横浜市


西区

みなとみらい21
横浜みなとみらい21は、横浜市西区と中区にまたがる海に接している地域である。通称は、「みなとみらい21」、「みなとみらい」、「MM21」など。面積は1.86 km2 (186ha)、そのうち埋め立て部は0.76 km2 (76ha)である。

東横浜駅
JR桜木町駅の東側、旧三菱重工の横浜ドックとの間に位置していた貨物専用駅、新橋〜横浜間で明治時代に開通した時の「横浜駅」だったところである。現在は桜木町のみなとみらい側広場である

日本丸メモリアルパーク
かつて「太平洋の白鳥」と呼ばれ、活躍した帆船日本丸の内部を見学でき、当時の雰囲気を味わえる。

ランドマークタワー
高さ296m、延床面積392,885m2。ランドマークタワーは日本一高いタワー棟を中心とするオフィス、ホテル、ショッピングモールを核に、展望フロアや多目的ホール、さらには石づくりのドックを復元活用した広場など、多彩な施設を併設し、魅力ある一つの街を形成します。

ドックヤードガーデン
「みなとみらい21」の玄関口にそびえる横浜ランドマークタワー。その敷地内には、日本に現存する商船用石造りドックとしては、もっとも古い「旧横浜船渠第2号ドック」がありました。このドックを後世に伝えるべき資産として復元して生まれたのが「ドックヤードガーデン」です。未来に向かってこの価値ある文化資産は、新しい横浜のシンボルとして、また人々のコミュニケーションスペースとして広く利用されています。

横浜ランドマークタワー
全館点灯
オフィスフロア全ての灯りを点灯し、タワー全体をクリスマスイルミネーションのように演出。日本一の超高層ビルが、期間限定でまばゆく輝く!

横浜ジャックモール
約2万平方mの敷地をもつ大型ショッピングモール。1999年秋から10年間の期間限定でオープン。木が植えられたグランモールを挟んでEASTとWESTに分かれていて、玩具の「トイザらス」、家電の「デオデオ」、アメリカでは最大級のスポーツ用品専門店「スポーツオーソリティ」など16店舗が入っている。

横浜美術館
1989年(平成元)、横浜博覧会施設として開館。近現代美術、写真を中心に約9700点を収蔵しており、下村観山、ピカソ、セザンヌや横浜ゆかりの作家の作品など、随時入れ替えて展示している。市民のアトリエ、子どものアトリエではデッサン講座(有料、要予約)などを開催。美術情報センター、ミュージアムショップ、レストランも併設している。

クイーンズスクエア横浜
クイーンズスクエア横浜(Queen's Square YOKOHAMA)は、ショッピングモールや、オフィスビルである「クイーンズタワー」がある施設で、その総称。所在地は、神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目。
横浜高速鉄道みなとみらい21線のみなとみらい駅と直結されている。

パシフィコ横浜
「波と風と光」をテーマに、ヨットの帆や貝の形を象った外観をした複合コンベンション施設。最大5002席の国立大ホール、会議センター、展示ホール、ホテルがある。

臨港パーク
MM21の北東端にあり、芝生広場を中心とした臨海公園。横浜港に面して約9万3000平方メートルの緑地が広がり、横浜ベイブリッジや鶴見つばさ橋が正面に見えるロケーション

みなとみらいぷかりさん橋
潮の干満により上下する浮きさん橋。緑の屋根と時計台の洋館が「ぷかり」と浮かんでいる。1階が観光船待合所、2階はレストランとなっており、横浜港を往来する船を眺めながら食事ができる。

よこはまコスモワールド
絶叫マシーンの揃うワンダーアミューズ、屋内アトラクションが揃うブラーノストリート、子供が楽しめるメリーゴーラウンドなどがあるキッズカーニバルの3ゾーンに分かれた都市型遊園地。メルヘンチックな乗り物や迫力満点のアトラクションがいっぱい。

汽車道
1911年(明治44)に開通した旧国鉄の廃線跡を整備した遊歩道。日本丸メモリアルパークから新港地区までを3つの橋梁が結んでいる。約500m続くボードウォークからはMM21の高層ビル群が一望できるロケーション。鉄道開業当時に築造された石積みやアメリカ製鉄橋など歴史的建造物も残されている。

赤レンガパーク
赤レンガ倉庫はもちろん、旧横浜税関跡の遺構なども活用し、港町横浜ならではの景観が楽しめるスポットとなっている。海辺に出ると、大さん橋や横浜ベイブリッジも見える。

旧税関事務所遺構
これは大正3年(1914)5月に建設された税関の事務所遺構です。レンガ造りスレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事のさいに発見され、現在花壇として利用しています。

旧横浜港駅プラットホーム
1911年、税関構内の荷扱所として造られ、その後1920年横浜港駅になりました。

海上保安資料館 横浜館
海上保安資料館横浜館は国民の皆様に我が国周辺海域の現状と海上警備の重要性などをご理解して頂くため、平成16年12月10日に開館いたしました。
館内には、平成13年12月22日に発生した、九州南西海域不審船事案にかかる工作船及び回収物などを展示しています。

横浜トリエンナーレ
2001年に始まった現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ」の第3回展。総合ディレクターの掲げるテーマに基づき、世界25カ国・地域より72名の作家を選定し、多様な作品 (映像、インスタレーション、写真、絵画、彫刻等) を展示します。世界最先端の現代美術の紹介に努め、新作を中心に展観する一方、開催地・開催場所の魅力や個性を生かした作品 (サイトスペシフィック・ワーク) も数多く含めることによって、街を取り込んだ大規模な「現代アートの祭典」といたします。

開国博Y150
「開国博Y150」は、横浜開港150周年記念事業のコアとなる横浜にとって50年に一度の大型イベントです。
横浜は、1859年の開港以来、開港50年ごとに、盛大な祭典を行ってきました。
そして2009年、開港150周年記念として「開国博Y150」を開催します。

日産グローバル本社
ギャラリー
日産を代表するクルマやNISMOをモチーフにしたアイテム、カラフルな色合いのグッズなど、たくさんの魅力的な商品を取り揃えています。

シーバス
横浜駅東口、赤レンガ倉庫、みなとみらいぷかりさん橋、山下公園を結ぶ海上バス。

横浜ベイクォーター
豪華客船をモチーフにデザインされ、クルーズ気分でショッピングを楽しめる商業施設。海の恵み“タラソテラピー スパ”、スクール、ペットホテルやドッグカフェなど、ライフシーン全般にわたるショップ展開が特徴。

太陽の広場
岡本太郎の作品『太陽』が噴水の中心に立つ。みなとみらい21が見える展望コーナーや水と緑の広場などがある。

ジョイナス彫刻の森
昭和53年に完成した屋上庭園「ジョイナスの森」。
総面積4,600uの庭内に、約2万本の樹木と人工の滝や遊歩道が設置されました。
昭和58年には芸術性豊かな彫刻を配し、野外彫刻公園「ジョイナスの森彫刻公園」に衣替えをしました。
以来、都会の中の憩いの場として、皆様に親しまれています。

勧行寺
越後本成寺末で三ツ沢豊顕寺三世日養をもって開山とする。ご本尊は大曼茶羅、一塔両尊だが境内にも面白いものがある。まず天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕の墓。新撰組局長近藤勇は四代目にあたる。もう一つは水車舟制作の道周翁の墓。水車舟とは外輪船のことだろう。その功績をたたえた水戸藩主の和歌一首が彫られている。他に作家の北林透馬夫妻もこの墓地で眠る。

伊勢山皇大神宮
創建は明治3年(1870)。天照大神を祭神とし、「関東のお伊勢さん」と愛称されている。初詣、お花見、七五三、参拝する人が絶えない横浜の総鎮守。

成田山横浜別院
千葉県成田山新勝寺の別院で、正式名称を延命院という。本仏は成田山より勧請、徳川家秘蔵といわれる不動明王。境内からは野毛の町が一望できる。町に溶け込むようにひっそりたたずみ、散策するのにいい。本堂の右には海で亡くなった海員たちを偲ぶ海員追悼碑がある。

野毛山動物園
明治時代の豪商の別荘跡に造られた公園。春は花見客でにぎわう。園内にある動物園は1951年に開園。訪れる人が心地よい時間をすごせる空間には、約130種960あまりの動物が居て、特にウサギなどの小さな動物たちと触れ合えるコーナーはこどもに人気。

野毛山公園
明治時代の豪商の別荘跡に造られた公園で、野毛山動物園とあわせて約400本もの桜があり、いつもは静かな公園も春には華やぎます。

野毛山配水池
野毛山配水池は水の備蓄の役割を持つ施設で、現在西区全域と中区・南区の一部の地域にここから水が送られているのだという。かつては1887年(明治20年)に日本最初の近代水道が創設された際に最初の浄水場があった場所だった

近代水道発祥の地
日本近代水道の創設者として知られるヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像が。パーマーは横浜の水道創設の際、顧問工師長として設計と監督に携わった。

安禅院円満寺
このお寺のご本尊は三十三観世音のうちの白衣観音で江戸期の造顕という。もうひとつ阿彌陀如来立像もあるが、こちらは室町時代の作といわれどちらもその端麗さで知られる。
更にもうひとつ当寺の宝物といえるのが、平成2年完成の二面の障壁画だろう。作者は中国の高名な女流画家、傅益瑤女史、NHKテレビで水墨画の講座をもっていた人である。当寺のあと京都大原の三千院、延暦寺、鎌倉八幡宮、永平寺と次々に大作を完成奉納してこられた。機会があったら是非拝観なさるとよろしい。

藤棚
藤棚周辺は、東海道保土ケ谷宿から開港場横浜へ向かう保土ケ谷道が通り、交通の要衝であった。明治の初めころから、鈴木屋(現在の横浜銀行藤棚支店辺り)があり、この店の軒一面に藤が繁茂していたという。この藤棚が地名の由来だ。その後、藤棚の名は市電の停留所に採用され、昭和3年には町名となった。この藤棚は、戦災で消失してしまったが、昭和52年(1977)4月に地元の手で復元された。これが現在の藤棚。

天満宮
今でこそひっそりと暮しているが、これでも大正6(1917)年、神奈川から移ってこの方、近くに花街もあったりしたせいか、久保町天満宮といえば磯子の岡村天神と並び称されるほどの賑わいをみせたものだ。

杉山神社
西区役所の北側にある境内は約3600uほど。イチョウ、ケヤキなどの大木に囲まれた小さなオアシス。社伝によると創建は白鳳3年(652)、出雲大社の神、大己貴命の分霊を祭ってある。大己貴命とは、因幡の白うさぎなどの神話で有名な大国主命のこと。
境内には天神社、稲荷社、山王社、社宮祠社、厳島社、浅間社、三峯社、聖徳太子殿がある。市指定の古木、ケヤキもある。
現在の社殿は、昭和31年(1956)8月再築の鉄筋コンクリート造りで、同年の神奈川県建築コンクール第一部に入賞している。

願成寺
願成寺は、戦国時代末、天文期(1532〜54)に建立されたと言われる古い寺。明治時代に今の場所に移されるまでは、くらやみ坂の下にあった。
寺伝によると、昔、行基菩薩がこの地で渇きをおぼえたところ、一匹の亀に導かれ、清水で渇きをいやした。そこでここを法亀山と号したという。境内墓地には、スポーツ市長といわれた平沼亮三(15・16代横浜市長)、幕末の鎌倉事件(鎌倉で英国士官2人が殺害された)で処刑された清水清次と間宮一、港崎町の遊郭でフランス水兵を殺害した亀吉(小亀)の墓がある。

日限地蔵
大正12年(1923)9月1日の関東大震災の直後、焼野原となった藤棚1丁目角に残された延命地蔵尊石像と、戸部岩亀横町焼跡の子育地蔵尊石像を願成寺に奉安し、それに古く徳川時代から当寺境内にあった日限地蔵尊石像を加えて、ご三体を奉安合祀して今日に至っている。

鳶の小亀の墓
願成寺には開港期の横浜で小亀と呼ばれた鳶の若者の墓があります。日本女性に悪ふざけする外国人を斬(き)って捨てた武士の身代わりに名のって出、彼は名誉の死を遂げました。

中区

横浜公園
横浜では山手公園に次いで2番目に古い公園。横浜スタジアムと春のチューリップが有名です。

横浜スタジアム
昭和53年4月オープン。日本で初めての移動式観客席を備えた3万人収容の円形多目的スタジアム。野球だけでなくコンサートなどにも広く利用されている。横浜ベイスターズのホームグランド。

チューリップまつり
16万本のチューリップが咲く横浜公園では、花と緑の展示や即売、園芸用品の販売、花と緑のなんでも相談コーナー、飲食物の販売など。

日本大通りは
日本大通りは、明治12年、R.H.ブラントンにより設計された日本で初めての西洋式街路です。この日本大通りは、神奈川県庁や横浜開港資料館、横浜郵便局、旧商工奨励館、旧市外電話局、横浜地方・簡易裁判所、三井物産横浜ビル、旧関東財務局など、重要な施設の立ち並ぶ街路であり、明治時代には、人力車や車が行き交う街のメインストリートとしての役割を果たしていました。

大通り公園
元は吉田川と呼ばれた堀割りを埋め立てて造った細長い公園です。ヘンリー・ムーアやオーギュスト・ロダンなどの野外彫刻が置かれているほか、ステ−ジや噴水などがあります。

イセザキモール
ザキの名前で親しまれるショッピングストリート・伊勢佐木町。全長1.5mに及ぶ1丁目から7丁目まで個性あふれる店鋪が並ぶ。通りのところどころには彫刻やモニュメントが点在し、道行く人の目を和ませる。

吉田橋関門跡
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関内は、当時港町側に設けられましたが、文久元年(1862)二月に吉田橋側に移設されました。

近代街路樹発祥の地
1867(慶応3)年頃、開港場横浜の馬車道では各商店により街路樹が植えられ、これが日本の近代的街路樹の先駆といわれています。

日本で最初のガス灯
1872(明治5)年、高島嘉右衛門のガス会社により馬車道、本町通りにかけて日本最初のガス灯が点されました。当時を復元したガス灯が碑の両側に建っています。

太陽の母子
(アイスクリーム発祥の碑)
1869(明治2)年、町田房造が馬車道に氷水店を開業し「あいすくりん」と名付けてアイスクリームを売り出しました。

ハマの街灯点火の地
勝烈庵・馬車道総本店の玄関の左側に建っています。

牛馬飲水槽
1917(大正6)年、当時横浜では陸上交通の主力は牛馬でした。この牛馬のために設けた途中休憩所の飲水槽の碑です。

下岡蓮杖顕彰碑
下岡蓮杖は1862(文久2)年に開業した日本初の写真家です。のちに馬車道に写真館を開設して成功したと伝えられます。

日本興亜馬車道ビル
大正11年に建築された石造りの3階建ての建物の外壁を残し、平成元年にその上にガラス張りのモダンなビルを建築した建物は、歴史的建造物の保存・再生の先駆的手法を示したものと言われています。  歴史博物館の向かい側にあります。

神奈川県立歴史博物館
神奈川県の歴史と文化をテーマに多彩な展示。図書の閲覧や、映像の利用もできる。明治37年、横浜正金銀行本店として建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。

岡倉天心生誕の地
1862(文久2)年、天心はこの地に開業していた石川屋に生まれ、日本美術の振興に努め、後に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の設立に尽力しました。

横浜町会所跡
1874(明治7)年、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設されました。石造2階建てで屋上に塔があり「時計台」の愛称で親しまれていたそうです。

横浜商工会議所発祥の地
1880(明治13)年4月、町会所内に横浜商法会議所が設立され、これが後に横浜商工会議所になりました。

馬車道大津ビル
(旧東京海上火災保険)
馬車道大津ビルは、横浜市歴史的建造物として認定されている貴重な建物です。この建物は昭和初期の中規模オフィスビルの一典型とも見なされており、希少の生き残りでもあります。

旧富士銀行横浜支店

イタリア・ルネサンスのパラッツォ建築を想起させる粗い石積み(ルスティカ)の外壁をもち、 2つのファサードのそれぞれ中央に柱礎を持たないドリス式と覚しき大オーダーの円柱を備え、 2階の窓を半円窓としています。 フリーズやコーニスの細部意匠も精巧で、正統的な古典主義建築の骨格と細部を有しています。 また内部も、周囲にギャラリーを巡らし、大円柱で支えられた吹き抜け空間をもつなど、 当初のクラシックな意匠をきわめてよくとどめています。


日本郵船歴史博物館
明治以降、人・物・文化を運んだ船が日本から世界に向けて航路を延ばしていった歴史を展示。海運会社日本郵船の横浜支店として歴史を刻んできた趣ある建物の中で1920年代の豪華客船の大型模型や映像が楽しめる。無料ティーコーナーも併設。

横浜税関
『クイーンの塔』で親しまれる税関庁舎の1階に資料展示室を設置しています。開港からの横浜の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、輸出入通関の流れ、偽ブランド商品、ワシントン条約該当品、麻薬・けん銃などの密輸の手口等を実物の展示や映像により紹介しています。

横浜市開港記念会館
横浜市開港記念会館は、横浜開港50周年を記念し、市民の寄付金により大正6(1917)年に創建されて以来、横浜の代表的建造物の一つとして多くの市民に親しまれてきました。昭和34(1959)年からは「横浜市開港記念会館」の名称で、公会堂として利用されております。

神奈川県庁本庁舎
1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した前県庁舎の再建にあたり、設計は、公募による当選作である小尾嘉郎の案をもとに、我が国の耐震構造学の泰斗である佐野利器を顧問に迎え、神奈川県内務部により実施されました。昭和初期に流行した帝冠様式の先駆けとなりました。
外壁のスクラッチタイル貼りと中央の高塔が特徴的で、横浜税関本関庁舎(クイーン)横浜市開港記念会館(ジャック)と共に、横浜の3塔として「キング」の愛称で親しまれています。

神奈川運上所跡
1859(安政6)年、開港に伴い神奈川運上所が設けられ、現在の税関業務や外交業務等、神奈川奉行所の中で最も主要な仕事を受け持っていました。

横浜の下水道の始まり
このレンガ製の下水管「大下水」等で、居留地の下水を集めて海に放流していました。その断面が卵形をしているので卵形管とも呼ばれますが、下水の流量が少量でも、流速を確保して、汚泥物が管底に蓄積しないように流れていく工夫がなされていました。
この時の卵形管の一部は、中華街南門通りにて現在も使われています。横浜中土木事務所に展示されている構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地先から発掘されたものです。

我国西洋歯科医学
発祥の地碑
エリオット博士は、居留地57番地(現在、碑のある山下町57番地)に歯科診療所を明治3年から同7年まで開設し、外国人の歯科診療に従事するかたわら、木戸孝允や新島襄等を治療し、門下生を育てました。
エリオット博士帰国にあたり、同診療所を引き継いだパーキンス博士は明治14年秋の帰国までに診療のかたわらに、門下生達に西洋歯科医学の指導をされたといいます。

港町魚市場跡
明治4年陸奥宗光が神奈川県令の時、高島嘉右門の市場開設の出願を許可して市内の衣紋坂(今の横浜公園内)、に欧米風の吹き抜け建設で本格的な食品市場を開設させた。

馬車道駅
横浜銀行から譲り受けた金庫扉を取り付け、土地の記憶を少しでも残そうとしている。煉瓦の質感にも注目。

元町商店街
新たに全面的に天然のアルゼンチン斑岩で張り替えられた車道は以前より歩きやすいと女 性のお客様にも好評です。各街区の中心のスクエア部分はバリアフリー化されホテルの中 庭のようなコンセプトで樹木やベンチそれにインフォメーションタワーが並びます。
昼間はペット連れのお洒落なご家族連れが、暖かな陽だまりにゆったりした時間を過ごし、 夜はムード溢れる間接照明のもとでカップルがそぞろ歩く。世界中で横浜元町でしか提供しない感動を来街者の皆様にお届けしたいと思います。

元町厳島神社
元町厳島神社は、元町5丁目208番地、元町4丁目と5丁目の丘裾にあります。赤い鳥居をくぐり正面の階段をのぼると本宮、左に皇大神宮、さらに左隣に金刀比羅宮が鎮座しています。もともとは横浜村洲干島にあったもので、元町に移り、元町厳島神社と呼ばれるようになったのは、明治2年(1869)からです。

日本における新聞誕生の地
ここ、横浜の元居留地141番は、1864(元治元)年6月28日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発行した居館の跡である。
彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本であった。。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。

関帝廟
三国志の英雄・関羽を「商売の神様」として祀る極彩色の壮麗な建物は、まさに中華街のシンボル。夜のライトアップも美しい。参拝は有料。

横濱媽祖廟
2006年3月17日(金)に開廟。“天上の聖母” 媽祖とは、中国沿岸地方で広く信仰されている海の女神のこと。航海通商の安全を守り、自然災害・疫病を防いでくれる神様とされる。

横浜天主堂跡
1862年1月(文久元年12月)居留外国人への布教のため、近代日本初のカトリックの聖堂が建てられた跡です。

消防救急発祥之地
昭和8年(1933)2月 日本で初めて この地(当時の山下町消防署)に 救急車が配置運用開始されました

横浜情報文化センター
日本大通りに完成した、4階建ての旧館と12階建ての新館からなる情報文化センター。放送ライブラリーや日本新聞博物館(ニュースパーク)が入居している。2階から5階までの日本新聞博物館という珍しいテーマの博物館は、明治4年にはじめて横浜で日刊新聞が発刊された地としふさわしい。ホールには高さ7メートルの超高速オフセット輪転機が据え付けられている。4階建ての旧館は昭和4年竣工の旧「横浜商工奨励館」。横浜市認定の歴史的建造物

電話交換創始の地
1890(明治23)年12月、横浜電話交換所で日本初の交換業務が交換手4人で開始されました。当時、電話は交換手に相手先の番号を告げてつないでもらう方法でした。

横浜海岸教会
我が国最古のプロテスタント教会につながる由緒ある教会堂。明治8(1875)年鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせている。鐘塔の屋根の庇と塔の庇が重畳するなど、個性的な造形がこの建物の魅力。

開港広場
横浜の開港を記念する広場。嘉永7年(1854年)このあたりで徳川幕府とアメリカ政府との間で日米和親条約が結ばれた。広場に隣接する横浜開港資料館付近に応接所が設けられた。広場中央には噴水やミラーのオブジェのほか明治初期に設置された近代下水道の遺構も保存されている。

マンホールと下水道
三田善太郎の設計により明治10年代に築造された最初の近代的下水道で、下水道施設では初めて国登録有形文化財に登録されました。当時のレンガ造りマンホールと下水道が展示されています。

日米和親条約締結の地
1854(安政元)年、日米代表が横浜村の応接所で和親条約を結んだ記念碑です。日本の開国を決定した重要な歴史的舞台です。

横浜開港資料館
幕末・開港期から昭和初期までの横浜の歴史に関する資料を展示・公開し、常設展の他年4回に企画展も開催。旧館は英国総領事館だった建物で、昭和47年まで使われていた。

英一番館跡
ここは、かつて居留地の一番地でイギリス人の設立した「ジャーディン・マセソン商会」のあった所です。「英一番館」の通称で知られていました。

シルク博物館
シルク博物館は、横浜開港百年記念事業として、神奈川県・横浜市・関係業界の協力によって、 昭和34年3月、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあったところに、 シルクセンター国際貿易観光会館が建設され、その重要な一事業部門として開設をみたものです。

銀行業務発祥の地
英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は, 創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。
その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移転した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず, 日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。香港上海銀行は現在日本で営業を行っている最も古い銀行です。

象の鼻パーク
赤レンガパークと山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼んでいます。
横浜の港はここ象の鼻地区から始まりました。

鉄軌道と転車台
明治時代に整備された鉄軌道と転車台。船からおろした荷物を倉庫に運ぶために使われたもの

横浜港大さん橋
国際客船ターミナル
長い歴史を持つ大さん橋。横浜の海の玄関としてお馴染みの国際客船ターミナルが、2002年6月にリニューアルした。屋上にはウッドデッキや緑地があり、海の眺めがすばらしい。

浜開港記念みなと祭
国際花火大会
横浜港は、安政6(1859)年6月2日に開港し、これを記念する「横浜開港記念みなと祭」は5月3日の国際仮装行列を皮切りに、6月の開港記念バザーや横浜開港祭などのイベントが実施され、この花火大会でフィナーレを迎えます。

山下公園
横浜港を目の前に、大さん橋の東側から山下埠頭まで約1km続く日本最初の臨海公園。関東大震災の瓦礫を使って埋め立てられ、1930年(昭和5)に開園した。芝生広場やバラ園の間に有名な「赤い靴はいてた女の子の像」をはじめ、姉妹都市のサンディエゴから贈られた水の守護神像や、「かもめの水兵さん歌碑」などが点在している。また、園内には氷川丸が係留され、水の階段やステージなどもある。

氷川丸
昭和5年から35年の30年間、太平洋を航海した豪華客船。
北米航路の定期船として活躍し「太平洋の女王」と呼ばれました。
横浜港100周年記念事業として、昭和36年から山下公園に係留されています

赤い靴はいてた女の子の像
山下公園の一角にあるこの像は、野口雨情が作詞した童謡「赤い靴」をイメージして作られました。横浜=異国情緒の思いを強くさせる、山下公園を代表するモニュメントです。

かもめの水兵さん歌碑
この歌碑は、横浜港が「かもめの水兵さん」の発祥となっていることから昭和54年11月の建てられたそうです。

マリンタワー
山下公園のすぐ裏にそびえる高さ106mの世界一高い灯台。地上100mの高さにある2層式展望台からは、横浜港やみなとみらい地区をはじめとする横浜市一帯をはじめ、三浦半島、房総半島、富士山を一望。夜景スポットとしても定番です。

ヘボン博士邸記念碑
ヘボン式ロ−マ字で知られるヘボンの住居跡に建つ

横浜人形の家
世界140カ国、約1万3千体の人形を収蔵。一年間の改装工事を終え、「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」をコンセプトに、平成18年4月にリニューアルオープンした。

フランス山
港の見える丘公園の北側部分は木々が茂って緑濃い様相を保っている。この区域は「フランス山」と呼ばれ、港の見える丘公園の中の一区画であると同時に、独立した別の公園のような表情を見せる。「フランス山」は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、そこから「フランス山」の名がある。

フランス領事官邸跡
1896年(明治29年)に建てられた領事官邸が関東大震災で倒壊した後、1930年(昭和5年)にマックス・ヒンデルの設計によって建てられ、戦後の1947年(昭和22年)に焼失した領事官邸の遺構だ。

港の見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘にある公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。春と秋にはローズガーデンも見頃。

大佛次郎記念館
横浜生まれの文豪、小説「鞍馬天狗」で有名な大佛(おさらぎ)次郎の記念館。自筆原稿、初版本の他、晩年の書斎も再現し展示されている。

山手111番館
ライトアップ実施。全体がスペイン風の様式でまとまった正方形の形状をもつ安定感のある建物。建物内部中央に大きな吹き抜けを持ち、2階には回廊式ギャラリーが付く。モーガンが設計した個人住宅の中の代表的な例で、横浜山手の丘でも屈指の西洋館である。※

岩崎ミュージアム
服飾に関する資料を集めた博物館。建物はかつてこの地で日本で初めて「ハムレット」を上演した西洋劇場・ゲーテ座の面影を感じさせる。

横浜外国人墓地
横浜開港当時の発展に貢献した19世紀の人々をはじめとし、40数カ国の外国人約4500人が眠る。資料館には埋葬者の業績を紹介する資料を展示。墓地内は非公開、ただし3月末から12月まで、毎週土・日・祭日(雨天を除く)のみ、墓地維持管理募金のための公開あり。

山手資料館
明治42年に建てられた市内唯一現存する木造西洋館。居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示している

山手ビアガーデン
醸造技師ウィリアムス・コープランドは、明治初年、山手にわが国初めてのビール工場を作りました。
それが明治18年、ジャパン・ブルワリーに発展して、キリンビールの開源となりましたが、その頃彼は工場の隣地にビアガーデンを経営しました。
現在の「ビアホール」の先駆です。

貝殻坂
見尻坂との分かれ道を右へ進む「貝殻坂」は元町公園と外国人墓地の間を上り、山手本通りへと通じています。墓地の崖土の中に貝殻片が混ざっていたことが由来ともいわれています。

元町公園
横浜外国人墓地の隣、深い緑の中にプールや弓道場を持つこの公園は、旧山手居留地内の山手本通りに面し、周辺の数々の歴史的建造物とともに、山手のイメージをつくる絶好の場所にあります。園内にはブラフ80メモリアルテラスやブラフ溝など横浜の歴史を偲ばせる施設があります。園内には大正15年築の「エリスマン邸」が移築復元され、昭和2年築の「山手234番館」や昭和5年築の「ベーリックホール」もあります。

ジェラール水屋敷
元町公園中央の低地部分、プールと「ウォーターガーデン」として整備されているあたりは、明治の初めにフランス人実業家ジェラールが船舶給水業を営んだ場所として知られている。湧き水を簡易水道で引き、外国船に飲料水として売った。その品質の良さで好評だったらしい。ジェラールはまた同地で西洋瓦の製造も行っている。ジェラールのこれらの施設を、人々は「ジェラールの水屋敷」と呼んだという。

代官坂
この坂は, 山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で, 箕輪坂と称していましたが, 坂の途中この地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから, 代官坂と呼ばれています。

馬の博物館
馬の博物館では、馬と人との交流によって生まれた様々な文物を、常設展示やテーマ展示で自然史・歴史・民俗・美術工芸・競馬などの幅広い分野にわたって紹介しています。

根岸競馬記念公苑
根岸森林公園に隣接する約24,000uの馬に触れ合うことのできる公苑。
ポニ-、サラブレッド、アラブレッドなどが飼育されていて、乗馬デ−や馬に直接餌付けできる人参タイムがあります。

亀の子石
地元では「亀の子様」の愛称で親しまれ、このタワシを借りてのどをさすったり、茶碗を洗うと咳が止まるといわれ、治ったらタワシを倍にして返す習わしがあります。

三溪園
生糸貿易で財をなした実業家であり、著名な美術愛好家でもある、原三溪が開園した敷地面積18万m2の広大な純日本庭園。園内にある臨春閣や旧燈明寺三重塔などは、重要文化財に指定されている。梅や桜、ツツジ、紅葉などの名所として知られ、外国人にも人気が高い。

三溪記念館
三溪記念館では、三溪園の創設者・原三溪に関する資料、三溪自筆の書画、 ゆかりの作家作品や美術工芸品、臨春閣の障壁画などを展示しています。

本牧市民公園
三溪園に隣合う憩いの空間。中国式庭園「上海横浜友好園」や芝生広場の他、サイクリングコースやプール、テニスコートもある

上海横浜友好園
「上海横浜友好園」は横浜市が上海市に寄贈した「横浜上海友好館」のお返しとして上海市から提案、整備されたもので、中国江南様式による庭園です。
上海市の木、花のハクモクレンに因んで命名された玉蘭庁を中心に、庭院、曲橋で結ばれ、六角形の二重屋根が特徴的な湖心亭からもう一つの出入口の竹門などが池の中に巧みに配置され、背景となっている三溪園の緑と崖が独特の雰囲気を醸し出しています。

八聖殿郷土資料館
本牧市民公園に隣接する本牧臨海公園内にある八角三層の建物。昭和初期の政治家・安達謙蔵[あだちけんぞう]が選んだ八聖人(キリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、弘法大師、親鸞[しんらん]上人、日蓮上人)の像を安置した精神修行の道場。現在は郷土資料館となっていて、横浜の旧農家、漁村の道具などの民俗学的に貴重な資料が展示されている。

神奈川区

ポートサイド公園
横浜駅東側横浜ポートサイド地区にある公園。運河に面した水際は木製のデッキになっており、いたるところにベンチやテーブルが置いてあるし、波をイメージして手入れされた芝生などもオシャレ。みなとみらいまで徒歩でも行けるから、散歩するにはもってこいかも。ロマンチックな横浜の夜景を存分に楽しもう。

宗興寺
曹洞宗宗興寺は開港当時、アメリカ人宣教医であったヘボン博士がここに施療所を開きました。これを記念する石碑が境内に建てられています。ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」や聖書の翻訳で知られ、後に明治学院を創設するなど、日本の教育に尽力した人物です。

浄滝寺
浄滝寺は1260年(文応元年)、日蓮聖人に出会って弟子となった妙湖尼が自らの庵を法華経の道場としたことに始まるという。それにちなんで山号は妙湖山という。もともとは東海道沿いにあったが、徳川家康の江戸入部の際に現在地に移ったらしい。横浜開港期当初にはイギリス領事館が置かれた寺でもあり、門前にはそれを示す碑が建てられている。

幸ヶ谷公園
かつては「権現山」と呼ばれる急峻な山だったのだという。
園内のほぼすべてが桜の林で、桜の名所としてよく知られている。

権現山合戦の跡
1510年(永正7年)、関東を支配していた上杉氏の家臣上田蔵人(くらんど)が北条早雲方に寝返り、この山に砦を築いて立てこもった。上杉方は二万の兵を集めて砦を包囲、十日間に及ぶ戦いは上杉軍の勝利に終わったという。

州崎大神
州崎大神は1191年(建久2年)、源頼朝による創建という。1180年(治承4年)の石橋山の合戦で敗れた源頼朝が安房(現在の千葉県)に渡って安房神社に再起を祈願、安房神社の祭神をこの地に勧請したもとだと社伝にあるらしい。祭神は天太玉命と天比理刀売命で、江戸期には牛頭天王を合祀、古くから近隣の住民や宿場の信仰を集めている。

普門寺
洲崎山普門寺は、真言宗智山派に属し、山号の洲崎は、洲崎大神の別途地であったことにより起こりました。また、寺号の普門は洲崎大神の本寺仏である観世音菩薩を安置したことにより、多くの人々の願いを聞いているとの意味で普門とされたと伝えられています。
江戸時代後期は本堂、客殿、不動堂などの建物が建ち並び、開港当時はイギリス士官の宿舎の充てられました。

甚行寺
真色山甚行寺は、浄土真宗の寺院で、本尊には、阿弥陀如来像を祭っています。
神奈川宿に住まいしていた伊勢屋甚右衛門が開基となり、明暦元年(1655)に伊勢の専修寺第14世堯秀(ぎょうしゅう)上人を開山として、翌年、寺号を許されたといいます。
宝暦年間(1751〜64)に火災にあいますが再建され、横浜開港当時は、本堂は土蔵でしたが改造して、フランス公使館として使用されたということです。

本覚寺

臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらに湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。


大綱金毘羅神社
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、後の山上にあったものが現在の地に移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金毘羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。

神奈川の台と茶屋
「たどり行くほどに金川の台に来る、ここは片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし。」(十返舎一九「東海道膝栗毛」より)とあるように当時は海の眺めが良い景勝地であった。

神奈川台関門跡
開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス人オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。

上台橋
「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。
 かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。

遍照院
長禄2年(1458)、祐等法印の開基と伝えられる。山号は密厳山、寺号を不動寺と称し、はじめは区内入江川の近く一ノ宮社のあたりにあったが、徳川氏江戸入国(1590)の折、東海道沿いの現地に移った。
天明6年(1786)7月の火災により堂宇、什物等悉く焼失、明治元年(1868)1月の神奈川宿大火にも山門を残すのみにて類焼。芳善法印が明治43年堂宇を建立し、大正12年の関東大震災に被害はあったが倒壊は免れた。

笠のぎ稲荷神社
社伝によれば平安の天慶年間(938〜947年)の建立、京都の伏見稲荷の分霊を勧請したものという。もともとは現在の浦島丘の稲荷山中腹にあったらしいが、1689年(元禄2年)に山麓へ遷座、1869年(明治2年)には社地が鉄道施設用地となって現在地に移っている。社殿は関東大震災や横浜大空襲の際に失われ、現在のものは1979年(昭和54年)に再建されたものだ

良泉寺
横浜開港期、外国の領事館に充てられることを快しとしなかった良泉寺の住職は屋根をはがし、修理中であるとの理由でこれを断ったのだという。

能満寺
能満寺は1299年(正安元年)に内海新四郎光善という漁師が海中から拾い上げた霊像を供養するために建てたことが始まりだという伝説があるらしい。

神明宮
神明社はもともとは能満寺と同一境内地にあったものだが、明治の神仏分離令によって分離したものだ。

鶴見区

總持寺
曹洞宗の大本山。元亨元年(1321)に石川県に創建されたが、明治31年(1898)火災で焼失。明治44年(1911)に現在地に移転。千畳敷の大祖堂の大屋根は区内外の各所から見られ、鶴見の象徴となっている。約50万平米の広大な敷地(横浜球場の約20倍)に50余の堂塔と豊かな緑。四季折々の風情があり、散策に訪れる人も多い。

キリン横浜ビアビレッジ
日本のビール発祥の地、それは横浜。明治3年(1870)米国人コープランドが山手に醸造所をつくったのが最初で、これをキリンビールが引き継いだ。その伝統あるキリンビールの横浜工場が、ビアビレッジとして生まれ変わった。
ここでは、おいしいビールがどのようにして誕生するのかを見学できる。ビール5000年の歴史が分かるコーナーもあり、最後には出来立てのビールも味わえる。庭には本格的なレストランとパブがあり、水と緑を配備した憩いと安らぎの空間となっている。

生麦事件之跡
生麦事件は1862年、文久2年8月21日、川崎大師参りに行く途中のイギリス人4名が、行き会った薩摩藩主の行列に礼をつくさなかったとして殺傷されたもの。この碑は後年1885年(明治16年)に、この土地の所有者黒川荘三によって建てられた。殺されたリチャードソンを悼む歌が刻まれている。

スカイウォーク
「スカイウォーク」は、ベイブリッジに併設された片側320mの有料海上遊歩道。日本で初めて橋に併設された展望施設で、360度の大パノラマが広がる。
眼下には横浜港を行き交う船、遠くは箱根、房総の山並みから富士山までの景観を楽しめる。
ここから眺める夕焼けの富士山は格別!

保土ヶ谷区

旧帷子橋跡
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次内 保土ヶ谷」は特に有名です。大橋は新町橋などとも呼ばれた帷子橋について、「新篇武藏風土記稿」の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川二架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和31年(1956)3月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。

橘樹神社
素戔嗚尊を祀る橘樹神社は、源頼朝が1186年(文治2)に京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請したことに始まったと伝えられています。したがって古くは祇園社と称し、江戸時代には牛頭天王社、明治初年に橘樹社と改称され、1921年(大正10)に現在の社名となりました。
また、この神社の祭神は「後ろ向き天王様」と言われています。「新編武蔵風土記稿」には、祭神が秘仏なので後ろに顔を背けてすわっており、祈願をする人は、本殿の後ろへ回って拝む、と伝えられています。

神明社
天照大御神と豊受大御神を祀る神明社は、磯貝正が著した「榛谷御厨の研究」によれば、保土ヶ谷は、平安中期の辞典である「和妙抄」にある幡谷郷(榛谷郷)であろうとし、この地は、五穀の稔りがよく、住民の敬神の念も厚く、交通の便もよいということから、伊勢神宮の御領として寄進せられ、これが「榛谷御厨」と呼ばれたということです。
そして、この御厨から白布三千疋が神宮に献上され、このときに神明社が建立されたとしています。

香象院
普賢山香象院は、真言宗の寺院で、磯貝正の墓があることで知られています。
磯貝正は、東京帝国大学文学部史学科を卒業し、「時宗の研究」「榛谷御厨の研究」の論文を発表しました。後に、県、市の史学調査官となり、「保土ヶ谷区郷土史」上下二巻の編集に心血を注ぎましたが、病により、昭和13年6月8日、32歳の若さでなくなりました。
死後、20年以上も経た昭和37年6月7日、考古学者の石野瑛氏の撰文並びに書によって「郷土愛の碑」という顕彰碑が建てられました。

見光寺
浄土宗大誉山見光寺には、横浜ゆかりの文人の墓があります。
歌人・清原雄風の門人で、保土ヶ谷に移り住んでいた、柿園山平伴鹿の墓がありましたが、近年、失われてしまいました。
伴鹿には「詠歌百首」「新学異見弁」の著書があります。
「横浜地名案内」の著者、森田友昇の墓も境内にあります。

助郷会所跡
助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割当てを受けたり、不正に使用されないよう監視する場所でもありました。

問屋場跡
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに重文な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

高札場跡
宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。
宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅2間半(約4.5m)高さ1丈(約3m)の規模でした。

福聚寺
福聚寺は、南北朝時代初期の1335年に創建された臨済宗建長寺派の古刹。開山当時は現在の西区久保町にありましたが、約110年ほど前に今の場所に移されました。

御所台の井戸
区内には、保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校方面へ向かう”かなざわかまくら道”があります。その途中の急な坂道を上ると、右側に四阿のあるひっそりとした一角があります。ここが政子の井戸とも呼ばれる「御所台の井戸」です。
政子とは、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍のしごとを行い”尼将軍”と呼ばれた北条政子のことです。
この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあり、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説もあります。

北向地蔵
この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことでした。それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したそうです。
その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになりました。

旭区

よこはま動物園ズーラシア
よこはま動物園ズーラシアは、1日で世界1周の動物旅行ができる、全面開園すると日本最大級の動物園です。動物たちが、自然の中で実際に生息している環境に近い状態をつくり、動物に優しい動物園を目指しています。
また、絶滅のおそれのある動物を守るため、繁殖センターを設けるなど、今までの動物園の枠にとらわれない、新しいタイプの動物園です。

ナイトズーラシア
ナイトズーラシアとは?
普段はご覧いただけない夜の動物たちの姿を、8月限定で公開する夏の特別イベント、それが「ナイトズーラシア」です。
今年は「闇と光が織りなす夜の動物園」をテーマに、園内各所をライトアップし、ファンタジックな夏の夜を演出します。昼間とはひと味違った夜のズーラシアでは、薄明かりの中で浮かぶ幻想的な動物たちのシルエットや、涼しい夜になると活発に動き出す夜行性のトラやライオンの姿など、普段とは違った動物たちの姿を楽しんでください。

Y150つながりの森
Y150つながりの森は、豊かな自然の中で、ヒトとヒト、ヒトと自然、ヒトと地球などの様々な「つながり」を感じ、気づくことができる会場です。社会や環境のために自分でできる何かを見つけることができます。

瀬谷区

長屋門公園
自然の仕組みを大切にして営まれてきた農村生活の魅力を再生しているこの公園では、湧水と流れ、杉林、そして茅葺の民家や長屋門など見所満載。また、年中行事や、季節折々の行事なども多彩。

製糸場跡
長屋門公園のすぐそばには製糸場跡がありますが、鎌倉郡には明治期から大正期には30以上もの製糸場がありました。長屋門公園のシンボルである長屋門の二階でも、養蚕が行われていました。

海軍道路
真っ直ぐ伸びた直線道路の長さは約3km。市内で一番長いと言われています。両側には450本の吉野桜があり、桜並木として有名です。春先には毎年地元の町内会主催の桜祭りも行われています。

在日米海軍上瀬谷支援施設桜祭り
『桜祭り』は、在日米海軍上瀬谷支援施設(上瀬谷通信施設)の主催で毎年この時期に開催されている。当日は横浜隼人高等学校生徒によるブラスバンドやバトン、米空軍軍楽隊のライブ演奏、市獣医師会による健康飼育相談などが行われる。

泉区

無量寺
無量寺は大山道沿いにあり、境内には大山道の道標を兼ねた名号碑があります。また、名木古木に指定されているイチョウの古木や、寛政六年(1794)造立の「出羽三山・西国・板東・秩父百番札所」供養塔、元徳年間に造立された板碑などがあります。

蚕霊供養塔
明治から大正の間,泉区では養蚕が盛んでした。横浜農協和泉支所の東側には,土地の人々が蚕霊供養のために建てた蚕霊供養塔があります。この蚕霊供養塔は大山道の道標も兼ねています。また,上飯田の三柱神社境内にも,明治29年に建てられた蚕霊供養塔があります。

長福寺
長福寺は,泉小次郎親衡が道場として創建したといわれています。泉中央公園にある「泉小次郎馬洗いの池」の底に沈んでいた小さな島には貞和3年(1347)造立の五輪の塔があり,池のほとりには数基の板碑もありました。この板碑は,公園開設の工事の時に発見された板碑と共に長福寺に保存されています。板碑には,南北朝時代のものもあります。また,横浜市の名木古木に指定されているイチョウの木が2本あります。

須賀神社
須賀神社は,信濃国の住人泉小次郎親衡が,この地に館を開いた建暦2年(1212)に,その鎮守神として祀ったのが初めと伝えられています。「和泉の天王さま」といわれ信仰されており,お祭りの神輿の「おわたり」は,昔から近郷に知られ,今でも大変賑やかに行われています。

中之宮左馬神社
中之宮左馬神社は,中和泉地区の鎮守様で,和泉の神社の中では一番広い境内地を持っています。昔から「相模七左馬」と崇められた一社で,文化13年(1816)と天保6年の棟礼が残されています。境内には,木食觀正碑,庚申塔,この地域で一番古い明治13年建立の忠魂碑が建てられています。また,横浜市の名木古木に指定されているシラカシの古木があります。

戸塚区

善了寺
古くは、真言宗で和泉村に在りましたが、天福元年(1233年)江戸麻布・善福寺の釈了海の弟子でありました釈了全により、浄土真宗に改められました。ゆえに、釈了全を開山としています。釈了全は弘安8年(1278年)3月5日に往生されました。

江戸方見付跡
江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両脇に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。貴賓の送迎はこれから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。

寳蔵院
寳蔵院は天文16年(1547)に中興され、御本尊は寛永9年(1632)御作の不動尊である。以来衆生を守護し導く如来界の使者として御活動下さっている。

益田家のモチノキ
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。県の天然記念物に指定されている。
樹高19メートル、胸高周囲2.4メートル、樹齢約300年(推定)

柏尾の大山道道標
大山は江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。大山道への道標は次ぎの四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。

栄区

七石山横穴古墳群
この古墳は6〜7世紀頃のもので、平野全体を見渡せる位置にあり、この近辺の古墳群の中心にあることから、リーダー格の人間の墓ではないかと考えられています。古墳群は、JR根岸線の工事とともにほとんど失われ現在残っているのは北側の一部です。

長光寺
東照山医王院と号しかつては天台宗の寺で伊豆の豪族、伊東祐親の孫、祐光の創建と伝えられています。その後、親鸞聖人の時代に現在の浄土真宗に改宗し、浄土真宗本願寺派に属しています。寺号は本願寺三世覚如上人から頂きました。

春日神社
春日神社は、もともと藤原氏の氏神として、各地の荘園に分社されたもので、小菅ヶ谷の春日神社も、平安時代に山内首藤氏あたりが創建。再建は、後北条時代。覆屋のなかに、見事な春日曼茶羅による彫刻の本殿が見られます。江戸時代の作。

大誓寺
浄土宗。承応2年(1653年)、旧小菅ケ谷村の名主、梅沢与治右衛門勝国の創建で本堂内外の建築物は天保9年(1838年)の再建当時のものです。本尊の阿弥陀如来座像は、鎌倉郡六阿弥陀の一つです。

あーすぷらざ
“あーすぷらざ”(神奈川県立地球市民かながわプラザ)は、私たちが地球に暮らす一員として、世界の文化や暮らしについての国際理解や国際平和、地球規模の課題について、日々の生活の中で考え、自分にできる身近なことから行動していくための総合的な学習施設です。

港北区

新横浜ラーメン博物館
館内に昭和33年のレトロな町並みを再現。全国選りすぐりのラーメン店が軒を連ね、ラーメン文化と歴史にスポットをあてた展示もある。

妙蓮寺
1908年、妙仙寺が横浜線敷設のため、移転を余儀なくされ、菊名池畔の蓮光寺と合併することになった。そして両方から1文字ずつ取って妙蓮寺とした。合併の碑が駅前にある。そのため京都の妙蓮寺とは何の関係もない。

菊名池弁財天
古くから菊名池大明神として住民の尊敬を集めてきた弁財天で、交通安全、商売繁盛の守護神です。

緑区

鴨居杉山神社
創建558年の鴨居杉山神社では今も伝統行事(元旦祭・悪魔払いなど)が引き継がれており、後世に伝え残したものです。

林光寺
ご本尊は6尺の不動明王。宝徳元年(1449)に僧・義慶が創建し、慶長年間(1596)に僧・誓順が再興している。
永禄六年(1563)に徳川家光より五石の朱印を得ている。
文政元年(1818)、明治27年(1894)の火災で堂塔が焼失し、現在の堂塔は渡部快俊師が昭和49年より平成7年の20年間で復興した。

都筑区

モザイクモール港北
建物内に川や滝を配したショッピングモール。地下1階から最上階までの吹き抜けには高さ8mの人工ツリーが立ち、春には新緑、秋には紅葉と、四季の自然を演出している。また、関東初のビルトインタイプの大観覧車(料金:1人400円)があり、晴れた日には新宿副都心や富士山まで望める。

横浜市歴史博物館
「横浜に生きた人々の生活」をテーマに、2万年にわたる地域の歴史を6つのブースに分けて展示。CGを駆使した歴史劇場や野外施設などで、楽しく学ぶことができる。弥生時代の竪穴住居・環濠・墓地を復元した、大塚・歳勝土遺跡公園が隣接。アスレチックなど遊具もある。所要1時間。

大塚遺跡
今から約2000年前の弥生時代のムラの跡です。外からの敵を防ぐために周囲には濠がめぐらされていました。当時は100人くらいの人々が暮らしていたようです。遺跡内には、竪穴住居7棟をはじめ高床式倉庫、型取り遺構、木橋などが復元してあります。

歳勝土遺跡
大塚遺跡に住んだ人々のお墓で、方形周溝墓とよばれる形をしています。低い四角形の盛り土と、その四辺を溝で囲んだ形がその特長です。発掘当時の状態や木棺を復元し埋葬の様子などが分かるようにしてあります。

都筑民家園
江戸時代の民家「旧長沢家」を中心に管理棟、庭などで構成される区域を都筑民家園といいます。
長沢家は、横浜市歴史博物館から程近い都筑郡牛久保村にあった旧家で、江戸時代の一時期、村方三役の名主役や組頭を勤めています。旧長沢家住宅の建築年代は、新しい形式も取り入れられているものの、柱の一部にチョウナ仕上げが見られること、土間境の柱が大黒柱になっていないこと等の古い形式を残しているため、横浜に残っている民家の中ではかなり古いものであることがわかりました。

正覚寺
400年の歴史をもつこのお寺は、天台宗の長窪山総泰院と称し、日吉の金蔵寺の末寺です。
このお寺は一年中花の絶えることのない花の寺として有名です。
毎年5月下旬から、ショウブとアジサイが訪れた人の目を楽しませてくれます。

青葉区

稲荷前古墳群
横浜市青葉区大場町の南端部に神奈川県指定史跡の「稲荷前古墳群」がある。四世紀から六世紀にかけて都筑の地を治めた首長の墓であろうという。南に鶴見川を見下ろす丘に、三基の古墳が保存されている。

南区

弘明寺
弘法大師によって開山されたという横浜市内屈指の古寺で、木像十一面観音像は重文です。坂東第十四番札所。予約制で精進料理が食べられる。

港南区

永谷天満宮
御本躰は、菅原道真自身の作という一寸八分の尊坐像で「日本三躰天満宮」の一柱という。「新編相模」によれば、第60代醍醐天皇の延喜2年(902年)菅原道真公が福岡県太宰府に流されたとき、自ら鏡に映じた姿を三躰彫刻し、その一躰を五男の菅原秀才敦茂に与えたものといわれ、その尊像は、その後菅原氏の長者から藤原道長へ、更には上杉金吾等に相伝されたという。

天照寺
創建は天正10年(1582年)領主宅間規富(上杉治部大輔)が戸塚区川上町の徳翁寺の四世文龍和尚を招請して建立したといわれ、それ以来天神社の別当寺となった。本尊は行基作という十一面観世音木坐像である。

磯子区

東漸寺
北条宗長を開基、桃渓徳悟を開山として、鎌倉時代に創建された臨済宗建長寺派の古刹です。本堂の釈迦堂は、東国の禅宗建築で最も早い鎌倉時代の建物で、本尊釈迦如来像は南北朝時代の堂々とした作風の像です。ほかに、薬師如来像は運慶様式を継承した鎌倉時代初期の貴重な作例で、伽藍神像と達磨大師像は応永2年(1395)に院派仏師の1人である院覚によって造立された基準作です。また、梵鐘は、永仁6年(1298)に鋳物師物部国光が鋳た、形と技法の優れた鐘として知られています。

シーサイドライン
JR根岸線接続「新杉田駅」〜京浜急行線接続「金沢八景駅」を結ぶ、運転士のいない無人運転列車。沿線には、海を見ながらゆっくり遊べるスポットが沢山あり、寄り道しながら散策が楽しめる。

金沢区

横浜市立金沢動物園
金沢動物園は横浜市の南部に位置し、ハイキングコースで繋がる円海山・北鎌倉近郊緑地保全区域やいくつかの市民の森に囲まれた緑豊かな金沢自然公園内にあり、世界の希少草食動物を中心に飼育しています。
園内は、動物を生息地別にアメリカ区・ユーラシア区・オセアニア区・アフリカ区の4大陸に分け展示しています。

龍華寺
1189年(文治5)源頼朝と文覚上人が建立し、明応年間(1492〜1501)に現在地に移築されたと伝わる古刹。ぼけ封じ観音で知られている。境内にはわら葺屋根の鐘楼が立ち、四季折々の草花も楽しめる。地蔵堂には、室町時代の地蔵菩薩座像が安置されている。

横浜八景島
島内に入るのは無料です。場所によって海の風景が微妙に違いますので、ゆっくり散策を楽しめます。島のあちこちにベンチが置かれていますので、お好きなスポットを見つけてお弁当を広げてみてはいかがでしょうか。

八景島シーパラダイス
動物好きの人は是非一度、島内の横浜八景島シーパラダイスの水族館「アクアミュージアム」へお出かけください。ガラス越しに見るペンギンの泳ぐ姿は、まるで空を飛んでいるよう。また、大きなシロイルカが、ガラスをはさんで私たちにお辞儀をしてくれるのでこちらも思わず頭を下げたり…。ここはミュージアムの名のとおり、様々な海の生き物の生態を色々な角度から見ることのできる「博物館」です。アクアスタジアムでのショーでは、歌うシロイルカくんや笛を吹くセイウチさんの愛らしい姿が見られます。

瀬戸神社
中世都市鎌倉の外港として栄えていた武蔵国六浦庄(現金沢区全域)における中心的な神社。
平潟湾と瀬戸入海をつなぐ潮流の速い海峡を望む地点に、古代から海の神としてまつられたと推定されますが、社伝では治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆三島明神(三島市三嶋大社)を勧請したのが起源とされています。祭神は大山?命。
鎌倉幕府以来、執権北条氏・鎌倉公方足利氏・小田原北条市などといった歴代の権力者によって保護され、江戸時代に入っても百石の朱印地を徳川将軍家より与えられています。

吼月山泥牛庵
吼月山泥牛庵は、南山士雲の開山と伝えていますが、士雲は鎌倉の臨済宗円覚寺第11世で、建武2年(1335)10月7日に入寂していますから、鎌倉末期の創建と考えられます。そのころは、現在の米倉陣屋跡辺りにあったようですが、享保7年(1722)米倉丹後守忠仰がここに陣屋を構えたとき、今の地に移されたといいます。