門弟達は、ここで科学全般に渡って学ぶと同時に研究対象をオランダ語のレポートで提出するなど、シーボルトの日本研究にも協力していたのだという。 |
シーボルト記念館 | |
鳴滝川が流れる閑静な住宅地に突如現われる洋館。ここはシーボルトの愛用品や功績を今に伝える記念館。建物はオランダにある彼の旧宅、玄関は祖父カール・カスパル宅を復元したものだ。シーボルトが門弟達に医学を教え、自らは日本研究に没頭した鳴滝塾跡(シーボルト宅跡)に隣接している。 |
新地中華街 | |
この町は、新地という名のごとく元禄15年(1702)、新しく海を埋め立ててできた人工島で、中国との貿易の品を保管する荷蔵(倉庫)が建ち、新地荷蔵と呼ばれていた場所。広さは出島とほぼ同じで、東西130m、南北90mの長方形で約3500坪だったという。 現在は長崎名物ちゃんぽん皿うどんをはじめとした独特の長崎中華が味わえる中華料理店や、ユニークな中国雑貨、食材を豊富に取り揃えた約40軒の店がひしめく歴史あるリトルチャイナとして賑わいを見せている。 |
長崎ランタンフェスティバル | |
長崎ランタンフェスティバルは、中国の旧正月の期間に開催されます。 新地中華街はもとより、長崎市内には、12,000個にも 及ぶランタンが長崎の街を光の華で色鮮やかに染め上げ、長崎の中の中国という 雰囲気を存分に楽しんでいただけます。 |
新地蔵跡 | |
現在、中華街中央の十字路に石碑が立てられているだけで、新地荷蔵があった形跡を偲ばせる建物は残っていない。しかし、ホテルJALシティ長崎のロビー奥に、江戸時代の元禄期(1699〜1702)の新地蔵護岸の一部が移設されているので、ぜひこれを見学して当時の様子を思い描いてみよう。 |
唐人屋敷跡 | |
寛永12年(1635)から中国との貿易を独占的に行っていた長崎港。来航した唐人(中国人)達は、はじめ長崎市中に散宿していたが、密貿易が増加したため幕府は元禄2年(1689)、鎖国後の出島と同じように、唐人達を収容する唐人屋敷を建設した。現在は四堂のみが修復改築され残されている。 |
土神堂 | |
1691年9月、土神の石殿を建立したいという唐人たちの願いが許され建立された。 |
福建会館 | |
福建会館は、明治30年(1897)に福健省泉州出身者によって建てられた建物だ。いずれも焼失、また原爆で倒壊したため、唐人屋敷時代からの造りを見るのは難しいが、観音堂入口のアーチ型石門は当時のものといわれている。 |
天后堂 | |
長崎名勝図絵は元文元年(1736)南京人らが初めて建てたとしている。 |
観音堂 | |
瓢簟池の奥の石に「元文二年(1737)」の刻字がありこの年に創建されたと思われる。 |
活版印刷発祥の地 | |
近代印刷の祖といわれるのは、江戸幕府でオランダ通訳を務めていた本木昌蔵。彼は通訳としてオランダ屋敷に出入りし、洋書を見て印刷技術に興味をもちました。幕末の長崎で、組替え自由な金属活字と油性インクを使ってする活版の研究を始め、苦労の末に明治3年ついに
「新町活版所」 を設立、日本語の活版印刷に成功することとなります。 彼が創案した「流し込み活字」 は諏訪神社に保存されていて、境内には記念像が建っています。また、印刷場の跡地である現在の興善町の長崎自治会館前にも石碑が建っています。 |
平和公園 | |
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園。ここには長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートルの平和祈念像が立つ。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めた。毎年8月9日の原爆の日にはこの像の前で平和記念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされる。園内には、水を求めてさまよった少女の手記が刻まれた“平和の泉”や、世界各国から贈られたモニュメントが立ち並び、世界平和のシンボルゾーンを形成している。 |
原爆落下中心地公園 | |
1945年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂。現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968)に建立された黒御影石の碑が立てられている。園内には被爆当時の地層が残されているが、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガ、約3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没している。 |
長崎原爆資料館 | |
1945年8月9日午前11時2分。広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域に原子爆弾が投下され約15万人の人々が命を落とした。この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史、そして核兵器のない平和希求までがストーリーを持たせわかりやすく展示されている。 |
一本柱鳥居 | |
山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がある。もともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけは片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのだ。左片方の柱の残骸は、一本柱鳥居の奥に置かれ見ることができる。 |
山王神社 | |
日本26聖人殉教地へと続く浦上街道沿いにある明治元年(1868)創立の山王神社は、爆心地から南東約900mの場所の高台にあり原爆の被害を受けた。社殿は跡形もなく崩れたが、昭和25年(1950)に再建され今に至っている。 |
浦上街道 | |
戦国時代、一時は戦国時代島原有馬氏の領地だった浦上は、天正16(1588)豊臣秀吉直轄のとき天領となり、1605年(慶長 10)には南側は天領、北側は大村藩領となった。そしてさらに浦上川の東側を山里村、西側を淵村とし、大村藩領にあたる浦上は、浦上西村など5つの村に分割された。この浦上を縦断し、長崎から大村へと続く陸路の終点である時津を結んだのが浦上街道(別名 時津街道)だ。 |
日見トンネル | |
長崎県が大正13年に着工し、2ヶ年で完成。全長642m幅員7.4mは当時日本最大規模のトンネル。昭和に入ってモータリーゼーションが進展する中、長崎に通じる唯一の動脈として大きな役割を果たしてきた。坑口のデザインは大正期の様式を色濃く残しており、平成13年度に国の有形文化財として登録された。 |
時津町 |
日本26聖人上陸記念碑 | |
1597年、26聖人殉教の旅(堺から長崎まで)の途中、彼杵から海路を利用し時津に上陸しました。 |
恵比須 | |
石座像2体北泊の清風館の庭先に祀ってあったものである。今は4体に増えている。場所も埋め立てが進むにつれて3回移されたものでここは4度目の場所である。 零細は正月廿日で、浦郷の漁師たちが大漁を祈願したものである。恵比須様は七福神の一つで、唯一日本の神で他はインド・中国の福神集合体である。 |
左底の塩田 | |
時津では、左底の塩田が一番古く、1613年(慶長18年)に姪浜(福岡市西区)から、甚左衛門、藤右衛門、新左衛門、源次郎という4人の塩職人がやって来て、開いたといわれています。 この左底の塩田は、百年ほど続きましたが、海岸がせまい上に、百年もたつと浜に土がたまり、塩がつくれなくなってきました。 |
塩浜 | |
浜田郷の広く浅い海岸を利用して塩田を開くことにしました。1797年、今里惣吉と広瀬清兵衛が開いたという記録が残っています。その後も塩田が開かれ、10ヘクタール以上にもなりました。 |
崎野自然公園 | |
約11ヘクタールの敷地に、キャンプ場や草スキー場、遊戯施設などのほか展望所や遊歩道があり、風光明媚な大村湾では、波間で遊ぶ野生のスナメリが見られることもあります。 |
長与町 |
中尾城跡 | |
現地は、標高90mの丘陵で、東西約150m、南北約100mを計ります。今は、森になっていますが、土塁・石垣・堀切などがのこっています。土塁とは、城への敵の侵入を防ぐために築かれたものです。「郷村記」の記録に天文年間(1532〜1555)に長与権ノ助が築いたとされています。 |
中尾城公園 | |
JR長与駅に近い中尾城公園は、広々とした広大な敷地を有し、真っ赤なエアロブリッジがシンボルです。 園内にはビル7階相当の高さから一気に滑り降りるらせん状のスパイラルスライダーや、モノレールで登ると大村湾まで見渡せる展望広場もあり、カップルやグループでも十分楽しめます。 |
原爆慰霊碑 | |
昭和二十年八月九日、長崎市に原子爆弾が落とされました。長与には、九百ぐらいの人が逃げてきたそうです。そのときに亡くなった人びとがまつられています。 |
諫早市 |
眼鏡橋 | |
天保10(1839)年建設、それまで大きな橋がなかった本明川に、当時の領主・領民が永久不壊の願いを込めて本明川に架けた石造りのアーチ橋です。昭和32年の水害後、諫早公園に移築されたこの眼鏡橋は、石橋では日本で最初に重要文化財に指定されました。 |
高城神社 | |
祭神は諫早家初代龍造寺家晴公。明治15年高城神社として現在の高城公園に創建されました。昭和32年の諫早大水害後、都市計画で昭和35年に現在地に移されました。 |
小野用水 | |
小野用水は今から200年ほど前につくられた延長8.5kmの用水路で、諫早市高城町、諫早公園及び高城公園一帯(市街地部)を流下し、同市内幸町、仲沖町、川内町、小野島町、赤崎町の水田地帯(約600ha)へと続いています。 |
早市城山暖地性樹叢 | |
この樹叢は、第三紀層砂岩よりなる周囲約1km、標高50mの独立した丘陵全体を覆っています。樹叢の主な植物はクスノキやヒゼンマユミ、オガタマノキ、ホルトノキ、ハゼノキ、クロガネモチなどが多く、特にヒゼンマユミ(現在市の木)は、明治39年に千葉常三郎がここで発見し、大正2年、牧野富太郎が学会に発表したものです。 |
諌早城跡 | |
15世紀に西郷氏が築いたもので高城城と呼ばれていた。のち龍造寺氏が入城して諌早氏を名のり居城としていたが,2代のとき取り壊され,城としての姿を失った。1918(大正7)年に公園として整備され,現在1万本ものツツジの公園として知られている。本丸跡には高城明神・藤原明神が祭られている。 |
天祐寺 | |
諫早家の菩提寺である天祐寺は、西郷尚善の開基です。諫早家墓所(県指定・史跡)には、初代龍造寺家晴公から十八代家興公までの墓があり、「弥勒四十九院」作りといわれる特徴的なつくりなど、鍋島藩の色を濃く残しています。 |
虚空蔵堂 | |
上山公園の山頂には天祐寺奥の院「虚空蔵堂」があり、市外からも多くの参拝客が訪れています。 |
諫早家墓所 | |
初代龍造寺家晴公から十八代家興公までの墓がある。諫早家の墓所の最も大きな特徴は「弥勒四十九院」造りと呼ばれる石門付石棚である。初代から3代までの墓碑後方の小さな墓は殉死した家臣たちのものである。 |
上山公園 | |
市の中央部にこのような自然が豊かに、保存されていることは、全国的にもまれであり、市民の誇りとするところである。公園山頂にはやぐら型鉄筋コンクリート2階建ての展望台がある。 |
愛宕社宝殿 | |
愛宕社は、永禄6年(1563)、西郷純堯によって奉祀されたのが始まりである。愛宕信教は、中世期には式の神として、また近世期には鎮火、防火の神として広く信仰された。この宝殿が石造りとなったのは享和元年(1801)のことでそれ以前は木造りであった。 |
御館山稲荷神社 | |
宝暦元年(1751)標高100mの御館山頂上近くに創設された。祭神は豊受姫大神に猿田彦命、大宮姫命を祀っている。神通あらたかな稲荷さんとして有名境内にはたくさんの狐が住んでいたという。神社の北側には、源氏の若武者鎮西八郎為朝の矢きず石がある。 |
矢受石 | |
為朝様の伝承の残る 矢受石。 正面には、天狗様が刻まれております。 この大岩の側面に、若き日の鎮西八郎為朝様の射られた矢が刺さったと伝えられております。 |
安勝寺 | |
安勝寺は真宗の寺としては、北高・諫早で一番大きなものである。享保5年城下町の人々が時計がなくて不便であるので、時間を知らせるため自鐘をうちならし、明治時代まで続いた。幕末に武士たちの宿泊所に指定されていた。大隅重信もよくここに泊まったという。 |
諫早神社 | |
古くから「四面宮」「おしめんさん」として人々に親しまれてきました。明治元年の神仏分離令により「四面宮」は「諫早神社」に改められました。 |
諫早神社のクス群 | |
県指定天然記念物。境内の樹木のうち、クス6本が指定を受けている。拝殿の前のクスが特に巨木で御神木として崇敬されている。この神社は「四面宮」・「おしめんさん」として古くから人々に親しまれていた。 |
飛び石 | |
昭和32年大水害以前まで大きな切石を並べ主婦たちの洗濯場としての風景が印象深い。大水害によって流された飛び石が復元され、市民の憩いの場となっている。又、この飛び石は、昔の街道の道筋で橋がなかっただけに重要な交通施設であった。 |
諫早のんのこ節 | |
「諌早のんのこ節」は小皿を持って踊るので別名「皿踊り」ともいう。諌早の人たちは酒の席では必ずこの民謡を歌う。古くは4つ竹を鳴らしながら踊られたが、そのうち皿が使われるようになる。ありあわせの小皿を両手に2枚ずつ指で挟み、カチカチ鳴らしながら「ノンノコサイサイ…」と踊り出す。 |
大村市 |
玖島城跡 | |
慶長4年(1599年)、初代藩主大村喜前(よしあき)が築城してから12代藩主純熈(すみひろ)の代(幕末)まで、270余年間大村氏の居城でした。 喜前は、秀吉の死後、天下の乱れを恐れて防備を固くするため、朝鮮の役での教訓を生かし、三方を海に囲まれた要害の地玖島(くしま)を選んで本城を築き、三城城よりここに移りました |
大村公園 | |
県内屈指の花の名所として知られる大村公園は、大村藩主の居城であった玖島城跡にある。 春は桜に始まりツツジ、ハナショウブ、アジサイと約3ケ月花の季節が続き、3月25日から6月20日までの「花まつり」期間中は、約40万人の人出でにぎわう。 大村公園は「さくら名所百選」に選定を受け、国指定の天然記念物オオムラザクラをはじめ2000本の桜が期間中公園一帯をピンク色に染め、人々を楽しませている。 |
大村神社 | |
明治17年、玖島城本丸跡に大村市歴代領主を祀る大村神社が建立され、現在では花の名所として親しまれています。 |
玖島稲荷神社 | |
大村神社の本殿の後ろには玖島稲荷の祠がある。これはかつて西大村の三城に住んでいた四郎左右衛門という古狐のもので、城主の純忠に仕え、ある時は数百の子分を兵に化けさせたり、ある時は敵陣に忍び込み敵軍を引っかき回して助けてくれた。四郎左右衛門は家老格となり、純忠の子の喜前公の代に今の玖島稲荷に住処を移し、その祠が今も残っているという。 |
貝吹石 | |
大小二つの穴があります。小さな方を吹くとほら貝を吹いたような音が出ることから貝吹石(ほら石)という名がつけられています。天正年間に肥前の大名、竜造寺隆信が萱瀬村(現、長崎県大村市)に攻めてきた時に、大村純忠の命を受け、砦に立てこもって合図の陣具にこの石を代用して戦いに勝利したという言い伝えがあります。
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玖島崎樹叢 | |
この樹叢は、玖島城の二の丸、三の丸跡に繁茂する樹林で、玖島城当時からの巨木が群をなして生育している。 樹叢を構成するのは、スダジイの巨木群のほか,クスノキ・モチノキ・ホルトノキ・クロガネモチ・アラカシ・ナナメノキ・ヤマモガシ・シロダモなどの常緑樹で,ムクノキ(落葉樹)には巨木が見出される。 |
新蔵波止 | |
大村公園(玖島城跡)の裏手にある米などの荷揚げに使用するために築かれた船蔵です。玖島城は三方を海で囲まれた海城で、このような珍しい遺構が残っています。近くには、県指定史跡のお船蔵跡もあります。 |
大村藩お船蔵跡 | |
元禄年間に、藩財政振興に努めた4代藩主純長が構築したもの。 藩主が乗る船などが格納されていました。 |
船役所跡 | |
ここには、江戸時代、大村藩の居城玖島城に付随した船役所がありました。 船役所は、資料によっては「船廨」、「帆蔵番人屋敷」などと呼ばれ、明治4年の玖島城の様子を描いた絵図では「海運方」と記されるように様々な呼称があったようです。また、周りには船の建造・修理を行う船作事小屋も設けられていました。 |
梶山御殿 | |
江戸時代後期、藩主の大村純昌の時に大村家の別邸として建てられたといわれています。明治維新後は、大村男爵家の住まいとなっていましたが、昭和38年に県の施設、平成2年には大村市の施設になりました。現在は「大村市教育の館」という教育施設として使用されています。 |
本経寺 | |
経寺は初代喜前によって慶長13年(1608年)に完成した日蓮宗の寺院です。現在でも本堂をはじめ江戸後期の建物が建ち、近世大名の菩提寺としての形態を良く残しています。 |
大村藩主大村家墓所 | |
本堂に隣接する大村家墓所は、小藩ながら、巨大で様々な形の墓が建ち並び、大名墓所として荘厳な姿を見ることができます。これらの墓は、キリスト教から仏教へと転換する江戸時代の宗教政策を表したもので、国の歴史を表す文化財として、平成16年9月30日に文部科学省により国の史跡に指定されました。 |
松林飯山遭難の碑 | |
安政3年(1856年)から、藩の命令で江戸にある昌平坂学問所に行って学び、そこでも秀才と評判でした。 安政6年(1859年)に大村に戻り、藩校五教館の先生となり、4年後には校長に昇進。 勤王の考え方を藩内に広めるなど、同志である渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩を倒幕へと導くために力をつくし、大村藩勤王三十七士の中心人物として活躍しました。 慶応3年(1867年)に自宅前で暗殺されますが、この事件が大村藩を勤王へ決定することとなりました。 |
旧楠本正隆屋敷 | |
幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家。 正隆は、幕末大村藩三十七士の一人として、倒幕から維新に活躍しました。 明治新政府では、行政官として、新潟県令・東京府知事などを歴任し、近代的都市づくりに貢献しました。後には国会議員となり、衆議院議長を務めました。 屋敷・庭園とも良く残され、大村の武家屋敷の貴重な遺構として公開されています。 |
楠本正隆記念碑 | |
この記念碑は、衆議院議長男爵楠本正隆を顕彰するため、明治37年8月、貴族院議員伯爵大村純雄等によって、現東京都港区芝公園に建てられたものです。建設当初、大変大きな記念碑でしたが、その後、長い年月の間に碑は二つに折れてしまいました。大村市では旧楠本正隆屋敷の整備にあたり、とくに東京都にお願いしてお譲りいただいたものです。 |
旧円融寺庭園 | |
1652年四代藩主大村純長公によって建立されたもので,徳川家光以下歴代将軍を祀る天台宗の寺であった。境内には,斜面を利用した石庭が残り,江戸初期の様式を伝える全国でも屈指の名園だと言われる。国指定名勝。 |
大村護国神社 | |
明治元年に大村藩主純熈は、明治維新達成に殉じた志士たちを祭るために、もともと合った天台宗円融寺を解体して、招魂社を建立しました。この神社を旌忠塋といいます。後に、その後の戦争の戦没者を祭り、昭和41年「大村護国神社」と改められました。 |
春日神社 | |
2代藩主大村純頼が28歳で亡くなった時、実子の松千代は2歳と幼く、また大病にかかっており、大村藩は存続の危機を迎えました。妻の寿徳院は大村藩の存続を藤原姓大村氏の氏神、奈良春日大社に祈願しました。この願いがかなえられたことを感謝して、その分霊を祭ったのが、この春日神社の始まりです。 |
長安寺 | |
慶長14年(1609年)19代(初代藩主)大村喜前により創建され、九誉上人を開山とします。喜前の姉於福の方にゆかりが深く、寄進された 「白竜の手水鉢」 は寺宝として現存し、市文化財に指定されています。また本尊阿弥陀如来立像は、浄土宗総本山京都の知恩院から寛政8年(1796年)寄進されたもので、平安時代後期の作といわれ、市文化財に指定されています。 |
富松神社 | |
創建は不明だが文献で富松神社が登場するのは、正平19(1364)年から写経された大般若経の奥付に「肥後国彼杵荘大村富松社」と有るそうだ。大村藩の寺社の例に漏れ代藩主純伊公の切支丹改宗に伴い天正2(1574)年に切支丹による焼討ちによって灰燼に帰した。 再建を見るのは慶長年間(1596〜1615)を待たなければならなかった。藩主大村氏が藤原姓に連なることから、藤原一門の祖神・奈良春日大社の祭神、天児屋根命を祀る社として再建し大村惣鎮守となった。 |
市杵島神社 | |
現在の長崎空港建設のために大村湾の箕島に鎮座していた、市杵島神社が昭和47年この地に遷宮した。祭神は市杵島比当ス、事代主命であり、どちらも海の神様。現在も三城城址の高台から、大村湾を見守っている。 |
長崎県忠霊塔 | |
三城城本丸跡には、県下6万余の第二次世界大戦戦没者を祭る忠霊塔があります。 |
三城城跡 | |
日本初のキリシタン大名として有名な大村純忠によって永禄7年(1564)築かれましたが、寛永14年(1637)、幕府の命令で廃城となりました。 この城は、この地に石垣で城を築く技術が入る前の城で、土塁や空堀によって周囲を囲まれた山城です。 現在本丸跡には、県下6万余の第二次世界大戦戦没者を祭る忠霊塔があります。 |
大村純忠終焉の居館跡 | |
日本最初のキリシタン大名である大村純忠が晩年を過ごした館跡を中心とした歴史公園です。泉水の庭園跡が残され、キリシタンや南蛮貿易と関わった大村純忠について知ることができます。 |