泉北


堺区

土居川公園
15〜16世紀に堺商人が町を守るため西は海、他の三方に濠をつくり外敵を防いだのが始まり。一旦埋められた後江戸初期に掘りなおされ、戦後に再度埋められできた道路に沿って作られた公園です。

開口神社
旧市内唯一の式内社で、塩土老翁神、素盞鳴神、生国魂神を祀っています。天平18年(746年)、行基が境内に念仏寺を建立し、大同元年(806年)空海が宝塔を建てたので、大寺とも呼ばれています。

宿院頓宮
住吉大社の御旅所としての神社で、文化13年(1816年)が始まりとされています。後に大鳥大社の摂社も遷座され、それ以来2柱の神様をお祀りしています。毎年7月31日には大鳥大社からの御渡り、8月1日には住吉大社からの御渡りと、飯匙堀での荒和大祓神事が行われます。

千利休屋敷跡
千利休は大永2年(1522年)、堺の裕福な町衆魚屋に生まれました。17歳の時、北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鴎に師事し、茶道を大成させました。その屋敷跡には椿の井戸があります。

仁徳陵古墳
日本最大の前方後円墳です。北側の反正陵古墳・南側の履中陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれています。
前方部を南に向けた墳丘は、全長約486メートル、後円部径約249メートル、高さ約35メートル、前方部幅約305メートル、高さ約33メートルの規模で、3段に築成されています。左右のくびれ部の造出しがあり、三重の濠が巡っています。

大仙公園
仁徳陵古墳と履中陵古墳の間に広がる約35ヘクタールの緑に包まれた美しい公園です。園内には広い芝生や池、さまざまな木々が茂り、堺市のシンボルパークとして市民の憩いの場となっています。

ぐわしょう坊古墳
旗塚古墳のすぐ西側にある直径約61メートルの大形の円墳です。
墳丘は2段築成と考えられています。周囲には濠がめぐり、葺石と埴輪があります。主体部の構造や副葬品はわかっていませんが、円墳で径約61メートルという大きさは、仁徳陵古墳の陪塚とされている径62メートルの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国でも有数です。

旗塚古墳
百舌鳥夕雲町の大仙公園内にあります。
墳丘は全長約53.8メートル、後円部径約41メートル、高さ約3.8メートル、前方部幅約21メートル、前方部高1.3メートルの、帆立貝形古墳と呼ばれる前方部が短い前方後円墳です。

七観山古墳
履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)の後円部北側にあった円墳で、同古墳の陪塚と考えられます。
墳丘は、径約56メートル、高さ約8メートルの二段築成で、周濠もありました。葺石と埴輪があり、墳頂部には鰭付円筒埴輪をならべた埴輪列がめぐっていたようです。

履中陵古墳
石津ヶ丘にある前方部を南に向けた前方後円墳です。
現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理しています。
墳丘の全長約365メートル、後円部径205メートル、高さ約27.6メートル、前方部幅約235メートル、高さ約25.3メートルの規模で、日本で3番目の大きさの巨大前方後円墳です。

西区

浜寺公園駅駅舎
辰野片岡事務所の設計により明治40年(1907年)に建てられた私鉄最古の駅舎。ハーフティンバー様式の外観は、柱や梁が幾何学的にデザインされており、大変美しく、学術的にも高い評価を得ている建築物です(国の登録有形文化財)。一画にはギャラリーも設置されています。

四ッ池遺跡
四ッ池遺跡は、大阪湾に注ぐ石津川下流の左岸にある縄文時代から中世にかけての集落のあとです。特に弥生時代には、周辺の遺跡と比べても住居跡や土器・石器などがひときわ多く出土しており、和泉市・泉大津市にまたがる 池上曽根遺跡とともに和泉地方で最も栄えたムラの一つでした。

中区

野々宮神社
創建時期は不明、永正年間の兵火で消失後現在地に移転。境内には「寛文三年」の銘のある石灯籠一対など注目すべき石造遺物があり、「常陵郷の森」は市の保存樹木に指定されています。

土塔
奈良時代の僧行基が建立したとされる大野寺の仏塔。発掘調査によると土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたようです。平成21年4月復元整備によって創建当時の姿が再現されました。

南区

桜井神社
上神谷の八幡さんと呼ばれ、堂々と構える割拝殿の木壁と白壁は、鎌倉時代の建築様式とされ、堺で唯一国宝に指定されている貴重な建物です。

和泉市

池上曽根遺跡
全国屈指の規模と内容を誇る弥生時代の集落遺跡で、国史跡に指定されています。遺跡中心部で、約80畳の広さを持つ大型建物や、クスの木をくり抜いた直径2mの井戸などが発掘されました。大型建物の柱は年輪年代測定法から紀元前52年の伐採と判明しました。史跡公園では、これらを復元し公開しています。

泉大津市

泉穴師神社
泉穴師神社は我孫子の宮ともいい、式内社で和泉五社の一で「泉州二の宮」である。
その創起は不明であるが、737年(天平10年)付けの和泉監正税帳(正倉院文書)には「穴師神戸税」を貯蔵する倉庫が見えており、当寺律令国家が当社の祭事に関わる調度やその財源を設置していたことが判明している。





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