粕屋


宇美町

宇美八幡宮
安産の守り神として広く知られ、遠方からの参拝客も多く訪れる。神功皇后が三韓征伐からの帰途、この地で応神天皇を生んだのが由来。境内には樹齢2000年以上の2本の大クスがあり、ご神木となっている。

宇美町立歴史民俗資料館
歴史民俗資料館は町内の貴重な文化財の展示公開を行い、郷土の歴史、文化財に対する理解を深めるための施設として昭和55年に開館しました。その後、資料の増加と展示施設の充実を目的として、平成2年には展示室の増築が行われ、現在は民俗展示室、町民ギャラリーがある資料館として広く県下で知られています。

光正寺古墳
光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は粕屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。

須恵町

須恵宝満宮
糟屋郡須恵町を南北に通る県道35号線そばにある「須恵宝満宮」は、玉依姫命・菅原神・須賀神をお祭りしている、応徳2年(1085年)につくられた歴史深いお社。こちらは須恵エリアの産土神として知られ、宝満宮の名前から分かるように、太宰府市の宝満山にある竈門神社の末社にあたるところ。

佐谷建正寺
平安時代に開かれた天台宗系の寺院で、伝教大師最澄が創建したと伝えられている。本尊の十一面 観音像は平安後期の作で、県の文化財指定。毎年4月の第1日曜日は十一面 観音の開帳日で参拝客が多い。

皿山公園
若杉山の山ろくに広がる町立皿山公園は、春には3万本のつつじが咲きみだれる県の名所。梅の花、しょうぶ、あじさいも楽しめ、花の香りいっぱいです。眼下には、福岡市、博多湾を望む一大パノラマが広がります。ここから足を伸ばして若杉山、岳城山、また、ささやきの小径を通って町立久我記念館へ森林浴はいかがですか。カンラン岩の巨石群がゴロゴロと積み重なった、天然のロックガーデンも見ものです。小動物園で孔雀、にわとりと遊んだり、町立歴史民俗資料館で昔なつかしい生活用品や町の歴史を見てみましょう。蒸気機関車や電車もありますよ。

粕屋町

江辻遺跡群
縄文時代前期(約6000年前)〜平安時代(10世紀代)までの遺構や遺物が出土していますが、この中でも弥生時代早期(約2,300年前)の集落跡は朝鮮半島から伝わった「松菊里型」と呼ばれる住居跡だけで構成されるもので、日本でもこのような集落の様子が判るのは、ここだけしかなく、たいへん貴重な遺跡です。

江辻コスモス畑
この一帯のコスモス畑は農家の方々から大切な畑をお借りして婆ちゃんたち数人で種取りから栽培まで一年がかりで行っています。沢山のかたに喜んでいただくのが目的です

駕与丁公園
粕屋町のシンボル、駕与丁公園は四季の営みも体感できる自然豊かなスポーツ・ レクリエーション空間。自然を楽しみながらの散歩やピクニックなどの軽い運動から、グラウンドでの野球利用も可能です。子どもから高齢者まで、町民ひとりひとりの体力や年齢に応じて、健康増進や心のリフレッシュに活用されることを願い設立されました。

駕輿八幡宮
神功皇后香椎より宇美に行き給ふ時仲原の村人御輿をかきこの地に御休息になったので地名を駕輿丁と称し後世に駕輿八幡宮を奉斎した

志免町

志免鉱業所
石炭は、明治から昭和30年代まで日本の代表的なエネルギーでした。炭坑は、北部九州や北海道にありましたが、粕屋地方にも粕屋炭田がありました。
主要な炭鉱は、海軍炭鉱(宇美町・須恵村・志免村・仲原村)、高田炭鉱(勢門村・久原村)、粕屋炭鉱(宇美町・須恵村・志免村)、 久原炭鉱(久原村)、亀山炭鉱(志免村・仲原村)、勝田炭鉱(宇美町)、大谷炭鉱(宇美町)、篠栗炭鉱(勢門村・篠栗村)、宇美炭鉱 (宇美町・志免村)でした。
その中でも、志免炭鉱には国営志免鉱業所があり、明治22年からの海軍時代から国鉄経営の昭和39年閉山まで一貫して国営でした。
昭和3年の出炭量は三井三池炭鉱が2,159,087トン(1位)、三井田川炭鉱の出炭量が1,019,985(4位)トンであったのに対 し、海軍炭鉱は384,935トン(19位)と上位に入ってました。

志免町総合福祉施設
シーメイト
志免町総合福祉施設「シーメイト」は、(1)総合的情報の発信基地 (2)自立と共生を図る (3)だれもがフリーアクセスできる 以上3点のコンセプトの元に建設されました。
 シーメイトでは、将来の少子、高齢社会に備え、誰もが健康で生きがいをもち、地域の中で安心してすごせるように多様なニーズに対応した福祉事業を展開していきます。

七夕池古墳
昭和48年に宅地造成中に発見された七夕池古墳は、高さ3m、直径35.8m、周溝は幅3.5mの円墳である。墳丘は塊石を三段に葺いており、最下段の葺石列は地山を利用し周溝の内側を兼ね、上段と下段の葺石列は盛土で覆っている。
円墳中央に竪穴式石室をもうけ、石室は葺石として使われたものと同じ川原石を小口積みに構築され、内部に、長さ173cm、幅40cm、深さ42cmの組合せ式木棺が安置されていた。

亀山八幡宮
糟屋郡は志免町別府にある「亀山八幡宮」は、その境内に日本最大級の箱式石棺墓があることで有名なお宮。
また、お宮を囲むように広がる森には、県内でも滅多に見られないヤマモガシをはじめとする様々な樹木が混生し、大変貴重な森と言われているそうな。

亀山古墳
亀山神社境内には、1700年前に造られた亀山古墳があります。大型石棺として貴重な資料です。
他に6基の石棺が発掘され、大切な祭り、祈祷もこの場所で行われ受け継がれたと考えられます。

篠栗町

太祖神社
太祖神楽は毎年、4月中旬と10月中旬、若杉山登山口の太祖神社下宮で行われる神事です。現代に伝承されている演目は、榊舞、御幣舞、五行舞などの舞神楽と、天孫降臨、竜都、天岩戸などの面神楽の合計13の神楽です。
笛、ひちりき、太鼓、銅拍子の風雅な旋律とともに舞われます。

若杉の湯
若杉の湯はできる限り多くの自然素材を使用して建築しております。木がもつ味わいが建物をしっとりと落ち着いた雰囲気にさせます。
また、大黒柱には若杉山の国有林に生えているような古杉を使用しています。杉は年輪をとると黒みがまして、なんともいえない味わいをかもしだします。

久山町

伊野天照皇大神宮
伊野天照皇大神宮(通称伊野神社)は九州の伊勢と呼ばれ、神殿も伊勢神宮を模して築造されました。近くには、猪野川が流れ夏には涼を求めて訪れる人たちで賑わいます。また、毎年春には大祭が催され、剣道や柔道の奉納試合や縁日の出店で賑わいます。境内には町指定文化財の欅があります。

猪野観音堂
観音菩薩立像(室町時代頃の作と伝えられている)、千手観音立像が安置されています。

新宮町

梅岳寺
梅岳寺は山号を立花山、寺号を梅岳寺といい、曹洞宗に属します。
初めは花谷山神宮寺として、元中二年(一三八五年)室町幕府の三代将軍足利義満の時代に創立されました。
天正三年(一五七五年)に立花城の城督であった立花道雪の母、法名養孝院をこの寺に埋葬し、母の法名と道雪の姓をとり立花山梅岳寺養孝院と改めました。

六所神社
立花山の北麓「立花口」にある「産土神」である。
人々が、土地の開墾にあたり五穀豊穣を祈った所とされる。 「六所宮」「六所大権現」として地域に親しまれている。古代より「天照大神」が鎮座していた。その後、様々な大神、産土神を合祀し「六所大権現」となった。
立花山城督「立花道雪」は出陣に際し必ず「武運」を祈願したという。

独鈷寺
独鈷寺は、唐から帰国した最澄が布教のために建てたお寺で、千年家物語にあるように、最澄が「独鈷と鏡を天高く投げて、落ちたところにお寺を建てよう。」と、独鈷と鏡が落ちた場所だと言われています。
独鈷と鏡は現在も宝物としてお寺にしまってあります。

横大路家住宅
唐から帰国した最澄は、現在の古賀市花鶴が浜に上陸し、独鈷寺建立のため横大路家にしばらく滞在した。その礼として、「毘沙門天像」「法火」「岩井の水」を授けられた。「この3つを大事に守れば、家は末永く繁栄する」との最澄の教えを守り現在では四十四代を数えるようになった。中でも「法火」は現在まで消えることなく約千年の間燃え続けていることから「千年家」と称されるようになった。

太閤水
豊臣秀吉が博多からの帰路、ここの井戸水を口にしたと伝えられており、『太閤秀吉』の名にちなんで太閤水と名付けられました。

古賀市

古賀神社
昔古賀村内には東に氏神浦口神社あり西には氏神皇石神社あり各々崇敬厚く自ら村内は二分されし感じがあった。  尚字植松には貴布祢神社字後牟田には日吉神社があったが昭和二十七年二月十七日浦口神社に合祀して古賀神社と名を改めた。

萬徳地蔵
当地に安武タネと言う稲荷様を信仰する行者(萬徳様)が居られて、遠近より多数信者の参拝が絶えなかったが大東亜戦争中に老衰と病弱、その上一人暮らしの為、難渋な晩年を送って、昭和17年9月某日、人知れず世を去られた。けれども、その後神仏共に祭られる事無く放置されてそのためか、近隣に病人や災難が絶えなかった。それで、これ以上拡大することのないよう又、部落の平和と発展を記念する為、萬徳地蔵としてお祭りすることとなり堂宇を建立した次第です。




宗像

1