佐賀


佐賀市

佐賀城本丸歴史館
佐賀県立佐賀城本丸歴史館では、日本の近代化を先導した“幕末維新期の佐賀”の魅力やエネルギーを分かりやすく紹介しています。また、県民と共に活動し、21世紀の佐賀を担う人づくりの拠点施設として運営していきます。
この佐賀城本丸歴史館は、佐賀市城内の県史跡佐賀城跡に、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し建てられた歴史博物館です。木造復元建物としては日本最大の規模を誇ります。
建物周囲には、天守台、城堀、国重要文化財の鯱の門などの史跡もあり、当時の雰囲気を味わうことができる魅力的な空間です。

徴古館
鍋島家所蔵資料を展示するための博物館施設として建てられた。正面ファサードは,ペアコラムを持つ半円形の車寄せと,2階の列柱からなり,背面は簡素な意匠である。県内のRC造としては早い時期のものであり,また本格的な洋風意匠を持つ点にも特徴がある。

佐嘉神社
名君とうたわれた10代目藩主鍋島直正公および11代目藩主鍋島直大公を祀る神社。両公が多大な功績を残したことから救農、学問、病気、産業、交通、文化、開拓など多くの分野での御利益があるとされており、一年を通じて大勢の人々が参拝に訪れる。境内には、復元された「カノン砲」が展示されている。

松原神社
松原神社は藩祖鍋島直茂とその先祖を祀っています。直茂は法号を日峯と称するところより、日峯さんとして親しまれ、春と秋に祭りがあります。同社内には河童の木彫りがあり、日本でも数が少なく珍しいです。境内には白磁の鳥居と灯籠があります。これは、肥前の陶工が直茂を御神祖として崇敬寄進したものです。

大隈重信旧宅
佐賀城下東部の東西に通る7つの小路は「佐賀の7小路」といわれ、佐賀藩の中流クラスの武士が住んだところで、大隈重信の旧宅はこの一番南の「会所小路」にあります。佐賀地方に多い「コ」の字の形をした、一部平屋、一部2階建ての家です。2階は、重信の勉強のために母親が建て増ししたといわれています。旧宅は建設当初からすると少し改造はされていますが、座敷・次の間・居間などの主要部はよく残っていて、昭和43年(1968年)には長く保存するために、解体修理を行いました。

大隈記念館
旧宅に隣接する記念館には、貴重な遺品や資料が展示されてあり、重信の足跡を知ることができます。

旧古賀銀行
佐賀市歴史民俗館にある歴史的建造物の一つで、レンガ風タイル張りのモダンな洋館。古賀銀行は、明治18年(1885)に両替商を営んでいた古賀善平によって設立され、大正期には九州5大銀行の一つに数えられていた。現在の建物は、大正5年(1916)当時の姿に復元されたもの。館内には長崎街道の歴史・民俗資料を展示している。

旧古賀家
佐賀市歴史民俗館にある歴史的建造物の一つ。明治17年(1884)に建築の旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の邸宅。武家屋敷に似た配置をとった造りで、15の和室がある。見事な欄間の細工や襖絵など見どころは多い。

「富士の煙」製造所跡
長崎街道沿いの佐賀城下ひな祭り会場辺りには、「富士の煙」という、長崎街道名産のタバコ製造所跡があります。
元々、肥前鍋島藩の御用煙草として「幾作美御多葉粉(きざみおんたばこ)」が、製造販売され、その後最新型の紙巻煙草「富士の煙」になったそうですが、「・・・大隈重信もそれを愛用し、紫煙の輪をふかし、例の大風呂敷で訪問客を煙に巻いたといわれている。・・・」と書かれた看板が立てられています。

旧牛島家
佐賀市歴史民俗館にある歴史的建造物の一つで、江戸時代中期に建てられた牛島氏の旧宅を移築・復元。佐賀城下に残る町屋建築では最古のもの。明治期に制作された銅版画に、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊予助の店として外観が描かれている。

専福寺
専福寺は正保2年(1645)の建立された浄土真宗のお寺です。
佐賀藩蘭学の始祖といわれる島本良順が眠っている。
島本良順は蘭学でも医学を重視し、新撰組とも深い親交がありました。
門弟に伊藤玄朴などがいます。

旧三省銀行
佐賀市歴史民族館にある歴史的建造物の一つ。1882年(明治15)に設立された銀行。むくりのある切妻屋根や銅板の窓が独特な白壁の蔵造り。建物内は畳敷きで、吹き抜けの茶の間が目を引く。

八坂神社
佐賀市歴史民俗館の古い建物の近くの神社です。
京都府京都市東山区祇園町に総本社がある八坂神社の分社の一つ、主神としてスサノウノミコトが祭られるいわゆる「おぎおんさん」です。

高伝寺
高伝寺は天文21(1552)年、鍋島清房が創建。その後、初代藩主鍋島勝茂が伽藍・寺領を寄進し鍋島家の菩提寺となります。当時は佐賀領の曹洞宗寺院の中心的役割を果たしていたそうです。明治4(1871)年には、佐賀藩最後の藩主鍋島直大が、散在していた鍋島家の先祖の墓、また戦国時代に佐賀を治めていた龍造寺家の墓を高伝寺に集め、整備を行いました。現在、墓所は西側に鍋島家、東側に龍造寺家の墓碑・献灯が整然と並びます。

神野公園
神野公園は、弘化3年(1846年)に造られた佐賀藩主鍋島直正公の別邸です。神野のお茶屋と呼ばれており遊園地、動物園、桜の名所として市民の憩いの場となっています。園内には幕末から明治初期にかけて西郷隆盛とともに活躍した江藤新平の銅像もあります。

鍋島家発祥の地
御館の森
鍋島家発祥の地・御館の森は、鍋島家の祖・長岡経秀が山城の国(現京都府)長岡から肥前に下り、居を構えていたところと伝えられています。その屋敷地がここにあったかどうかは明確に記された文献はありませんが、経秀の子経直の時代に本庄に移り住むまでは鍋島の地に住んでいたという伝承が地元に残っています。

長尾家の墓
この墓地に眠る長尾家三代の方(長尾元弼・元幹・道助)は、佐賀藩の代表的儒学者で、時の藩政と教育に偉大な力を尽くしました。

肥前国庁跡
奈良〜平安時代中頃まで継続した肥前国(佐賀・長崎)の政治の中核地であった役所の跡です。国司は中央から派遣され、著名な人には吉備真備などが記録に残っています。最盛期の9世紀初めには南北約104m、東西約82mの築地塀に囲まれ、主要な建物は礎石建ちとなりました。現在歴史公園として整備されており、南門と築地塀の一部が復元されています。

肥前国分寺跡
西門跡と外溝、西南隅の築地痕跡、東辺で築地と外溝、南辺では外溝が検出されており、その規模は方2町(1辺216m)と推定されています。
伽藍は金堂の北側に講堂、南東方には塔を配置し、中門に取り付く回廊がこれらの建物を取り囲んでいたと推定され、塔跡は全国の国分寺のうち最大規模の版築基壇が確認さており、七重塔が想定されています。また寺域の東側では瓦窯4基が発見されています。創建瓦は複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦の鴻臚館系軒先瓦で、鬼瓦も出土しています。

与止日女神社
川上川(嘉瀬川)の守護神、与止日女大明神を祀る神社です。町民の崇拝も篤く、「よどひめさん」と呼ばれ親しまれています。境内には樹齢2000年ともいわれる大楠があり、優しい木陰を作っています。4月18日、12月18日に大祭りを開催。神社に伝わる古文書は国の重要文化財です。

実相院
寺伝では僧行基が和銅5(712)年に開山、古文書では寛治3(1089)年に円尋が堂舎を建立し河上山別所としたのが初見です。安元2(1176)年には河上山神通寺と称されました。山主は河上山座主として与止日女(河上)神社も統括しました。建暦元(1211)年までは天台宗で、その後真言宗となりました。実相院はこの神通寺を構成していた子院のひとつで文明18(1486)年頃には一山を代表し、今日に至っています。

川上峡
別名、「九州の嵐山」ともよばれ風光明媚なこの地は、与止日女さんのお気に入り。水は澄み、ひんやりとした風が吹いている。春に咲く上流の桜並木は見事で観光客だけでなく周辺の住民にも温かく見守られています。

宝塔山親正寺
宝塔山は、英僧日親上人と軍神加藤清正公との合刻よりなる、巨岩の大宝塔を本尊とし右側には二丈八尺の「白糸の滝」があり、左側に「日親上人血洗いの霊水」がある。

乙文殊宮
学問の神様として、肥前の大宰府ともいわれ、2月11日の乙文殊宮合格祈願祭には大勢の参拝者が訪れる神仏習合で乙文殊宮と文殊院を総称して、通称「もいっさん」と呼ばれています。

さが水ものがたり館
館内では「佐賀平野と水」「成富兵庫茂安の生涯」「石井樋のすべて」をテーマに、ジオラマや映像で紹介しています。
模型を使った水や土砂の流れの実験、図書閲覧をすることもできます。
また、館内には自由に使える会議室・ギャラリーのスペースがあり、さまざまな活動や交流・発表の場としても利用することができます。

石井樋公園
石井樋とは、成富兵庫茂安の指導により、元和年間(1615-1623)に造られた取水施設。取水は佐賀城下の生活用水と農業用水として使われました。公園内には、大井手堰、象の鼻、天狗の鼻、出鼻、石井樋、二ノ手堰などがあり、当時の石積みも数多く残っています。「さが水ものがたり館」では、兵庫の業績や佐賀平野と水などについてジオラマや映像で紹介しています。

佐賀県立森林公園
5万本の樹木があり、多目的広場には県内でも有数の広さを誇る芝生広場や平成11年にはみどりの森県営球場が完成しております。

佐賀インターナショナル
バルーンフェスタ
佐賀県佐賀市嘉瀬川河川敷をメイン会場に行われるアジア最大級を誇る熱気球国際的なフェスティバルです。

筑後川昇開橋
佐賀市諸富町のシンボル・筑後川昇開橋は、九州一の大河・筑後川に架かる世界でも有数の昇降式可動鉄橋です。全長507m。高さ30mの2つの鉄塔にはさまれた中央部が23mの高さまでエレベーターのように上昇し、その下を大型船が自在に航行できるようになっています。当時、頻繁に行き交っていた大型船の航行を妨げず、なおかつ潮の満ち引きの差が激しい広大な川に橋を架け、列車を走らせる。この大きな問題を解決するため悩み苦しんだ結果、「昇降式」という大胆で斬新なアイデアが生まれました。しかし、最大6mの干満の差がある有明海は、筑後川の水面を常に変化させ、また16mという厚い川底の粘土層が工事の行く手を阻み、工法・建設は困難を極めました。度重なる苦難を乗り越え、昭和10(1935)年5月25日、旧国鉄佐賀線の鉄道橋、東洋一の昇開橋が完成し話題になりました。

徐福上陸地
上陸地跡には、現在鳥居が立ち、金立神社碑、竜宮社碑、徐福厨子像が建立されており、徐福上陸地の石造の標識や71代目の子孫・徐広法氏の手植えのビャクシンなどがある。地元の人たちは、徐福を「権現さん」と呼び、しのんで旧暦の4月8日(現在は5月3日)にお祭りを行っており、今も人々の心の中に生き続けている。

山口家住宅
建築年代は19世紀中頃と推定され、北向きの寄棟造りです。特徴は葦ぶきの屋根の形にあり、上から見るとほぼ正方形で、内側は谷状に低くなっています。このような四角形の屋根の家は「じょうご谷」「四方谷」と呼ばれ、日本では佐賀県東南部と福岡県西南部だけに見られる珍しいものです。じょうご谷民家としては建築年代も古く、旧状もよく留めていて、民家建築の変遷を知る上から価値が高いものといえます。

干潟ギャラリー
世界最大の干満の差を誇る有明海の干潟を望み、殺風景なコンクリート海岸堤防には、お年寄りから子供たちまでの作品で飾られ、そこは自然の美術館になっています。周辺の環境美化に役立つとともに、いつでも見学ができて好評です。

シチメンソウ群生地
シチメンソウは、アカザ科の一年草で九州の代表的な塩生植物です。中でも東与賀海岸は最大の群集地で、長さ1,600m、幅10mのシチメンソウヤードを整備し、間近で観察できるようしています。

佐野常民記念館
佐野常民記念館は、日本赤十社の創設者である佐野常民の遺徳を顕彰し、博愛精神を学び普及していく施設として開館しました。
記念館では、常民の業績に関わる資料や遺品などの展示とともに、映像と音声による複合演出シアターを駆使して常民の生涯をわかりやすく感動的に紹介しています。また次世代教育、ボランティア活動、生涯学習、地域交流活動など体験学習活動を、通した人材育成を図る施設としての機能も併せています。

金立神社下宮
下社は総代の家であったと云う。総代は徐福が求めていた霊草カンアオイ、通称フロフキを育てていたようだ。金立山にはこのカンアオイが自生していたと云う。通称のフロフキは、不老不死が訛ったと云われる。これで酒を造った。
徐福一行は諸富町の筑後川河口近くに上陸、蓬莱山と見えた金立山へと登っていったとされる。

西隈古墳
脊振山系南麓のゆるやかな台地上にある、直径約30メートル、高さ約4メートルの円墳です。周囲を宅地や畑によって削られていますが、残りは良く、墳丘上からは形象はにわ、円筒はにわの破片が採集されており、葺石帯なども確認されています。石室は花崗岩を用いた初期横穴式石室で、石棺は阿蘇山系の凝灰岩でつくられています。

金刀比羅神社・宮地嶽神社
讃岐の金刀比羅宮を勧請した社で、海上安全の神様です。佐賀市最北部の小高い岡上にあり、昔はその朱塗りの神殿が有明海航行の船の目標となっていました。91年の湾岸戦争時、ペルシャ湾に出航する自衛官の安全祈願を、ここで行ったことはあまり知られていません。境内に、樹皮を身につけると賭事に効能があるという、「博打の木」があります。

熱覚まし地蔵
この地蔵は、通称熱覚まし地蔵といわれ、お供物をし、祈願すれば熱病をなおすといわれている。往時は、無病息災等の願望がかけられ、近隣の人々の詣でる姿が多く見られたが、今日では時勢の推移につれて拝む人もまばらとなった。しかし、いつもお供物、供花などきれいに並べてあり、今日まで祈り続けた庶民の心情が偲ばれる。

金立公園
金立公園は佐賀市の北部、金立山の麓の長崎自動車道金立サービスエリアの周囲にあり、全体面積が27.4ヘクタール(うち20.66ヘクタールを現在供用)の総合公園です。公園内には徐福長寿館、薬用植物園、コスモス園、金立山いこいの広場などがあり、一般道からの来園はもちろんのこと、長崎自動車道からも金立サービスエリアから徒歩での来園ができます。春は桜や菜の花、秋はコスモスと、花やみどり豊かな公園ですのでぜひおこしください。

久保泉丸山遺跡
久保泉丸山遺跡は縄文時代晩期から弥生時代前期の118基の支石墓と、5から6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡です。遺跡そのものは佐賀市久保泉町川久保に位置していましたが、長崎自動車道建設のために、この場所に移されました。古墳の石室には竪穴式と横穴式があり、竪穴式石室の中で最大のものは長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さが0.76メートルあります。石室の中からは鉄剣や鉄ほこ、刀、やりがんな、勾玉など多くの出土品も見つかりました。

小城町

小城公園
小城藩の初代藩主・鍋島元茂[もとしげ」と2代藩主直能[なおよし]が造営した庭園。樹齢340年のイヌマキを正方形に刈り込んだ54平方mの「大角槙」は、その大きさに圧倒される。さくら名所百選(日本さくらの会選)にも選ばれており、春は約3000本の桜が咲く。

岡山神社
岡山神社は初代小城藩主元茂とニ代直能を祀っている神社である。元茂および直能は柳生新陰流の達人であったらしく、神社内に柳生宗矩や柳生十兵衛を祀った祠がある。

烏森稲荷神社
後西院御製碑のすぐ南側にひっそりと立つ小さな社が、市民に「お稲荷さん」として親しまれている烏森神社です。
元禄12年(1699)に三代藩主・鍋島元武により創建されたもので、小城藩江戸屋敷内にあった烏森稲荷を遷し、宮島武蔵によって勧請されたと伝えられます。赤い小さな鳥居をくぐるうち、心が自然と落ち着きますよ。

後西院御製碑
小城藩の二代藩主・鍋島直能が延宝3年(1675)、後西院(後西天皇・1638〜1685)より賜った和歌が刻まれた石碑。「さく花にまじる岡邊の松の葉はいつとなきしも色を添えつつ」と詠まれています。
明治8年(1875)に「桜岡公園」が一般開放された折り、公園最頂部に建てられたもので、字は中林梧竹の筆によるものです。

神崎町

九年庵
佐賀の大実業家、伊丹弥太郎が明治25年から9年の歳月をかけて築いた6,800uの別荘と庭園。
別荘は入母屋葦葺の屋根に杉腰張りの土壁、竹格子の連小窓や真竹を用いた周りの濡縁など、野趣に富む外観を持ち、材質、色感、意匠、構造などのすべてに、細心かつ充分な吟味が加えられた茶室と書院の様式を折衷した近世和風の数奇屋建築です。
庭園は広大で、沢山のツツジやモミジ類などが植生しており、四季を通して美しい景色を描き出しています。また、庭一面に広がるコケはまるでじゅうたんを敷き詰めたかのように錯覚してしまいます。
九年庵は平成7年2月に国の名勝に指定を受けており、毎年紅葉の時期に一般公開されます。

仁比山神社
天平元年(729年)に、僧行基が京都松尾明神の分霊を安置したことに始まるといわれています。この仁比山神社は、山の神・農業の神として祭られており、現在では「山王さん」の名で親しまれています。仁王門には仁王像が安置されています。
また、12年に一度の申年には「御田舞」(県重要無形民俗文化財)が奉納されます。

神水(金剛水)
慈覚大師が国家安泰祈願の折、岩石に水なる梵字を彫まれし所、不可思議に清らかな水が湧き、土の中より是又、不思議にも日吉宮と書かれし石額面を掘出したと言われ、古きより山王さんの水として親しまれ、内臓弱き人は当神社の神符をこの清水と一緒に拝飲すれば神威増し回復に向かうという。
又、初宮詣の子供の口につけ、長寿、無病息災を祈願する。現今は特に遠来より参拝拝飲する人が多い。
ここの石のお猿さんに水をかけ願いをとなえれば叶えるという。

地蔵院
現存する地蔵院は明治以前まで仁比山神社の神宮寺であった護国寺の名残を留める唯一の寺で由緒は天平元年(七二九年)聖武天皇の勅願によって行基菩薩によって草創された護国寺に源を発する。往時は三十六坊あったといわれ成善坊、不動院、地蔵院の水上坊、吉祥院・法音院の成道坊や宝林坊・中道坊・円頓坊などがその名を残している。
これらの総称が護国寺で、一山の塔頭不動院は仁比山神社の別当職を兼ねていた。仁比山神社は古くは日吉神社とよばれ山王社とも称した。

伊東玄朴旧宅
仁比山神社入口から九年庵までの参道を上って行くと、右手側に萱葺屋根の邸宅が見えてきます。この邸宅は、長崎でシーボルトに学んだ幕末の医者・蘭学者伊東玄朴の旧宅です。玄朴は日本で最初に種痘を導入するなど、近代医学の父として知られています。この旧宅は玄朴が20歳のときに建てられたものです。

仁比山公園
子供たちのにぎやかな声が聞こえてきます。脊振山に源を発し、町の中央を流れる城原川の清流を活かし、この辺り一帯は町の人々の憩いの広場「仁比山公園」として整備され、明治時代までそうめん造りの主役だった水車群も復元されました。
春は桜の名所として、夏は涼を求める多くの人々で賑わいます。また、許可を受ければ、バーベキュー、キャンプが楽しめます。

愛逢橋
公園のシンボルとして、人々に親しまれているのが「愛逢橋」。その両岸には、仁比山神社と八天神社という縁結びにご利益のある神社があることからこれを結ぶこの橋は「愛逢橋」と命名されました。この橋を渡れば、縁が結ばれ、愛が育まれるという縁起のよい「愛のかけ橋」なのです。
木トラス構造による日本で初めての橋で、木と棒鋼を特殊金物でジョイントした三角形を作り、各々を組み合わせた構造になっています。美しいアーチを描くこの橋を大好きなあの人と一緒に渡ってみてはいかがでしょうか。

櫛田宮
博多の櫛田神社の本宮と言われる、歴史深い神社。境内の樹齢およそ千年の“琴の楠”の根元を息をとめて7回半まわると運が開けるといわれています。また、楠の碑には「清浄な人が息をとめて7回半廻れば琴の音が聞こえると伝えられている」と記されている、開運の神社でもあります。

神埼発祥の地
景行天皇が今から1920余年前に櫛田宮を創祀されて以来、神の幸をうける平和郷となり、神幸(かむさき)郡と名付けられました。これが後に神埼となりました。

神埼そうめん発祥の地
1635年(江戸初期)、若い頃に罪をおかして小豆島に流されていた人が、小豆島でそうめんづくりの製法技術を習得。赦免後、罪を悔い改め仏門に入り、全国行脚の旅に出ます。しかし、雲水は神埼で病気になってしまい、城原川のほとりで苦しんでいました。そこで手を差し伸べたのが、“伊之助”です。地元では“麺祖”と呼ばれています。
伊之助と神埼の人々は病に苦しむ雲水を手厚く看護しました。その伊之助と人々の心に大変感動した雲水は、お礼に手延べそうめんの製法技術を伊之助に詳しく伝授しました。

下村湖人生家
教育家であり、そして名作「次郎物語」の著者下村湖人は千代田町の出身。明治17(1884)年千代田町に生まれるが、すぐに里子に出され、戻ってきたのは4年後。さらに10歳の時には母親に死なれるなど、湖人の少年時代は苦境の連続でした。昭和11(1936)年、雑誌「青年」に連載をはじめた「次郎物語」の世界は、湖人そのものの物語だったのでしょう。美しく、感動的なこの作品は多くの人の心をつかんではなしません。生家には「次郎物語」の原稿をはじめ、著作、写真、書簡など湖人ゆかりの品々が大切に展示されています。

吉野ヶ里町

吉野ケ里歴史公園
今やその名を全国に知らしめた吉野ヶ里遺跡は、昭和61年から文化財発掘調査によりその姿をあらわしました。日本一の規模を持つ弥生時代の環壕集落をはじめ、墳丘墓、物見やぐら跡など歴史上重要な発見が行われ、それまで多くのベールに包まれていた弥生時代の人々のくらしが次第に明らかになったのです。

東妙寺
鎌倉時代弘安元年(1278)元寇に際し後宇多天皇の勅願によって、 西大寺の唯円上人)が創建したと伝えられています。 南北朝時代には懐良親王(かねながしんのう)が本陣としました。

田手神社
天智天皇もしくは、斉明天皇の時代に建立されたといわれる田手神社は、鍋島藩時代には佐嘉伊勢町の伊勢神宮とともに伊勢参りの代参社として、多くの人が参拝に訪れていました。

長崎街道
(田手宿・目達原宿)
長崎街道は江戸時代小倉〜長崎57里(約224キロメートル)を25の宿場で結び、今も当時の面影を残す建物などがみられます。
当時田手川は橋がなく、川底に石を置いて渡る陸渡でした。
目達原宿は「古事記」や「肥前国風土記」に記載されている宿で、祇園神社前には「恵比寿石像」が残り、往時の宿の存在を物語っています。

安禅寺
和銅二年湛誉上人によって背振山霊泉寺が開かれ、やがて背振千坊の繁栄をもたらしたが千坊唯一の回向道場として創建されたと伝えられる。詳細は不詳である。しかし文永の頃は数多くの僧が当山に住し文永弘安の役にはいち早く博多の浜の防戦に参加し敵国降伏を祈願した。南北朝(正平十年)の頃当山に別住職が任ぜられる程に隆盛を極め天正十四年、島津軍が久留米高良山を攻めた際には 時の高良山座主四十五世麟圭は当山に非難し難をまぬがれた。応永三年八月大友の兵下により堂宇焼失するも慶長十五年松隈の住人萬右ヱ門を施主として肥前国主鍋島信濃守綱茂公が大檀那となり当時の住職幸海に帰依し堂宇再建がなった。

坂本修学院
慶長年間(1596年頃)、佐賀藩主鍋島直茂公の命により再興された、天台宗の由緒ある寺で、桜としゃくなげの名所としても有名です。

さざんか千坊館
8月1日東脊振トンネル有料道路沿いに「さざんか千坊館」がオープンしました。
地場産の新鮮な野菜や農産物加工販売、パン屋、手打ちそば等、吉野ヶ里の豊かな恵みがいっぱいです!!
また、脊振山のおいしい湧水を給水することもできます。

上峰町

都紀女加王墓
全長50mの前方後円墳で目達原古墳群の古墳の中では一番古い形式の古墳です。葬られているといわれている都紀女加王は応神天皇の皇子、稚野毛二派皇子の孫にあたられます 今日、町の古墳公園となっています。

吉野ヶ里温泉 卑弥呼乃湯
古代の旅情と温泉を長時間満喫いただけるように広い庭園と、広い岩風呂がお勧めです。

船石遺跡
船石遺跡は、船石地区の丘陵地に広がる町内でも有数の大遺跡で縄文時代から中世に及ぶ遺構や遺物が発見されている。船石遺跡のほぼ中央に位置する船石宮天神社境内には、船石の地名の由来となった「船石」はじめ「亀石」、「鼻血石」と呼ばれる巨石が残っている。

堤土塁跡歴史公園
町北部に位置し土塁が作られた時期は7〜8世紀と考えられています。築造方法は、粘土、砂混じりの土、黒い土を交互に積み上げたたき締めて作られており、これは強固な基盤を作ることができる版築という工法です。 目的としては、当時の農業用水を蓄える灌漑施設説、大宰府などの防衛施設、又は古代の道路ではないかという説があり結論はでていません。

八藤丘陵の阿蘇4火砕流堆積物及び埋没林
圃場整備の工事中に地下約3mの地中から、長さ22m、幹の直径1.5mの巨大な倒木(マツ科トウヒ属、もみの木の一種)が発見された。巨木の周囲にもたくさんの焼け焦げた木々が埋まっていた。これらの木々は、約9万年前の阿蘇4火砕流と呼ばれる北部九州一円を覆い尽くすような大火砕流によりなぎ倒され埋まった当時の森林の跡であった。この資料の一部はふるさと学館に展示されています。

みやき町

綾部神社
綾部八幡宮は「風の神様」を祭る神社として、県内外より多くの参拝者を集めています。また、日本最古の気象台といわれていて、旗のなびき具合で風雨の襲来や農作物の豊凶を占います。

長崎街道中原宿
旧長崎街道は町の中央を東西に横断し、江戸時代の参勤交代や数多くの旅人の長崎への旅路として利用され、街道沿いには6件の旅籠がありました。

宝満神社
中津隈宝満神社には、明治3年(1870年)から13年に一度という珍しい還宮祭がある。浮立を先頭に下の宮の井野原宮、そして板部の物部神社まで大勢の行列で、めったに例のない偉観なものです。

中津隈前方後円墳
紀元500年前後に築かれたものと推察され、この地方の蒙族の墳墓と考えられています。拝殿の東南方に露出している、横穴式古墳も貴重な存在となっています。

鳥栖市

安永田遺跡
鳥栖市・基山町にまたがる標高約50メートルの柚比丘陵上に立地する。弥生時代中期を中心とする大規模な集落跡・墓地からなる遺跡で、大正2年に甕棺墓や銅戈・銅矛などの青銅器が発見されたことで、古くから注目されていた。

庚申堂塚
柚比丘陵古墳群中の前方後円墳で、昭和51年に県立博物館が発掘調査を実施した。後円部頂上に後世に建てられた「庚申尊天」碑が名前の由来である。全長60メートル、後円部径32メートル、高さ5メートル、前方部幅48メートル、高さ5.5メートルで、二段築成である。葺石をもち、墳丘裾には周溝の跡と思われる窪地が一部に認められる。過去に多くの円筒埴輪が出土したと伝えられる。

田代太田古墳
柚比遺跡群の南端にあたる田代本町の丘陵上に位置する装飾古墳です。
装飾古墳とは彩色画または線刻、浮彫などで石室内などに装飾を施したもので、筑後川、有明海沿岸に多く分布します。
田代太田古墳は彩色壁画系の装飾古墳としてははやくから知られていました。6世紀後半代に造られた直径42メートルの大型円墳で、高さ約6メートルの墳丘は二段に築かれています。

太田観音
子授け・授乳に霊験あらたかな観音として信仰を集める。

御手洗の滝
験者が滝で手を洗って身を清めたことから名付けられた御手洗の滝。
高さ22m、幅6mで、うっそうとした木々の間から落ちる水しぶきが涼をさそいます。
山伏が手を洗い身を清めたことから御手水の名前が付きました。

基山町

大興善寺
この寺の開創は古く、養老元年(717年)行基によって開かれた由緒ある寺です。昭和53年には、天台宗別格本山に昇格しました。本尊は、行基の作と伝えられる木造11面観音像で秘仏となっており、その他に国の重要文化財の広目・多聞の2天部立像が国宝殿に安置されているほか、町指定文化財もあります。
 春は、本堂裏手のつつじ園には7万5千m2の庭園につつじ5万本が咲き乱れ、全国でも最大級の規模をほこり、4〜5月にはこの世の浄土を思わせる美観を呈します。秋には、紅葉の絶好の写真スポットとなり、多くの観光客が訪れます。鳥栖プレミアムアウトレットからも車で約10分程です。

つつじ園
大興善寺の裏山には、80年以上の歴史を持つ公園が存在します。長年にわたる拡張を経て、現在では75000平方メートルもの大きさをほこる公園となりました。
園内には、5万本のつつじ、500本以上のもみじ、杉や檜の大木、和の雰囲気を演出する各種庭園や花見堂などがあり、季節ごとに景観を変えていきます。
とりわけ春のつつじ・秋の紅葉の景観美で知られる公園でもあり、来園者の多いこれらの時期がもっとも賑わい、その景観同様に園内は華やかな場所に生まれ変わります。









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