大隈


曽於市

道の駅おおすみ
弥五郎伝説の里
大隅町物産館「やごろう農土家市」は、生産者が丹精込めて栽培した安心・安全の農産物や黒豚精肉・手作りハム・ソーセージ・農産加工品等を新鮮なうちに直接消費者へ安価で提供いたします。
また、レストランでは、地元産の厳選した新鮮な野菜と大成畜産が自社農場にて丹精込めて育てた、こだわりの黒豚を使用し素材のおいしさを活かした料理をリーズナブルな価格で提供いたします。

弥五郎どん
一説には、300歳の長寿を誇り、6代の天皇に仕えた竹内宿弥か、隼人族の首領ではないかと言われています。
この銅像は、地域おこしのシンボルとして弥五郎どんを永く後世に伝え、祭りと弥五郎どんの伝説を多くの人々に広くしってもらおうと建立いたしました。

官軍墓地
官軍墓地は、明治10年(1877)夏、西南の役で倒れた官軍の戦死者を葬ったもので、この上馬場墓地に74基の墓石が残っています。 同年7月8日百引での戦いで戦死した人が半数を占め7つき11日・12日、野方方面で戦死した人がそれに次ぎ、岩川では4人戦死しています。

世貫神社
万寿元年創建。主祭神は若宮命(島津日新斎忠良公)とその賢母常磐命。

宝寿庵城跡
島津貴久公居館跡、宝寿庵城跡”この一帯は宝寿庵城のあった所である、何時頃構築されたかということはわからないが、湯之尻の末吉城(亀鶴城)より前にあった城である、この城には島津藩主が度々滞在した、八代島津久豊は伊東との戦いの時、九代島津忠国は百姓一揆の関係で、十一代島津忠昌、十五代島津貴久等である。

狩谷(古屋敷)遺跡
狩谷は、日本で初めて貝殻付紋円筒式土器の狩谷式(石坂式)が出土した重要な遺跡で第一号、二号土器は発見者の鹿児島県考古学会長河口貞徳先生が京都大学文学部に持って行き、現在、京都大学の博物館に保存されている。

道の駅 すえよし
道の駅すえよしは、国道10号沿線、大隅地方の玄関口に位置しています。当施設は地元産の木材を使った木の香りあふれる木造であり、ゆったり広がる空間が特徴です。また、施設内には地元農産物、特産品の直売コーナー、レストラン、展示室兼多目的ホール、体験加工室などがあります。

檍神社
檍神社はもと村社であった。祭神は伊奘諾命、泥土煮命、大戸道命、面足命、伊奘冊命、大戸辺命、惶根命である。
創建は、上代よりということである。三国名勝図会によると当地は伊奘諾命が檍原の中津瀬で祓除をした名跡に依って勧請したとある。

小戸池
小戸池は今も神社の近くにあり、妊婦がこの水を飲むと安産だと言い伝える。

垂水市

道の駅 たるみず
「道の駅」たるみずは、 霧島から桜島、佐多岬から鹿児島市へのルート上にあり、都市部との交流の促進を目指した「体験型観光」により重要な役割を担うものと期待されています。
また、ラドン含有量34倍と非常に珍しい天然ラドン温泉を活用した温泉施設や地域の農林水産物やそれらを原料とした2次加工品を販売します。

湯っ足り館
道の駅 「たるみず」 敷地内に設けられた温浴施設。
「非常に珍しい天然ラドン温泉をもった駅」 (国土交通省紹介文引用)。
ラドン含有量が通常の温泉の34倍という天然ラドン温泉を利用。
2Fの露天風呂からは桜島や錦江湾を眺めながら入浴を愉しめます。

鹿屋市

花岡島津氏歴代墓地
花岡島津家の初代から9代に至るまでの歴代の墓所で、学術研究上からも貴重なものとされています。

稲荷山遺跡
時代的には縄文中期から後期、弥生時代の前期、そしてもっとも遺物・遺構の出土数が多いのは古墳時代の前期(4世紀)と後期(6世紀)だという。

高千穂神社
創建、由緒とも伝わっていないが、その昔、天照大神の孫で高千穂に降臨した瓊瓊杵尊が、高千穂の宮から薩摩半島を巡幸した時、当地でしばらく滞在した後であるという話が伝わり、当座大明神と称していた。

王子遺跡資料館
王子遺跡は弥生時代中期のもので、南九州最大の大集落遺跡です。土器や住居跡が約200点保存されています。

鹿屋航空基地史料館
旧海軍特攻基地として名高い海上自衛隊鹿屋航空基地内には「鹿屋航空基地史料館」があり、戦時中の凄惨さを思い起こさせる資料や写真が展示されており、今では観光ルートの一つとして多くの観光客が訪れております。

錦江町

城ヶ崎の板碑
一石に彫られた供養塔で、この板碑は方形の柱状である。頂部は三角形でその下に二段の切りこみ、さらに額部が前方に突き出し、その下に身部があり、最下に根部がある。

天神下の笠塔婆
笠塔婆に刻まれた銘により、文永4年(1267)、沙弥道意(富山氏三代義宗)が、一族の繁栄を願い建立したもので、この地は中世の島津荘祢寝院(北俣)の弁済使富山氏の居所付近と推定される。

若宮神社
若宮神社境内及び背後の山林は次のような樹木があり大きさ樹種共本町だはきわだった存在である。
楠  幹まわり約5.63m 1本
ムクロジ  幹まわり約2.03m 1本
ナギ  幹まわり約3.04m 1本
イヌマキ  幹まわり約2.80m 1本

南大隅町

道の駅 根占
道の駅 根占は、本土最南端の「道の駅」として国道269号の中間点に位置しています。 駅内の物産館では、特産品のお茶・手造りハム・花の苗等の販売、レストランでは錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺めながら、 バイキング料理を楽しむ事ができます。

御崎神社
日本で最古の通貨である和同開珎(708年)開基である御崎神社。綿津見三神、住吉三神を祭神としてまつってあり、最初は海浜の岩窟にあったといわれ、中世に樺山久高という武将によって現在の御崎山中腹に移されました。
現在では、縁結びの神として、訪れる恋人たちが願掛けをしている光景をよく見かけます。

佐多岬
九州本島最南端北緯31度線上に位置し、南端の断崖から50メートル沖の大輪島に日本最古の一つである佐多岬灯台があります。
この灯台は、イギリス人の設計で明治4年に完成。昭和20年の空襲で焼失、現在の灯台は昭和25年復旧したものです。太平洋、東シナ海、錦江湾に面し、晴れた日には種子島、屋久島を見ることが出来ます。眼下にはエメラルドブルーの大海原が広がります。

佐多旧薬園
島津二十代藩主綱貴のころの薩摩藩の薬園跡です。遠く西洋方面から薬草を輸入し、幕末までの医学研究を試みたと伝えられます。3000平方メートルの園内には、龍眼、レイシ、オオバゴムノキ、アカテツ、バンジロウなど南方系の珍しい植物が生い茂っています。特に、龍眼の丸い実は、薬用や食用として珍重されたと言い、今も当時の面影を残しています。

南大隅ウインドファーム
南大隅ウインドファーム根占発電所、佐多発電所を合わせると西日本最大級の26,000キロワットの発電所となります。
根占南川内地区までの長距離送電(17.4キロメートル)
世界屈指の風力発電スペシャリスト(デンマーク)を起用、風況データ(風速、風向など)、地形などをあらゆる角度から分析し、風車の最適配置を決定しました。

肝付町

海蔵集落の要塞跡
内之浦の海蔵集落のある一帯は、戦略的価値が高いと認められ、志布志湾岸で最も大きい要塞が構築された。そのため、砲台跡6ヶ所(7門の高射砲)・弾薬庫1ヶ所・探照灯1ヶ所(飯ヶ谷)の遺跡が残っている。また、2連式のトーチカ(機関銃座)の他に、海蔵岬他2ヶ所の計3ヶ所が現存している。

海蔵観音
延宝9年(1681)に島津藩の仏師、島居次郎兵衛尉が高山町にあった地福寺というお寺をアトリエに製作したもので、海藏坊の住職達心法師の法要と当時の島津藩主19代光久公と20代綱貴公、それに地頭福屋助左衛門の無病息災武運長久、子孫繁栄を祈願して造立したとされています。

人工衛星追跡用136MHZ 400MHZ 自動追尾アンテナ
このアンテナは昭和41年(136MHZ)44年(440MHZ)に宇宙科学研究所鹿児島宇宙空間観測所の気象台跡に設置され人工衛星から送られてくる電波を受信して62年度まで人工衛星の軌道決定に活躍したアンテナ

内之浦砲台跡
この洞窟は、昭和19年第二次世界大戦のときに米軍の志布志湾上陸を阻止するために造られた砲台跡です。

塚崎古墳群
塚崎古墳群は肝属町野崎塚崎にあり、文化財保護法により史跡に指定されている。この古墳群は、内之浦へ通ずる県道の両側にあって現在44基、このうち5基が前方後円墳で、円墳39基が残っている。

塚崎の大楠
1号噴に根をおろす「塚崎の大楠」の樹齢は約1,300年以上とされており、県下でも蒲生、志布志の大楠に次ぐ3番目(幹周り14メートル)に大きい大楠です。50余種類を数える着生植物が共生し、植物学上でも貴重な存在といえます。

四十九所神社
永観2年(984年)7月16日、肝付氏の祖伴兼行(大伴大監兼行)が薩摩国惣追捕使に任命されて下向する際、伊勢神宮内宮外宮から勧請。後にここを鎮座地として創建される。以後肝付氏の守護神として郷土の産土神として、また大隅一円の宗社として崇敬されている。

獅子隈観音
観世音菩薩像は大唐国北京王より琉球の中山王へ授けられた。慶長14年(1609)中山王より島津藩主へ贈られ江戸高輪に観音堂が建てられ江戸で深く信仰された。享保18年(1733)島津藩主より荒佐野百姓婦に授けられ12月18日獅子隈山下に観音堂が建てられ大隅一円で深く信心された。

東串良町

唐仁古墳群
東串良町は古墳の町と呼ばれるほど古墳が多い。古墳群は前方後円墳と円墳合計約140基となっており、代表的なものに大塚古墳(1号墳)、役所塚(100号墳)、向塚(33号墳)等がある。
古墳が造られるようになったのはおよそ3世紀半ば頃といわれているが、大塚古墳(1号墳)は、その石室内に、5世紀時代に盛んに造られた横矧板鋲留式の短甲が副葬されていたこと等から、その頃に造営されたものであろう。

大塚神社
大塚神社は島津忠久入国の際、先見を命ぜられた本田次郎貞親が島津家の守護神として建久2年(1191年)頃創建したものと言われている。

神武天皇御発航伝説地碑
神武天皇は、我が郷土で御誕生。後に大和地方平定のため柏原の港より御出航されたという言い伝えがあります。

戸柱神社
創建年代不詳。一説によれば、神武天皇御東遷の準備がなされた田畑に航海安全を祈って創建されたものを、約千年前に当地に遷座されたと言う。

大崎町

横瀬古墳
古墳時代中期(5世紀後半)のもので、高さが15.4mで県内で一番高く、長さが124mと県内で2番目に大きい前方後円墳です。明治時代に盗掘された際には、直刀.鎧.勾玉類が出土したと言われており、その後の調査では周濠の存在も確認されています。また、墳丘や濠から畿内地方の土器が出土したことや、大型の畿内的古墳であることから、被葬者は中央政権から派遣された相当の権力者と推測されています。

照日神社
元禄二年(1688年)荒佐野住民が大坂から移住するにあたり、伊勢神宮から勧請し、伊勢神社と称していましたが、明治8年平野の照日神社と合祀されて以来照日神社と称しています。また、境内にある大クスは樹高が九州一といわれています。

道の駅 くにの松原おおさき
国道220号沿いに現れる銀色の大きなカブト虫のモニュメントが目印です。このモニュメントは大崎町の豊かな自然の象徴として作られました。
隣接して温泉つき宿泊施設「あすぱる大崎」があります。

志布志市

宝満寺跡
明治2年、廃仏毀釈によって廃寺となった律宗秘山密教院宝満寺の遺跡である。歴代住職墓地・仁王像・下馬札・石橋・旧庭園などが往時を偲ばせる。
宝満寺は、奈良時代の神亀年間(724〜729年)に聖武天皇が皇国鎮護のため、各地に建立した勅願寺のひとつと伝えられる。その後、正和5年(1316年)に信仙上人英基和尚が、院宣を受けて勅願所として再興した。元応2年(1320年)には西大寺より如意輪観音像を下向し、本尊とした。

大慈寺
1340年の創建で、京都の臨済宗妙心寺の末寺であり、藩政(江戸)時代には16の支院と100名以上の僧侶がいた。
明治2年の廃仏毀釈により、一時は廃寺となったが、明治12年旧大慈寺宝地庵跡に再興され現在に至っている

大慈寺開山堂
この開山堂は、玉山玄提和尚が、志布志に来て初めて禅定に入った霊山の麓に建立されている。玉山和尚は、134歳で人々の幸せを祈って、生きながら石室に入り、1週間後に亡くなったと伝えられている。

即心院跡
大慈寺の16あった支院の1つで、島津6代氏久と敬外夫人の墓碑が残されている。
氏久は、南北朝時代の大隅の守護職であり約30年間志布志城(内城)の城主としてこの地を治めていた。

平山氏庭園
江戸初期の築山鑑賞式で面積246平方m。作庭は古寺石峯寺時代の住職と推定される。
大岩盤の崖を主景となし、その上に青々とした山の景観を表現し、サツキ・ツツジを配して深山幽谷の自然を風景的にまとめあげている。
西隅には大日如来化身を象徴する多宝塔をかたどった灯籠が配され、降雨の際は雨水が岩肌を伝い滝として落ちるような技巧も凝らされている。

天水氏庭園
築山枯山水様式を取り入れた庭園で、面積は120平方m。江戸中期の作と伝えられるが、作庭者は不明である。
常緑広葉樹は遠山を象徴とし、借景に志布志(内城)を配しているなど、景観により深く奥行きを見せている。
築山の中央正面の石は、庭園意匠の中核となる枯滝石である。枯滝石の前に脇侍石・水分石・鯉魚石などの役石を配せられ、枯山水として三尊石組の形式をとっている。

中原遺跡
縄文時代中期末から後期の土器では、多量の在地系土器の中に瀬戸内系の磨消縄文型の物があった。中期から後期にかけて石鏃や石槍の代わりに石錘が多く出ているが、漁労が中心だったようだ。

松山城址
松山城は「日向地誌」によると平清盛の弟頼盛の孫にあたる隠岐守重頼が松山に来て文治4年(1188年)に築いた。

神州不滅の碑
北九州を中心に久留米で編成された八十六師団の積兵団が敵の志布志湾上陸に備えて,都城から鹿屋までの範囲に兵を展開し,本部を松山に置いた。
昭和20年8月に終戦。当時の師団長が訓示した「戦争には負けても日本は滅びない」という意味の神州不滅の碑を松山城に建立した。

道の駅 松山
道の駅 松山は、宮崎自動車道都城インターと志布志を結ぶ県道飯野松山都城線の中間に位置します。松山城址を町おこしの拠点に、野菜と畜産の町を広くPRしています。





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