嬉野市 |
シーボルトの足湯 | |
メインストリート沿いにある湯遊広場には、いつでも無料で入れる足湯があるので気軽に利用してください。血液の循環を良くし、肩こりなどにも効果的ですよ。また、ここで出会った見知らぬ人同士が楽しくお話ししているうちにカップルになったというエピソードも!もしかしたら、縁結びの神様かもしれませんよ。 |
豊玉姫神社 | |
温泉街の中心部にある「豊玉姫神社」は、古来より海の神、水の神として広く祟敬を集めています。ここに祀られている豊玉姫は、あの有名な海の神の娘・竜宮城の乙姫様。肌がとても白くて美しかったことから、美肌の神様としても広く親しまれているんですよ。境内には豊玉姫のお使いである「なまず様」を祀ったなまず社もあります。お参りすると、お肌がきれいになるといわれていますよ。 |
轟の滝公園 | |
高さ約11メートル、三段からなる滝で、周辺は散策路や公園が整備されています。春には桜、夏には天然の涼を求めて、たくさんの人が訪れています。ピクニックにもぴったり!水辺には、カモも遊びにやってきます。 |
器楽里 | |
農産物販売所「吉田まんぞく館」の向かい側にある休憩所「器楽里」。茶楽里の茶つぼに対して、こちらは巨大な土瓶型。ここでも記念写真をパチリ!土台の部分には、子どもたちが絵付けした可愛いお皿が貼られています。 |
茶楽里 | |
国道34号線沿いにある大きな茶つぼの形をした休憩所。中には嬉野のお茶や焼き物、温泉の歴史などを紹介したパネルが展示されています。旅の想い出に、ここで記念撮影はいががですか。吉田地区には、巨大土瓶型の休憩所「器楽里(きらり)」もあります。 |
大茶樹 | |
国の天然記念物にも指定されている大茶樹は、茶どころ嬉野のシンボルの1つ。推定樹齢350年、枝張り約80平方m、樹高約4.6mという巨樹で、慶安年間(1648〜1652)に、嬉野茶の祖・吉村新兵衛が植えた一本といわれています。 |
馬場之子屋敷跡 | |
キリシタン迫害の悲しい歴史をもつ不動山。 この地はその折りに幼い子供たちの命を奪った場所で、当時の悲惨な出来事をいまに伝えています。 |
切支丹史跡(垣内) | |
切支丹信徒を斬った血太刀を洗った川を太刀洗川と云うが、その上流を「垣内」と呼んでいる。ここには、もと垣を巡らした簡単な牢獄のような施設があり、そこに捕らえた信徒をつないでいたと云う。「垣の内」と呼んでいたのが「垣内」にかわったものと思われる。 |
太刀洗川 | |
キリシタン宗徒を切った太刀を洗ったことからこの名が残ったと云う。川口に沿った部落を館屋川内と呼ぶが太刀洗川内からとった地名らしい。川上の垣内は、もと垣をめぐらしそこに宗徒を収容しこの中で殺したと伝えられている。 |
和泉式部公園 | |
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています |
吉浦神社 | |
拝殿,楼門などが建つ。延宝8年(1680)蓮池藩祖鍋島直澄を祀る。文政元年(1818)に吉浦大明神と称す。 |
八天神社 | |
八天神社は、八天狗社、あるいは唐船権現とも称され、古くは修験の坊として創始されたものと伝えられている。近世には火の神として、肥前国内で篤く信仰されていた。 |
石造眼鏡橋 | |
八天神社の神橋として、当時在住の石工が、嘉永5年(1852)に着工し、嘉永7年に完成させたものである。一連のアーチ形の眼鏡橋であり、全長11.14m、幅3.69m、高さ4.65m。橋の両側に、高さ0.7mの欄干が付き、舗道にはゆるやかな曲線をえがいている。 |
塩田津伝統的建物群保存築 | |
塩田津は、有明海の干満の差を利した川港と長崎街道が育んだ商家町で、蓮池藩の西目統治の拠点として栄えた。町並みは、藩政期に遡る地割を背景に、重要文化財西岡家住宅と登録文化財杉光陶器店を核とし、江戸後期に建設された「居蔵家」と呼ばれる町家が重厚な景観を形成しており、これに塩田石工による石垣や仁王像、恵比寿像などが加わって良好な歴史的風致を構成している。 |
武雄市 |
武雄温泉楼門 | |
ぜひ、観てください。武雄温泉のシンボル。 竜宮城を思わせる朱塗りの楼門です。釘は1本も使われておりません。 宮本武蔵も泊まった所です。 東京駅を設計した辰野金吾氏設計。大正3年に作られました。 |
武雄温泉新館 | |
楼門と併設して、東面して建つ新館。木造2階建ての和風建築ながら、内装などに洋風の趣きがあり、八角形の湯浴室や大理石の浴槽も見ごたえがあります。老朽化のため倒壊寸前でしたが、2003年に辰野の図面を基に忠実に復元。現在は陶芸体験コーナーや土産物屋などがあり、1階浴室が足湯として開放されることも。 |
陽刻線描宝塔 | |
この宝塔は、相輪を除いて、13世紀中頃〜後半に造られた角宝塔で、四面には各々金胎の四仏を陽刻線描きを主体に一部陰刻して描いています。 市内の仏教美術、信仰史を考える上で貴重な資料として、武雄市重要文化財に指定しました。 |
武雄神社 | |
735年の創作で、源頼朝が戦勝祈願のために使者をつかわした古文書が残る由緒ある神社。 秋の例祭では流鏑馬を10月後半に奉納する。 |
玉島古墳 | |
武雄盆地南方の虚空藏山から北東に延びる丘陵裾部に位置する。南北約48メートル、東西約42メートルの県下最大級の円墳で高さも約9メートルと高い。墳丘には葺石が施され、埴輪も立てられていたようである。石室は南西方向に開く横穴式石室で、県下でも数少ない初現的な構造を持つ。遺物は玄室から日本製変形文銅鏡、砥石、碧玉製管玉、ガラス製小玉鉄製釧のほか、武器・武具・工具などが出土した。遺物や石室構造等から6世紀初頭の築造と推定される。 |
永禄六地蔵 | |
街道筋で出会う6基の六地蔵は、そのほとんどが永禄年間の建立で、戦国時代の度重なる戦禍が偲ばれます。 |
多久市 |
多久聖廟 | |
江戸時代の学校内に、儒学の先哲たちを祀る施設として建築された。中国風の外観で、桁行、梁間とも3間、入母屋造瓦葺き、内部はタタキの土間で、ここに建物とともに重要文化財に指定された「元禄13年5月鋳成」銘の孔子像を納めた聖龕がある。 明治の修理後、長く銅板葺きであったが、平成2年に完成した修理で、旧来の瓦葺きとなり、創建当時の姿に還った。 |
東原庠舎 | |
1699年創立、身分の区別なく庶民にも門戸を開いた学校で、日本初の工学博士、志田林三郎や刑法を起草した鶴田斗南など多くの人材を輩出した。 |
東原庠舎跡 | |
東原庠舎は、元禄12年(1699)に多久茂文が建てた学校で儒教崇敬を中心に文武両道修行が行なわれました。 他藩のほとんどの学校が藩士の子弟教育が目的でしたが、ここは「百姓町人といえども志次第、師範へ申し達し、学舎道場へ相勤むべきこと」と、百姓、町人にも門戸を開放しました。 多久聖廟が創建されるまで孔子像および四哲(孟子、曽子、顔子、子思子)の像が、東原庠舎内に安置され祀られていました。 |
先家君自安先生墓誌 | |
東原庠舎初代教授河浪自安の墓地は多久聖廟の裏、松山墓所の一角にあった。昭和52年9月墓地改装が行われ、墓地の真下から安山岩製の墓誌が発見された。墓誌は被葬者の生前の業績から没年までの履歴を記したもので、奈良時代前半〜平安時代のものがほとんどで、近世の発見例は希である。被葬者河浪自安が儒者であり、邑校の初代教授であること、形式が日本古来の墓誌と違って中国の様式に似かよっていることなど近世墓誌の好個の一例といえる。 |
聖光寺 | |
聖光寺は約400年前に龍造寺長信が城の鬼門に当たるこの場所に祈願寺として建て、出陣のときは必ず、ここで祈願をされたという由緒ある寺です。 |
天ヶ瀬ダム | |
多久市は佐賀県随一のみかん生産地でありながらしばしば干ばつに見舞われていました。その対策としての水源確保のために計画、施工されました。 |
若宮八幡宮 | |
多久の祖、多久太郎宗直が、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の若宮八幡を勧請して、建てたと伝えられています。境内にある三本杉は、八幡神社の建立時に植えられたと伝えられており、県内でも最大級のものです。 |
多久神社 | |
1844年、多久11代領主多久茂族が先祖を祭祀するために建てた神社です。 ここの鳥居は両部鳥居と呼ばれるもので、柱の前後に控柱を建てて貫により結合し、一層安定感を増した形式です。控柱の数に因んで四脚鳥居とも言われています。 |
西渓公園 | |
多久出身の石炭王「高取伊好」が私財を投じて建設した、山水公園。 四季を通じ美しい風情を醸し出している。 |
寒鶯亭 | |
多久市出身の炭鉱主高取伊好が大正13年に建て、地元に寄贈した公会堂建築物である。棟札から、設計者は杵島炭鉱技師の大坪彌平、棟梁は船津虎五郎であることが判明している。16畳3室の四周に縁を回し、入母屋の大屋根を架け、北面の中央に車寄を設ける。木造和風公会堂建築の好例である。 |
郷土・歴史民俗・先覚者 資料館 |
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この3つ資料館を訪れると多久の成り立ちから近代までの多久の歴史を知る事ができる。 |
専称寺 | |
樹齢600年の大つつじがあり、墓地には各時代の墓石がたくさんある。 境内には中世の武将少弐政資、資元父子の墓所もある。 |
少弐墓地 | |
古くから「少弐さん」として信仰を集めている。中世北九州一円を支配した戦国武将少弐氏の13代少弐政資、14代少弐資元の墓所。政資は応仁の乱後、北九州の支配を回復し少弐氏中興の英雄となったが、明応六年(1497)大内勢の大軍に追われ、専称寺境内で自刃した。また資元も専称寺南の小高い山にあった梶峰城で天文五年(1536)に病死、親子並んで葬られている。 |
白石町 |
稲佐神社 | |
稲佐神社の創建は古く、年代は定かではありませんが861(定観3)年は従五位下、885(仁和元)年に従五位上に叙せられたことが「三代実録」に記録されています。鍋島家歴代藩主の崇敬もあつく、豊穣祈願の浮立を奉納。 |
稲佐山泰平寺 | |
稲佐神社一帯は「稲佐山泰平寺」と呼ばれた神仏習合の聖域で、東明寺の石造十六羅漢像など数多くの仏教文化の足跡がそこかしこに残っています。境内には樹齢600年を超える2株の大きな楠の木がそびえたっており、どちらも県の天然記念物指定。12月下旬にはお火たき祭りも行なわれます。 |
島津城址 | |
島津城は有明の田野上にあった城。精岳城ともいう。白石平野の独立丘に位置していた城。築城年代は不明だが、少なくとも南北朝期までさかのぼる。現在の白石・有明域は白石氏の勢力下にあったが、彼は南朝方に属していたため、北朝方との間にしばしば激戦が行われた。 |
江北町 |
白木聖廟 | |
元禄12年(1699)多久領主伊豆守茂文の時、中国で造られた孔子像を、明治21年の白木聖廟舎建立の折、ここに遷座した。 国内に残る数少ない中国製孔子像として、歴史的価値が高く、毎年4月21日に子供の無事成長と向学心の助長を祈願し、祭典が行われる。 |
白木パノラマ孔園 | |
白木パノラマ公園は町の自然的特徴がいかされた「野に学び、野に遊ぶふるさとパーク」を基本テーマに、草スキー、ターザンロープ、キャンプ、宿泊、バーベキューなどが楽しめる体験型自然公園です。 |
大江神大神宮 | |
天平3年(732)大井某(大江氏の誤りか?)の祭神として天照大神、大玉命、手力雄命を勧請して祭祀したのが神宮の起源 県神社誌要によれば長禄年間1457〜1459創立 祭神 天照大神、海津見神、菅原道真公 |
天子社 | |
神功皇后道徳山に野立し給う時に始まり土民がその御聖徳を欽仰するのあまりその行啓由縁の地を朴し仲哀天皇をも合祀して鎮護神とした―岡の明神。 天平年間(729)にときの小田駅長広足 この社に応神天皇をも勧進申し上げ新たに社殿を造営 岡の明神を改め大森大明神と尊称し宝祚の無窮、五穀の豊饒、交通の安全を祈願することとなった 之が天子宮の起源である。 |
大町町 |
杵島炭鉱変電所跡 | |
昭和2年より稼動された赤レンガ造りの変電所。炭鉱施設や炭住に電力を送っていた。 現存する唯一の炭鉱時代の建物で、現在は「大町煉瓦館」として修復・保存が進められ、当時の思い出の「ふるさと拠点」として、また各種イベントを行うコミュニティの場として活用されている。 |
大町町ふれあい広場 | |
情報プラザ西側に隣接しており、水、音、光をテ−マに平成4年に完成。美しい鐘の音色をかなでるシンボル塔と夜間に水中ライトで光のファンタジ−を演出する滝噴水は、町民に憩いの場を提供するとともに、町の玄関口を彩っている。 |
福母八幡神社 | |
景行天皇が嬢子山の土蜘蛛八十女という女賊を退治した時、大岩石の上に軍神である八千戈神を祭った。大宝3年(701年)に行基僧正が土蜘蛛の悪霊を鎮め石崎明神を祭り、貞観8年(866年)には大村の大安寺の一如僧正が来て、神功皇后を勧請し八幡宮と呼んだ。 |
神宮寺 | |
延暦15年(796)西海道(現九州)を厳しく警戒する為、桓武天皇勅願寺として小城郡牛ノ尾に建てられ、建久2年(1191)に福母八幡宮の座司としてここに移された。 |
大町八幡神社 | |
古代の官道が通る。一里松の跡がある。 大町八幡は神亀元年(724)、宇佐八幡から勧請している。これは大町荘が宇佐八幡の荘園であった由縁であろう。 神社の肥前鳥居二基は寛文二(1,662)年と天文七(1,538)年のものである。 五十猛命がどこから勧請されたかは不明である。 |
土井家住宅 | |
当初は造り酒屋であったといわれているが、明治の始めに土井家が所有し、農家として使用した。平瓦と丸瓦を交互に葺いていく『本瓦葺』という現代ではあまり使われない手法が見られる点でも興味深い建築である。街道沿い一杯の間口と、広い土間といった、町屋風と農家風の造りをあわせ持つ構造が貴重であるとして昭和49年に国の重要文化財に指定されている。 |