下関


下関市

唐戸桟橋
関門連絡船「ふぇありぃ号」は関門海峡をわずか5分の時間で、門司港レトロ地区とを1日40往復以上を運航している生活航路ですが、船上からの関門海峡の眺めは素晴らしく、まさにミニクルージング気分を味あわせてくれます。また桟橋のボードウォークは、埠頭の灯台とともに夜景を一層引き立てていて、とてもロマンチックです。

聖フランシスコ・ザビエル
下関上陸の碑
水際公園の一角に建てられた記念碑は、ザビエルの胸像とザビエル家の紋章がはめ込まれ、「願わくは神の栄光と人々への奉仕のために、あらゆる危険と困難をも顧みずこの下関の地に上陸した聖フランシスコ・ザビエルの、不撓不屈にして偉大なる精神と行動力にあやからんことを」との碑文が刻まれている。

唐戸市場
関門地区では歴史ある市場で、水産物が豊富。小売も行っているので朝早く出かければ新鮮な魚を安く手に入れることができます。また、市場内の様子を一望できる見学デッキや屋上芝生広場、水産加工品の小売店、食堂、喫茶店もあります。

海響館
「海のいのち、海といのち」をメインコンセプトにした水族館。世界最大級、日本初公開のシロナガスクジラの全長23mの骨格標本展示をはじめ、下関ならではのふくコーナー、約900トンという大型スケールで展開される「関門海峡潮流水槽」、関門海峡を背景にアシカのショーが楽しめるアクアシアターなど、他では見ることのできない内容が目白押しです。

亀山八幡宮
貞観元年(859)宇佐神宮より分霊を勧請し創建されたと伝えられる古社で、市民からは「関の氏神」として親しまれています。2月の凧上げ大会、5月の八丁浜、7月の夏越祭(なごしさい)の花火大会ではとくに多くの観客でにぎわいます。

お亀茶屋跡
幕末、お亀茶屋のお茶子木田梅子が長府藩に追われた伊藤博文公を助けのちに夫婦になられたゆかりの地である

亀山砲台跡
亀山は、壇之浦、前田などと共に、長州藩の砲台が置かれたところです。文久3年(1863)5月11日、久坂玄瑞の指揮により、アメリカ商船への砲撃が、この亀山砲台から始まり、攘夷戦の火ぶたが切られました。

床屋発祥の地記念碑
鎌倉時代の中頃、御所勤めの公家藤原采女亮は宝刀紛失の責任をとって、職を辞し、下関に移り住みました。采女亮は新羅人から髪結い技術を学び、結髪所を開きましたが、店の床の間には采女亮が敬う天皇をまつる祭壇があったため、この店のことを床屋というようになり、以来「床屋」という言葉は、下関で生まれ全国に広まったといわれています。

山陽道碑
亀山八幡宮の鳥居のそばに、かつてここが山陽道の起終点であったことを示す石碑があります。山陽道の最先端で、ここから関門海峡を船で渡り、九州の西海道へと通じていました。

赤間神宮
源平壇之浦の合戦で入水された安徳天皇を祭神とする神宮で、境内には安徳天皇阿弥陀寺御陵、平家一門の墓、七盛塚、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談で有名な「耳なし芳一」の木像が祭られている芳一堂、「長門本平家物語」「源平合戦図」など貴重な資料のある宝物殿等があります。5月3日には、上臈参拝で有名な先帝祭のメイン会場となります。

七盛塚
言い伝えでは源平壇之浦の合戦で平家が滅亡して以来、関門海峡で海難事故が頻発し、平家の怨霊が騒ぎ出したためと恐れられていた。下関近辺に散在していた平家の墓標をこの地に集約して1600年ごろに建てられた。平家一門の供養碑。赤間神宮境内。

芳一堂
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談で有名な「耳なし芳一」の像が七盛塚入口に奉られている。

安徳天皇阿弥陀寺陵
幼くしてなくなった安徳天皇のお墓である。
赤間神宮の隣にあり、西日本ではただひとつの御陵である。

日清講和記念館
明治28年(1895)、日清戦争の講和会議が下関の「春帆楼」で開かれ、清国の李鴻章と日本の伊藤博文の間で日清講和条約(下関条約)が締結されました。その会議で使用された調度品やその他貴重な資料を公開、展示するために春帆楼に隣接して建てられたのが、この記念館です。

旧下関英国領事館
幕末の元治元年(1864)、英、仏、蘭、米国の4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃した「下関戦争」の際、英国指揮艦ユーリアラス号に通訳として乗り込んでいたアーネスト・サトウは、後に英国駐日公使となり、下関に領事館が必要なことを報告し、明治34年(1901)に全国で三番目の英国領事館が当地に開設されました。
赤レンガづくりのこの建物は明治39年(1906)に建てられたもので設計者は、長崎の英国領事館の建築を担当したウイリアム・コーワンと言われています。

旧秋田商会ビル
屋根に突出した塔屋がひときわ印象的なこの建物は、大正4年(1915)に秋田商会の事務所兼住居として建てられたものです。秋田商会は日清戦争以後の海外進出機運に乗って創設された海運会社で、海外貿易を主な業務にしていました。当時海岸が間近に迫り、屋上の塔屋は灯台の役目をしていました。
洋風の外観ですが、2階と3階は和室の住居で、屋上には日本庭園や日本家屋がおかれるなどユニークなアイデアが施されています。現在は観光情報センターとして、建物内部も公開しています。

下関南部町郵便局
明治33年(1900)に建てられた下関に現存する一番古い西洋建築です。外壁のレンガは厚さ60センチという堅固なもので、設計は逓信省(ていしんしょう)技師の三橋四郎です。また、現役の郵便局舎の中では国内最古です。中には建物に関する資料展示コーナーがあります。

大歳神社
源義経が壇之浦の合戦に際し、戦勝を祈願した神を祀ります。長い石段を登りつめた境内には、めずらしい「七卿落ち」の画碑があります。「七卿落ち」とは、文久3年(1863)8月、京都朝廷で起こった政変により、反幕派7人の公卿が京都から追放され長州に下った事件をいいます。境内前の大鳥居は、白石正一郎が寄進したもので、その大きさに当時の豪商の経済力がうかがえます。

海峡ゆめタワー
国際貿易ビル、アリーナと共に海峡メッセ下関を構成する、高さ153メートルのランドマークタワー。展望室(高さ143メートル、日本有数)からは、関門海峡はもちろん、対岸の九州や日本海側が一望できます。特に、巌流島の絶好のビューポイントです。夜はバリエーションに富んだライトアップに照らされ海峡の風景にアクセントを添えています。世界初、球形総ガラス張りの展望室からの眺めをお楽しみ下さい。

厳島神社
慶応2年(1866)の小倉戦争に勝った戦利品として、奇兵隊 が小倉城から持ち帰った大太鼓が、境内に保管されています。

高杉晋作終焉の地
療養中の晋作の身を案じた正妻のマサが看病のため、萩から訪れたことを機に新地の林算九郎宅に移りましたが、慶応3年(1867)4月14日、明治維新の直前に、27歳の若さで息を引き取りました。

桜山神社
境内裏手には、明治維新に散った志士たち391柱の霊標があります。中央に吉田松陰、両側には高杉晋作、久坂玄端が並び、うしろの方には、ただ名前だけ刻まれたものもあり、維新に貢献した様々な人々がまつられています。この招魂社の形式は、高杉晋作の発起によってまつられたもので、靖国神社等の始まりといわれています。

梶栗浜遺跡
梶栗浜遺跡は、下関市安岡梶栗浜にある弥生時代の墓地遺跡。
発掘調査により、ここから鏡、銅剣、土器などの遺物が出土したが、そのうちの青銅器は、我が国の遺跡から発見された例が少ない朝鮮古代のものであることがわかっています。

綾羅木郷遺跡
綾羅木郷遺跡は、本州西端の響灘に面する地域にあり、北九州とともに弥生時代の中心地域でした。
発掘調査により、竪穴住居跡や袋状竪穴群が発見されています。

下関市立考古博物館
西日本屈指の弥生遺跡として知られる国の史跡・綾羅木郷遺跡に隣接して平成7年5月13日に開館しました。
弥生人の暮らしや、中国や朝鮮半島との交流を示す資料などが分かりやすく展示してあり、研究の成果として企画展も毎年開催されています。

みもすそ川公園
園前の海は関門海峡の一番狭まったところで早鞆(はやとも)の瀬戸といわれ、潮流も一番速く、代表的な関門海峡の景色を見ることができます。ここはまた、源平壇之浦合戦の古戦場であるとともに、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあります。
公園内には源義経・平知盛両雄の像(夜はライトアップされます)とともに、像の除幕式に参加された滝沢秀明さん(NHK大河ドラマ義経役)中越典子さん(同 建礼門院役)をはじめ、大河ドラマ出演者の手形が設置されています。

長州砲
長州砲のレプリカ5門も関門海峡をにらんで展示され、うち1門は音と煙の演出がお楽しみいただけます。

関門トンネル人道
関門国道トンネルは、全長3,461.4m、昭和33年3月9日に開通。下関側車道入口は、約1.4km離れた場所にあり、ここ「みもすそ川」から対岸門司の「めかり」との間780mが世界的にも珍しい歩行者用海底トンネルになっています。所要時間は約15分。

関門プラザ
関門トンネル人道下関側入口にある関門プラザには、関門トンネルや関門橋に関する資料が展示されています。

長府庭園
長府毛利藩の家老格、西運長の屋敷跡で、小高い山を背にした約3万平方メートルの敷地には池を中心に書院、茶室、小川があり、四季折々に散策を楽しめる廻遊式日本庭園です。

日頼寺
元々は極楽寺と呼ばれていましたが、毛利元就の四男元清が元就の法号「日頼洞春」にちなみ「日頼寺」と改称し、菩提寺としました。
また、第14代仲哀天皇が九州遠征時に急死した際、神功皇后が仲哀天皇のご遺体を仮埋葬した塚「御殯斂地」があり、現在この地は宮内庁の管轄となっています。

仲哀天皇御殯斂地の碑
日頼寺の石段を登り、山門をくぐると右手に裏山に通じる小道があります。その小道を登ると、鉄柵で囲まれ注連縄が張り巡らされ、中央に小石を積み重ねた塚があります。その入口右側にこの碑が建っています。「殯斂」とは遺体を棺におさめたまま、しばらく仮に安置しておくことをいいます。つまり、仲哀天皇の遺体を仮安置したという処であります。現在、宮内庁管轄の地です。

御影の井戸
菅原道真公が太宰府に流される途中、長府に上陸され、忌宮神社の大宮司家におとまりになりました。出発の前の日、道真公は壇具川ぞいを一人で歩かれました。
そして勧学院にお入りになり、そこの庭にある井戸に自分の姿を映してみました。そうすると、何だかひどく淋しい気持ちになってきて、水にうつった自分の顔にむかい、「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で、私の顔をみることもあるまい」と筆と紙をとり出し、自画像を書きはじめました。

笑山寺
長府藩始祖毛利秀元により、祖母乃美大方の菩提寺として建てられたお寺ですが、彼の没後、秀元の父元清の法号にちなみ「笑山寺」と改称されました。長府毛利家の菩提寺の一つで、境内左奥には二代光弘、七代師就の墓があります。

功山寺
鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており、国宝に指定されています。また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就に追われた大内義長が自刃したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。初代秀元をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。桜と紅葉の名所です。

万骨塔
万骨塔は、明治維新を中心とした国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養するため、弥一が建てたものです。塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と全国から寄せられた石が供えられています。

長府毛利邸
明治36年(1903)、長府毛利家14代元敏によって建てられた邸宅で、明治天皇の行在所としても使われたところです。
重厚な母屋と白壁に囲まれた純和風の庭園が往時を偲ばせてくれます。湯茶のサービスがあり、室内に活けられた野の花は安らぎを与えてくれます。長府散策時の休憩所としても、ご利用下さい。

長門国国分寺跡
天平13年(741)、聖武天皇が命じて全国に建立させた、国分寺の一つで、礎石や瓦などが出土しています。長門の国の政治を執り行った国府の中心的役所は、忌宮神社近くにあったと推定されています。

覚苑寺
長府毛利藩三代目藩主綱元が建てたお寺で、毛利家の菩提寺の一つです。また付近一帯は、和同開珎の鋳銭所のあとで、出土品は長府博物館に展示されています。境内には、狩野芳崖、乃木希典の銅像や、和同焼の窯元もあります。紅葉の名所です。

長門鋳銭所阯
日本最初の貨幣「和同開珎」が鋳銭された場所。1921年(大正10年)の発掘調査で、銭の型・坩堝・ふいごなどの資料が発見され、1929年(昭和4年)12月17日国の史跡に指定されました。

乃木神社
明治天皇に殉死した乃木希典を祭神として祀っています。境内には乃木将軍が幼少の頃育った家が復元され、ご夫婦の銅像も建てられています。神社の左の路地は横枕小路と呼ばれ、樹葉に覆われた土塀の空間は、そのままタイムトンネルといった味わいがあります。

乃木旧邸
乃木神社境内の西隅、横枕小路に面して旧邸があります。建物は乃木希典と親しかった桂弥一の照会で乃木自身が描いた平面略図をもとに、1914年(大正3年)乃木記念会が復元したものです。
建物の面積は27.23平方メートル。6畳・3畳押入と6.5平方メートルの土間という質素な造りで、もともと門長屋であった建物をそのままむ住宅に用いたもののようです。

忌宮神社
長門国二の宮で、仲哀天皇・神功皇后が西国平定の折、ここに豊浦宮を建て、7年間滞在したといわれています。
毎年8月7日から1週間行われる「数方庭祭」は、境内の鬼石の周りを十数メートルもある竹の幟を抱えて回る「天下の奇祭」として知られています。また、仲哀天皇に渡来人が蚕種を献上したという伝説から、蚕種渡来の地の碑が境内の一角にあります。

菅家長屋門
城下町長府の中でも、もっとも城下町の面影を残す古江小路にこの長屋門があります。長府藩初代藩主毛利秀元毛利元就の孫)により、京都から招かれた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった菅家の長屋門です。門戸の間口が武家のそれよりもわずかに広く造られ、長屋門を中心に左右に延びた石垣の上の練塀は、長府城下町の年輪を象徴する代表的なものです。昭和51年(1976年)下関市の有形文化財に指定されました。

王喜傍示古墳広場
下関市王喜地域と山陽小野田市埴生地域の市境にある傍示古墳群のうち、3基を移築した古墳広場です。古墳群は、標高40〜50mの尾根の稜線上に現存する1号墳・2号墳を含めて7基の古墳が確認され、土地の境界を意味する地名から傍示古墳群と呼ばれています。

住吉神社
日本書紀、神功皇后の伝説にまつわる神社で、「長門国一の宮」として知られるわが国有数の神社です。本殿は応安3年(1370)、大内弘世が再建したもので九間社流造の特異な様式をとり、室町時代初期の面影をよく保っていることから国宝に指定されています。また、拝殿は毛利元就が天文8年(1539)に造営寄進したもので、こちらも重要文化財に指定されています。

三吉慎蔵墓所
伏見寺田屋事件により、龍馬の命の恩人といわれる三吉慎蔵の墓。
賢明で謹厳実直の慎蔵を、藩主毛利元周[もとかね]は篤く信頼した。慎蔵は維新後も主家を大切にし、長府毛利家の家扶として上京。明治10年(1877)には、毛利家家扶のまま北白川宮家に家令として仕えた。

秋根一号古墳
秋根神社の境内にある6世紀中頃の円形墳で、墳丘が削られ、石室の一部が露出しています。石室は横穴式石室で、奥室と前室があり、室壁はほとんどが礫岩で一部に花崗岩が使われています。さらに石室全体は、天井部に近いほど小石を積み上げドーム状になっています。

専徳寺
吉川家中の家臣と寺関係者が適地を求めて海岸線を歩いていた時、1本の老松があり、背は低いが枝は四方に広がって、誠に見ごたえのある松樹であった。1羽の鷹が飛んで来て頂上で羽を休めた。折しも朝日が燦々と射して、鷹は金色に輝いた。「瑞兆この上なし」と衆議一決して寺地がきまったという。

白崎神社
萩毛利藩の重役、毛利就方(阿川毛利藩祖)は、厚狭、美祢の代官横見弥一左衛門慰就尹を呼び「宇津井潟に新田を墾けば自然五穀成熟せんよろしく努力すべし」と干拓工事を命じ、工事は寛文五年(一六六五年)に着手、途中度々天災事変に遭遇したため、小祠を建立、龍神を祀り工事の安泰を祈願し、寛文八年(一六六八年)に無事潮止め工事が完成した。

東行庵
高杉晋作の愛人おうのは、晋作の死後、尼となって、その墓を守り菩提をとむらうようになりました。
はじめは山形有朋が住んでいた吉田の無隣庵を僧堂にあてていましたが、明治17年に山形有朋・伊藤博文・井上馨らの寄付によって、無隣庵の隣接地に、現在の東行庵が建立されました。

高杉晋作の墓
奇兵隊本陣のあった下関市吉田の清水山にある。墓は花崗岩で作られており、正面には「東行墓」とあり、側面には俗名、没年月などが彫り込んである。墓の高さは 1.8m、周りには石の玉垣がある。墓地内にはこの墓を守った梅處尼をはじめ、幕末期に活躍した人の墓が約110基がある。すぐ側に伊藤博文による碑と山縣有朋による碑が建てられている。

東行記念館
昭和41年高杉東行(晋作)百年祭を記念した事業として東行庵のそばに建てられました。
晋作の遺品、遺墨、吉田松陰の獄中書簡などの資料数百点が収蔵・展示されています。

奇兵隊陣屋跡
慶応元年(1865)4月、吉田に陣を構えた奇兵隊は、町全体を要塞化し、寺院などに分散して駐屯していました。この仮住まいの状態が約2年続いた後、慶応3年8月奇兵隊は吉田諏訪の地を開き、陣屋を築きました。
陣屋は、堤防を築いた上に、隊士部屋の他、講堂や稽古場、図書館施設などを構えた壮大な施設で、現在も当時の堤防が名残をとどめています。

浮石義民庄屋旧宅跡
浮石義民五人の一人庄屋藤井角右衛門旧宅があった。
宝永7年(1710)、浮石義民は厳しい年貢取立てに対し、幕府巡検使に年貢減租訴状を差し出し、身を犠牲にして浮石村の農民を救った。

浮石義民碑
宝永の大凶作に苦しむ農民への年貢の取立てに、苛酷を極めた領主を、五義民が幕府の巡見使に直訴し、その目的は達したが、刑場の露と消えました。人々は、身を捨てて村を救った5人を「浮石義民」と呼んでたたえ、5つの墓を1か所に祀り、新たに農魂碑を建立し、毎年供養しています。墓所は舜青寺境内に、碑は亀尾山神社にあります。

亀尾山神社
創建の年代は明らかではないが宇佐八幡宮を勧請して祭った浮石八幡宮が始まりという。
明治40年(1907)周辺の神社を統合して合祀、社名を亀尾山神社と改称する。

豊田ホタルの里ミュージアム
豊田町では初夏になると、いたるところでホタルの乱舞を見ることが出来ます。古くから人々はホタルの光をふるさとの光として愛してきました。中でも木屋川ゲンジボタルは、国の天然記念物の指定を受け、町のシンボルとして保護活動に取り組んでいます。
ミュージアムはホタルのこと、虫のこと、豊田のことが、一目でわかる施設です。

道の駅 蛍街道西ノ市
豊田町道の駅『蛍街道西ノ市』は下関市豊田町中心部の主要県道下関長門線沿線に位置しています。ホタルの里としても有名な、自然豊かな豊田町の田園風景を基調に、昔ながらの農村の集落をイメージした駅舎です。

神上寺
県立自然公園・華山の二合目にある神上寺は、高野山真言宗、山岳霊場として8世紀はじめに開かれた古刹。後に毛利藩主の保護寺となったため、国や県の重要文化財に指定された宝物が多く伝わっています。

近松門左衛門
出生伝説地
近松門左衛門は浄瑠璃の創始者であり大戯曲家である。本名は杉森信盛で幼少時代の名は平馬という。
父は長州藩執権家老椙杜広品で、母は女中ではじめは広品のお守役であった。封建社会の中で女中が主君の子を宿すことは許されず、救いを求めてやってきたのが神上寺であった。神上寺は女人禁制であったため、寺侍であった木川家に頼み家の前に小屋を設けそこに住まわせた。まもなく男の子を出産し平馬と名づけた。それが近松門左衛門であると言われている。

江良古墳群
江良古墳群の整備は、「地域の歴史を学ぶ場」として子供から提案されたもので、施設では古墳時代終わりの遺跡が4基みることができる。

平安・鎌倉時代の関所跡
平安時代の中頃、豊田氏が定住すると、この要害の地に城戸(木戸)を設けて関所とし、南からの侵入者を警戒した。

音無稲荷神社
祭神、倉稲魂神。文亀2年(1502)京都の伏見稲荷から勧請しました。神殿の背後に大きな岩があります。

内日ダム
内日地区の常襲的な干ばつ被害に対する用水補給と、大型機械導入に伴う用水源を確保するため、県営による農業用水専用のゾーンタイプフイルダムとして築造されました。

植松古墳公園
今から1,300〜1,400年前のこの集落を治めていた長の墓と思われる。
調査は、(財)山口県教育財団が県農林部から委託を受け、県教育委員会が文化庁の補助を受けて、両機関が共同で行い、昭和62年11月から開始され12月に調査を完了した。

室路八幡宮
平安時代の大同元年(806)、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し、現在の楢崎妻月に鎮座する。
中世の頃火災により御幣がこの門前の地に飛び遷りしにより、社殿を今の地に建立したと伝える。

道の駅 きくがわ
菊川町の中心繁華街の一画にあり、町外からの観光客の拠点施設になっているのが旧建設省(現国土交通省)が整備した「道の駅きくがわ」。

二見夫婦岩
国道の脇の海岸そばに立つ夫婦岩は、神聖な岩として信仰され、二つの岩をつなぐしめ縄は、毎年1月2日に締め込み姿の青年の手によって張り替えられます。

若宮神社
若宮神社には室町時代に製作された二口の貴重な金工品が保存されています。
銅鐘は、応永4年(1398)3月に、豊前国小倉の大工安宗により鋳造されたもので下関市内で最古の和鐘です。
銅製鰐口は、長禄2年(1458)12月に、大工丹冶改國により鋳造されたものです。

毘沙ノ鼻
北緯34度6分38秒、東経130度51分37秒。日本海の荒波にさらされた、まさに本州の最西端の地です。
展望広場が整備され、気軽に立ち寄ることができるようになりました。
海抜120メートル、水平線に沈んでゆく太陽、日本海の夕暮れはとてもロマンチック! 是非一度本州でいちばん遅い夕暮れを見にいらしてください。

安養寺
光明皇后の発願によって創建された長門の国分尼寺の奥の院、安養寺に祀られている大仏は、旧国宝の阿弥陀如来像です。桓武天皇(750〜810)の頃、坂上田村麿が鎮守府将軍に任ぜられた時に、名匠・春日に仏像を彫らせ、各地に寺を建てて安置したものの一つと言われています。現在では国の重要文化財に指定されています。

中ノ浜遺跡
昭和35年に発見され、我が国の弥生時代の解明に、また、日本人の起源を解明するための貴重な資料が大量に得られました
平成2年に墓地公園としての整備が完成し、一般に公開されました。

妙青寺
応永23年、(1416年)大内持盛によって創建された妙青寺は大内氏の滅亡の跡数奇な運命をたどり、明治2年まで、長府毛利藩によって支配されていました。行基作と伝えられる本尊観世音菩薩の他、本堂の裏には雪舟の築庭があります。

福徳稲荷神社
犬鳴きのお稲荷さんとも呼ばれ、多くの参拝客が訪れます。旧暦の5月23日の二十三夜祭と、海に映える朱の大鳥居が有名です。

土井ヶ浜遺跡
土井ヶ浜遺跡は弥生時代の埋葬跡で国の指定史跡です。ここから保存良好な弥生人骨が300体以上も装身具や土器を伴って出土しました。

人類学ミュージアム
人類学ミュージアムは土井ヶ浜遺跡の内容を紹介するとともに、土井ヶ浜弥生人の顔・かたちの特徴、旧石器時代から現代に至る日本人の形質の変化や日本人のルーツについての情報を展示・発信している、わが国で唯一の人類学専門の博物館です。

阿川八幡宮
此の村は中世から海上交通・産業安定の地として知られ、村の開発とともに沖田の現在地に八幡宮が勧請された。領主は鎌倉末期から阿川氏三家が代々あり、のちに大内氏・毛利氏の崇敬があった。社家には伊藤家(旧姓今川)と静間家があり名夫による宮座があった。
宮座は七人衆・十二人衆と呼ばれ、御神事に供奉し、正月には歩射を勤めた。のちには警護と称し、土井の衆が神饌の調理や神役を勤めた。

阿川八幡宮の
イヌマキ巨樹群
イヌマキはマキ科の常緑針葉高木。阿川八幡宮は下関市豊北町阿川の国道沿いにある。イヌマキの巨木は境内のあちこちにある。本殿裏のマキの森には、直径20cm以上の木が多数あり、そのほとんどがイヌマキである。

附野薬師 東山寺
海士ヶ瀬を眼下に見る丘に建つ。海士ヶ瀬で難破された弘法大師が航海安全を祈願して建立したと伝えられ、本尊の薬師如来も大師の作だという。
航海の安全の他、眼病治癒、安産などの霊仏として広く信仰を集める。

角島大橋
豊北町では2000年(平成12年)11月3日、角島大橋が完成しました。1780mの延長となる角島大橋は当地特有の白い砂浜とエメラルドグリーンの海士ヶ瀬戸をまたぎ、景観と調和した雄姿は西長門海岸地域随一の景勝地となっています。

角島
映画「四日間の奇蹟」の舞台となった島。まるで海の上を滑るようにして橋を渡ると、そこは手つかずの自然が残された北長門海岸国定公園。心地よい潮風に吹かれながら、悠久の昔から今へと続く、人と自然とが共生する営みを肌で感じられる場所です。

角島灯台公園
明治6年8月にR.H.ブラントン氏(英国)により設計起工された角島灯台は、明治9年に日本海側最初の石造り灯台として、初点灯し現在も活躍しています。

つのしま自然館
角島のもつ、豊かでかけがえのない自然の財産、角島を含む北長門海岸国定公園についてわかりやすく紹介した施設です。館内には、平成15年に新種の鯨として認定された「ツノシマクジラ」の骨格標本レプリカなどを展示しています。

角島砲台跡
角島には第二次世界大戦の際に、砲台などの軍事施設が造られ、徳蓮寺から北西側が要塞化されて、旧日本軍が駐留していた。
砲台は、4基の砲座を備え、これに弾薬庫、探照灯、監視所、部隊宿舎、資材倉庫、油庫が設置されていた。

山陽小野田市

縄地ヶ鼻公園
縄地ヶ鼻公園は、大地が創り出した貴重な岩礁や、その豊かな自然環境を形成する植物の保護と保全を基本理念に整備され、芝生広場、岩礁の広場、バーベキュー施設、約20,000本のスイセンや約2,000株のカンツバキなどが咲き、散策や野外レクリエーションなどを楽しむことができます。

浜五挺唐樋
寛文8年(1668年)に作られた排水用樋門。潮の干満で生じる自然の水圧を利用して開閉する招き戸など当時の工法を伝える貴重な遺構である。
国指定史跡。

當島八幡宮
平安時代の仁和元年(885)ごろ宇佐八幡宮を勧請、社殿を創建する。
天正年間(1573〜)炎焼したと伝える。
 棟札によると、現在の本殿は慶安元年(1648)、拝殿は元文二年(1737)の改築であり、現在に至る(旧村社)。

塚の川古墳
古墳時代の後期、6世紀末に築かれた古墳で、この地方を掌握した豪族とその家族の墓とも考えられている。また、この当時、竜王山南麓一帯で須恵器の生産が活発に展開されていた頃で、単独墳として、この地域に卓越していた墳丘・石室規模を持つことから、その被葬者は、須恵器の生産集団の統率者であったと推定される。
墳丘は直径約15m、墳丘周囲の空堀を含めると古墳全体の直径は約27mになり、県内でも大型の円墳の1つといえる。

旧小野田セメント竪窯
旧小野田セメント株式会社が明治16年(1883年)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯のひとつで、明治30年頃に焼成容量増加を目的として一部改造された。
焼成部分と煙突部分からなる煉瓦構造物で、高さは、焚口底部より約18mである。
わが国に完存する唯一のセメント焼成用竪窯として、近代窯業史上、高い価値があり、西日本における建設事業の近代化を支えた旧小野田セメント製造株式会社の中心的施設として重要である。

宇部市

宗隣寺
宝亀8年(777年)、唐より来朝した為光(威光)和尚が松江山普済寺として創建。その後寛文10年(1670年)福原氏が宗隣寺として建立。平成10年に本堂を再建。観音霊場の第18番(本尊如意輪観音)札所で観音信仰の聖地。

ときわ公園
ときわ湖を中心に広がる緑と花と彫刻に彩られた総合レジャーランド。宇部市のキャッチフレーズの「花と緑と彫刻のまち」を正に体現しています。
「日本都市公園100選」「さくらの名所100選」にも選ばれた美しい公園です。

石炭記念館
永年にわたって宇部発展の基盤となった石炭産業を後世に伝えようと、地元政財界と多くの市民の寄付によって1969(昭和44)年、日本初となる石炭記念館が誕生しました。記念館のシンボルとなっている展望台はかつて炭坑で実際に使用されていた竪坑櫓を利用しています。

UBEビエンナーレ
彫刻と宇部市の関係は非常に古く1961年の「宇部市野外彫刻展」にはじまります。「自然と人間の接点としての芸術を」という市民の願いから端を発したこの彫刻展は現在「UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)」として、世界から注目される彫刻展となり、毎回国内外から多くの作品が出品されます。

常盤池本土手
草江、常盤一帯の開発にあたり、用水の確保のため、元禄元年、領主福原広俊は萩藩に常盤池築造を願い出、許可を得ました。実際の工事は元禄8年からで、福原家当職椋梨権左衛門が担当しました。半年後に本土手(堤防)が完成し、翌9年池の水が初めて外に流れ出ました。池の要となる本土手は、膨大な水圧を巧みにさけるような位置に設置されています。

飛上がり地蔵尊
昭和4年宇部地方の大旱魃にみまわれ市内三百町歩の水稲は枯死寸前となったとき初めて常盤池に電気ポンプをすえつけ給水が行われ後二週間位で秋の実りは大丈夫と見通しがついた頃、突然本土手の堤防が決壊しポンプ諸共一瞬にして泥土の中に押し込められた。この時池底泥土上に現れたという。

琴崎八幡宮
平安時代に琴芝地区あたりに創建。大内氏がこの地を治めるようになった南北朝時代に現在地に遷され、その後の毛利氏、福原氏も厚く崇敬したという。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神を祭神とし、交通安全、安産育児、縁結びなどに御利益があるといわれる。

福原邸跡
1625(寛永2)年、14代福原元俊は、宇部村、川上村、小串村、出雲村など8千石の領主となり、福原邸を築いた後、宇部の領主として幕末まで宇部地域の発展に努めました。
しかし、福原氏は普段は萩屋敷に駐在しており(藩の要職であったため)、宇部はかわりに家老たちが実務を行っていたようです。

宗方古墳
横穴式石室を持つ古墳で、古墳時代の6世紀頃に造られたと思われます。径は7m、高さ2mですが、古墳やその周りは削りとられているため原型は不明です。

赤間硯の里・岩滝
岩滝地区では、硯の原石も産出され、名工による昔ながらの手法で多数の名品硯が生まれています。駐車場やトイレ等も整備され、工房見学や製作体験も楽しめます。

芦河内薬師堂
芽葺・寄棟造・正面吹抜けという古い形の薬師堂の姿を保つ造りで、堂内には、阿弥陀如来・薬師如来などの像や、祭りの道具が保存されています。昭和62年10月に県指定文化財となりました。

黒川の妙典供養碑
鎌倉期から江戸期にかけて盛んに造られた板碑で、石造卒塔婆では町内唯一のもの。「常音敬白 為妙典万部供養」と刻銘されています。

吉部八幡宮
別名、寺尾八幡宮といい、弘長元年(1261)の創建。毎年11月に行われる「芋煮の神事」は有名です。大内義隆が寄進したと伝えられる楼門は、室町期の面影を残していましたが、現在は破損しており、復元が待たれています。






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