東予


今治市

しまなみ海道
瀬戸内しまなみ街道は、広島県尾道市と愛媛県今治市を大小10本の橋がつなぐ、3番目の本四連絡橋として平成11年5月ついに全橋が開通しました。本州四国連絡道路の中で唯一、歩いたり自転車でわたることができる海の道です。

今治城
築城の名手といわれた藤堂高虎が、慶長9年(1604年)今張の浦にできた砂洲に築いた。昭和55年に復元された天守閣は5層6階で、武具甲冑などを展示。

吹揚神社
往古より今治市内に御奉祀されていた「神明宮」、「座王八幡宮」、「蛭子宮」、「厳島明神」の4社を明治5年に今治城内に合祀し、吹揚城の城名をとり「吹揚神社」と称した。その後、天満宮等の市内の神社を次々と合祀し、多数の御祭神を仰ぐに至っている。

別宮大山祇神社
和銅5年(712年)越智玉澄により、大山祇神社(大三島町)の地御前として勧請創建せられ、伊予国一の宮の別宮として創建以来代々の領主や藩主から篤く崇敬されている。
 現存する拝殿は、天正3年(1575年)来島城主村上三郎九郎越智通総が再建したと云われている。平屋切妻造桧皮葺の純和様建築はこの地方では珍しい。

南光坊
古義真言宗御室派で、もと大三島大山祇神社の属坊として宮浦(大三島)に建てられたものですが、正治年間(1199〜1201)に別宮大山祇神社の別当寺として8坊が移されたものの一つです。明明治維新の神仏分離令により境内を区切り、神社の本地仏「大通智勝仏」を南光坊の本堂に移して、別宮明神とはまったく分離しました。

延命寺
延命寺は、近見山宝鐘院と号し、行基の開基、空海の再興との伝えがあり、本尊は不動明王で、もと近見山山頂近くにありました。宝永元年(1704)鋳造の梵鐘は、延命寺の歴史を刻む貴重な文化財であって、昭和63年4月に今治市の有形文化財に指定されました。

神宮野間神社
続日本紀にも載っている古社。宝篋印塔は重要文化財。5月10日に行われる春の祭礼は、今治地方では最も華麗なもので、古式のままの奴行列や継獅子の競演はみごとである。

宝篋印搭
以前は下方の谷間にあったものを、現在の神社石手裏に安置にたものと伝えられる。
鎌倉期の作であるが、九輪や宝珠は江戸時代の後補であるが、全体としては、大変重厚な安定感を与えている。

泰山寺
弘仁6年(815)当地に滞在した弘法大師は、人々を集めて堤防を築き、「土砂加持」の秘法によって「人取川」と恐れられた蒼社川を鎮め、一宇を建立したのが本寺で、地蔵経の中の「女人泰産」から泰山寺と名づけられたといわれています。本尊の木彫地蔵座像は、室町期の作で、修理されていますが、当地方屈指の巨像です。

栄福寺
蒼社川の右岸にある府頭山の中腹にあり、平安初期弘仁年間に嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師・空海が開いた高野山真言宗の閑静な寺。

仙遊寺
作礼山の山頂にあり、天智天皇の勅願により創建され、本尊の千手観音は、龍女の作という。前庭からは、東方眼下に今治市街を、遠くには瀬戸内の島々を一望できる。

国分寺
天平13年(741)聖武天皇発願によって創建。七堂伽藍が完備した寺院で、空海や真如法親王も訪れています。純友の乱以後度々の兵火で焼かれましたが、多くの貴重な寺宝があり、県指定有形文化財2点、市指定の有形文化財15点などがまとめて保管されています。

伊予国分寺塔跡
奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。この巨大な花崗岩の13個の塔礎石は、1.5m〜2mの自然石で表面に頭大の楔形突起があり、径50cm程度の楔形座の柱受けが刻み出され、天平時代の荒打ちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。

西条市

法安寺跡
千本ボタンの寺として広く知られている。飛鳥時代の創建といわれ、県下最古の寺院遺跡でもある。昭和19年、愛媛県下における国指定史跡第1号となった。

舟山古墳
小松川の西方、国道11号線に沿った東西にのびる独立丘陵を舟山と呼ぶ。
嘉永7年(1854)三嶋神社を新宮原からこの丘へ遷座するための造成に際し、巨大な円墳が掘り当てられた。

香園寺
用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が創建したと伝えられている古刹。後に、弘法大師が安産・子育て・身代わり・女人成仏の四誓願を残し霊場に定めたとされています。

宝寿寺
当初は聖武天皇の勅願により伊予一宮の法楽所として中山川下流の白坪に建立された。そして金光明最勝王経を奉納し、僧道慈を任じて講読させた。その後弘法大師は寺に長く留まり、光明皇后にかたどって十一面観世音を彫刻して本尊とし、寺号を宝寿寺とされた。

吉祥寺
参拝がすんだ遍路は、本堂前の成就石に向かって歩き出す。目を閉じ、願い事を念じながら、金剛杖を下段にかまえる。石の穴に杖が通れば願いが成就するといわれています。

横峰寺
石鎚山東北部の深山星ケ森にある静かな霊場。白雉2年(651)役小角の開基と伝えられ本尊は桧造りの大日如来坐像で県有形文化財に指定されています。

石鎚神社
霊峰石鎚山を神体山とする御所で、山頂に頂上社、中腹に成就社と土小屋遥拝殿、そして国道11号線沿いにあるこの本社の四社を合わせて石鎚神社といいます。すぐ東側にある霊場前神寺(第64番札所)はかつて石鎚神社と一体でした。

前神寺
7月の「お山開き」には前神寺より黒瀬峠を越え成就から石鎚山頂へ、数万の信者が仏名を称えながら登る。近年再建の本堂にはご本尊の阿弥陀如来が安置されています。

新居浜市

広瀬公園
昭和43年(1968)広瀬公園は愛媛県の指定名勝となり、平成9年(1997)にオープンした広瀬歴史記念館とともに、現在は市民の憩いの場となっています。

旧広瀬邸
旧広瀬邸の母屋は、明治10年(1877)に現在の場所から北約4キロメートル離れた旧金子村の久保田で竣工され、同18年からの広瀬邸移転に伴い、乾蔵・米蔵などと共に現在地に移築されました。

広瀬歴史記念館
幕末・明治の動乱期に、政府による接収や住友の経営難による売却から別子銅山を守り、その開発の近代化を推進した広瀬宰平。彼はまた、わが国の産業育成にも力を注ぎ国家の発展に貢献しました。
この記念館は、広瀬宰平の足跡を通して新居浜の生い立ちと日本の近代産業の歩みをたどる施設です。

河内寺
高木町鎮座の白頭山河内寺は、市内大生院の正法寺とともに、県内屈指の古殺であり、仏教文化の華かな飛鳥時代から平安時代にかげて繁栄を遂げた寺院であった。
境内には七堂伽藍を具備し、堂々たる五重の塔は天空にそそり連ち、その偉容を誇ったもので、今尚境内には、その礎石13個が歴然として遣されている。

別子銅山記念館
かつて日本三大銅山[別子銅山(愛媛)・足尾銅山(栃木)・日立銅山(茨城)]のひとつに教えられ、新居浜市発展の礎となり、日本経済発展に貢献した別子銅山の意義を永く後世に伝えるため、住友グループの協力によって昭和50年(1975)に建設されました。

別子1号
記念館の前には、ドイツのクラウス社から購入し、日本最初の山岳鉱山専用鉄道である「別子1号」の蒸気機関車が保存展示されています。

大山積神社
元禄四年(西暦1691年)六月住友家により別子銅山開業の際、鎮護の神として大三島大山祇神社の御分霊を別子山村足谷の山方、縁起の端に奉祠し、明治二十六年別子山村足谷の目出度町に移転奉遷した。

端出場ゾーン
別子銅山は、日本三大銅山のひとつで、元禄4年(1691)に開抗され、昭和48年に閉山となるまで、283年という長きにわたり掘り続けられ、世界一の産銅量を誇った大銅山でした。
ここマイントピア別子端出場ゾーンは、昭和5年より閉山までの採鉱本部跡に建設されています。

マイントピア別子
日本が世界に誇った三大銅山の一つ、別子銅山。新居浜市は別子銅山とともに、工業都市として発展を遂げてきました。この近代産業遺産と新日本百景にも選ばれた別子ラインや高山植物が美しい赤石山系の山ふところに抱かれた、豊かな自然を生かして開発されたのがマイントピア別子です。

四国中央市

川之江城
南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。

姫ヶ嶽
天正十年(1582)長曾我部氏の再度の攻撃で川之江城が落城した際、河上安勝の息女年姫は父の後を追って断崖より燧灘に身を投げたという。
川之江城落城の悲話として、この断崖を姫ヶ嶽と呼ぶようになったそうです。

三島神社
養老4年(720年)に宇摩大領の越智玉澄が大三島の大山祗神社より大山祇神を勧請し、この地(冠岡)に社殿を造営して奉斎したのが創始と云われている。
 境内にある諸山祗神社の本殿は、旧三島神社の本殿であったもので、延徳2年(1490年)に建造された伊予三島市最古の木造建築物である。

磐座
この地方には大昔から人が住んでいた事は破魔殿跡から弥生式土器が出た事によってもわかります。この磐座は古代の祭祀の遺跡です。石の配置等は大昔そのままです。現在は境内の屋敷の神様だと申されております。

下柏の大柏
国の天然記念物に指定されている霊樹。高さ約14m、根周り14m、枝張り22mの巨木東側の幹下部の空洞には、天明3(1783)年寄贈の地蔵が安置されている。

朝日山古墳
墳丘直径17m、高さ4.5mの円墳で、横穴式石室が東南に向けて開口している。石室全長7.Om、玄室は長さ4.5m、幅1.8m、高さ2.2m、羨道部は長さ2.5m、幅1.6m、高さ1.4mである。

三角寺
法皇山脈の中腹に位置する四国88ケ所霊場第65番札所で、天平年間(約1200年前)僧行基によって開基された由緒ある寺で、本尊の十一面観音像は県指定の文化財。

椿堂
その昔、大同二年(807)邦治居士なる人物この地に庵を結び、地蔵尊を祠る。弘仁六年(815)10月15日未明一人の旅僧(巡錫中の弘法大師)この庵を訪れ、当時この地方に悪い熱病(オコリ、現在の流感)流行し住民の苦しめるを知り、住民をこの庵に集めて手にせる杖を土にさして祈祷し、病を杖と共に土に封じて去る。
後にこの杖より逆さなるも椿が芽を出し成長す。住民は大師の御霊徳にうたれ、この庵を椿堂と呼びこの地方の地名ともなる。





1