宗像


宗像市

宗像大社
古代より道の神様として信仰されている宗像大社。その名は、日本書紀にも記されています。遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全の為に必ず参拝をしていました。このように交通安全の最高の守護神として宗像さまは、今も人々から篤く崇拝されています。

鎮国寺
鎮国寺は弘法大師(空海)が中国より帰朝した大同元年(806年)日本で最初に創建したと伝えられるお寺です。
 宗像大社の神宮寺として栄え、七堂伽藍を構えています。寺には、弘法大師の作と伝えられる「不動明王立像」(国指定重要文化財)、五仏堂(県指定文化財)、護摩堂などがあります。

神湊
宗像市神湊には玄海の生きのいい魚やアワビ、サザエを食べさせてくれる割烹旅館が多い。
むかいの筑前大島への連絡船が発着し、天気の良い日は堤防にずらりと釣人が並んで糸をたれている。
伝説「神功皇后」御手洗池、日本地図を作った「伊能忠敬」宿泊跡や風来の歌人「種田山頭火」もこの地を訪れ歌を残している。

道の駅 むなかた
「道の駅むなかた」は宗像大社の横を流れる釣川の河口近くにあります。愛称は「みあれ玄海」といいます。これは宗像大社の「みあれ祭」にちなんで付けられたようです。この道の駅は海に近い場所にありますから、玄界灘の荒波にもまれた活きのいい魚や地元の野菜などを販売している観光物産館と、旬の食材を使用して「おふくろの味」が自慢の「おふくろ食堂はまゆう」、地域の情報を発信する「情報コーナー」などがあります。

鐘崎(上八)貝塚
貝塚は縄文時代の遺跡で、昭和七年に発見された。サザエ・アサリ・アカガイ等の海辺・岩礁性の貝類に、シジミ・ニナと淡水性も混じっている。砂浜の裏側は淡水の湿地で、古くは自然の入江となっていた。魚や獣の骨も多く、石銛・骨製釣り針などの漁労具も見られる。土器は肥厚な口頸に直線や弧状の沈線文が巡り、胴部が張りを持つ鉢形土器が多く出土している。

平等寺瀬戸遺跡
この古墳の特徴は、後室奥壁に板状の石材を棚のようにはめ込んだ「石棚」を造り付けていることである。石棚は重要な古墳に採用される構造で、盗掘を受けていたが、出土遺物には金銅装の大刀鞘金具、国内最大級の馬鈴などがあり、被葬者の権威がしのばれる。

東郷高塚古墳
この古墳は、許斐山から北へ延びる丘陵の先端に位置している。標高は30mほどで、釣川中流域の沃野を一望できる立地を占めており、宗像地域最古級の前方後円墳として著名である。

宗像ユリックス
スポーツと文化が融合した複合施設。コンサートなどが催されるホール、美術ギャラリー、プラネタリウムがある本館、温水プールやトレーニングジムを設けたアクアドームがある。

久原澤田古墳群
墳丘の全長45m、2段築成で、周囲には一部に楯形の周堤が巡る。内部主体は、単室の横穴式石室で、遺物は石室内部から馬具・工具などが、また墳丘からは宗像では珍しい家形埴輪や人物埴輪が出土している。

久原瀧ヶ下遺跡
この遺跡は、釣川の支流である高瀬川左岸の段丘上に広がっています。メイトム宗像の建設にともない、宗像市教育委員会が平成7年2月〜11年5月にかけて発掘調査を行いました。
その結果、古墳時代(4世紀〜6世紀)の竪穴住居105棟をはじめ、中世の建物や墓などが確認され、古墳時代に最も栄え、中世まで続いた大規模な集落遺跡であることがわかりました。

徳重高田遺跡
古墳時代の石棺墓・土壙墓・円墳・中世の火葬土壙墓などがあり、石棺墓に鏡・鉄剣など副葬されていたほか、丘陵最高所で中世に火葬を行った後、そのまま埋葬した墓が出土しました。

名残伊豆丸古墳
調査は行われていない。横穴式石室で、2つの部屋を持つ複室構造である。宗像市で石室内部を自由に見学ができる唯一の古墳である。

依岳神社
灰色の樹皮がはがれてオレンジ色の幹が見えることが、バクチで負けて身ぐるみはがれる姿に似ていることから名前がついたバクチノキがあります。孔大寺山の大銀杏に次ぐ銀杏の大木も立っています。

平信盛笠塔婆
1185年8月、平知盛の息子、信盛が平野親王光盛の娘、月の絵姫と宗像へ落ち延び、孔大寺の社に身を隠しました。やがて金鉱のあることがわかり、代々採鉱を家業としたことが伝わっています。

孔大寺宮
この孔大寺山宮は、宗像六社の其一つにして、本郡の東北に聳える郡第一の高峰孔大寺山(標高499m)の山腹に鎮座する産土神也。
往昔は祭祀も年中数度厳密に行われていた。 創立不詳 明治十年三月再建(1877年)同年三月二十一日、官幣大社宗像大社の境外摂社に列せられる。

山田地蔵尊増福院
山田騒動で謀殺された6人の鎮魂のため6体の地蔵を安置。「子育て地蔵」として親しまれ、遠方から参拝者が絶えない。本堂の天井画は一見の価値あり。

福津市

宮地嶽神社
神功皇后・勝村大神・勝頼大神の三柱をまつっています。商売繁盛・交通安全・家内安全の神様として各地から多くの参拝者が訪れます。
 また、神社の本殿に架けられている大注連縄は、長さ13.5メートル、直径2.5メートル、重さ5トンで、もちろん日本一。境内には日本一の大鈴・大太鼓もあります。

宮地嶽古墳
7世紀前半につくられた直径約30mの円墳で、内部に巨岩を使った横穴式石室を持ちます。横穴式石室の長さは23mで全国で2番目に長いものです。副葬品としては国宝に指定された馬具、太刀、ガラス玉などがあり、その豪華さと貴重さから「地下の正倉院」とも呼ばれています。被葬者は古代の宗像の豪族で、娘を天武天皇の妃とした「胸形君徳善」と考えられます。現在、古墳は不動神社として内部に不動明王が祭られており、多くの信仰を集めています。

宮地嶽神社
民家村自然広苑
飛騨高山の合掌造り、対馬の高床式納屋など、日本建築の美と粋を後世に伝えるために、伝統民家を移築、復元したのが、民家村自然広苑です。石造りの野外ステージや、憩いの広場など、宮地嶽の自然にとけこんだ空間は、訪れる人に潤いと安らぎをあたえてくれます。6月の江戸菖蒲開花時には、すばらしい景観です。

新原・双山古墳群
福津市には北から勝浦、新原・奴山、生家、大石、須多田に5〜6世紀にかけて作られた古墳群があります。これらの古墳群は古代の有力豪族「宗像君」一族の墓と考えられ、学術的にも重要です。中でも新原・奴山古墳群は5基の前方後円墳をはじめとして41基の古墳が畑の中に分布しており、比較的見学しやすい古墳群です。

新原の百塔板碑
新原の百塔板碑は、市の北部、国道495号から奴山区方面へ抜ける市道沿いにあります。昭和四十九年、福岡県の有形文化財に指定されました。仏像や梵字、「願共諸衆生 往生安楽園 文永十一年八月 日改立」という字などが彫られた石碑が現存しています。これらは、鎌倉幕府の五代目執権であった北条時頼が諸国を見回っている時に宗像へ立ち寄り、平家一族の霊を慰めるため建てたといわれています。

神興共立医院跡地
1899年(明治32年)無医村であった神興村の手光区と津丸区の人たちは、お金を出し合い、両区の中間であるこの地に「神興共立病院」を建てました。

手光波切不動古墳
この古墳は石室は一辺が1.5m程の切石が使われており、床面にも同様な石が敷かれています。ここより北西約1kmの津屋崎町宮地嶽神社にある宮地嶽大塚古墳もこの点が共通し、両墳が何らかの形で関連性をもつと考えられます。





前原


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