福岡


東区

筥崎宮
宇佐、石清水とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。923年の創建と伝えられるが元寇の役などで数度の火災にあい、現在の本殿は1546年に再建されたもの。1月3日の玉 せせり、9月の放生会などが有名。

放生会大祭
生きとし生けるものの生命を慈しみ守られる八幡大神の御心にこたえる祭で、実りの秋を迎えて海山の幸に感謝を捧げる祭でもあります。その起こりは八幡大神の「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」との御神託によるもので、本宮では千年以上前から続く最も重要な祭典です。

名島檣石
名島神社境内の海岸に露出する珪化木。これは古第三紀のカシ属の化石で9個のブロックに分離し、東北から西南に横たわっている。「帆柱石」とも書き、神功皇后の三韓出兵の際に使われた船の帆柱が化石になったという伝説が残っている。国の指定天然記念物。

名島神社
海上交通の神である宗像三女神を祀る。三方を海で囲まれたこの地は、戦国時代には立花城の支城名島城が置かれ、豊臣秀吉の九州出兵の後には小早川隆景の居城となり、ついで関ヶ原の戦い後、初代福岡藩主黒田長政も入城した。神社下の海岸には、国の天然記念物「名島檣石(ほばしらいし)」がある。博多八景の1つであり、夕映えが大変美しい。

名島城跡
かつての戦国時代の平山城を天文年間(1532〜1555)に立花城主立花鑑載が支城として築造し、1600年に黒田長政が入城したが、手狭であったことから福岡城を築城し、慶長12年(1607)福岡城の完成、移転とともに名島城は廃城となった。小早川隆景が入国した折に立花城が不便だったために名島に新しく築城した。現在は名島神社となっている。

香椎宮
香椎宮は、仲哀天皇が九州の熊襲平定の途中、香椎の地にあった橿日宮で急逝したため、神功皇后がその霊を祀ったのが始まりとされる。奈良時代に元正天皇の命により造営が始まり、九州の課役をもって724(神亀1)年に完成したといわれる。古来は香椎廟と呼ばれ、明治以降に香椎宮と証するようになった。旧官幣大社として高い格式を誇る。

仲哀天皇橿日宮蹟
仲哀天皇の皇居橿日宮の跡であり又神功皇后が自ら仲哀天皇の神霊を祀られた香椎宮創建の地でもある。
以前は仲哀天皇の神廟があったので『古宮』と言い仲哀天皇の御棺を掛けたと伝える棺掛椎が六角の玉垣の中にある。

不老水
日本名水100選に選出される名水である。
時の大臣であった武内宿禰が、天皇へお出しする料理を作るのに使い、また自分の食事やお酒を作るのにこの水を使ったとされる湧水で、そのおかげか武内宿禰は300歳とも360歳ともいわれるほど長寿だったという。

武内屋敷
ここは、神功皇后の新羅遠征で功績のあった武内宿彌が、香椎在陣中に居住したと伝えられている。宿彌は300歳までも生きたという伝説の人である。

金印公園
日本の起源について多くの話題を呼び、国宝にも指定された国宝の金印「漢委奴国王」が発見された地が、現在公園となっている。金印広場には、中国原産の樹、金印碑、あずまやがあり、方位広場では、金印伝来に関係の深い都市の方向と距離を、15m四方の円型内に表示してある。 また近くには、元軍の兵士を葬ったという蒙古塚があり供養塔が建っている。

福岡ぽかぽか温泉
サウナや露天風呂、大きな浴槽や、体と心の両方のリラクゼーションを感じることのできる様々なアトラクションなどがある。また、リーズナブルな料金でカップルからファミリーまで幅広い年齢層に人気がある。

博多区

櫛田神社
平安時代に創建されたとされ「博多祇園山笠」や「博多おくんち」が奉納される博多の総鎮守として地域に親しまれている。樹齢千年とも言われる「櫛田のぎなん」や博多塀などで歴史を感じる一方、若いカップルが結婚式を挙げる姿も見られる。

飾り山笠
山笠の楽しみは、「静」と「動」の2つの側面がある。「動」の山笠は、7月10日から動き出す勇壮な舁き山笠で、そのクライマックスは7月15日早朝の追い山である。舁き山七流が山笠を櫛田神社に奉納することで市民の無病息災と家内安全を祈願する。

博多町家ふるさと館
明治中期の博多織織元「三浦家」の町家(住居兼工房)を移築・復元し、当時の博多の暮らしを再現した観光施設。博多人形の絵付けや博多織など伝統工芸の制作体験ができる。
開館時間:10:00〜18:00(入館は17:30まで)

万行寺
普賢山として真宗本派に属する。開山性空は七里隼人と言い、蓮如上人の法弟である。
享禄2年(1529)、師の命により、九州へ布教中 博多に留り 今の普賢堂町へ道場を建てた。永禄年間 本山から万行寺の号を給わりまた、弘治3年(1557) 堂宇を馬場町、次に 寛文5年(1665)現在の地へ移した。明治の高僧「七里恒順和上は当時の住職として有名。
寺内には筑前藩の儒者「竹田春庵」一門、名娼明月などの墓がある。

九州鉄道発祥の地
博多駅は1889年開業で、旧博多駅は現在の出来町公園の一角にあった。九州の鉄道開業90周年を記念して、1979年、国鉄九州総局の手で「九州鉄道発祥の地」の碑が出来町公園に建てられた。中央の碑を両側で支える車輪がC6118型といわれるもので大人の背丈ほどもある。

住吉神社
海運厄除けの神として知られる住吉三神を祀る当社は、全国住吉神社の始源で、古書にも住吉本社と記されている。本殿は元和  9年(1623年)に黒田長政公が再建されたもの。(国指定重要文化財)西日本有数の名舞台として知られる能楽殿は、現在能狂言をはじめコンサート等も行われ、広く文化施設として利用されている。

キャナルシティ博多
運河(キャナル)を取り囲むように、ホテル、劇場、映画館、ショップ、レストラン、専門店、オフィスなどがひしめく、未来都市を思わせるような巨大な商業施設。
ショッピングに、レジャーに、そしてグルメにと、ここに来ればとにかく退屈することがありません。天神と博多駅のちょうど真ん中にあって、福岡観光では人気のスポットです!

高灯籠
明治32年。漬物屋 八尋利兵衛が 住吉から中洲付近まで 開発し遊園地「向島」を開園した。その開園記念に 建設された灯籠で 昭和29年に 清流公園内に移された。灯籠には 商家の 屋号が 刻まれていて、当時の 博多経済界を知るうえで 貴重な民族資料である。

下照姫神社
博多の浮殿とも呼ばれた下照姫神社は住吉神社からキャナルシティを越えて北に500メートルほどの位置にあり、下照姫神(吉聖(祥)天)を祀り縁結びの御利益があるとされています。

中洲懸橋
ここに橋(春吉橋)が初めて架けられましたのは、延宝6年(1687年)江戸時代と史籍に記録されています。
以来300年の間、春吉橋は、幾度かの改修がなされてきましたが、明治43年開催の博覧会を期に架替えられた橋は、橋脚に花崗岩を使用し日本古来の石組工法を採用するなで当寺としては、画期的な橋に生まれ変わりました。
この橋は、第3回国体のため新しい春吉橋がすぐ上流に建設され、取壊される予定でありましたが、地元の強い要望により「中洲懸橋」と名前を変えて残されました。

博多座
数多くの劇場が立ち並び、芝居や演劇が興行されてきた芸所博多の伝統を継承する。外観は洗練されたビルだが、入り口には歌舞伎絵やのぼりが飾られ演目にあわせた演出で風情がある。歌舞伎やミュージカル、芝居など幅広い演目の公演で人気。

福岡アジア美術館
福岡アジア美術館は、アジアの近現代の美術作品を系統的に収集し展示する世界に唯一の美術館です。それらの作品は、西洋美術の模倣でもなく、伝統の繰り返しでもない、変化しつづけるアジアの「いま」を生きる美術作家が切実なメッセージをこめて作り出した、既製の「美術」の枠をこえていくものです。広範で質の高いアジアの近現代美術作品の展示は、世界のどの美術館とも異なる独自性と魅力を持っています。

博多川端商店街
「晴れて誓文、掛け値なし」という合い言葉で年末商戦の口火を切る恒例行事が誓文払い。日頃のご愛顧にこの日ばかりは正直に大安売りしますという思いが込められている。人気のぜんざい広場では飾り山笠と日本一甘いぜんざいを楽しめる。

川端ぜんざい広場
大正初期に開業。昭和60年に一度閉店したが地元商店街の有志により再開。川端ぜんざいは日本一甘いと評判。博多川に臨む広場には、博多祇園山笠の飾り山が常設展示され、博多の下町情緒にあふれている。

東長寺
東長寺は806年空海弘法大師が唐から博多に戻った時に、唐から持ち帰った教典や仏具を保管するために建てられた。真言密教が東に長く伝わるように祈願したのが寺名の由来といわれている。東長寺は、豊臣秀吉による「太閤の町割り」のほぼ中心軸であった現在の大博通りに面して建っている。

龍宮寺

浄土宗。開山は谷阿上人。開基年不詳。当初は袖の湊の海辺にあり、浮御堂と称していたが、貞応元年(1222)に海中より人魚が出現した際に国家長久の瑞兆と占われた。その人魚を寺内に埋葬したことにちなんで、寺名を龍宮寺と改称。また、この時朝廷より下向した勅使・冷泉中納言の姓をとって、冷泉山と号するようになった。文明12年(1480)、正風連歌を確立したことで有名な宗祇が、この寺に寄寓し「秋更けぬ 松のはかたの 奥津風」と歌に詠んだことで知られている。


旧上小山町
「旧上小山町」碑は、大博通りをはさんで東長寺のむかいの竜宮寺の入口にある。竜宮寺は連歌で有名な宗祗ゆかりの寺で、このあたりはかつて小山町といわれていた。石碑が示す通り「博多独楽」の発祥地がこのあたりであった。中国本土を経由して渡来し、その後日本で改良されて450年余りの輝かしい歴史をもつ独特の独楽が博多独楽である。

承天寺
臨済宗東福寺派で、山号は萬松山。開山は聖一国師(円爾弁円)によるもの。仁治3年(1242)宋出身の貿易商・謝国明が創建し、寺蔵の釈迦三尊像(鎌倉期)、禅家六祖像(鎌倉期)、銅鐘(高麗時代)は国の重要文化財に指定されている。昭和50年(1975)、韓国の新安沖海底引揚げの沈没船から子院釣寂庵の銘のある木簡が発見され、対外貿易への関与が証明された。さらに、博多織の祖として伝えられる満田弥三右衛門の墓や、延宝2年(1674)に博多の商家・谷宗理が桜井神社から買い取って、承天寺に寄進・建立した鐘楼もある。

若八幡宮
大晦日の若八幡宮への厄除け祈願は博多の人たちには欠かせないしきたりとなっている。年越厄除大祭では旧年のお札や神棚の飾り物を境内の火に納め、新たな年に備える。名物の起きあがり(だるま人形)は七転び八起きの縁起がこもっている。

ういろう伝来の地
中国は元の時代, “礼部員外郎”という名前の官職があった。この「外郎」が「ういろう」の由来である。
元が滅亡して明朝が興ると, 「礼部員外郎」であった 陳延祐が日本に亡命し妙楽寺に住み, 陳外郎を姓とした。 その子 陳外郎宗奇は 明にわたって医学を修め, 気付け・胃腸薬「透頂香」を日本に伝えた。 これを 陳外郎の名前をとって「ういろう(外郎薬)」という名前で売り出した。
ところが, 「透頂香」は大層苦いため, 口直しとして米粉で作った菓子を添え, これが現代の「ういろう」になった という説がある。

妙楽寺

臨済宗大徳寺派で、山号は石城山。東長寺東側の南北に走る小路奥にある。正和5年(1316)、大応国師(南浦紹明)の法弟・月堂宗規の開基。石城は元寇防塁にちなむ博多の異称。草創の寺地は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど対外交渉の一拠点になっていた。天正年間(1573〜1591)に焼失し、初代福岡藩主・黒田長政の入国後、現在地に移転した。江戸初期の貿易商人・神屋宗湛の墓もある。


聖福寺
臨済宗妙心寺派で、山号は安国山。建久6年(1195)に千光祖師・栄西禅師の開山、源頼朝公の開基。博多居住の宋人・百堂跡に創建され、山門の扁額『扶桑最初禅窟』は後鳥羽上皇の宸筆で、「日本最初の禅寺」という意味。六祖大鑑禅師像などの国指定重要文化財を所蔵し、禅寺の伽藍配置をよくとどめる境内は国指定の史跡となっている。文化・文政期の仙腰a尚はユニークで、含蓄に富んだ書画によって衆生済度した名僧として有名だ。仏殿には慧心僧都作の三尊仏を奉安。佛殿の内部を拝観すると、中央須彌壇の上に釈迦・弥勒・阿弥陀の三尊仏が鎮座し、世俗を離れた厳かな空間が構成されている。

幻住庵

延元元年(1336)の創建で、無隠元晦による開山です。
以前は、那珂郡馬出村(福岡市東区馬出)にありましたが慶長末期から正保初期にかけて博多の豪商、大賀宗九・宗伯父子が現在地に移し宗九を開基としました。庵内の虚白院は文化・文政年間、聖福寺の名僧仙腰a尚が隠栖したところです。
墓所には大賀宗九父子の墓があります。


西教寺
福岡県福岡市博多区にある浄土真宗東本願寺派の恵日山西教寺。御笠川の沿岸に位置し、本堂や鐘楼、墓所のほかに、万霊塔などを伽藍に有する。天文13年(西暦1544年)の開山。

善導寺
浄土宗鎮西派、光明山悟真院。開基、建歴2年(1212)鎮西聖光上人が、善導大師を本尊として、建立。文明9年(1477)広誉上人が再建。当初は、まだ善導寺という名前ではなく、善導大師を祀り、百日間の説法を鎮西上人がされたので、博多談義所と呼ばれていた。後土御門天皇(1198〜1210)のときには、その祈願所とされており、順徳天皇(1210〜1221)が光明山悟真院善導寺と勅号されて勅額を下賜された。また大内氏の手厚い保護を受け、天文7年(1538)には、大内氏の祈願所にもされている。

妙典寺
永徳元年(1381)、本成院日円上人が柳川に建立。立花宗茂の家臣であった薦野(こもの)増時が当地に移転させ、立花家の菩提寺とした。開山は日秀。慶長8年(1603)4月25日、京都妙覚寺の僧であった日忠は、当地においてキリスト教の布教に努めていたイルマン(宣教師)の旧沢らと宗論を行なった。これが「石城問答」で、宗論に勝った日忠は初代福岡藩主・黒田長政から教会の地を与えられ、正興山勝立寺(中央区天神4丁目)を建立した。

本興寺
天文三年(1534)二月、糸島高祖城主原田信種の臣、近藤修理亮其興によって、廃絶したる天台宗応海寺を再造して、身延山第十三世寳聚院日傳上人を中興開山の住持し、起雲山本興寺と改める。
当山に安置される大黒天は、安土桃山時代、博多の豪商神屋宗湛が天正十年(一五八二)六月京都本能寺に滞陣中の織田信長の茶会に招かれていたが、夜半大黒天の霊夢により、あの明智光秀の謀叛から逃れ、無事博多に帰ってこられたのを感謝して、寄進されたのが始まりである。

松源寺
松源寺は、寛政義民松原五人衆の過去帳を有する寺です。最近では1999年に、寛政義民松原五人衆の200周年法要がおこなわれました。また、1873年の筑前竹槍一揆では一揆勢に焼かれましたが、その後崇福寺の佛殿をゆずりうけて本堂としました。今ある本堂がそれです。この本堂は1607年に崇福寺の佛殿として建てられたもので十間四面の大きなものです。

嶋井宗室屋敷跡
博多三傑の一人として、博多を代表する豪商・嶋井宗室。当時、広大な屋敷があった場所に石碑がある。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に異論を唱え、出兵回避に努力した。彼が残した17カ条の遺言は、社訓のルーツと言われ貴重とされる。

万四郎神社
江戸初期の貿易家・伊藤小左衛門の子である小四郎と万之助の霊を祀ると伝えられ、子供の息災の神として崇敬されている。小左衛門は朝鮮への武器輸出が発覚し、寛文7年(1667)長崎西坂で処刑され、その家族も連座して処刑された。人々は幼い子供の死を悼み祀ったという。しかしながら、藩主の信任の厚かった伊藤家への配慮か、母子3人は助命されたという言い伝えもある。

日蓮聖人銅像
明治37年に建てられたこの銅像は、文応元年(1260)「立正安国論」を書き、いち早く元の襲来を予言して、当時の執権北条時頼に警告した日蓮聖人の像である。高さ11.55メートル、重さ75トン、8角形の台座には「立正安国」の文字と聖人の一代記が描かれている。

元寇資料館
福岡県庁のある東公園の一画にある史料館。ここでは約800年前、北部九州を元軍が襲った「文永の役・弘安の役」の史料を展示している。当時の両国の武具があり、動物の硬い皮で作ったモンゴル型の鎧など、日本の鎧とは違う点で文化の勉強にもなりそう。明治の洋画家・矢田一嘯作が描いた元冦絵や江戸期の刀剣、火縄銃なども展示している。

亀山上皇銅像
この銅像は、13世紀後半の元寇の際に亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を祈願された故事を記念して、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄等の17年有余の尽力により、明治37年、元寇ゆかりのこの地に建立された。

十日恵比須神社
福の神である恵比須神を祭る。恵比須神は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、商家の信仰者が多い。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を本えびす、11日を残りえびすと呼び、参道を埋める露店や博多芸者の「徒歩参り」で賑う。

板付遺跡
板付遺跡は、縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて営まれた、日本最古の稲作集落跡のひとつである。
1867(慶応3)年に銅矛5本が遺跡の上にある通津寺境内より出土した記録に始まり、1916(大正5)年には低い台地の一部から弥生前期末の甕棺と細形銅剣3本、銅矛3本を副葬した墳丘墓が発見された。昭和26年から昭和29年には日本考古学協会などが発掘調査を行い、日本ではじめて弥生時代初頭の土器と縄文時代終末期の土器が一緒に出土し、また石包丁や炭化米なども発見されたため、弥生時代初頭より稲作農耕がおこなわれていたことが明らかになった。

板付遺跡弥生館
遺跡のすぐ脇に、広い駐車場を完備した弥生館がある。復元した水田も敷地内にあり、近所の小学生達による田植え、刈り 取りが行われている。弥生館は、板付遺跡から出土した遺物を中心に、弥生時代全般を学習できるような構成になっている。 復元された農機具などは、今でも田舎に行けば使われているものと同じである。

金隈遺跡
福岡市の市街を流れる御笠川の中流域に月隈丘陵がある。丘陵から三百数十基の甕棺墓等が発見されてから三十数年になる。大量の甕棺墓や土壙墓、石棺墓が並存することや保存状況のよい人骨が大量に出土した遺跡としてよく知られている。発掘現場に覆屋をかけるようにして展示館が建ち、遺跡は半永久保存されている。

下月隈八幡宮
聖武天皇天平宝字3年(759)大宰師三船親王造立給うと社傳にあり。
筑前国席田郡総鎮守たりし神社なり。
明治5年11月3日郷社に定められる。

中央区

天神中央公園
明治通りから少し入ったビルの谷間に6000平方メートルの芝生広場を有する公園。南側にはギリシア神殿のようなオブジェがある噴水広場、北側には軽食がとれる売店がある。

旧庁舎石柱
天神中央公園及びアクロス福岡一帯には明治9年(1877年)から昭和56年(1981年)まで福岡県の行政の中心として県庁が立地していました。
県庁は、ルネッサンス様式を主体とした木骨レンガ造の2階建半地下式延べ8400u余の建物でした。

アクロス福岡
天神中央公園のそばに建つ。音楽専用ホールの福岡シンフォニーホール、国際会議場など国際都市のカラーを感じさせる施設がそろう。ショップやレストランもある

警固神社
天神バスセンターの裏手にあり、都会のオアシスとなっている警固神社。
建立のはじまりは、神功皇后が鎮護の神として福崎(市内中央区)に祭ったといわれている。
その後、初代藩主黒田長政は慶長7年(1602)長男忠之が生まれると、その産生神(うぶすながみ)として崇敬し、ひとたび警固村(市内中央区)の山上に移したが、一般の参詣を容易にするため、慶長13年(1608)に現在地に移されたものである。

警固公園
西鉄福岡(天神)駅のすぐ裏手、福岡三越とソラリアプラザに囲まれた開放スペース。噴水のある広場にベンチを配し、花壇には季節の花々が咲く。

田原淳居住址
1903年 東京大学を卒業後に私費でドイツへ留学。マールブルグ大学病理学教室でL.Aschoffに師事。
1906年 田原の結節を発見し、”Das Reitzleitungssystem des Saugetierherzens”という論文を発表。
”田原の結節”は本来”アショフ−田原の結節”と呼ぶが、アショフの名前は省略されることが多く見受けられる。
帰国後、福岡医科大学(現九州大学医学部)の助教授となり、翌年には35歳にして教授に就任、退官後は名誉教授となる。

鳥飼八幡宮
鳥飼八幡宮は、その昔、神宮皇后が鳥飼村平山なるところで、当時お腹の中にいた皇子(後の応神天皇)の将来を祝って酒宴を開き、そこで一夜を明かしたという伝説から、後に子どもの健やかな成長を助ける子安の御利益として広まり、いつもたくさんの参拝客が訪れています。

大濠公園
日本でも有数の水の公園で、池の周囲約2Kmの周遊道はジョギング姿の人が絶えない。緑が多く、珍しい野鳥も生息しているのでバードウォッチングには最適で、市民の憩いの場となっている。

福岡城跡
筑前52万石の領主となった黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城した城で、「舞鶴城」ともいう。現在、大手門や多聞櫓などが残り、市民の憩いの場となっている。

鴻臚館跡
奈良平安時代に外交使節の接待に使用した迎賓館。当時の宿泊所「宿房」を復元したほか、7〜11世紀の中国の青磁気や西アジアのガラス製品などを展示。展示館で復元建物、出土している遺物、ビデオ鑑賞ができる。

福岡市美術館
大濠公園の一角にある美術館で、常設展は古美術からミロ、シャガール、ウォホールの作品や、青木繁、坂本繁二郎などの郷土出身の画家の作品が展示されている。

福岡県護国神社
明治維新より第二次大戦に至る福岡県出身の殉国の英霊12万余柱を奉齏(ほうさい)。大濠公園の東南に位置し境内は2万坪余り。春季大祭(5月3、4日)、秋季大祭(10月)には参拝者が多く、特に春は博多松ばやし、博多どんたくの参拝で賑う。お盆はみたままつり(8月13日〜16日)の献灯ぼんぼりが1万数千灯り、境内は不夜城と化す。福岡市の中心部に鎮座する静寂な境内。

ヤフードーム
日本初の開閉式屋根を持つスタジアム。市民球団・ソフトバンクホークスの本拠地であり、コンサートやイベントも開催される。

ホークスタウン
ホークスタウンは、「ヤフードーム」「JALリゾートシーホークホテル福岡」「ホークスタウンモール」から成る一つの街を形成しています。見る・遊ぶ・食べる・泊まる・買うなど娯楽の全てが充実。海と市内を見渡せる最高の眺めを楽しむことができます。夜には一際明るく輝きその外観はまるで夜空に浮かぶ豪華客船のようです。

天神ゆの華
九州一の繁華街、天神からは徒歩圏内。1階と2階の浴場は男女日替わり制。それぞれ内風呂と露天風呂がある。ラベンダーなどのハーブの香りが漂うサウナを設けている。

光雲神社
山頂付近にある光雲神社は黒田如水と黒田長政を祀っている神社です。
光雲神社の境内には「酒は飲め飲め飲むならば日の本一のこの槍を・・・・」で有名な黒田武士の母里太兵衛像があります。

西公園
西公園は博多湾に突き出た面積約17万平方メートルの丘陵地にある。ここの展望台からは博多湾、遠くは志賀島を望めるが、埋め立てが進み海は遠くなり、眼下には人家やマンションが目立つ景色になっており、もう一歩の展望です。

南区

興宗寺
その昔、黒田長政が福岡城築城の際、この地域にあった古墳群の石材を取っていましたが、夢の中に観音様のお告げがあり、この作業をただちに中止して補修しました。ついで忠之もまた帰依し石窟(せっくつ)の前に拝殿を建て、綱政の時代には鞍手郡能毛村より興宗寺を遷(うつ)して、名僧山道白禅師を請じて開創。もっぱら福岡城鎮護の道場としました。

赤穂浪士
四十七義士之墓
赤穂四十七義士は東京の高輪泉岳寺に祭られ供養されています。ここにある赤穂四十七義士の墓は昭和10(1935)年、篤志家の木原善太郎氏(当時六本松在住)が私財を投じ、泉岳寺と同宗である興宗寺境内に配列はおろか地形から玉垣まで模して、同じ形式の墓を建立したもので、全国的に類のない貴重な史跡です。

穴観音石窟
これはおよそ千四、五百年前の古墳で、貝原益軒の「筑前国続風土記」に、「奥の正面大盤石に、石像を刻めり。中位は弥陀、左右を観音、勢至あり。其巧奇古にして、凡工の及ばざる処也。国中石窟多しといへども、如此大なるはなし民俗は穴観音と云ふ」とあります。西郷隆盛の西南の役に福岡党が立つやこの穴観音石窟において、明治10(1877)年3月29日会談しました。これを穴観音会議といいます。翌30日福岡党は県庁鎮台を襲いましたが、事は成りませんでした。なお、俗に穴観音石窟は、福岡城の抜け穴とも言われています。

城南区

梅林古墳
福岡市は城南区、地下鉄七隈線の梅林駅そばにある「梅林古墳」は、5世紀後半につくられた全長27メートル、高さ3メートルの前方後円墳で、横穴式の石室内部の玄室からは須恵器や土師器などの土器、鉄器、馬具、ガラス製の玉類などが出土しています。また周囲は古墳公園としてキレイに整備されています!

油山観音正覚寺
臨済宗東福寺派。山号は東油山。もと東油山の座主坊泉福寺。天平年間(729〜748)西域僧清賀上人の開基。東油山は 360の僧坊が建つ一大法域。油山の地名は清賀が胡麻で油を作り諸寺に送ったことによるといわれている。天正年中、兵火にあい全山炎上。元禄7年再建の時、寺号を正覚寺とした。現在では油山観音で知られ、聖観音坐像は国指定の重要文化財。

ひばり観音堂
昭和の国民的歌手・美空ひばりをまつったもので、百円をいれるとひばりの曲が流れるしかけがある。

早良区

福岡タワー
全長234m。海浜タワーとしては日本一の高さを誇る。福岡市西副都心のシンボル的存在であり、8000枚ものハーフミラーで覆われた正三角形のシャープな外観は「ミラーセイル」の愛称で親しまれている。地上123mの5階展望室から見る福岡のパノラマ景色は圧巻モノ!最新式のテレビ望遠鏡も設置されている。

元寇防塁
元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれたが、その構築、修理、警固番役等については知られていなかった。大正9年、西新の防塁が発掘され、石塁が露出した。昭和36年にその一部の保存措置を行ったが十分でなく、昭和44年の本格的発掘調査後、現在西新地区として見学できる整備がなされた。

西区

愛宕神社
福岡最古の歴史を持ち、日本三大愛宕のひとつ。室見川河口西側の丘陵上にあり、古くは天忍穂耳尊と伊弉諾尊の2神を祀る鷲尾神社であった。後に火産霊神と伊弉冉尊の2神を祀り、明治34年(1901)からは愛宕神社として4神が祀られている。

愛宕山ケーブルカー跡地
この愛宕神社の境内地である丘の上より明治通り愛宕下までを日本で二番目、九州初となるロープウェイ(当時はケーブルカーと呼ばれていた)が愛宕神社参拝用として結ばれておりました。

岩窟弁財天
往昔 姪浜の住民浦某宗像宮に漁人の海上安穏を祈願した砌 「是より西南へ八里鷲尾山北麓の海辺に有縁の地あり」 との詫宣あり依って宝鏡を拝しこの岩窟に奉祀する のち江戸時代に至り本地仏弁財天として鎮座せり爾来 神燈綿々悠久の霊威を発揚し給えり

野方遺跡
弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡。国指定史跡。弥生時代には大小2つの環濠集落が営まれ、古墳時代に300基以上の住居が造られたとされている。墓地は住居から離れ、箱式石棺墓や木棺墓が1ヶ所にまとまっているのも特徴。

飯盛神社
上宮跡地の飯盛山頂は平安時代の瓦経の出土地。近くの堂には鎌倉時代の文殊菩薩像や南北朝時代の板碑がある。龍の彫刻が見事な本殿は天明6年(1786年)に建立されたもので市の文化財。社宝の狛犬一対、粥だめしの祭器具、古文献は県指定の文化財。毎年3月に年の豊凶を占う「かゆ占」があり、秋は「流鏑馬」が奉納されてにぎわう。

丸隈山古墳
高祖山から北にのびる丘陵端につくられた前方後円墳である。墳長85m、高さ8mで、墳丘斜面には葺石があり、墳頂部と段テラスの三段に円筒埴輪がめぐる。後円部中央に、北に入口を向けた横穴式石室があるが、入口部は江戸時代に破壊された。石室の現状は、幅2.4m、長さ4m、高さ2m小さな割石を積み上げた構造で、初期の横穴式石室の特徴を示す。石室内から鏡や匂玉、鉄刀などの副葬品が出土した。

若八幡宮古墳
今宿バイパス徳永東交差点の南側、若八幡宮神社内にある前方後円墳である。墳長47m、後円部三段、前方部二段の築成で、墳丘には葺石を施す。埋葬主体部は長さ2.75m、幅1.2mの舟形木棺(材質はスギ)で、後円部中心に掘られた径13m前後の円形墓壙の中に古墳長軸と直交して埋置する。棺内外には三角縁神獣鏡、玉類、鉄製武器類、鉄製短甲などを副葬する。4世紀後半の築造と考えられる。

若八幡宮神社
大鷦鷯天皇(仁徳天皇)を祀ったもので、鎮座の時代は不詳です。
寛政2年(1790年)建立の石燈籠と文政13年(1830年)建立の石鳥居があります。

宮崎安貞書斎
福岡県黒田藩の篤学者で、農業の実施指導のかたわら農業全書10巻を著した。25歳の時、二代藩主黒田忠之に山林奉行として仕えたが辞職。諸国を巡歴して農業技術を学んだ。その後女原村に住み、農業の実践・研究・指導に専念し、宮崎開などの新田開発も指導しながら、日本初の体系的な農業技術書『農業全書』を完成させた。

宮崎安貞墓
宮崎安貞は、元禄9年(1696年)に不朽の名作「農業全書」10巻を著した。この全著は、我が国最初の農書として名高く、明治時代に至るまで版を重ね、農業の発展に尽くした。女原には、今も「宮崎開き」の地名が残っている。






筑紫