玉名・荒尾


玉名市

玉名温泉
玉名温泉は疋野神社近くにその町並みを有し、リューマチ、神経痛に効くといわれる弱アルカリ性のラジウム単純温泉で無色透明の泉質をしています。傷ついた白鷺がその傷を癒すのを見て疋野長者が発見したという伝説があり、1300年間湧き続けています。

立願寺公園
立願寺公園は、市民や玉名を訪れた人たちに気軽に温泉を楽しんでいただくために憩いの場として設置したものです。
この公園は、旅館の跡地を利用したものであり、園内には、約41度の泉源を湛える「しらさぎの足湯」があります。(泉質:単純弱放射能温泉/無色透明/無味無臭 効能:間接リウマチ、神経痛、皮膚病に効果があり、新陳代謝を促し、自然治癒力や免疫力を高めます。)

つかさの湯
玉名温泉つかさの湯-大浴場は、男女合わせて約188坪もあります。4種類の正真正銘源泉掛け流しの湯をお楽しみ下さい。 また、アイテム風呂は5種類あり、バラエティに富んだ泡風呂をお楽しみ下さい。もちろんサウナもございます。 九州最大級・ビックスケールのドライサウナや、今話題のスティームサウナ、女性には嬉しい塩サウナもおすすめです。
 なんといっても圧巻は正面にある滝で長さは50mに及び、男女浴場ともつながっている大滝を是非この目でお確かめ下さい。

クアハウス 萩の湯
和洋の大浴場と4つの家族湯が人気です。8畳から30畳の広間があり、飲み物・食べ物の持ち込みもでき、気軽に利用できます。

庄屋の湯
平成15年4月に開業した新しい施設です。
男女別の内浴場と家族湯を7室と休憩室を設置しており駐車スペースも広めにしてあります。
他県からこのお湯をお目当てにみえるほどの人気の温泉。 泉質は、ナトリウム塩化物泉(弱アルカリ性)で柔らかでお肌もツルツル。1度きたらやめられないとお客様の声を聞きます。
アトピー・ヘルペスなどの効き目もわかります。 他、効能として、切り傷・火傷・慢性婦人病・痛風・動脈硬化症・高血圧症・筋肉痛などなど・・・・・

高瀬町会所・御高札場跡
高瀬町の玄関口にあたるここ高瀬眼鏡橋のたもとにいまの町役場に当たる高瀬町会所がありました。
藩政時代、高瀬町は「五ヶ町」の一つであり、町奉行の下、町人代表による自治が認められていました。
会所の横には御高札場が置かれ、藩の通達とか「お尋ね者」の人相、罪状などが掲げられ、町人に藩政の徹底を図っていました。

高瀬裏川水際緑地公園
裏川には、石垣や船着場など商家町、港町として繁栄してきた高瀬の歴史的遺産が今も数多く残っています。昭和55年全国で初めて国土庁が行った水際緑化モデル地区の指定を受けて整備を開始し、現在は裏川一帯に散策デッキを敷き、5月下旬から6月上旬にかけて咲き誇る約66000本の花しょうぶが訪れる人を魅了しています。

高瀬目鏡橋
アーチの径(スパン)が6.7mある二重橋で、長さは19mあります。基礎からアーチ頂上までの高さは3.3mあり、江戸時代末期の1848年、高瀬町奉行高瀬寿平らによって造られました。県指定史跡。

秋丸目鏡橋
秋丸目鏡橋は天保3年(1832)高瀬大橋より700m上流、菊池川本流より分かれた運河、裏川に架設されています。阿蘇溶結凝灰岩でできていて、全長11.70m、幅員は樋門を含み6.45mあります。
水流量を調整する分流板を備え、樋門、敷石等の施設を付属させた石造橋で、技術的に優秀で、県内では大変珍しい橋です。

高瀬裏川花しょうぶまつり
高瀬一帯には、高瀬目鏡橋をはじめ江戸時代からの石橋や石垣、古い商家が残っており、それを背景に5月下旬から6月中旬にかけて花しょうぶ66,000本が見事に咲き誇ります。
また、しょうぶの時期にあわせ、毎年「高瀬裏川花しょうぶまつり」が開催され、期間中はライトアップや矢旗の掲揚、たくさんのイベントが行われます。

高瀬橋梁
高瀬川鉄橋日本の鉄道は明治5年(1872)新橋・横浜間に開業しましたが 九州では九州鉄道会社が明治22年に博多・千歳川(久留米の手前)に開業したのがはじまりです。建設工事にはプロイセン(ドイツ)から顧問技師を招いています。明治24年には高瀬 七月には春日(現熊本)まで伸びてきました。その折 菊池川に「高瀬橋梁」と名付けた鉄橋(当時は単線で いまの下り線)が架けられました。全長287メートル 緩やかなカーブを描くポーストトラスの構造が用いられました。レンガ造りの橋脚は「フランス積み」といわれる工法で 橋脚下部はアーチになており 度々の洪水でもビクともしていません。

高瀬船着場跡
この船着場は、江戸時代に肥後細川藩が菊池川流域の米(年貢米)を集めた藩営の米蔵の付属施設のことで、藩はここから大阪に米を送り出していました。その量は年間25万俵と大量で、高瀬御蔵から積み出された米は「高瀬米」と呼ばれ大阪の米相場の基準となっていました。

造町天神
俗にいう高瀬七天神の一つです。嘉永7年(安政元年・1854)の高瀬町図には、東から天満町・裏町(魚屋町)・本町・田中町・東下町・下町・造町の7箇所にある天神が記載されています。
高瀬には、他にも砂天神や新町天神などが祀られていますが、古来から三大○○とか七不思議など、奇数で物事・事象を表すことが好まれてきたので、上記7箇所の天神を「高瀬七天神」としたのでしょう。

繁根木八幡宮
創建は古く、応神天皇を主神に祀ります。加藤清正が再興し、堅固な石垣で囲みました。西南戦争の戦火にあいましたが、社は無事残っています。

補陀落渡海碑
観音浄土は、はるか西方中国にある補陀落浄土であるという思想に基づいて熱烈な信者はその浄土目指して死を覚悟して信仰の旅に出ていました。中国に最も近い高瀬を基地として死の船旅に出たことを示しています。

壽福寺跡
天台宗繁根木山壽福寺は、平安時代のはじめの開山です。平安の中ごろ、大野別符(荘園のこと)地頭紀(大野)隆村がこの地に八幡宮を勧請すると、壽福寺は同宮の神宮寺となりました。
南北朝から戦国時代のはじめにかけて、高瀬に進出した菊池氏一門の高瀬氏は、繁根木八幡宮は「高瀬五ヶ寺」といわれる諸寺を手厚く保護したので、高瀬の町はこの時期いちばんのにぎわいを見せました。

読坂鋳造阿弥陀如来立像
この立像は、天明6年(1786)、高瀬町の古閑吉兵衛が京都の鋳物師に依頼して造立したもので、早くから「くろぼとけさん」の愛称で高瀬の市民に親しまれてきました。像高2.40mの青銅巨像で、造形様式においては、座像に比べて静止の立像であるため、 顔面や手の写実に対し、衣文は単的に形式化が強められ、像容もよく整い明るくのびのびと表現されています。

しぐれ塚
今日はかり人も年寄れ初しくれ

この芭蕉句碑は、高瀬地方の俳諧の第一人者一円窓龍如坊の建立によるものです。
はじめ真言宗不二山平等院宝成就寺に建立されましたが 明治七年廃寺となったのを、明教寺にうつしました。

梅林天満宮
梅林天満宮は、菊池川左岸の広々とした水田の中に、鬱蒼とした木立とともにその姿を見せています。大宰府天満宮ができて26年後の承平6(936)年に勧請されたと伝えられています。地域の象徴的な存在であり、周辺の景観の中でも重要な位置を占めており、まさに安楽寺領玉名荘の姿を今日に伝えているともいえます。

吉祥寺と山田学校之跡
当寺は大同元年(千百余年前)吉祥寺上人の開基にて延暦寺の末寺なり。永く山田に宗門の法灯を照らすも大正10年廃寺となる。明治5年日本に学制成るや山田校として此処に幾多の人材を育てて
三十三年築山校の新築まで続く築山教育百年に当り之を永く後世に伝える。

疋野神社
社地一帯は奈良時代の玉名郡衙の一角で玉名温泉伝説の主人公疋野長者炭焼小五郎ゆかりの地であり、「続日本後紀」や平安時代の国の法律書「延喜式」にも社名が記載された県下でも有数の由緒ある式内社です。また、社祭は10月15日に開催され、神楽、射的神事などがおこなわれます。

蓮華院本院
蓮華院本院は、浄土宗開祖法然の師匠・皇円上人の誕生の地。鎌倉時代以後、真言律宗浄光寺として栄えたが戦国末の戦火で焼失。昭和4年、川原是信大僧正により再興され、平成9年純木造による五重塔が建立された。

蓮華院誕生寺奥之院
「蓮華院誕生寺」は、約930年前に玉名市築地に生まれた肥後の守藤原重房公の嫡孫であり、法然上人のお師匠さんでもある皇円上人をまつる真言律宗の「九州別格本山」です。約420年前に戦乱により焼失しましたが、昭和5年に蓮華院が再興され、昭和53年に奥の院が建立されました。世界一の大梵鐘「飛龍の鐘」や大きさ日本一の五重の塔、九州一背の高い仁王尊像等があります。

扇崎千人塚
雲仙普賢岳の大噴火に伴う大津波の犠牲者を弔い魂をを慰めるためにつくられたのが扇崎千人塚です。この塚の周辺でも727人が亡くなりました。このような犠牲者を出した下沖洲村では、溺れて死ぬことを免れた人々が、肉親の亡きがらを集め、仮にここ扇崎の墓に埋めました。その後、藩主の命で一つの郡につき一基の供養塔が建てられました

山田の藤
この藤は山田日吉神社の境内にあり、樹齢およそ200年です。藤の幹回りは、地上60pのところで2.45mもあり、その部分から東西に2本の大きな枝が分かれています。東の枝は幹回りが1.4m、一度地上を這った後、藤棚に登っていて、西の枝は幹回りが1.1mあり、すぐ藤棚に巻き上がっています。
この藤は、学徳をもって知られた当区赤松助次郎の次男九右衛門が文化年間、当社に献納植栽したものと伝えられています。

小田瀬戸口公園
小田瀬戸口公園には、芝生広場、休憩所、トイレ、懐かしい水車も整備しました。5月下旬には、ホタルの乱舞もみられます。ぜひ遊びに来てください。

凱旋門
明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争の勝利を祝って建立されたもの。

高岡城跡
山田団地の北側一帯の丘陵地は、熊本城等とはまったく異なる古い時代の築城法(朝鮮式山城)で造られ、監視所と防禦塞を兼ねた要塞のような山城でした。隣接地には城主の屋敷が構えられていました。一郭には一族の墓も営まれ、中には初代城主の墓と見られる巨大古墳もまつられています。

西南戦争の本営跡
この地は、1877年(明治10年)の西南戦争の時、高瀬に進出した官軍が薩摩郡を追って、さらに田原坂方面に進撃するまで、官軍野津鎮雄(少将)司令官ら、首脳が作戦会議など開いた場所です。

大坊古墳
菊池川と支流の繁根木川に挟まれた東西に延びる丘陵部南端、玉名平野を一望できる位置にある装飾古墳です。全42.3m、古墳時代後期(6世紀前半)の前方後円墳で、内部は全長6mの横穴式石室で羨道・前室・玄室からなっており、内面には赤と群青色、三角形を上下からかみ合わせ、横5段6つの円を配した装飾が施されています。またこの古墳からは、金製耳飾り・大粒の真珠玉・金環などの装身具、その他武器類・馬具類・祭器類・工具類など多くの出土品があります。国指定重要文化財。

玉名大神宮
景行天皇が熊襲を討つため軍を進めた玉杵名(たまきな)の故地にまつられた宮です。玉依姫をまつり、後に阿蘇12神や景行天皇、天照大神をまつる大神宮となりました。辺りは菊池川の汐溜めの地で、付近には大坊古墳、永安寺東西古墳、小路古墳などの史跡が点在します。

永安寺東古墳
永安寺東古墳は、菊池川右岸の玉名平野を南に望む丘陵裾部に位置し、石室構造から6世紀中頃のもので、同じ丘陵上にある大坊古墳に後続するものと考えられます。墳丘は大きく削平され、原形をとどめていませんが、円墳と考えられます。内部主体は、羨道・前室・玄室からなる横穴式石室ですが、前室の一部と羨道部は崩壊しています。玄室は長さ2.6m、幅2.4m、高さが2.7mあり、奥壁に沿って石屋形が設けられています。前室は現存部分の長さ約1.6m、幅2.3m、高さが1.6mあり、左右側壁と玄門の前面に装飾模様が施されています。

永安寺西古墳
永安寺西古墳は、東古墳の西約60mの同じ丘陵上に位置し、墳丘は直径約12m、高さ約4mの円墳です。永安寺東古墳同様、古い時期に開口されていて出土遺物は不明ですが、古墳時代後期の古墳で東古墳に後続するものと考えられます。内部主体は単室の横穴式石室で、玄室は長さ3.4m、幅2.8m、高さが3mあります。装飾模様は奥壁と両側壁の巨石にみられ、横線で区画した中に線刻した円文が上下3段並び、奥壁に15個、右側壁に16個、左側壁に12個みられます。

妙修寺古墳
この二基をはじめかなりの数の箱式石棺がこの丘を奥津域として眠っていると思われる。東棺には熟年の男性骨など二体が葬られ、西棺は内部が丹塗され埋葬された熟年女性骨も丹に染まっていた。

青木磨崖梵字群
青木熊野座神社境内に、高さ10m長さ60mに及ぶ岩壁があります。その南側15mにわたって、長さ1.9m幅1.4mの不動尊をあらわす「カン」、弥陀三尊をあらわす「キリク・サ・サク」をはじめとする各種仏、菩薩の梵字が陰刻されています。鎌倉時代後期に彫られたもので一説には唐僧・善無畏三蔵法師の作ともいわれています。

最後の仇討ちの地碑
石貫の仇討は、仇討禁止令発布の2年前に起こりました。これは、藩府の仇討許可証を所有し、断絶されていた家名が仇討成就後、再興されるなど正式の取扱いを受けており、日本最後の正式の仇討です。

広福寺
小岱山の東裾、現在の石貫地区に正平12(1357)年、菊池武重の遺命によって、弟武澄が菊地八方山中の名僧大智禅師を迎えて建立しました。入口石段の傍らになまぐさものと酒を持った者は立ち入るなという意味の「董酒禁入山門」と刻んである標石があります。道元、大智の遺品や菊池氏の寄進状が残され、数多くの古文書が国の重要文化財に指定されています。

石貫ナギノ横穴群
繁根木川中流域の右岸に高さ約7m、全長300mに及ぶ岩壁があり、その東側の面に45基の横穴が並んでいます。多いもので14基、少ないもので3基それぞれグループを作り、規模も大小あります。穴観音横穴と共に、仏教伝来後の大陸性を持った貴重な史跡です。高いものは地上より5mの高さに位置し、低いものでは大半を地中に埋没させているものもあります。横穴の入り口(羨門)の多くは2重、3重のアーチ型及び隅丸の台形で、この部分に同心円・三角形・円形・菱形などの連続模様を線刻し、赤色顔料で彩色しています。また墓室奥壁の石屋形の内壁・外壁に弓・矢・盾などを線刻したものもあります。

石貫穴観音横穴
繁根木川中流域の右岸岩壁に造られた横穴墓群、古代この地方一帯を納めていた豪族の一族の墓と推定されます。3基の大型の横穴と右やや下方に1基、上部の小型のもの1基の5基からなります。大型の3基のなかで中央の横穴には、浮き彫りの千手観音と平安時代の十一面観音石像があり穴観音と呼ばれています。大型の3基の横穴は羨門部をアーチ型に3段に切り込み、赤色顔料で円形と三角形の連続模様を描いています。内部奥壁には本瓦葺きの庇(ひさし)を思わせる石屋形を彫り出し、正面には軒丸瓦のような円筒状突起5個がみられます。

川床経塚地蔵堂
直径8メートル、高さ1.7メートルほどの丸塚を形づくり、幹回りが4メートルもある珍種こがの木や、むくの木、たぶの木など巨木の根がからみあった塚の上を一面に覆っている。かたわらに正徳元年(1711)8月18日に川床村庄屋十右衛門が寄進した地蔵菩薩の石祠がある。

六反製鉄跡
小岱山の中腹から山麓にかけて約30ヶ所の製鉄遺跡があり、その中の一つが六反製鉄跡。砂をまぜた粘土で製鉄炉が築かれていて、窯の全長1.4m楕円形の最も広い中央部の幅5.5cm、深さが65cmで、30度の傾きに造られています。窯の中や出土した瓦器などから、鎌倉時代に作られたものだと推定されています。

殿様の墓
その昔、この地方を治めた領主朽木氏一族の墳墓地である。観音堂をバックにし、朽ちかけた巨木の下に苔むす墓石に取り囲まれ、玉垣を張り巡らした格式ある墓標が、「朽木三郎源昭仲」の墓である。

石尾神社
石尾神社は元徳2年(1330)菊池肥後守武時によって建立された。加賀の白山比盗_社を勧請したもので、「伊弉諾尊」という男の神様、「伊弉冉尊」という女の神様、そして白山比淘蜷_「菊理媛神」を祀っている。

横島総合保健福祉センター
ゆとりーむ
「交流センター」の中にある温泉は単純弱ラドン泉です。温泉の大浴場には打たせ湯、気泡浴、ジェット浴、低周波浴ができる施設が備えられている他、福祉浴室、遠赤外線サウナ、水風呂も設置されています。

伊倉南北八幡宮
道路を挟んで南北に神社が仲良く並んでいる風景が珍しい。玉名郡司日置氏の荘園を宇佐八幡宮が買得し直接経営したことに始まり、中世に行われた下地中分線を境に南方、北方に別れた。春と夏に行われる恒例の祭りの中に、節頭馬追いや練り嫁行列がある。

同田貫鍛冶場跡
菊池氏が京都粟田口から招いた刀工が戦国時代末に玉名の亀甲村に移って作刀した。九州同田貫上野介(市指定文化財)は「折れず曲がらず同田貫」といわれた肥後の名刀。

肥後四位官郭公墓
この墓は、通称「しいかんさんの墓」と呼ばれ、伊倉町の人々及び近郷の里人から親しまれ、大切に保存されてきました。江戸初期建立の明人の墓で、南北に伸びるほぼ長方形の境内は広く、その形状及び技法は中国風であり、本邦にまったく例をみない珍しい形式です。

唐人舟繋ぎの銀杏
伊倉北方の唐人町にあり、幹回り約7.7m、枝張りが四方に約20mで樹齢約800年といわれています。このあたりは、かつて丹倍津の港があり、海外貿易が盛んであったころは貿易船(唐船)をこのイチョウにつないだものといわれています。

吉利支丹墓碑
この墓碑は、慶長前後のものと推定され、伊倉町で布教につとめたバテレンの墓です。長さ57cm、底巾35.5cmの大きな蒲鉾形をしており、前面の凸出した縁どりの中央に花十字の十字架が刻まれています。明治初年まで土中に埋められていましたが、その位置方向、形状は当時のままでした。また、蒲鉾形式の吉利支丹墓は全国的に珍しく、歴史的に意義深く、学術資料として貴重なものです。

宇佐一族の墓
伊倉本堂山報恩寺跡にある7基の宇佐氏の五輪宝塔群。良港を持つ伊倉荘を宇佐八幡が直接経営。現地はかつて港があった湾内に突出した丘の上である。

補陀落山渡海供養塔及び板碑群
広さおよそ5m四方の範囲にすべて安山岩自然石大小9基からなる板碑の一群で、報恩寺歴代住職の墓碑、供養碑、逆修碑と他補陀落山渡海碑1基が含まれ、碑面に陰刻された銘文は学術的にも高い価値を有するものです。
碑石の9基のうち5基、銘文とは別に見事な阿弥陀如来迎の図像が線刻されています。一見して描出された容姿のどれもが共通し、図像の大きさも同大であるので原図が同じものであることを示しています。

前田家別邸
2005年4月24日、一般公開が始まりました。
 従来、「漱石館」と呼ばれ、「離れ」の一部屋のみ公開されていましたが、敷地の一部に残存していた「浴場」が2004年度に修復工事を終え、母屋を除く別邸敷地とともに、初めて一般に公開されることになりました。

前田家本邸跡
草枕」に登場する「白壁の家」のモデルとなった屋敷の跡です。火事で焼失しましたが蔵の一部のみ今も残っています。 また。前田家は、明治23年、第一回衆議院議員「前田案山子」を輩出した名家であり、「草枕」にもモデルとして登場しています。

前田家墓所
有明海に浮かぶ雲仙と思われる中に一つの墓石を配した漱石作品「わが墓」は、この前田家墓地からの眺めがモデルといわれている。
前田家墓地は本邸にほど近く、現在八久保地区の公民館の西側、谷を隔てて有明海を望むところにある。大晦日から正月の数日間の間、 村中を散策していて漱石がここに立ち、こんな場所に自分の身を置けたらとイメージしても不思議ではないだろう。

草枕温泉てんすい
みかん園に囲まれた高台に建ち、大浴場、露天風呂からは有明海、雲仙普賢岳を眺望が優れ、ここから見る夕日は絶賛されています。泉質は、アルカリ性単純泉で神経痛、筋肉痛、関節痛等に効用があります。名誉町民笠智衆の遺品や小説「草枕」関係の展示ホール、食事処、地元特産品の直売所等が併設されています。展望デッキ、無料休憩所(64畳)有。

笠智衆記念碑
笠智衆さんは、熊本県玉名市天水町(当時玉名郡玉水村)立花の来照寺に生まれました。旧制中学(現高校)までをこの地で過ごした後上京。映画界へ。
 以来、映画の歴史とともに歩み、生涯を俳優として活躍されました。
 数々の栄誉とともに、全国の皆さんから日本の”お父さん” ”おじいさん”として慕われた笠さんに、昭和63年9月、天水町(当時)は名誉町民の称号を贈り、その功績を讚えています。

尾田の丸池
尾田川の水源で熊本県名水百選の「尾田の丸池」とその周辺が、川をテーマにした憩いの広場になっています。付近の農道には、「尾田川伝説」を描いた園芸ハウスの燃料タンクが立ち並ぶ「伝説絵画通り」もあります。

大塚古墳
経塚・大塚古墳群のなかで最大の古墳です。発掘調査では、県内最大級の墳長約100mほどの前方後円墳である事が判明しました。また、古墳からは四つの箱式石棺と壺形土器の破片が出土しまた。主体部すでに盗掘を受けており、盗掘坑内からは、鉄鏃、鉄刀、鉄斧などの鉄製品が出土しました。また、墳頂には舟形石棺の壊れたものが散乱していた事から中心となる埋葬施設は舟形石棺と思われます。以前、この古墳の箱式石棺の一基から鏡が出土しています。舟形石棺の形態や出土した壺形土器、鉄製品などから経塚古墳に近い年代が考えられます。

小塚古墳
経塚古墳に隣接する直径約28mの円墳。平成8年度の発掘調査で壺形埴輪が出土しました。壺形埴輪の形から4世紀後半〜5世紀初頭の年代が考えられます。

経塚古墳
小塚古墳の北にあり、現状の直径約50mの円墳。墳頂から舟形石棺が発掘され、石棺内には人骨一体が葬られており、副装品として短剣1振、外装付き短剣1振り、珠文鏡1面、碧玉製管玉3個が置いてありました。なかでも外装付き短剣は鞘の部分に紐を巻いた見事な装飾が施されて残っており、大変貴重な出土品です。出土した壺形埴輪や舟形石棺の形態から4世紀末?5世紀初頭の年代が考えられます

和水町

菊水ロマン館
菊水ロマン館は、レストラン、物産館、光明石温泉が一つになった施設です。レストラン「嶺敦」は、ファミリー感覚で中華料理から県内産牛の焼肉、鍋料理まで楽しめます。また温泉は、稀有元素天然鉱石を主たる温泉源体として厚生省承認を得た有効ミネラル成分泉で、ジェット風呂や家族風呂等があります。物産館には新鮮な朝どり野菜や果物、農産加工品や国産大豆100%の豆腐等を揃えてあります。

万世の都
江田船山古墳などの古墳群や民家村、ほたる公園などを含む広々とした公園・万世の都。民家村では弥生から戦前までの民家を全国から集めて復元し、その時代・地域の暮らしぶりを偲ばせている。木工館・陶芸館・ガラス館では工芸品の販売もある。

江田船山古墳
江田船山古墳は5世紀後半から6世紀に作られたと見られる前方後円墳で様々な出土品が発掘されています。
特に副葬品の刀には、銀で75文字の漢字が象嵌されていて、日本最古のものとして国宝となっています。
他の出土品(金製の耳飾・銅鏡など)とともに東京国立博物館に収められているので、残念ながらここで見ることは出来ないとのことです。発掘されたものは200点以上にものぼります。

都塚古墳
5世紀後半の円墳で、直径22メートル周囲に幅約2.5メートルの溝がめぐり、外径は27−28メートルである。
内部主体は、舟形石棺と推定される。墳丘には円筒埴輪が立てられたものと思われ、周溝内から多数の円筒埴輪が出土した

塚坊主古墳
装飾古墳で前方後円墳。近くの歴史民族資料館には、出土品のレプリカが展示してある。

虚空蔵塚古墳
陸橋の発達した円墳とされ、人物ハニワが出土。

菊水古墳祭
江田船山古墳が文化財に指定されたのをきっかけに昭和46年から始まった「菊水古墳祭」は、熊本夏の三大火祭りにあげられ、肥後民家村で、8月1日、2日に行われます。この祭りのハイライトは「炎の宴」で、卑弥呼の登場や巨大かがり火への点火式、古代衣装を身にまとい、首飾りや角髪(みずら)を着けた約750人の町民達による松明行列などが繰り広げられます。この他、コンサートや花火大会などもあります。

肥後民家村
肥後民家村は各地に残る代表的な民家を移築復元した古民家の野外博物館です。村内には、文政13年3月(1830年)に建てられた旧境家住宅(国指定重要文化財)やおよそ300年前に建てられた新潟県上越市の旧布施家住宅(町指定重要文化財)、対馬の石屋根造りの家など7棟の古民家があります。他に先土器時代から古墳時代までの出土品を時代別に展示している歴史民俗資料館や古民家を利用した美術館もあります。また、木工、そば打ち、陶芸、宿泊などの各種体験もできます。

トンカラリン
水路説、信仰遺跡説など多くの謎を残す、石造トンネルです。構造や大きさが異なる5つのトンネルから形成されており、トンカラリンの穴と呼ばれるものもそのうちの一つです。今も建造目的などは、はっきりとわかっていません。石が穴の中に落ちるときの音からこの名があると言われています。現在は、随道遺跡全体をトンカラリンと呼びます。

いぼの神様
ここに鎮座している巨石を総称して、地元では『いぼ石さん』と呼んでいる。この石は、いぼ取りに効能のある神様として、昔から参詣する人が多く、いぼで悩んでおられる方々の祈願所として祭られている。
願たての祈りは、自分の年齢の数だけ煎った大豆を献上し、石をなでた手で患部をさする習わしがある。
御願成就のあかつきには、必ずお礼参りをすることになっている。

目の神様
三加和町史「岩本さんの由来」では、天正七年神尾城を攻めた筑後の竜造寺氏の家来で、その時負傷して死んだ岩本氏を奉ったところといわれています。いつからともなく、参拝したり、絶え間なく流れ出る岩清水を飲むことで無病息災、家内安全にご利益があると信仰されるようになったものです。特に「目」に効果的といわれ、県内外から参拝者が訪れます。

胃の神様
昔は、正月や例祭日には、近所はもちろん遠方からも大勢の参拝者があったと言われているが、地元では昔から『胃病に御利益がある神様』との言い伝えがある。
胃病の治療祈願の折には、どじょうを参拝途中の池に入れてお供えする習わしがあったという。

性の神様
信仰・祈願する人は、作りものの男根を奉納し、御願成就のあきつきには、男は白色、女は赤色の布に住所・氏名・年齢を書いてお礼参りをする風習がある。

命の神様
御神体は石であり、昔から『命助けの神様』と信仰されてきた。生死にかかわる病気の時、一生に一度だけ平癒を願えば、必ず叶えられると言われている。地元では「坂梨弥五助が山森阿蘇神社を勧請した折に建立されたのではないか」と言われている。

田中城跡
その昔、肥後の国は国衆と言われる52人の豪族がそれぞれに領地・領民を支配する特殊な地域でした。和水町の国衆が「和仁」氏であり、その居城が田中城です。
平成14年3月に国指定史跡として指定を受けました。

六四郎橋
この橋は、大正4年(1915)石工小山世作、一松により福田橋の上流、六四郎川が和仁川と合流する県道玉名、八女線に架設された眼鏡橋で、以後80年間にわたり利用されてきたが県道拡幅工事により平成7年(1995)3月に解体、平成8年3月現地に復元した。

鬼丸眼鏡橋
県道玉名・八女線中和仁鬼丸の、矢部谷川に架かる眼鏡橋である。右は矢部谷峠を超え、筑後立花町(旧白木村)へ、左は西山を経て山川町真弓に通ずる主要道路にある。

みかわ温泉
ふるさと交流センター
「みかわ温泉ふるさと交流センター」は健康レクレーション施設として、バラエティー豊かな浴槽を備えた温泉センターと大広間やステージ、特産品展示ホール、休憩室、ふれあいや交流スペースとして利用できるコミュニティスペース等があります。毎分480リットル湧き出す温泉は、美肌作用の効用もあるといわれ、女性におすすめです。気泡湯、打たせ湯、ジェット風呂、エステ風呂などの他、露天風呂、家族湯等もあります。

熊野宮の宝塔
熊野神社の境内にある南北朝銘のある宝塔で、造立趣旨と貞和5年(1349)の銘があります。県指定重要文化財。

南関町

豊前街道南関御茶屋跡
南関御茶屋(御客屋)は、嘉永3年(1850)8月に起工して、嘉永5年(1852)正月頃に完成したもので、藩主が参勤交代する時や領内巡視の際に休憩、宿泊していたものです。古文書によると、それまでの御客屋(南関町公民館付近)が古く狭い上に間取りが悪く、藩主休泊の時に混雑するという理由でこの地に建て替えが行われました。財源の一部には富講の売上金が充てられました。

眞光寺
熊本県玉名郡南関町にある浄土真宗舞鶴山の寺院です。
浄土真宗親鸞聖人のみ教えを伝え、聞く所となっております。
一年の始まりの御正忌報恩講、春秋彼岸会、報恩講、花祭り等の法要が営れます。

大津山阿蘇神社
祭神は健盤龍命で大津山大明神という。この神社は霊感あらたかで、加藤美作の霊験談は有名であり、境内には眼病の神『生目八幡宮』もあります。

大津山生目八幡宮
天正9年(1581)正親町天皇の御代、大津山七代城主資冬公の時代日向の国生目より勧請されました。当時は戦国の世で、天正8年(1580)久留米の高麗台での戦の時に資冬公の侍大将福山出雲の家臣金丸五兵衛は左目に矢を受け、自ら抜き取り、敵陣に切り込み勝利の突破口を作ったといわれます。
この戦いで、多くの死傷者を出し、資冬公が武雄をたたえ家臣の全快を願い生目八幡宮を勧請したといわれています。

大津山公園
大津山公園は、大津山一帯を、四季の花木に親しみながら散策できる自然公園で、関所の町を思わせる冠木門が目印になっています。山頂までは、西側にある大津山阿蘇神社方面からと、北東側からの2つの登山コースが整備されており、毎年4月29日には、公園一帯でマラソン大会が開催されます。
 春には、桜から藤、つつじへと花の色の移り変わりを楽しむことができます。四季折々の花が咲き乱れるこの公園には、遊歩道やあずまや、公衆トイレが完備され、訪れる観光客のいこいの場となっています。

麻扱場橋
坂下北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋を平成5年、圃場整備に伴う河川改修の為解体し、大津山公園のこの地に移転復元した。
石橋の建造は、江戸末期肥後の名工、種山石工の流れを組む地元の作と伝えられる。橋名は、昔、内田川で麻のさらしが行われていて橋の近辺を『麻扱き場』と呼んだことによるものです。

太閤水
大津山公園内にあり、その昔、1587年(天正15)に島津征伐に来た秀吉が正法禅寺に一泊した折、ここの湧き水でお茶を差し上げたので「太閤水」というと伝えられている。

総合文化福祉センター
南の関うから館
南関町立の総合文化福祉センターにある温泉施設です。大浴場のほか、露天風呂やサウナ(ミストとドライあり)、打たせ湯、家族湯があります。特に家族湯には和風と洋風とがあり、4タイプ8室からお好きなタイプを選んで入浴できます。また重度の身体障害者が家族と入浴できるように専用器具を備えた身障者用浴室があります。併設して集会室(大・小)、レストラン、車イス使用可能の調理台1台を備えた調理実習室、ボランティア団体の会合に最適のボランティア室、15名程度の人数でおくつろぎ頂ける教養文化室、通信カラオケを備えたカラオケ室、入浴後のリラックスタイムをお過ごし頂ける大広間があります。

セキアヒルズ 展望の湯
「セキアヒルズ」は、約60万平方メートルの敷地に、ホテルやショッピングモールなどが集まった複合リゾート施設です。敷地内には、ビアレストラン、野外コンサート広場やなどもあります。さらに1,000人収容の大型リゾートタイプのホテルセキアでは露天風呂など天然温泉も楽しめます。

来光寺の五輪塔
この五輪塔は、鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の信者を供養するために建てられたもので、2基とも高さ約140cmで保存状態は良く、石質溶結凝灰岩でできています。
指定された2基には、建治2年(1276)と、文治元年(1317)の紀年銘が彫られ、一遍上人が九州を遊行した時期に建造されており、九州で時宗が急速に広まった当時の状況を知るうえで貴重な資料といえます

大迫六地蔵
豊永の来光寺五輪塔前の坂を上りつめた台地の上にあって、町内随一の壮大華麗な六地蔵です。現況において全高317cm。龕部に六地蔵尊六体を刻像し、中台には十王と脱衣翁と懸衣翁が二つの人の首をはさんで配され、幢身正面には、仁王像が刻まれています。大迫六地蔵は、仁王像を合わせて刻像している点など六地蔵信仰と十王信仰をうかがい知るうえで他に類を見ない非常に貴重な歴史遺産です。

坂下阿蘇神社
長徳元年、阿蘇一宮神社を勧進。
室町時代に藤原善衛が臼間山に坂下城を築き、この地を守護神として、崇拝した。戦国時代、灰燼となったが、加藤家により再建。

坂下阿蘇神社三重層塔
坂下阿蘇神社の境内、神殿の東側にある末社若宮と並んでこの層塔があります。石造で、高さ1.7m。現在は二層になっていますが、もとは三重層塔であったと思われます。
紀年銘の正平十一年(一三五六)は南北朝時代の南朝の年号で、北朝では延文元年に当たります。正平四年、足利直冬が肥後河尻に下った時、当時の豪族託麻宗直が直冬を助けたことから、同年足利尊氏は宗直を臼間野荘地頭職としました。宗直の配下となって七年その権威が行われていた当時、この地の住民たちは、この塔の基石に北朝の年号を使わず、「正平十一年」と堂々と彫っていました。即ち南朝方である意思表示とも見るべく、郷土史研究上、興味ある問題といえます。

肥猪町官軍墓地
肥猪町字十時にあります。明治10年2月に起きた西南の役の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬。その大半は鍋田の戦闘で戦死した将兵です。
昭和52年10月西南の役100年を記念して県指定史跡になりました。

佛照寺
梵鐘は肥猪区佛照寺本堂の向かって左側軒下に掛けられています。高さ100cm、底部直径59cmで銅製です。元和3年(1617)江戸時代初期の作品であり、同年製の関町区の悟真寺の半鐘と共に、町内で最も古いものです。作者は、和田信濃椽国次で、京都三条の鋳物師として名を馳せた人物です。
 製作年、その他由来が明記されているこの梵鐘は、中世から近世への梵鐘の変遷をたどるうえで、きわめて重要な文化財です。

古小代の里公園
肥後熊本を代表する小代焼の発祥の地。江戸時代の窯跡(瓶焼窯、瀬上窯)が当時の水渡き場やロクロ場跡と共に保存されています。県指定文化財の小代焼古窯跡を中心に整備された公園は、周辺に150本の梅が植栽され、やすらぎの池や休憩所もあります。3月の中旬には、荒尾・玉名地域の窯元が一同に集まる陶器・梅まつりの会場となります。

荒尾市

万田坑跡
全盛期の荒尾・大牟田を支え、時代を築いた炭鉱跡地で、国指定重要文化財。現在、第二立坑の鋼鉄製櫓と、レンガ造の捲上機室、扇風機室、汽罐場のレンガ塀や煙突跡を見ることができます。

万田炭坑館
国の重要文化財に指定された旧万田坑施設の周辺に位置し、石炭産業の基礎知識や歴史が学習できます。

岩本橋
阿蘇凝灰岩の切岩を二重に築いて造られ学術的に貴重な様式で、皇居の二重橋をはじめ数々の名橋を建造した八代の名匠、橋本勘五郎の作と伝えられています。

別当塚東古墳
県内でも古い形式の古墳で、5世紀前半の築造と見られ、墳丘には葺石と形象埴輪が認められる。

野原八幡宮
創建は平安初期で当初宮内にあったのち野原荘(旧荒尾郷)成立とともに現在地に遷宮されたと伝えられる。ひと月早い七五三で知られる「野原さん」は、旧荒尾郷(荒尾、長洲地方)の郷社野原八幡宮の秋季大祭であり、毎年10月15日に行われ、毎年数万人の人出で賑わう祭りである。

荒尾大師
慈照院にある白一色の弘法大師座像。先代住職の手づくりで、手に金色の五鈷(ごこ)を持ち、丘から下界を見守っています。像の高さは台座(6m)を含み、なんと20m。

賀庭寺古塔群
保元年間(1156〜59年)平安時代の末頃、小松内府・平清盛の長男、平重盛の祈願寺として建立されたと伝えられています。一時は広大な寺域に7堂伽藍を備え、薬師三尊と十二神将が安置され、各地から集まった学僧や修験者が44もの坊舎で学んだといわれています。寺内には五輪塔115基、宝塔41基など163基の石塔が保存されています。

宮崎兄弟生家
宮崎家は反骨精神たくましく、弱者に対しては同情心が深かったので旦那と尊敬される名望家でした。父政賢は天性の自由を愛し名利を憎み、母佐喜は「畳の上に死するは男子何よりの恥辱」と子どもたちに教えたといわれています。 激動の明治〜大正期、八郎は自由民権の重要さを、民蔵は小作農民の救済を、彌蔵・寅蔵(滔天)は中国革命及びアジア興隆による理想社会実現のために生涯を捧げました。清朝打倒、共和制樹立の革命運動に奔走していた亡命中の孫文は滔天にかくまわれ、この家で数日を過ごしています。

宮崎兄弟資料館

孫文をして「革命におこたらざる者は、宮崎兄弟なり」と驚嘆させた宮崎八郎、民蔵、彌蔵、寅蔵(滔天)四兄弟は、近代日本が生んだ希有の“ますらお”たちです。西欧列強によるアジア植民地支配の時代に「人類同胞の義を信じ、世界一家の説を奉じて」(滔天)全アジアの独立解放と自由平等の実現に全財産を投げうち、身を削って孫文らを支援し続けた宮崎兄弟の生きざまは不朽の輝きを与えています


浄業寺古塔群
肥後野原荘の地頭・小代氏の菩提寺として、法然上人の孫弟子にあたる弁智上人により建治2年(1275年頃)開かれたと伝えられています。寺内には中央が源頼朝、左側は頼家、右側が実朝の三代を追慕供養するために建てられたといわれる無銘の塔があります。また板碑、塔婆、五輪塔など約110基が残されています。

荒尾温泉ドリームの湯
熊本県にある荒尾温泉ドリームの湯は、平成19年3月自然あふれる丘の上の秘境温泉として誕生しました。街並みを見下ろす小高い丘に立ち上る湯けむりは、温泉情緒を漂わせています。そして五木の山の巨石を配した露天風呂をはじめとする100%源泉かけ流しの温泉を存分に楽しむことができます。

四山神社
四ッ山古墳と虚空蔵菩薩降臨の地として、900年以上の歴史があり、肥後と筑後の「こくんぞさん」と呼ばれ、主に商売繁盛、縁結びの神様として親しまれています。2月13日の春祭り、9月13日の秋祭りでは多くの参拝者で賑わいます。

四ッ山古墳
6世紀後半の作。全長4.4mの装飾横穴式石室が現存しています。

三池港灯台
本灯台は島原湾唯一の沿岸大型灯台であり、光力は島原湾内最大で、同海域内では全域から見ることができ、沖合いを航行する船舶の重要な目標になっています。

天然温泉センター弥生乃湯
小岱山の麓、大自然と三井グリーンランドが目の前にある天然温泉施設です。大きな円形風呂に加え、運動浴、低周波浴、イベント浴、桧風呂、打たせ湯、露天風呂などが楽しめ、特に露天風呂隣のセラミック釜風呂は、セラミックの特殊な効能を活かしたとってもヘルシーな温泉です。また、サウナも30uの広さを誇る、遠赤外線サウナとアルファーイオンスチームサウナの2種類があります。その他、広々とした室内スペース、レストラン、宴会場などを持つ、荒尾市の新しいリラクゼーションスポットです。

二宮八幡宮
二宮八幡宮の前神殿は宝暦7年改築され、その後大正7年下段から現在地に原型のまま遷座されましたが改築以来二百三十余年を経たため老朽化し倒壊の危険があったため神殿を改築しました。

玉東町

木葉城
別名宇都宮城、南北朝時代(1338年)菊池武重は肥後の国府に襲来せる少弐氏の軍勢と戦いこれを撃破し、宇都宮大和太郎の城に入った。少弐頼尚は直ちに兵を派遣して攻撃せしめたが、武重と大和太郎は、これを撃退した。1350年託摩宗直、足利直冬、川尻幸俊等の軍によってこの宇都宮城は落城した。1350年に探題一色範氏より宇都宮大和太郎の同族である宇都宮公景が岩野村と木葉村の地頭職に任命されている。これは公景が北朝方として戦功があったからであろう。

有栖川宮督戦阯広場
明治10年西南の役の田原坂攻略戦において征討総督有栖川宮熾仁親王の陣頭指揮をされた地です。記念碑は昭和18年熊本顕彰会が建立したもので、ツツジの花が美観をそえ、訪れる人の多いところです。

徳成寺
徳成寺は明治10年の西南戦争の時、負傷した数多くの兵士を収容・治療した病院跡です。玉東町は「日本赤十字社」の発祥の地と言われています。これは、敵味方の区別なく兵士の手当てをしたためです。このような事実があったということも、玉東町の誇りといえます。

宇蘇浦官軍墓地
西南の役における官軍将兵及び抜刀隊で活躍した警視等の戦死者398名を葬ってあり、吉松少佐や武勲で有名な谷村計介の墓もある。

乃木第十四連隊長奮戦の地
明治10年(1877)2月22日、小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第十四連隊(連隊長乃木少佐)は、南関・高瀬を経て熊本に前進中、植木南方1qの向坂にて薩軍より攻撃をうけて敗れ木葉に撤退。この戦いで連隊旗手川原林少佐は戦死、連隊旗を奪われた。
23日、木葉の戦いで第三大隊長吉松少佐の戦死もあって、この地に後退して奮戦したが、北方の木葉山頂より薩軍の一隊が急襲したので、白兵相打つ混戦となり、乃木少佐は薩兵に囲まれた。乃木少佐の乗馬も銃弾に斃れ、少佐も転倒した。薩軍刀をふるって迫り、少佐を斬らんとした。大橋伍長その間に入り斬られ少佐を助けた。摺沢少尉試補もまた助勢したので、九死に一生を得て木葉川を渉り、寺田山にのがれ、更に高瀬北方5qの川床にて隊を集結した。

稲佐熊野座神社
神社には、平安時代の作と思われる木造女神坐像が安置されている。

稲佐廃寺跡
この廃寺は、奈良時代から平安期を通じて存続した寺院である。
昭和26年の基礎調査により講堂、塔、金堂、中門等の位置や塔心礎が判明し、貴重な寺院阯として位置付けられてる。また、ここから出土する瓦は朝鮮系新羅系の瓦である。

薩軍砲兵陣地跡
木葉の戦いに勝利し、田原坂に進軍した薩軍はこの周辺を前哨基地とし、砲を構えました。しかし、高瀬の戦い敗れた後、進軍を開始した官軍の攻撃によりこの地から後退し、さらに木葉も奪回されて田原坂に布陣。激戦・田原坂の戦いがはじまりました。

西安寺白山宮
勧請してから800年になり、明治40年2月に旧山北村の村社に昇格した.昭和54年に創建750年の祭典が行われ、年紀祭では御神体を御輿に移し、神殿の周囲を3度廻った。

西安寺跡
山北相良氏の菩薩寺であった西安寺は、「相良家古文書」によれば延応元年(1239)に北条時頼が諸国巡回の時に病気となられ17日間の白山宮での祈願によって全快されたので、相良頼平に命じて寺は建てられたと伝えられている。しかし、慶長2年(1597)に寺は焼失したと伝えられている。

ふれあいの丘交流センター
町営の温泉施設です。アルカリ性単純温泉で、浴槽は大浴場、露天風呂、サウナ、家族風呂があり、館内には休憩室や地元物産品が購入できる販売所もあります。

長洲町

金魚と鯉の郷
長洲町の金魚生産は日本三大産地の一つとして、昔から有名です。
日本で唯一の金魚の水族館がある「金魚の館」を中心とした「金魚と鯉の郷広場」が平成7年春にオープンしました。
長洲町では、細川藩の頃から金魚の飼育が始まり、今では、日本三大産地としてその名を知られています。夏の風物詩として「金魚すくい」は各地の夏祭りや縁日で、今も昔も欠かせないものですが、最近でも、郵パックや宅急便で全国の愛好家に「高級ながす金魚」が届けられるようになりました。
毎年10月には金魚錦鯉品評会を中心とした「金魚と鯉の郷まつり」が開催されています。

金魚と鯉の郷まつり
「金魚と鯉の郷」を町のキャッチフレーズにして行われているイベントです。昭和63年より金魚・錦鯉品評会といっしょに実施しています。品評会に訪れる方や購入、遊び目的で来場される方々に楽しく過ごしていただくための各種イベントを実施しています。その中でも物産市、金魚即売、金魚すくい、チビッ子向けイベントなどと毎年志向をこらしています。祭り会場は「金魚と鯉の郷広場」で行っています。

四王子神社
四王子神社の祭神は日本武尊と五行祖神五座です。社帳旧記によれば永暦元年(1160年)9月筑前国三笠郡四王子嶽より長須々崎浜の岩屋に来現されたのを、鍬之進が土を盛り固め、注連之進が縄を引き廻して高御座を設けました。その後現在の社床に遷宮され、そのさい氏子達が、神徳加護によりあらゆる災難苦難から逃がれ、多くの御利益幸福を得ようと御神体を安置した円座を奪った事が起源とされています。

海難碑
明治26年10月13日、少し雨や風がある中、190隻余りの船に約380人の漁師が乗り込み、漬けアミにするアミを獲りに出漁しました。ところが、14日の真夜中に風が急に強くなり、暴風雨となりました。そのため漁船は遭難し、助かった人は50人余りでした。この碑には、この悲しい出来事を後世に伝え、死者の冥福を祈るため321人の名が刻んであります。

古墳改葬之碑
200年ほど前の寛政3年(1791年)10月から島原半島で地震や小さい噴火が群発し、翌4年4月1日には、大地震が起こり眉山が崩れて、有明海に大量の岩石や土砂が流れ込み、大津波を起こしました。この津波は対岸の熊本県をも襲い、旧長洲町でも大きな被害を受け、500人余りが溺死しました。この人達は長洲町下二丁目(下東町)に埋葬されましたが、明治24年新山墓地に移され、昭和14年にこの碑が建てられました。

救難隊並びに遭難者の碑
明治28年旧暦6月3日、22名の漁民が出漁していました。ところが、突風が吹き出し遭難のおそれがあったために、7名の若者が救援に向いました。しかし、風はますます強くなり、出漁の漁民も救援の若者も帰らぬ人となりました。町の人々は若者の崇高な精神をたたえ、22名の人々と共に冥福を祈ってこの碑を建てました。