大垣市 |
大垣城跡 | |
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。 |
御朱印地遮那院跡 | |
遮那院は天武天皇の勅願所として白鳳年間に創立されたと伝えられ、のちに弘法大師が再興させようと、大日如来・不動明王・愛染明王の三尊を彫刻し、本尊としたといわれてます。 江戸時代には、御朱印地として幕府から諸役を免除され、保護されててきましたが、明治維新の神仏分離令により廃寺となりました。 |
墨俣一夜城 | |
平成3年4月にオープン。平成16年度には展示改装を行い、内容を一新しました。 愛知県江南市の旧家に伝わる前野家古文書に基づいて「墨俣築城への道」を紹介し、太閤・秀吉についての学習の場として広く活用されています。 |
白髭神社 | |
猿田彦命もとは白髭大明神と言い、社家今村氏が代々努めていたという。寛文七年(1667年)と天和二年(1682年)の文書に大明神とあって、明治七年(1874年)に白髭社として届け、明治一二年(1879年)に村社となった。続いて明治一三年(1880)には白髭神社として神社明細帳に記された。 |
豊国神社 | |
豊国神社は、出世開運の神様として知られる大阪の豊国神社より分社し、豊臣秀吉公を祀っている。大阪の豊国神社は、豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、豊臣秀長公を奉している。 |
安八町 |
結城跡 | |
結城は、高田二郎兵衛の館がここから南西700Mの地にあったと伝えられている。一説には、斉藤道三の家臣で六人衆と呼ばれた大将格で、重臣の日比野下野守清實が天文年中(1532年〜1555年)結城主として、3千貫を領して住み、東結入方の津島神社の社殿や社領を、寄進したりしましたが、永禄4年(1561年)5月、織田信長と森部で合戦し、大垣城主・永井甲斐守衛安とともに討死にし、斉藤軍は敗走しました。 |
結神社 | |
当神社は、江戸時代までは「結大明神」と称していましたが、明治初期ごろに「結神社」に改められました。記録などによれば、今から825年ほど前、80代高倉天皇の嘉応年間(1169〜1171年)に創建されたと伝えられていますが、一説には奈良時代より以前に創建されたともいわれています。 |
神戸町 |
日吉神社 | |
弘仁8年(817年)伝教大師が創建された神社で、近江坂本の日吉大権現を主神として7柱の神を祀り、往時は社僧八坊を有し、叡山と共に栄えてきました。 |
垂井町 |
垂井城跡 | |
ここは関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡と云われています。平塚為広は豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。 |
垂井の泉 | |
岐阜県の名水50選に選ばれた由緒ある泉で、幹まわり8mの大ケヤキ(県指定天然記念物)の根元から湧き出る清水は涸れることを知りません。 |
南宮大社 | |
金山彦命を主祭神に、旧国弊大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。社伝では神武天皇即位の年の創建とされ、慶長5年(1600)の関ケ原合戦で社殿のすべてを焼失。寛永19年(1642)、3代将軍徳川家光が再建したといわれています。 |
関ヶ原町 |
決戦地 | |
そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。 |
不破関跡 | |
壬申の乱の翌年、天武天皇はこの場所に不破関を設置し、天下の変乱に備えるために通行人たちを取り締まりました。「不破関」は、越前の「愛発関」、伊勢の「鈴鹿関」と並んで日本三関のひとつと呼ばれています。 |
関の藤川 | |
壬申の乱では、両軍がこの川を挟んで開戦しました。東側の松尾地区の住民は大海人皇子方を支援し、西側の藤下・山中地区は大友皇子方を支援しました。 |