太宰府市 |
太宰府天満宮 | |
学問の神・菅原道真をまつる。901年右大臣から突然大宰府の役人におとされた道真は2年後、この地で亡くなった。その墓の上に建てられたのが天満宮で、現在の本殿(重要文化財)は1591年(天正19年)の建築である。心字池の橋の傍らには室町時代の志賀社(重要文化財)があり、宝物殿には国宝や重要文化財の数々の宝物が納められている。 |
飛梅 | |
境内に入ると右側の老樟下に『東風吹かばにおいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ』菅公御神詠の歌碑が早春の梅花匂う参道に向かって建立され、御神徳を慕って詣で来る人々に、なつかしく仰がれる。梅花を愛された天神さま、大宰府へ西下の時、京の紅梅殿の梅にこの歌を詠まれると、梅花は、はるばるとみあとを慕って配所大宰府の菅公のもとに飛んできました。それが、「飛梅伝説」です。 |
宝物殿 | |
菅原道真公(菅公)の神霊を御奉祀する神社・太宰府天満宮内に位置するこの宝物殿は、昭和3年に開館、という古い歴史を持つ。 菅公の御真筆、御佩刀、国宝「翰苑」を始め、重要文化財の毛抜形太刀、古文書、工芸品、菅公が愛でた梅を描いた日本画など約5万点の宝物を収蔵・展示している。 |
鷽替え | |
「替えましょう、替えましょう」と、老若男女が境内楼門前広場で唱えます。 木うそをとりかえる際、神職の持つ木うそを手にした人は、一年間の幸運を得るという”純金のうそ” を得ることができます。幸運のうそはうそ替え、金うそみくじで合計12。 開運出世、除災招福を願う神事です。皆さまがご参加いただけます。 |
九州国立博物館 | |
九州は、中国大陸や朝鮮半島に近く、古代から文明交流のクロスロードでした。かつて、この海峡を、多くの人と物、そして文化が往来したのです。九州に残された貴重な文化遺産の数々。その一つひとつに歴史のロマンが息づいています。明治32年、日本美術の復興に尽力した岡倉天心は、九州の地に博物館設置の必要を説きました。以来、百有余年の時を越え、アジアとの交流の歴史に焦点をあてた、新しい時代の新しい博物館を目指して、その夢が実現しようとしています。 |
光明禅寺 | |
満宮の参堂をのぼりつめ、右へ曲がるとつきあたりにこの寺がある。一般に苔寺の名で親しまれているように、苔で陸を、白砂で大海を表現した庭と、石を配して“光”の文字を書いた石庭、そして紅葉とシャクナゲの美しい寺である。天神様と禅宗の教えが結びついた渡宋(唐)天神の伝承により、鎌倉時代に創建されたと伝えられる。 |
大宰府政庁跡 | |
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家をここに移し、奈良・平安時代を通 して、九州を治め、わが国の西の守り、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)としました。太宰府は南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があります。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものです。 |
戒壇院 | |
奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれた。戒壇とは僧尼として守るべき戒律をさずける所で、ここで戒を受けなければ正式の僧尼とは認められなかった。戒壇はここの他に、奈良の東大寺、下野の薬師寺に置かれ、天下三戒壇といわれた。本尊の 舎那仏は平安時代末の作で、重要文化財である。 |
観世音寺 | |
「源氏物語」にも登場する観世音寺は、斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建てられた寺である。完成は奈良時代。古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂の二堂があるのみである。しかし往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘や、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像が数多く残り、境内はクスの大樹に包まれ、藤、アジサイ、萩と季節が静かに移る |
学校院跡 | |
大宰府政庁跡の東側、観世音寺との間に挟まれた一帯は、現在、多くが水田となっていますが、この地域は、小字が「学業」といい、古代大宰府に附属する学校院の跡地に比定されています。 |
竈門神社 | |
「春は萌え、秋はこがるる竈門山」とうたわれるとおり、春は桜、秋は紅葉の美しい竈門山。別名を宝満山といいます。その山上に上宮、麓に下宮が鎮座する竈門神社には、神武天皇の御生母、玉依姫命が祀られています。太宰府天満宮から徒歩で約30分。若い女性を中心に、良縁祈願の人々が足繁く訪れます。春のお花見、秋の紅葉狩りはもちろん、宝満山の登山客で1年中にぎわいます。 |
水城大堤跡 | |
太宰府市と大野城市の境にある大堤です。この地点は福岡から筑紫野間の平野部が最も狭まる地点にあり、堤は両側の山間部をつないでいます。西暦664年から665年にかけて朝鮮半島からの来襲に備えて作られた防衛壁です。前長2キロメートル、高さ13メートル、基底部幅80メートル、上下2段構造の大規模なものです。さらに堤防の北側(福岡側)には幅60メートル深さ4メートルの堀も作られていました。 |
筑前国分寺跡 | |
現在になお法燈を伝える筑前国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、全国60余国に造られた国分寺の1つです。近年発掘調査により、主要な建物の配置および規模もしだいに明らかになりつつありますその伽藍配置は中央に金堂、北に講堂、東南に塔を配し、中門から延びる回廊は塔を囲み金堂に接続しています。 |
筑前国分寺 | |
現在の国分寺は筑前国分寺の金堂の跡に建てられたものであり、本堂の中には平安時代の作といわれ、重要文化財に指定されている丈六の伝薬師如来像が伝わっています。 |
国分瓦窯跡 | |
国分瓦窯跡は、現在灌漑用水の溜池の中に水没しており、見学することはできませんが、溜め池ができる前までは、窯跡が露出し、合計7基確認されていました。 |
筑紫野市 |
筑紫神社 | |
原田の小高い丘に位置する筑紫神社は、その看板に「筑紫野国総社、国号起源」と印されているように、10世紀のはじめの法典、延喜式に記載されている古寺で、筑紫の国名の発祥とされています。 |
五郎山古墳 | |
五郎山古墳は、径約35mの装飾壁画を持つ円墳です。昭和22(1947)年に発見され、2年後に国の史跡に指定されました。 壁画は、人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されていることが特徴ですが、それが意味するところは、発見から半世紀を経過した現在でも、まだ多くの謎に包まれています。 |
武蔵寺 | |
市の文化財、樹齢1300年を数えるという「長者の藤」 や椿が咲く有名な“花の寺”。天拝山の麓、九州最古の寺。 |
紫藤の滝 | |
武蔵寺境内のわきにあり、菅原道真公が身を清めたといわれています。 |
御自作天満宮 | |
菅原道真公が自分の像を刻んで納めたと伝えられています。 |
御前湯 | |
各種の福祉活動や広く市民のコミュニケーションの場として作られた御前湯。二日市温泉はその昔、黒田藩ご用達の温泉でした。明治維新後、公衆浴場御前湯が生まれ、その名を受け継ぎました。気泡槽やジェットバスもあり、お楽しみいただけます。 |
博多湯 | |
博多湯は,古くから地元の人たちの湯治場として利用されている共同浴場.木造3階建ての1階が浴室.2,3階は,湯治客の憩いの場となる和室大広間.風呂は4,5人で一杯のサイズが3つのみだが,お湯は豊富にあふれ出る.入浴だけなら,今時何と100円 !! |
天拝の湯 | |
天拝山の麓にある天然パノラマ温泉「天拝の湯」が、旬の素材を活かした手作り料理のブッフェレストラン「姫蛍」(ブッフェ・大人ランチ1,500円、夜1,800円)と、会席料理を提供できる大小宴会場を備えた「筑紫野 天拝の郷」として12月14日にグランドオープン!個性的な八角形の浴場にはジェットバス、替わり湯、遠赤外線サウナなど10種のアイテムバスが並び、泉質は単純温泉で効能は神経痛・筋肉痛・関節痛など。家族風呂も6室あり、家族連れにお勧め。また、太宰府が一望できる展望風呂も目玉の1つ。 |
春日市 |
白水大池公園 | |
春日市のシンボルともいえるため池。その中でも最大規模を誇るのが、白水池です。現在白水池は、さまざまな施設を備えた総合公園に整備され、市民の憩いの場として親しまれています。 |
大土居水城跡 | |
白水大池の北の方に大土居水城跡が並ぶ。太宰府に築かれた水城─仮にここでは水城大堤と呼ぶ─と同様のもので、太宰府の西にいくつか通る道をふさぐために築かれた。規模は水城大堤の半分の大きさであるが、前面(博多湾側)に堀を設けるなど構造は同一で、小水城と呼ばれている。 |
奴国の丘歴史資料館 | |
奴国の丘歴史資料館では春日市内の遺跡から出土した埋蔵文化財や、昭和初期の農具を中心とした民俗資料を展示、収蔵しています。また、当館のある奴国の丘歴史公園は須玖岡本遺跡の一部であり、甕棺墓を発掘された状態でみることができます。 |
岡本遺跡 | |
1979年・80年(昭和54年・55年)の発掘調査で、弥生時代中期の甕棺墓116基、土壙墓・木棺墓9基と、これに伴う祭祀遺構が検出されました。その他にも多数の墓壙が検出されていることから、一部破壊を受けたところを含めると、埋葬遺構は300基以上におよんでいたと推定されています。 また、西側の一段低くなった平坦面は住居跡が発見され、同時期に営まれた墓地と集落の存在が明らかになりました。 |
竹ヶ本遺跡・古墳 | |
1961年に行なわれた発掘調査で、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が発見されました。現在は、竹ヶ本古墳(前方後円墳)のみが保存されています。 |
赤井出遺跡・古墳 | |
赤井手土地区画整理事業にともない、1975年から5次にわたる発掘調査によって検出された主な遺構は次のとおりです。 ・弥生時代から歴史時代の住居跡 ・弥生時代の墳墓 ・古墳(赤井出古墳) 赤井出遺跡からは、このほか旧石器時代の石器も出土した。1万年以上も昔から生活の場となっていたことがわかります。 |
下白水大塚古墳 | |
春日市内には現在7基の前方後円墳が、市の西部河岸段丘上に沿って存在しています。 那珂川中流域右岸に立地し、左岸(那珂川町)に立地する前方後円墳郡とともに、大古墳群をなしていると考えられます。当古墳群もその変遷の中に位置付けられるものです。 この下白水大塚古墳は、中・近世以降に墳丘上及び周辺部が墓地として利用されてきたため、原型が損なわれ上部は平らになっています。 |
日拝塚古墳 | |
古墳時代、6世紀前半の前方後円墳です。前方部の一部が削られており、残存する墳丘の全長は40メートルで、周溝を含めると全長56メートルに復元されます。石室は奥行き3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルです。 昭和4年に盗掘を受け、その後石室内から出土した副葬品は東京国立博物館に保管されています。日拝塚古墳出土とされる金製垂飾付耳飾は奴国の丘歴史資料館に展示しています。 |
ウトグチ瓦窯展示館 | |
7世紀の瓦窯跡。丘陵の斜面に作られ、全長は14メートルです。窯の中からは多量の瓦が出土しました。 展示館では瓦窯を発掘調査当時の状態で保存・展示しています。展示館の外には瓦製作時の作業用通路も残っています。 |
大野城市 |
水城跡 | |
水城の堤防は、大城山麓から下大利に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土による土塁で、博多側には幅60メートルの濠がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。 |
那珂川町 |
現人神社 | |
この神社は現人橋のすぐ近く、那珂川町大字仲にある。 底筒男神、中筒男神、表筒男神の3人の神様、いわゆる住吉神が祀ってある。神功皇后が朝鮮へ出兵したとき、この3人の神様(住吉神)が姿を現わし、皇后の軍船を導いたことから、住吉神社を現人神と呼ぶようになった。 |
西隈の防水門 | |
那珂川は大雨がふると両方から山が迫って狭くなっている風早付近がすぐ洪水になり、国道385号線上にあふれ、西隈区にどっと押し寄せていました。これを防ぐために造られたのがこの防水門です。 |
丸ノ口古墳公園 | |
丸ノ口古墳群は、片縄山の山裾に広がる片縄山古墳群の一部で、60基ほどの古墳がそれぞれグループ(群)ごとに造られています。那珂川北中学校建設に先立ち、平成9〜12年までの4年間で42基の古墳を発掘調査したところ、円墳という丸い形をした古墳と、それら円墳の間に造られた小さな石室だけの古墳が見つかりました。 |
下梶原・前遺跡群 | |
この辺り一帯は、下梶原・前遺跡群と呼ばれており、平成元年に行われた発掘調査では、7世紀の終わりごろの住居跡が7棟、炉跡が14基見つかりました。 |
南畑ダム | |
河川名から那珂川ダムだったが、竣工に際して、地域の旧い地名南畑を後世に残したいという地元要望を受けて、南畑ダムに改名。 |
筑紫耶馬溪 | |
背振山地の七曲峠の北麓辺りから流れ出る那珂川が、やがて南畑ダム湖を形成し一気に下る辺りから「筑紫耶馬溪」と名のつく美しい渓谷がある。一帯は渓谷に沿って公園化されており、春の新緑、夏の清涼、秋の紅葉を求めて訪れる人も多いところである |
平蔵屋敷跡 | |
「筑前国続風土記」によれば、慶長年間(1596-1615)の頃、鎌倉初期の武将梶原景時の末裔、梶原平三という者が住んでいた、広大な屋敷の址との言い伝えがある。 |