宇治市 |
平等院 | |
1052年に宇治関白藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改めたものです。 「鳳凰堂」は、その翌年に阿弥陀堂として建てられました。 大屋根には鳳凰が飾られ、内部は絢爛な扉絵で、装飾されています。 二重の天蓋や雲中供養菩薩も必見です。 |
宇治橋 | |
646(大化2)年に奈良元興寺の僧道登によって初めて架けられたと伝えられ、わが国最古級の橋です。その由来が橋寺の「宇治橋断碑」に記されています。和歌や源氏物語に描かれ、平家物語の橋合戦の舞台でもあった宇治橋は、その長い歴史のなかで洪水による流失や戦乱に遭い、度々架け直されてきました。 |
夢の浮橋 | |
昔は奈良街道沿いに浮舟社という社があり水上交通の守り神だったようです。その後数度の移転をへて、現在地に置かれました。 |
上林記念館 | |
江戸時代、朝廷や幕府の御用茶師をつとめた、上林春松家の長屋門を資料館にしたもので、現在の長屋門は1698(元禄11)年の宇治の大火後に再建されました。1978(昭和53)年より、当時のままの修復がなされ、「上林記念館」の展示場とされました。館内には、製茶道具、豊臣秀吉や千利休からの書状、フィリピンから渡来した「呂宋壺」など、宇治茶の歴史を物語る貴重な資料が数多く展示されています。 |
宇治代官所跡 | |
代官所のあった宇治妙楽160番地は明治5年8月には宇治町役場となり、また明治6年(1873)2月に開校した菟道小学校の門は、代官所の門が使用された。その後、この役場は、明治26年(1893)3月に宇治市役所となり、宇治市制が発足した記念すべき場所で、昭和38年(1963)に現在の宇治市役所(宇治琵琶33番地)に移転するまで続いた。 |
小池邸 | |
宇治橋商店街に残る保存状態の良い明治中期の木造中二階建ての町家。3部屋と台所他、約40坪の奥に細長い京の町家風スタイル。 |
橘寺放生院 | |
宇治橋東詰を上流に少し行くと左手に門と石段が見えます。聖徳太子の命で604年、秦河勝が創建したと伝えられ、宇治橋が架けられた646年(大化2)以降は橋守りの寺、橋寺と呼ばれるようになりました。鎌倉時代に洪水で流失した宇治橋が、西大寺の僧叡尊によって再興された時、宇治川中州の浮島(塔の島)に十三重石塔を建立し、盛大な放生会を営んだことから放生院と名付けられました。境内には、宇治橋を架けた由来を刻んだ、日本最古の石碑といわれる「宇治橋断碑」があります。 |
末多武利神社 | |
宇治民部卿、藤原忠文ゆかりの社。忠文は征東大将軍として平将門の乱の平定に向かいましたが、到着前に将門は討たれ、事件は解決していました。そのため、恩賞の対象から 外された忠文は、そのことを深く恨んで祟ったといわれ、この神社はその怨霊を鎮魂する祠といわれています。 |
宇治神社 | |
宇治橋東詰の上流、朱色の朝霧橋たもとの鳥居をくぐると、菟道稚郎子の宮跡といわれる宇治神社があります。古くは離宮明神・離宮八幡とも呼ばれ、明治維新までは、離宮下社と呼ばれていました。本殿は三間社流造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建築です。内殿には菟道稚郎子の木造等身大坐像がお祀りしてあります。いずれも国の重要文化財に指定されています。他に木造狛犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わっています。 |
宇治上神社 | |
元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれる。 本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築であります。 |
萬福寺 | |
萬福寺は、日本三禅宗の一つ黄檗宗の大本山で、江戸時代の初めの1661(寛文元)年、中国の僧、隠元禅師によって開創された寺院です。建物は中国の明朝様式をとり入れた伽藍配置で、創建当時の姿を今日に伝えています。塔頭の宝蔵院には、鉄眼道光が長い歳月をかけて完成させ、現在もお経を印刷する際に使用される一切経の版木約6万枚が納められています。現存している仏像としては、大雄宝殿に安置されている十八羅漢像を始め、布袋和尚像、観音像など、中国の仏師范道生の作品が有名です。 |
龍目井 | |
黄檗山全体を龍の体にたとえ、この井戸は龍の目を、周辺の小川は口を、松はひげをあらわしています。 |
木津川市 |
海住山寺 | |
創建は天平7年(735年)聖武天皇が大仏造立平安祈願の為、良弁僧正に命じて建立させ十一面観音菩薩を安置したのが始まりと言われましたが、この寺は保延三年(1137年)に焼失しました。その後、承元二年(1208年)笠置寺にいた解脱上人貞慶がこの観音寺の廃址に移り住み、草庵をいとなんで補陀洛山海住山寺と名づけ中興されました |
恭仁宮跡(山城国分寺跡) | |
昭和32年(1957)7月に国の史跡に指定され、平成19年(2007)2月には史跡名称が「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」となり宮跡全体が守られています。 現在は、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が残り、恭仁宮跡周辺では晩夏から秋にかけて、蕎麦の花、彼岸花、コスモスが見頃となります。 |
精華町 |
稲植神社 | |
長禄年間(1457〜60)の勧請といわれています。土地の旧家大崎家の長顕という人物が、春日神社を勧請したといわれています。中古衰微していたのを、明治2年再建しました。「元祗園」と呼ばれ、明治以前は神宮寺として東福寺があったといいます。 |
来迎寺 | |
天平勝宝元年(749)、行基の開基といわれていますが、創建の古さを伝えるものは残っていません。近松門左衛門の「心中宵庚申」で知られるお千代・半兵衛の墓があります。 |
お千代・半兵衛の墓 | |
姑との折合いが悪く心中したお千代と半兵衛夫婦の話を近松門左衛門が「心中宵庚申」として劇にした。 |
笠置町 |
笠置寺 | |
笠置寺がある笠置山は、古くから山そのものを御神体として考えられ、信仰の対象とされてきました。境内には、高さ15Mの岩に掘られた本尊弥勒磨崖仏や、天衣をひるがえしてすわる虚空蔵磨崖仏がそびえたち、その迫力に何度訪れても圧倒されます。 |
笠置山 | |
木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場、信仰の山として、また、歴史上のさまざまなドラマの舞台として知られています。花崗岩から成る山中には奇岩や怪石が数多く、神秘的なムードを高めます。 |
後醍醐天皇行在所あと | |
1331(元弘元)年8月26日から9月29日までの間、後醍醐天皇が生活し、鎌倉幕府軍と戦った場所。 鎌倉時代末期、武士から天皇のもとへ政治を取り戻そうと、倒幕を計画していた後醍醐天皇であったが、謀反(幕府から見て)がばれて、南へ逃れ、笠置山の山頂に、仮の皇居をかまえた。 |
南山城村 |
恋志谷神社 | |
幕府と対立し笠置山に難を逃れるために身をよせていた後醍醐天皇。後醍醐天皇を慕うある高位の女官が天皇の身を案じ遠く伊勢から療養の身にもかかわらず駆けつけてきました。が、時すでに遅し・・・。天皇は追手から逃れるために、笠置山を発った後。女官はとうとう自害してしまいます。そして、「天皇のことを案じ、恋い焦がれ、病に苦しむような辛いことは自分一人で十分。人々の守り神になりたい」と遺言されたということです。これを哀れんだ人々が祠を建て祀ったのが「恋志谷神社」のはじまりだと言い伝えられています。 |
大河原発電所 | |
村の洋風建築物として注目を集めている大河原発電所は、大正ロマンがレンガ造りの建物です。大正8年(1919)12月、水力発電所として運転を開始してから、現在に至るまで活躍しています。昭和57年(1982)には、日本建築学会による「全国の建物2000棟」にも選ばれました |