深谷市 |
畠山重忠墓 | |
武蔵武士畠山重忠は、鎌倉幕府の重臣として知られる。 重忠は、川本地区畠山出身といわれ、畠山館跡に残る大型の五輪塔6基が「畠山重忠墓」として大正13年に埼玉県史跡として指定された。 |
鹿島古墳群 | |
川本地区本田の荒川に沿った台地に、100基を越す古墳が分布する。終末期の古墳群として知られ、径10m〜20mほどの小規模円墳で構成されるが、方墳も見つかっている。 |
江南サイホン吐出口 | |
この地にある江南サイフォンの「呑み口」「吐き出口」は約4`上流の旧六堰頭首工で取水された農業用水を「左岸側の呑口」よりサイフォン「荒川に架かった水のトンネル」から対岸の「吐出口」に、農業用水を運ぶためのものです。 |
白鳥飛来地 | |
川本町の荒川には、シベリアから白鳥が渡ってくる。主にコハクチョウだが、多い日には1日に200羽以上も飛来することがあるそうだ。白鳥の他にマガモ、カイツブリ、アオサギ、カラス!も集まってくる。 |
寄居町 |
今市追分地蔵尊 | |
地蔵堂の中には一体地蔵と呼ばれる高さ3メートルを超える木造の地蔵菩薩立像が安置されています。町指定文化財で室町時代の作と推定され寄木造りで玉眼を施してあります。 |
高蔵寺 | |
天台宗のお寺で十一面観音が祀られています。十一面観音は元は兒泉神社の本尊仏であったようです。この寺の開基は柳沢兵部丞信俊で柳沢美濃守吉保の祖父にあたる人です。 |
寄居 星の王子さまPA | |
寄居 星の王子さまPAは、NEXCO東日本のSA(サービスエリア)・PAのコンセプトである“クルマの旅に、もうひとつのよろこびを”に基づいて計画・施工されたもの。星の王子さまとコラボレーションしたことで、その世界観をPAに再現した。 |
東松山市 |
浄光寺 | |
廃仏毀釈の際廃寺となり現在に至ってるが、浄光寺は、かって末寺39も数えた。近くの一本松は浄光寺の一比丘と村娘との悲恋の伝説があり今でもそのまま残ってる。 |
足利基氏の塁跡 | |
足利基氏は、室町幕府初代鎌倉公方です。足利尊氏次男として歴応3年(1340)に生まれました。兄の義詮が2代将軍となり、基氏は鎌倉府のトップとして君臨したのでした。 この館は、貞治2年・天平18年(1362)に反乱を起こした芳賀高貞(宇都宮氏一族)と、いわゆる岩殿山合戦を行ったときに布陣した場所で、本陣が置かれた可能性が高いと思われます。 |
阿弥陀堂の板碑 | |
東松山市指定の「阿弥陀堂の板石塔婆」で、高さ260cm程あり、市内で二番目の大きさ(一番は石橋地区の虎御石/市指定文化財)を誇ります。応安元年(1368)正法寺の明超上人が願主となって、50人の人たちが真言の功徳により教え導かれることを願ってこの板石塔婆を建立したものです。 |
弁天沼 | |
弁天沼は、坂上田村麻呂が悪龍を退治しその頭を岩殿山の麓ふもとに埋め、のちにその地に用水池を掘ったところ蛙が住みつかなかったことから別名「鳴かずの池」といわれています。 |
正法寺 | |
岩殿観音は坂東札所で、古来より信仰を集め、門前市をなしました。戦国時代には武田勢の松山城攻めの時の本陣が置かれたということです。 かつての門前市をしのばせる家並みが尽きると、目前に仁王門が迫ります。アジサイの咲き誇る石段を登りつめると、観音堂と大銀杏が目に入ります。 |
吉見町 |
吉見百穴 | |
吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定された。横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたものであるが、死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じである。 |
ひかりごけ | |
ヒカリゴケはコケ類の一種であり、緑色の光を放出しているように見えるところから、この名がついている。ヒカリゴケの生育には、一定の気温と湿度を保つ環境に恵まれることが必要で、この条件に合った吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。 |
地下軍需工場跡 | |
昭和19年〜20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡である。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴である。 |
埋蔵文化財センター | |
埋蔵文化財センターは、遺跡からの出土品を整理し、保管・管理する施設であるが、ここは展示室が設けられていて、縄文時代の編み物や、古墳時代の木製農具、圭頭太刀をはじめとしたかぶと塚古墳出土品、県指定文化財の白磁四耳壺など鮮度の良い出土品が展示され、原始・古代から近世までの町の歴史を紹介している。 |
岩室観音 | |
弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4p)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。 |
松山城跡 | |
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年に県指定史跡となる。平成20年には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。 |
鳩山町 |
赤沼古代瓦窯跡 | |
7世紀に使われた窯の跡で、県内でも最も古い部類に入る。 この窯で、坂戸市にあった勝呂廃寺の瓦が焼かれたとみられている。 県の史跡に指定されている。 |
嵐山町 |
稲荷塚古墳 | |
稲荷さまがまつられていたことから名前が付いた古墳。 古墳時代後期、7世紀後半の築造と推定される円墳。 中に立ち入ることはできないが緑泥片岩の割石を積み上げた石室を見ることができる。 |
菅谷館跡 | |
畠山重忠の館と伝えられる「菅谷館」は、現在ではその痕跡を見ることは出来ません。現在菅谷館跡に見られるのは、戦国時代につくられた城郭の跡です。 |
鬼鎮神社 | |
鬼が神様として奉られている、全国でも珍しい神社。鎌倉時代、この地方を治めた畠山重忠が、菅谷館を築いたときに、鬼門の方角に厄除けのために建立したと伝えられている。 |
滑川町 |
伊古乃速御玉比売神社 | |
第六十代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で四四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。 境内全域に自生する樹木は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。 |
小川町 |
穴八幡古墳 | |
周囲に方形に廻る二重の堀を構え、一辺は28.2m、高さ5.6mを測る県内最大級の方墳です。横穴式石室は全長8.2mで保存状態も良く、小川特産の緑泥石片岩を使用しています。 |
八幡神社 | |
中世には猿尾氏、近世には旗本金田氏などの篤い信仰と庇護を受け、慶安2年(1649)には10石2斗の御朱印が下賜されています。なお、昭和8年(1933)10月に村社から石碑に刻まれているように郷社へと昇格し、近年までは流鏑馬神事が奉納されていたとのこと。 |