本島南部


那覇市

守礼門
守礼門は首里城第二の坊門でした。16世紀の創建で、その後「守禮之邦の四字額が掲げられるようになったと伝えられています。中国の牌楼の流れをくむ装飾建築で、三間入母屋重層の琉球赤瓦の本瓦葺きです。

園比屋武御嶽石門
園比屋武御嶽は琉球王国時代の国王の拝所で、守礼門の後方左側の道端にある石門とハンタン山一帯をいいます。国王は城外に出かける時、往路帰路の安泰をこの石門で祈願しました。

首里城跡
創建年代は不明ですが、第一尚氏による三山統一後に王城として確立されたとの記録があります。第二尚氏の尚真王らによって拡張、整備されました。城外には守礼門など2門あり、琉球石灰岩の切石を積み上げた城壁には歓会門や瑞泉門、白銀門などの城門が設けられました。

新橋
1680年に架けられた石造りのアーチ橋。
その昔「鳥小堀村(現・首里鳥堀町)に一本の小川があった。風雨にあうたび果てしなく水があふれ、自由に行き来することもままならない。そこで国王は今帰仁村の按司らに命じ、石の橋を造らせた。これを新橋という。」という言い伝えがある。
歴史的に意味のある橋だが、周辺は県道整備や柵が設置されており、現在はほとんどその姿を見ることはできない。

国王頌徳碑
琉球王国時代嘉靖22年(1543)に建立された石碑である。碑文の内容は首里城から、古来より崇拝された弁ヶ嶽(後に久高島・斎場御獄の遥拝所として整備される。那覇市内最高所。標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなど参道を整備した国王尚清の徳を讃えたもの。

天王寺井戸
首里三ヶ寺のひとつである天王寺の井戸。
天王寺創建時、寺域に井戸がなかったため、この井戸を使い始めたのが始まりとされている。
大きなガジュマルの木が目印で、井戸は丸い筒型になってる。当蔵村の「村ガー」(共同井戸)として人々の生活用水にも利用され、旧暦9月9日(重陽の日」には、当蔵町自治会によって健康や繁栄が祈願される

貝摺奉行所跡
王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺跡から1745年にこの地に移設された。

高所跡
琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡。
高所は1669年創設。「算用座(王府の役所、1732年「勘定座」に改称)の事務の一部を引継ぎ、国内の田畑から上がる収穫量など石高にかかる事務や地方を廻って農民の労働状況などを視察した。

円覚寺跡
第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていた。

龍潭
首里城の北西にある、龍頭の形に掘られた外苑の池です。首里城内の瑞泉の水が、ハンタン山を流れて円鑑池を満たし、さらに龍潭に注いでいます。尚巴志王代(1422〜39年)に造られ、掘った土で、安国山が築かれました。

天女橋
円鑑池の北岸から中之島へ架かる橋です。1467年に朝鮮から贈られた方冊蔵経を収めるため、1502年に堂とともに創建されたといわれます。高欄付石造アーチ橋で、橋台は石灰岩の切石を布積みし、拱石は長い石を2枚と3枚継ぎとして梁石は長尺ものを用いています。

弁天堂
15世紀末頃に朝鮮王から贈られた 方冊蔵経( 高麗版大蔵経 )を納めるために、1502年この円鑑池の中にお堂が設けられ、そこへ渡るための橋(当時は観蓮橋と言う名前でした。)である天女橋が造られました。

玉陵
玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。
沖縄戦で大きな被害を受けましたが、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

識名園
首里城の南約2kmの台地上にある琉球王家の別邸で、南苑ともいわれます。1800年ごろの創建で、中国皇帝の使者である冊封使の歓待にも使われました。

国際通り
沖縄県最大の都市・那覇市のメインストリート。パレットくもじ前交差点から安里三叉路にかけて続く約1.6kmの道の両脇に、観光土産品店・沖縄料理店・デパート等が軒を連ね、県都・那覇の街の中心地として最も活気のある通りです。

那覇市歴史博物館
那覇は王国時代から現在まで、ひと・もの・情報の交流拠点としての役割を担い、その結実として、独自の文化を育んできました。
当館では、国宝「琉球国王尚家関係資料」や横内家資料を核として、基本テーマに「王朝文化と都市(まち)の歴史」を掲げ、王国の士族文化や、王都・県都としての都市の歴史を展開し、次世代に継承します。

那覇市伝統工芸館
那覇市伝統工芸舘は、那覇の伝統工芸品である、壺屋焼き・琉球漆器・首里織・紅型(びんがた)・琉球ガラスの展示、実演、販売があります。人間国宝の作品をはじめとした伝統工芸品の展示。実演施設ではこれらの伝統工芸の制作工程の紹介と共に、実際に制作しているところを間近に見学が出来ます。

さいおん うふ シーサー
さいおんうふシーサーはシーサーの製造方法としてお馴染みの壺屋焼きで作られた巨大シーサーです。
高さは3.4m。重さは約3トンで、壺屋焼きとしては世界最大級のサイズです。

旧崇元寺石門
琉球石灰岩でできた三連アーチ型の門。100m近くにわたる重厚な石門は、切石布積み工法で造られたもの。国重要文化財にも指定されている。門の内部は境内で、かつては尚[しょう]氏王統の霊を祭る崇元寺があったが、沖縄戦によって全壊した。

波上宮
那覇港と那覇泊港の間、海岸沿いの断崖上に立つ琉球八社の一つで、最上位に位置する。熊野三社権現を祭り、琉球王国時代から海上交通の安全、豊漁、豊穣などの信仰を集め、厚い尊崇を受けてきた。市民からは「なんみんさん」の名でもよび親しまれ、お正月や節分、5月17日の例大祭は多くの参拝者で賑わう。

波の上ビーチ
那覇市の西側に広がるビーチ。那覇市唯一の海水浴場と言うこともあり、市民ビーチとして地元市民でにぎわっています。
また空港からも近く、国際通りも歩いて15分と市街地にあるので、観光客の方も気軽に足を運ぶ事ができます。

護国寺
1368年に創建され、開山は薩摩の国(鹿児島県)坊津の一乗院より来琉された頼重法印(らいじゅうほういん)とされております。当時の琉球国王察度の尊信を得て勅願寺として建立され、天下泰平、鎮護国家、五穀豊穣、万民豊楽を祈願し、県内で最初の密教道場となりました。

ゆいレール
沖縄都市モノレール線は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と首里駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球語の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。

那覇空港
那覇空港は、沖縄県の中心都市那覇市の西南西約6Kmの海岸部に位置し、わが国南西端の島嶼県沖縄における県内外の航空交通の拠点空港であるとともに、東南アジアを中心とした地域に対する我が国の南玄関として、重要な役割を果たしています。

豊見城市

豊見城グスク
豊見城グスクは豊見城市の漫湖を見下ろす琉球石灰岩の丘陵地に立地しています。14世紀末〜15世紀初頭、三山時代に南山王の従弟である汪応祖がグスクを築き、尚巴志によって落城されたといわれています。

旧海軍司令部壕
旧海軍司令部壕は、日本で唯一住民を巻きこんだ地上戦が行われた沖縄戦の日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった所で、その一部が現在公開されています。

道の駅 豊崎
沖縄県内6番目の道の駅として、道の駅「豊崎」は平成20年12月20日にオープンしました。
道の駅「豊崎」は、沖縄県の空の玄関口である那覇空港から車で約13分、中部・北部を結ぶ高速道路(豊見城・名嘉地IC)には車で約6分と利便性が良い場所にあります。

漫湖
漫湖という名前には“湖”という文字が入っていますが、湖ではなく河口にできた干潟です。海から3km程度内陸にありますが、海と同じように潮の満ち潮・引き潮があります。満潮になると海の水が漫湖に入ってきて、漫湖のほとんどの部分が水の中に沈みます。

漫湖水鳥・湿地センター
漫湖水鳥・湿地センターは、平成15年5月に水鳥をはじめとする野生生物の保護と湿地の保全、賢明な利用について理解を深めていくための普及啓発活動や調査研究、観察などを行う拠点施設として設置されました。

南風原町

字大名ヒージャーガーと石碑
琉球王朝時代、王妃が久高島や斎場御嶽へ向かう途中、このヒージャーガーで休息しました。水を飲んでみると、あまりの美味しさに褒めたたえ、記念に石碑を建てたという伝説が残っています。

中の井
1928年、この場所に井戸と池が完成しました。地域住民の飲料水や洗濯の場や、池では野菜を洗ったり、馬に水を浴びせたりと、生活に欠かす事ができませんでした。1962年、水道の普及により中の井は埋められました。現在は公園となっています。

摩文仁家の墓
第2尚氏王朝第10代目国王、尚質王の第2子「尚弘毅」の墓です。尚弘毅が11年間摂政を勤めた褒美に、国王から頂いた墓です。
観音開きの墓入口、室内には6本の石柱、琉球石灰岩を切石で積んだ壁など、住居の様な形が珍しい為、1972年、沖縄県の文化財に指定となりました。

糸満市

沖縄県平和祈念資料館
沖縄最大の戦跡「沖縄戦跡国定公園」にある沖縄県平和祈念資料館では、映像や模型を使い圧倒的な迫力で恒久平和を訴えています。沖縄戦にいたるまでの沖縄の歴史から、住民の見た沖縄戦、戦後の復帰運動、平和創造を目指す沖縄の姿までを5つのブースに分け常設展示しています。

ひめゆりの塔
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡。
「ひめゆりの塔」は、この壕の上に建てられている(左上)。壕(右上)の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、現在の私たちの想像を絶するものがある。

八重瀬町

自然橋
自然橋は俗名ハナンダーとも呼ばれ、琉球石灰岩の侵食により生成された天然の橋で、橋の下には白水川が流れています。橋の幅は約10m、長さは約29m、高さ約10m、橋脚と橋脚との距離は約16mあります。昔、白水川に橋をかける技術がなかった頃、具志頭から玻名城・安里・与座・仲座へはこの橋を通らなければならず具志頭における交通の要所であり、人々の生活と深く結びついていました。

玻名城之殿
殿は方言では「トゥン」と言う。古琉球時代・近世琉球時代においては、村落を創建する時には、かならず、自分達の祖先の人達(祖霊神)やさまざまな神々を招き入れて、共同祭祀を行う場所を設けた。それがその村落の殿である。
玻名城之殿は、先史時代から現在の多々名城の城内にあった玻名城部落が、古琉球時代に、この殿が存在するこの玻名城古島の地に部落移動した時に建立された殿である、建立年代は、十二世紀の後半から十四世紀の前半の間である。

南城市

テダ御川
南城市知念知名崎の海岸にある泉で、太陽神が降臨した聖地とされています。テダは、太陽あるいは太陽神を意味します。国王や聞得大君の久高島参詣のときは、この泉の前に舟をとめて、航路安全の祈願をしたとも言われています。

斎場御嶽
知念半島の台地上にある沖縄第一の霊場です。琉球開びゃく神話の神「アマミキヨ」によってつくられたと伝えられています。聖地・久高島へ向って祈願する、お通し御嶽として知られています。

垣花樋川
昭和60年に日本の名水百選にも選ばれた垣花樋川。樋川とは湧き水から引いた井泉のことです。垣花城跡の石畳の坂道を下ると、深い緑に囲まれた林の中腹から湧き水があふれ出ています。

垣花城跡
標高120mに位置し、眼下に霊泉・受水走水やミントングスクを見下ろし、玉城城の東の守り城で、深い緑に囲まれた城です。

場天御嶽
佐敷は琉球三山統一を果たした尚巴志ゆかりの地。伊平屋島からこの地に移り安住したその偉大なる祖父・佐銘川大主を祭る場天御嶽は小高い丘にある。こんもり茂る緑の中、イビ御嶽ほか6つの拝所が点在する。