津和野


吉賀町

奇鹿神社
昔、角が八股に分かれた「八畔の鹿」という悪鹿がこの地方を荒らし回ったため、都から江熊太郎という武士を招いてこれを退治しました、この悪鹿のたりを恐れて祀ったのが木部谷の奇鹿神社といわれています。なお、この地方では「吉賀」と称されますが、これは悪鹿の逆に「よしか」として吉賀の文字をはめたといわれています。

石積古墳
大きなふた石や石室を構成していた石がたくさんあり、土器片などが出土しています。

大谷原古墳
この大谷原古墳は古墳時代のもので、直刀、勾玉等発見し学術上貴重です。

水源公園
島根県の名樹百選に指定されている一本杉と、高津川の水源で名水百選に指定されている大蛇ヶ池を中心とした公園です。すぐ傍に水源会館があります。

水源会館
一級河川高津川の源に建つ、木造建築の粋を集めてつくられた水源会館。パネル・ジオラマ・実物展示により、太古から続く水・人・自然が織り成す物語を呼びさまします。

津和野町

殿町通り
白壁と格子窓の残る藩校跡や武家屋敷門が立ち並び、掘割には町のシンボルである鯉が戯れ遊ぶ。これらの鯉は、もともと江戸時代に飢餓のための非常食用として飼われていたもの。鯉の餌100円。

多胡家老門
養老館があるあたりは、かつて家老屋敷が集まっていたところで、津和野のシンボル的なスポット。なかでも多胡家は、津和野藩筆頭家老を亀井氏11代にわたって務めた家柄。風格ある武家屋敷門の左右には門番詰所や物見部屋が残っている。隣接して立つ大岡家も家老の家柄。中は一部、津和野町役場として使われている。

鷺舞
鷺舞は津和野の弥栄神社に伝わる古典芸能神事です。毎年祇園祭りの7月20日(ご神幸の日)27日(ご還幸の日)に町内11ヶ所の昔から定められた場所で舞います。
鷺舞は天文11年(1542)に時の津和野城主吉見正頼(11代)が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、本元は京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。

津和野大橋
清流津和野川にかかる橋で、大勢の観光客が橋上の歩道から鯉に餌をあげています。整備された土手から川まで降りると、ひとかかえもあるような大きな鯉やウグイが群れ集まって、目を楽しませてくれます。

太皷谷稲成神社
1773年(安永2年)、津和野藩主7代亀井矩貞[のりさだ]公が京都の伏見稲荷大神を勧請したもので、日本五大稲荷のひとつ。稲成とあるのは、大願成就の意味が込められているためといい、商売繁盛・開運・厄除け・福徳円満のご利益を求めて多くの参詣者が訪れる。山腹には成就御礼と御祈願のために奉納された約1000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなり、朱塗りの社殿とともに美しい景観を造り出している。11月15・16日の例大祭のころは紅葉も見ごろ。

森鴎外記念館
森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示されており、家族思いの鴎外という一面も垣間見ることができる。所要45分。

森鴎外旧宅
明治の文豪・森鴎外が1862年(文久2)に生まれ、10歳まで過ごした家。父は藩の御典医で、玄関から入って左の3畳間が父の調剤室。その奥の4畳半が鴎外の勉強部屋だったという。1909年(明治42)に発表された『ヰタ・セクスアリス』の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と書いているのはこの家のことだ。前庭に鴎外の詩『釦鈕[ぼたん]』を佐藤春夫の筆で刻んだ碑が立つ。

西周旧居
西周は1829年(文政12)、津和野藩の医師の家に生まれ、わが国に西洋哲学を初めて紹介した哲学者。ペリー来航に触発されてオランダに留学し、法学と西洋哲学を学び帰国した。帰国後は15代将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど、多方面で活躍した。森鴎外の森家とは親戚にあたり、家も近い。旧居は津和野川をはさんで鴎外旧宅と相対して立つ。1854年(安政元)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに史跡に指定。

鷲原八幡宮
城山の南西麓にある津和野城の鎮守社。建物が一直線上に並ぶ山口独特の神社形式で、社殿は1568年(永禄11)の再建。楼門、本殿とも室町から桃山期の特徴が見られる。境内には鎌倉の鶴岡八幡宮を模した、わが国で唯一原形を留める流鏑馬馬場があり、4月に流鏑馬が行われる。

道の駅 津和野温泉
なごみの里
萩・津和野停車場線、通称「つわぶき街道」の起点に位置し、風光明媚な山間のワインディングロードを抜けて、萩まで約1時間で行けます。
また国道9号線からもほど近く、山口県との県境まで約10分です。

あさぎりの湯
道の駅なごみの里に併設の温泉であさぎりの湯と命名
単純放射能冷鉱泉ラドン含有量が多く療養泉に認定

道の駅
シルクウェイにちはら
日原町は「絹とわさび・鮎の町というキャッチフレーズ」で絹製品をメインにわさび 鮎製品をいろいろ販売しています

益田市

雪舟の郷記念館
雪舟が晩年過ごした大喜庵のすぐ側にある。
雪舟筆の作品や雪舟の資料、益田家など、地域における重要な資料が展示されている。

大喜庵
雪舟が晩年を送った東光寺跡に建てられた寺。87歳の一生をこの地でとじ、近くには雪舟のお墓の他「雪舟硯水霊厳選」(硯の水や、茶の湯としたとされる)がある。

雪舟の墓
大喜庵境内にあり旧墓は破損したので江戸時代中頃の宝暦年間に再建されたもの。大喜庵を創建した大喜松祝はじめ歴代大喜庵住職の墓とともに建っている。

多根兼政公御廟所
公は益田兼李(益田城第五代当主)の五男で、北、東仙道、種の地頭職を務め後年、乙吉に上の山城を築いて、益田外城の大役を果たし、この地を拓いた功労者である。

小丸山古墳
小丸山古墳は益田平野を一望できる山頂に位置します。 墳丘の全長は約52m、後円部の高さは7.3mと石見地方でもトップクラスの規模を誇る6世紀初め頃の前方後円墳です。古墳の周囲に周溝と外堤を備えているのが特徴で、このような形態のものは石見で唯一です。

三宅御土居跡
益田氏の政治の拠点であり住居でもあった「三宅御土居」。館跡の両端には高さ5メートルにもおよぶ土塁が残っている。建物跡は保存のため埋め戻されて整備されているが、建物跡を示すマークが当時の様子を想像させる。

歴史民俗資料館
益田市の歴史、民俗関係の資料を展示。
建物は大正時代の郡役所で登録文化財

徳川夢声生誕地
日本の元祖マルチタレントと言われる活動弁士・徳川夢声の生誕地

萬福寺
応安(1374)、益田七尾城11代城主・益田兼見(かねはる)が建立し、昭和9年に解体修復されました。七間四方の九重造の単層建築で屋根は四注造の黒瓦葺。鎌倉の建築様式をよく残しています。15代益田兼尭が招いた画聖雪舟が造った庭が堂後にあります。

益田兼見の墓
萬福寺境内の椎山墓地にある五輪塔群のひとつで、11代益田兼見の墓と伝えられます。
兼見は、14世紀中頃、三宅御土居に館を移し「田数目録帳」を作成しました。この時期に医光寺(崇観寺)・萬福寺・天石勝神社等が建立され、館を中心とした中世的な都市景観が作られました。

医光寺
総門(県文化財指定)は益田七尾城の大手門でしたが関が原の合戦後に移築されたもの。画聖雪舟が五代住職として萬福寺から移り、造庭した山水庭があります。

雪舟灰塚
東光寺で亡くなった雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)に運ばれ、そこで火葬にふされ雪舟灰塚を建てたと伝えられる。

柿本神社
万葉の歌人で、益田沖の鴨島で没したと伝わる柿本人麻呂[かきのもとのひとまろ]を祭る古社。ツツジや桜に囲まれた石段を登りつめると拝殿があり、その奥に弊殿と変形春日造の本殿が立つ。拝殿脇に人麻呂像がある。

島根県立万葉公園
高津柿本神社と蟠龍湖に接した、小高い丘を整備した公園。園内にはアセビ・カタクリ・カキツバタなど万葉集に登場する植物153種類が植え込まれた万葉植物園や、曲水をイメージした流れがあるまほろばの園、アスレチック広場、広大な芝生広場、200mの藤園、オートキャンプ場などがある。

戸田柿本神社
柿本人麿の生誕の地。うっそうとした森に佇む神社は、神秘的な世界を思わせます。宝庫には人麿の童子像と養父母像、従事像4体の計7体の木像が安置されています。

柿本人麿遺髪塚
鴨島で亡くなった人麿の遺髪を埋葬しているといわれる墓。





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