雲仙・島原


雲仙市

雲仙地獄
全長約300m。雲仙公園ビジターセンター側から地獄探勝ルートが整備され、水蒸気が吹き上げる約30余りの噴気孔を間近にみながら、約30分かけて巡ることができる。硫黄分が多く含まれた熱泉だけに、匂いも独特だ。地獄は邪見地獄や大叫換地獄、清七地獄など、場所によって様々な姿を見せてくれる。

温泉神社
島原半島に点在する温泉神社の総本山で、大宝元年からの歴史があります。

足湯広場
雲仙お山の情報館の近くにある、服を着たまま足だけつかるというユニークな温泉。少しぬるめの湯で、ベンチなどもあり、休息に利用する人も多い。雲仙散策の疲れを癒すのにも利用したい。

雲仙小地獄温泉館
温泉街から少し離れた、木造の温泉館。漂う木の香りが風情を感じさせてくれ、幕末の吉田松陰も入ったと伝えられている。淡い乳白色の弱酸性単純硫黄泉は、美肌効果はもちろんのこと、いろいろな婦人病に効能があるそうで、女性には耳よりだ。少し熱めのお湯に、木の香り。日頃の疲れも溶けていくようだ。

金浜眼鏡橋
弘化3年(1846)に架橋されたアーチ型の石橋で、平成5年に修復されました。
穏やかな橘湾へ注ぐ、金浜川のほとりにかけられています。

小浜温泉歴史資料館
小浜温泉の発展に大きな功績を残した本多湯太夫を中心に小浜温泉の歴史を紹介しています。
築160年という本多湯太夫邸宅跡を利用した「湯太夫展示館」は見応えがあります。
敷地内では、足湯も楽しむことができます。(

小浜神社
平成3年の19号台風により、大きな被害を受けた、小浜神社と剱柄神社を、合祀し、旧剱柄神社跡地に、平成7年、再建を果たした。
両神社とも、創建年代は不詳ですが、延宝7(1679)年に、島原藩主松平忠房公が、寄進したとあるので、創建自体は、更に時代を遡るものと、思われる。

上の川湧水
小浜温泉街の表通りから少し入ったところにある湧水です。
地元では、「庄屋元前の湧水」として親しまれ、いまも生活用水などに利用されています

傳明寺
境内には小浜の湯を世に知らしめた中国の漢方医穎川入徳の徳を偲んで建立された「入徳翁碑」があります。毎年4月の湯祭の早朝には入徳に感謝する意味で小浜の温泉をお供えして供養が行われています。

木津の浜駅跡
小浜鉄道は、現在の島原鉄道愛野駅より小浜温泉周辺まで連絡していた鉄道でした。開業当初は蒸気機関車でしたが、昭和4年よりガソリンカーが走っていました。廃止する直前は島原鉄道が委託営業をしていた様です。

六角井戸
むかし、水不足に困っていた富津住民の為に弘法大師が持っていた杖の柄で地面を叩いて出来た井戸と云われています。

関三兄弟生家跡
関衛氏
近代芸術教育のあり方を科学的、哲学的に示した先駆者的研究者。
関寛之氏
児童心理の研究に多大な実績があり、各種大学で教鞭をとるかたわら世界教育会議、児童憲章制定当の委員をつとめた。
関敬吾氏
柳田国男氏に師事し、今日の昔話研究の基礎を確立。

島原市

島原城
松倉豊後守重政によって7年の歳月を費やして築かれた城。本丸には安土桃山様式建築の粋を集めた白壁の美しい五層の天守閣がそびえる。現在の天守閣は1964年に再建され、資料館として利用されている。天守閣の5階は360度見渡せる展望所になっていて、島原市街地はもちろん、普賢岳なども一望できる。

鯉の泳ぐまち
水の町・島原を代表する風景。静かな街並みの約100mにわたる民家わきの水路を生かし約1500匹の鯉を放流。色とりどりの錦鯉が泳ぐ姿は、見る人の心を和やかにしてくれる。水辺散策や市民の憩いの場としても人気のスポット。いたるところにこんとんと湧き出す名水は、町の何カ所かで飲むこともできる。

水頭井戸
島原大変(1792年)前、このあたりは波止場水頭といわれ船番所があった所で、今でも水頭という地名で呼ばれています。昭和16年、近隣の人々が協力して井戸を掘ったところ眉山とその縁に育まれた清冽な地下水が自噴しました。

江東寺
1558年に有馬氏の菩提寺として創建され、島原城の完成に伴って松倉家の菩提寺として島原に移された寺。寺の中には全長8・6m、高さ2・12mの巨大ねはん像が建立されている。お釈迦様が蓮台を枕に、入滅されるまで説教を続ける姿を現したもの。足の指一本一本の指紋まで精巧に仕上げられている。

南島原市

土石流被災家屋保存公園
普賢岳の噴火によって被害を受けた家屋を保存展示。大型テント内に3棟、屋外に8棟の合計11棟の家屋を見ることができます。公園内のすべての家屋は1992年8月8日、14日の土石流の被害を受けたもので、土石流災害の凄まじさを身近に感じ、防災事業の重要性を学ぶことができます。道の駅「みずなし本陣ふかえ」に隣接

天満神社
寛永14年の島原の乱で消失して、翌年15年に氏子や藩主松平忠房公の支援で再建した。現在の拝殿は昭和年に改築したもの。

原城跡
原城はもと志自岐原城といわれ,日野江城(北有馬町)を本居とする有馬氏の支城であった。明応5年(1496)有馬貴純が築城したともいわれるが,確証はない。一国一城令に伴う廃城ののち,寛永14年(1637)11月から翌年2月に及んだ島原の乱の舞台として著名である。城は有明海に面して東南に突出した周囲3qに及ぶ岬を利用して築かれた県下最大の平山城である。

ほねかみ地蔵
島原の乱後150年後目の明和3年(1766年)、有馬願心寺注譽住職と各村の庄屋らが各所から出る遺骨を集め埋め、供養した。
 「ほねかみ地蔵に花あげろ  3万人も死んだげな 小さな子供もいたろうに ほねかみ地蔵に花あげろ」と八波則吉(国文学者)はうたっている。 「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、そのことから「自分自身のものにする」、さらに「人々を経度する」(助ける・救う)と理解すべきだと言われている。

鈴木重成建立供養塔
南有馬町大江名八幡神社境内にあるこの供養碑は、島原の乱後10年目の1648年(慶安元年)に建てられた。建立者の鈴木三郎九郎重成は、松平伊豆守の命で参戦、乱後民生安定のため代官を命じられた。

貴船神社
狛犬と水を呼ぶ昇り龍と下り龍を刻んだ一対の石灯籠 菖蒲田の石工多比良村吉の作

北村西望記念館

西望公園は、昭和51年に地元の皆さん並びに、全国から寄せられたご協力と、故北村西望先生のご厚意により、ゆかり深い生誕の地に作品を展示した公園です。
園内には屋外に12点、西望の生家を復元した西望記念館には、彫刻・書絵画など約70点の作品が展示され、彼の制作の足跡をたどることができます。


有馬のセミナリヨ跡
有馬のセミナリヨは1580年にイエズス会の中等教育機関として日本で初めて有馬の城下町に設置され、その後、規模を大きくしながら3回位置を変えました。ここは、欧文資料が豊富な3回目の跡地で、生徒が100人を超えるなどセミナリヨの教育が最も充実した時期の跡地です。

日野江城跡
肥前西部(長崎県)最大の戦国大名であった有馬氏の居城跡である。有馬(古くは有間)氏は,肥前高来郡有間庄を本貫とするものである。日野江城は,経澄が建保年間(1213〜1219)に築城したと伝えられるが,実際は南北朝頃の構築であろう。有馬氏の後,江戸初期の元和2年(1616)以降一時松倉氏の居城とされた。

原山支石墓群
島原半島の南西部,雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある。縄文晩期終末の墓地で,もと3群あったが2群60基余が現存する。石棺,甕棺(かめかん),穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)などの下部構造のまわりに支石を置き,巨石で覆う構造をもつ。巨石と支石からなる上部構造からして碁盤形支石墓とよばれ,朝鮮半島のものに酷似するところから南鮮式支石墓とも呼ばれる。

原山第三支石墓群
雲仙岳の南の標高250mの台地に点在する縄文時代終末期の共同墓地で南朝鮮から伝わったものです。縄文時代から弥生時代への転換期に朝鮮半島との密接な交流が行われていたことをしめすもので日本古代文化史上きわめて重要な遺跡である。6基と40基の2群あり完存していたものは我国でここだけであり、我国最古で最大級の支石墓群である。





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