西予


宇和島市

宇和島城
現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)藤堂高虎(とうどうたかとら)築城のときとされています。城の外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられます。

桑折氏武家長屋門
城山の北登山口にある桑折氏武家長屋門は、市の文化財に指定されています。現在は間口15メートルですが、本来は35メートルの堂々たるものだったようです。かつては南登山口から天守に至るまでに7つの門がありましたが、現在残っているのは上り立ち門のみです。

和霊神社
漁業を中心に広く産業の神として、中四国で崇められている和霊信仰。その総本山といえるのが、この和霊神社です。
祭神である山家清兵衛は、米沢の生まれ。伊達秀宗の元で、産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮した清兵衛ですが、元和6年(1620)凶刃に倒れました。その後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊だと恐れ、その霊を城北の地にまつりました。それが和霊神社の始まりです。

天赦園

本園一帯は宇和島城西南を囲んだ海でありましたが寛文12年(1672年)第二代藩主宗利が、ここを埋立て造成した浜御殿の一部で、七代藩主宗紀(春山と号す)が退穏の場所として、南東部の大改造に着手、文久3年3月着工され同年12月には建築等も終わり12月28日に移居して、南御殿と称し慶応2年(1866年)に竣工し、独眼竜伊達政宗の漢詩の一節から天赦園と命名しました。


穂積橋
穂積橋は、辰野川の下流、錦町・新町間に掛かる橋で、昭和5(1930)年に現在の鉄筋コンクリート橋に改築されました。この時、宇和島が誇りとする法学者であり、33才で我が国初の法学博士となられた、穂積陳重博士の名前をとり名付けられました。

禅蔵寺
禅蔵寺薬師堂は、一辺3間(桁行5.61m、梁間5.62m)一重、宝形造り、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸時代中期に再建された。一見素朴な草庵風の建物である。外まわりの柱上には組物を乗せず、柱、軒、外壁、諸組等が華美ではない。柱、花頭窓、軒材等は創建当時の材であることがうかがわれる。内部意匠は来迎柱、大虹梁、大瓶束を備える禅宗様三間堂で、特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。

龍光寺
四国霊場41番札所。本尊は十一面観音。弘法大師自ら尊像を刻み、堂宇を建立して稲荷山護国院龍光寺と名付けられたといわれています。年間を通して多くのお遍路さんが訪れています。

稲荷神社
大同2年(807)に京都の稲荷神社を宇和郡戸雁村にお迎えしたといわれています。

佛木寺
四国霊場42番札所。京都・仁和寺に本山を持つ真言宗御室派のお寺です。
境内には山門・本堂・茅葺きの鐘楼、不動堂、鎮守神明尊、聖徳太子堂、新大師堂が立ち並び、独特の風格を備えています。御本堂の大日如来坐像と、新大師堂の弘法大師坐像は県指定文化財。

道の駅「みま」コスモス館
「みま」コスモス館は、美術館と記念館を併せもつ、全国でも珍しい道の駅です。
農作物直売コーナーでは、オリジナルブランド「三間米」が大人気です。新米まつりには、毎年大勢の人出で賑わいます。

簡野道明記念吉田町図書館
吉田藩は、明暦三年(1657)藩祖伊達宗純が宇和島藩より吉田三万石を分知され、以来伊達9代210年余にわたり、陣屋町として発展してきた。
その陣屋跡に当時の面影をしのばせる図書館が昭和63年に国土庁のモデル事業の指定を受け図書館を核とする付近一帯の歴史的景観を整えた。

愛南町

観自在寺
いにしえの栄華を今に伝える四国八十八ヶ所第40番札所・観自在寺。平城天皇の勅願所として弘法大師が807年に開祖したと伝えられます。山門は約7メートルもある見事な総けやきづくりです。参道の両側に並ぶ商店の家並みには、門前町として栄えた名残りが漂っています。

八幡神社
八幡神社のお練り行列は牛鬼、四ッ太鼓、五ッ鹿を始め、神輿、山車、天狗車等々30台余りが出て、南国的な勇壮な祭りが展開される。

八幡神社遺跡
八幡神社境内が、遺跡として知られるようになったのは、昭和37年5月、縄文晩期のものと思われる土器片や黒曜石の矢じりなどが、発見されたことが発端である。
この遺跡も御荘湾に突出した台地に位置し、対岸には海をへだてて深泥遺跡があり、その東側に仙碆鼻、馬瀬、節崎と東に向かい点々と遺跡が続いており、これらの遺跡群との往来も考えられる場所である。

道の駅みしょうMIC
平成9年11月9日にオープンした道の駅みしょうMICは道路を利用する人が、いつでも自由に利用できる駐車場・公共トイレを持った「休憩機能」、人と地域の交流により文化や歴史、名所や特産物等地域の持つ魅力について情報提供するための「情報交流機能」、また道の駅を通じて町と町が連携して活力ある地域づくりを目指す地域の「連携機能」の3つの機能を柱としています。

松野町

葛川沈下橋
現在、愛媛県にある数少ない沈下橋の1つである。
名のとおり、沈下橋は脚が低くて増水時には水没するようになった簡単なもので、近年では交通の安全性が優先され、撤去されるものが多く全国でも貴重な存在である。

道の駅 虹の森公園まつの
駅の中心は「やすらぎゾーン」と「ふれあいゾーン」の2つからなっている。主な施設として、じゃぶじゃぶ池や遊具の広場、多目的芝生広場、カワセミをモチーフにしたモニュメント塔、などがある。

鬼北町

奈良天満神社
天満神社の社叢は本殿の西側に広がり、一部は南側にもみられる。
西側にあるムクノキとタブノキは樹の大きさからして250〜300年南側にあるイスの木は150年〜250年を経ているのではないかと植物の専門家は推定している。

道の駅 森の三角ぼうし
恵まれた自然のもとに、道の駅「広見森の三角ぼうし」はある。中央に赤い屋根を配したおしゃれな建物には、農林産物加工品の展示販売がされており、軽食喫茶「彩り茶屋」では杉・桧で作ったテーブル・イス、地元陶芸家の作った食器、地域の食材などが使われ、優しい温もりで溢れている。

西予市

卯之町の町並み
江戸中期から昭和初期の商家が立ち並ぶ。白壁、うだつ、半蔀、出格子など伝統的な建築様式が残る町並み。幕藩時代には宇和島藩の在郷町として栄えた。二宮敬作、楠本イネらも往来した通りとして、訪れる観光客は絶えない。

末光家住宅
中町に現存する町家の中では最古の末光家住宅。間口8間、奥行き6.5間の主屋は明和7年(1770年)建築。市指定文化財。

鳥居門
天保5年(1834)、庄屋鳥居半兵衛が建てたもので、ケヤキをおしげもなくつかっている。門扉には鉄鋲を打ち、そりのある屋根には高々とした大きな鬼瓦があるいかめしい門。庄屋には身分不相応な造りとし、宇和島藩からおとがめがあったというエピソードもある。高野長英が逃亡中に二宮敬作を頼って卯之町へきたとき、この大門脇にある隠れ部屋で身を潜めたともいわれている。

高野長英の隠れ家
脱獄逃亡中の長英が、二宮敬作を頼って卯之町を訪れた際に身を隠した家。従来は2階建ての建物だったが、現在2階部分だけが保存されており、県の史跡に指定されている。

開明学校
明治15年(1882年)に建築された小学校。日本の伝統的木造建築の中に洋風のアーチ型の窓を取り入れた擬洋風のモダンな建物で、当時は舶来のガラスが使用されました。
長野県松本市にある重要文化財「旧開智学校」と昭和62年に姉妹館提携し、平成9年5月には国の重要文化財に指定されました。

宇和民具館
平成12年(2000年)リニューアルオープンした民具館は生活の変化に伴い、今では見られなくなった生活道具をはじめ、昔の街の賑わいを思わせる看板や商売道具など約5000点を収蔵展示しています。
館内は、常設展示室・収蔵展示室・企画展示室・町屋の4コーナーに分かれ、昭和48年迄娯楽の殿堂として活躍してきた劇場「栄座」の模型も展示。企画展示室では体験コーナーを設けた企画展を開催し民具を通して、昔の暮らしや先人の知恵を紹介しています。

光教寺
西園寺家の菩提寺として栄えた光教寺。本堂と庫裏は天保年間のもので、境内には卯之町新四国1番札所がある。

宇和先哲記念館
「先哲」とは、歴史にかかわる偉人、賢者をあらわす言葉です。
先哲記念館は、宇和町にゆかりのある人物、中でも多くの偉業を残した先哲を偲び、その人間像や業績を知る数々の資料を展示するものです。

宇和米博物館
卯之町の中心地や現在の宇和町小学校が一望できる高台に、昭和3年(1928)建築の旧宇和町小学校を移築して、「米どころ宇和」を紹介しています。

明石寺
南予の名刹として信仰が厚く、当地では「あげいしさん」と親しまれ、年間を通じて白装束のお遍路さんでにぎわいます。
同寺所蔵の「絹本箸色熊野曼陀羅図」は室町時代の作で、県指定有形文化財になっています。

八幡浜市

梅の堂三尊仏
平安時代の作で阿弥陀如来を中心に両脇侍の勢至、観音菩薩。
公開日の(9:00〜15:00)に、その端麗で均衡の整った姿を見ることができます。

三島神社
大三島大山神社の御分霊を祀る三島神社は、奈良時代の創建以来、千二百二十年が経過しています。県指定重要文化財の懸仏一面・神像五体と、市指定重要文化財神像二体を蔵しています。

伊方町

伊方ビジターハウス
原子力発電、エネルギー問題などについて、より多くの方に関心を深めていただくために、本館(原子力展示ホール)、別館(エネルギー展示ホール)があります。予約にて見学できます。

道の駅 伊方きらら館
伊方町&佐田岬の特産品を販売しています。
お魚(タイ・アジなど)に触れる、摩訶不思議な「ふれあい水槽」も人気!
民具などが展示している資料館、約50名収容の休憩所、瀬戸内海&宇和海を一望できる屋上展望台もあります。

大洲市

大洲城
大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。
激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。

臥龍山荘
臥龍山荘は、肱川随一の景勝地に臨む三千坪の山荘で、臥龍院・不老庵・知止庵と冨士山などを借景とした庭園があり、四季折々に深い趣を見せています。

おはなはん通り
肱南の市街地の東端、肱川に近い一角に、江戸及び明治の面影を残す町並みが残っています。
この一帯で昭和41年のNHK朝のテレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから「おはなはん通り」の名称で親しまれています。

おおず赤煉瓦館
おおず赤煉瓦館は明治34年12月に大洲商業銀行として建築されました。
建物は、イギリス積みの赤煉瓦構造で、屋根には和瓦を葺いた和洋折衷の造りとなっています。現在は、赤煉瓦の資料を展示した「れんが工房」や「ギャラリー」などがあります。

内子町

八日市護国の町並み
約600mの通りに約120棟の家々が連続して建ち並び、このうち約90棟が伝統的な民家です。浅黄色と白漆喰で塗り込められた重厚な大壁や袖壁、うだつ、なまこ壁、鏝絵など建物の美しい造形を見ることができます。

高昌寺
室町時代に創建された高昌寺は、本堂を中心に禅堂・開山堂などが回廊で結ばれており、静かで凛とした雰囲気。本山永平寺の配置を模して七堂加羅が整っていることから「伊予のミニ永平寺」とも呼ばれています。

内子座
木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場。農閑期には歌舞伎、人形芝居、落語、映画等の出し物が内子座を彩り、人々の心の糧として大切にされました

児童館
この建物は、神戸居留地の洋式建築物を視察して設計されました。
1901年(明治14年)まで小学校として使用された後、 内子郵便局、内子信用組合、内子町農業協同組合として活用され、 1983年(昭和58年)に改築されて、児童館となりました。

伊勢舎跡
寛政時代(1789)の初め頃、この地に伊勢舎という伊勢神宮を祀るお社が、郷の谷により移されました。残っているお社の図面や、修理の記録から、大きなお社であったことがわかります。






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