小倉北区 |
小倉城 | |
慶長7(1602)年、細川忠興が築城した唐風造りの城。寛永9(1632)年に小笠原忠真が入城し、豊前国15万石の城として10代235年間にわったって栄えました。現在の小倉城は、昭和34年に再建されたもので、内部は『九州民芸資料館』になっています。 |
八坂神社 | |
小倉祇園祭りが行われる八坂神社は、小倉藩主細川忠興が1617年(元和3年)に小倉藩の総鎮守として、祇園の社殿を鋳物師町に造りました。 忠興は、愛宕山の祇園社を南殿に、古船場町の祇園社を北殿とし、一つの大きな神社を造ったため、本殿は一つに見えますが、中では二つの祇園様がまつられています。 二つの祇園様を一緒にまつっている神社は、全国的にもとても珍しいものです。 |
小倉城庭園 | |
小倉城主であった小笠原氏の歴史を踏まえ、その下屋敷跡に江戸期の大名屋敷を再現するとともに、小笠原礼法を始めとする礼法に関する展示を行っています。 |
岩松翁顕彰櫓 | |
今からおよそ二百年前に小倉の長浜で生まれた岩松助左衛門は、57歳の時、小倉藩から難破船を救助する役に任命されました。 当時、藍島沖では浅瀬に船が乗り上げ、多くの死者が出る事故が続いており、助左衛門は灯台建設の願書を藩に提出しました。 許可は下りたものの、費用は助左衛門自身が募金活動と私財を投げ打って調達しました。その結果、明治時代になって政府が灯台づくりを引き継ぎ、完成しました。 |
第12師団司令部正門跡 | |
明治時代になって、小倉のまちは軍隊と深い関わりを持つようになりました。 特に小倉に第12師団が置かれたことはとても大きな意味を持ち、たくさんの部隊が配置されると、人が増えただけでなく軍隊に関係した施設が建設されたり、様々な物資が運び入れられたりするようになりました。そのため、静かだった小倉の街の雰囲気は慌しく変化していきました。 小倉第12師団の司令部が置かれた小倉城内には、その当時の正門の跡が残っています。 |
松本清張記念館 | |
社会派推理小説をはじめ、様々なジャンルにわたって活動を続けた北九州市出身の作家、松本清張。その偉大な業績を称え、氏の創作活動をビジュアルな手法で展示・紹介します。 |
室町大橋 | |
都市計画道路の小倉駅大門線のうち、西小倉駅までの575メートルの改良工事の一環として、新設されました。 明治末期まで紫川で行われていた鵜飼いの漁り火をモチーフとして、橋の両サイドにガスの炎を配しています。 橋のたもとの交番はアユを追う鵜の顔。また、欄干は波を表現していて、見る角度や歩く速さによって表情の微妙な変化が楽しめます。 |
常盤橋 | |
以前は、紫川下流で最も川幅が狭い部分となっており、治水対策として川幅が広げられるため、架け替えられた橋です。 旧長崎街道の起点として、古くから橋が架けられていたことや、その昔洪水のたびに橋が流されていたことなどの歴史を考慮し、歩行者専用の太鼓橋、そして江戸情緒漂う『木の橋』として整備されました。 欄干の擬宝珠は、270年前のものを復元しています。 |
常盤橋の広告塔 | |
鴎外は『独身』の中に、次のように書いている。「常磐橋の袂に円い柱が立つてゐる。これに広告を貼り付けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい字だの、あらい筆使ひの絵だのを書いて、新しく開けた店の広告、それから芝居見せものなどの興業の広告をするのである。」 ここに書かれた当時の広告塔を模して、昭和37年、勝山公園近くの紫川のほとりに、六角柱の鴎外文学記念碑が建てられた。 |
伊能忠敬測量200年記念碑 | |
伊能忠敬測量200年記念碑は、彼の業績を伝えるものとして、測量開始200年を記念して、九州測量の起点とした小倉城下紫川・常磐橋のたもとに2001年9月26日建立された。 |
勝山橋 | |
治水対策として川幅が広げられたため架け替えられた橋で、付近は両岸の開発事業で最も様変わりする中核地区となっています。 今後ますます人通りが増えると予想され、紫川の東西を結ぶ中心となる橋として位置付けられています。 小倉城の石垣をイメージさせる石畳の歩道は、落ち着いた日本的な雰囲気をかもし出しています。 |
リーバーウォーク北九州 | |
北九州・小倉都心の再開発事業として整備された「リバーウォーク北九州」は、日本の伝統と近代的な美および技術を融合。北九州の新しいアイデンティティとして、北九州の街と市民の一体感を創出する。 |
ゼンリン地図の資料館 | |
潟[ンリンが設置した私立ミュージアムです。館内には永年にわたって収集されたアジア・ヨーロッパ・日本などの貴重な古地図を多数展示しています。 入館すると床一面に伊能忠敬の「伊能地図」が原寸で複製されており、受付で貸してくれるルーペと備え付けの移動式ルーペで、鑑賞することが出来ます。 |
小倉イルミネーション | |
小倉駅南口には光のウェルカムゲート、おうがい橋には光のトンネル、勝山公園には高さ約20mのクリスマスツリーが飾られる。冬の風物詩となったイルミネーションが小倉の夜に幻想的に輝く。 |
森鴎外旧居 | |
明治の文豪森鴎外は、陸軍台12師団軍医部長として明治32年6月から35年3月まで小倉に来住しました。初めは鍛冶町に住み、その後、京町に転居しました。京町の家は小倉駅前広場になり、現在は碑が建てられ、鍛冶町の住まいは市指定史跡として残されています。鴎外はこの地で「即興詩人」の名訳を完成させ「我をして九州の富人たらしめば」等を書きました。 |
鍛冶町観音堂 | |
慶長年間、東光院良清なる者、和州南都より豊州小倉に来り、一院を城東、鍛冶町に創め千手観音を安じ、以って祈祷の場と為す、乃ち観音堂と号す。 寛文3年発卯三世光明院周覚、改めて堂宇を建て国家安全の祈祷を修す。 |
菅原神社 | |
右大臣・菅原道真公は延喜元年(901年)四月廿五日、太宰権師として京都より左遷され、筑紫へ向かう途中、神嶽川のほとり、とある小島(今の「天神島」)に一休み、風光明媚な企救の浦を賞でられた跡と伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び、一祠を建立したのがはじまりです |
無法松之碑 | |
小倉の作家岩下俊作が、小説「富島松五郎伝」の中に作り出した男、 松五郎(無法松)は、北九州人の代表というより、情義に生きた、 日本人のあこがれの庶民像として全国的に慕われています。 この碑は、無法松を愛する土地の人々によって、昭和34年、 彼が住んでいたこの古船場の地に建てられました。 |
小倉祇園太鼓の像 | |
映画「無法松の一生」で全国的に知れ渡った夏祭りで、ドンコドンコというtaikoの音とヤッサヤレヤレのかけ声が小倉っ子の血をわかせます。起源は細川忠興が眼病の治癒のお礼に祇園社の祭典を行ったのが始まりと云われており約390年の伝統があります。この祭りを記念して建てられました。 |
北九州モノレール | |
同社の車両はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する架空の交通機関である第三新東京市高速鉄道第二環状線(リニア式モノレール)のモデルになっている |
旦過市場 | |
現在の旦過市場は大正時代のはじめ、隣接する神獄川を昇る船が荷をあげ商売を始めたことから始まると言われている。 近所には古くからの住宅街もあり、また、近郊や田川方面からの荷も寄るようになり、自然と市場的な機能を持ち賑わうようになった。 |
真浄寺 | |
大法山真浄寺は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの後、細川忠興公が丹後国宮津から豊前国小倉にお国替えとなり、藩主として入府するにあたり、日頃より親交のあった京都の鶏冠井邑の真教寺のご住職、大法院日周上人に小倉へ同行して下さるようにお頼みになられたことに縁を発します。 |
チャチャタウン小倉 | |
西鉄北九州線砂津車庫跡地に2000年11月オープン。映画館(シネコン)、観覧車、ゲームセンター、スーパー、100円ショップ、専門店街などがある。1階中央にイベント広場があり、ほぼ毎日音楽演奏やダンスなど様々なイベントが行われている。 |
菜園場窯跡 | |
菜園場窯跡は、小倉藩主細川忠興が陶工尊楷を招いて築いた「お楽しみ窯」と考えられています。 これまでの発掘調査によって、焚口と四つの焼成室からなる「登り窯」(全長16.6m)が発見されました。また、併せて茶碗や茶入れ、土瓶などいろいろな種類の焼き物が出土しています。 |
愛宕神社 | |
小倉藩主細川忠興は、慶長7年(1602年)小倉城の築城にあたり、城下町を望む西側、不動を祀り不動山と言われていた小高い丘の上に愛宕神社を建立、それ以後この山は愛宕山と呼ばれるようになりました。 |
篠崎八幡宮 | |
仲哀天皇九年神功皇后三韓から御凱旋の折り、筑紫の宇美にて皇子(応神天皇)を御安産になりました。その翌年穴門の豊浦宮にお向かいになる途中、鷹尾山にお登りになり、山頂の大石(後に此の石を力石という)に皇子をお立たせし、遥に菊の長浜や文字ヶ関・穴門の方向を望み、「穴門が近し」と仰せられ、お懐かしみになりました。 この古事にもとずき、敏達天皇十二年勅命を以て鷹尾山の麓に祠廟を建て応神天皇をお祀り申し上げました。 |
到津八幡神社 | |
神功皇后が、新羅渡航から帰還の時、宇美の里で応神天皇を産み、そして長門の豊浦宮への途中、この地に船を着けました。後に、祠を建て皇后の和魂を祀ったのが社の起源といわれています。 |
一本松塚古墳 | |
日明小学校横の響灘を望む洪積丘陵南斜面に位置する円墳である。内部主体は南に開口した複室横穴式石室を有し、よく原形をとどめている。玄室奥壁に施されている装飾文様は、ベンガラによる赤色を中央よりもやや右寄りに放射線状に10本あしらったもので、一本の線幅、各線間、直線度は不均一で、稚拙さはあるものの、数少ない装飾古墳の一つとして価値が高い。 |
宗玄寺 | |
慶長19年(1614年)小笠原藩初代藩主忠真の父秀政は、信州松本城外に臨済寺を建てましたが、翌年大阪夏の陣で戦死、忠真はその法号にちなみ宗玄寺と改称しました。その後寺は、忠真の転封とともに元和3年明石、寛永9年小倉城下馬借の細川幽斎を祀っていた泰勝院の跡へ移りました。 |
小笠原忠真の墓 | |
初代藩主小笠原忠真は、元和元年(1615年)大阪夏の陣で父と兄を失い、自らも重傷をおったが一命を取りとめ松本八万石の藩主となる。元和3年(1617年)には、播磨国十万石の藩主となり明石に城を築く。寛永9年(1623年)小倉に転封となる。忠真は、寛文7年(1667年)小倉城内で逝去、72歳でした。 |
メモリアルクロス | |
昭和25年、朝鮮戦争で戦死した国連軍将兵の霊を慰めるため、米軍小倉師団司令官ラックス大佐等によって建設された高さ20bの鉄骨十字架で朝半島に向いています。そして昭和27年、日本側に引渡されため福岡県と小倉、門司、若松、八幡、戸畑の五市が共同で改装を行っています。 |
円通寺 | |
初代藩主小笠原忠真は、万治3年(1660年)に馬借開善寺近くに円通庵を建て、後に2世広寿山住職となる法雲を23歳で住職にした。寛文4年(1664年)、法雲は即非和尚の弟子となり広寿山を建築する為、現在の本堂の場所に庵を建て円通庵と名付けた。 |
福聚寺 | |
小笠原藩初代藩主忠真は、寛文5年(1665年)小笠原家の菩提寺として創建し、即非和尚が開基する。即非は、名を如一と言い、中国明の福州出身で、黄檗宗の名僧隠元和尚の高弟で、藩主忠真の懇請によって本寺を開くこととなりました。寺は、始め足立山麓不老庵の跡地に建てられましたが、二代藩主忠雄は近くの現在地へ改め、延宝7年(1679年)堂宇を大きく増築した。 |
妙見宮 | |
宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっています。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されています。 |
小倉南区 |
蒲生八幡宮 | |
由緒:昔、三女神が企救郡蒲生村の虹山に天降り、永くこの地を護らんと告げられたので、里民は、虹山に社を祀り、蒲生八幡宮と称しました。文治元年(1185年)、平家が壇の浦に戦いに敗れた時、「三種の神器」は海中に没しましたが、規矩郡高浜浦の岩松興三は、蒲生八幡宮に祈り海底に沈んでいた三種の神器を回収し、源頼朝公に献じ、新たに社殿を建立しました。 |
天疫神社 | |
神社の北方、篠崎山の下にある蛇渕に住む蛇神は、里人に災いを与えていた為、疫神を勧請し祀ったこと始まりとされています。 |
砥石山古墳群 | |
天疫神社の境内には、現在10数基の古墳時代後期の円墳があります。そのうち、参道脇には盛り土が無くなり横穴式石室の内部主体が露出した古墳を見ることができます。 |
上ん山古墳 | |
曽根平野の中央部の洪積台地上に位置し、茶昆志山古墳とは同じ台地上に連続して造営されており、全長約50メートル、後円部径約30メートル、前方部幅約31メートル、後円部高約7.5メートル、前方部高5.5メートルある前方後円墳である。 後円部の西側及び南側、前方部南側各裾部は削平を受けているが、墳頂部を主によく原形を保ち、比較的均整ののとれた墳丘形態をしている。 |
茶毘志山古墳 | |
全長約54メートル、後円部径約30メートル、前方部幅約44メートル、後円部高約12メートル、前方部高約10メートルで、中規模程度の墳丘である。 墳丘上は三段に築成され、基底部は後円部径より前方部幅が大きく、前方部の先端を広げている。主体部は、採土木工事の際に後円部側で横穴式石室の羨門部にあたる石材が露出したことがあり、古式の横穴式石室の形態であったものと思われる。 |
荒神森古墳 | |
周防灘に面した砂丘の上に築かれた古墳で、全長約68メートル、後円部径約41メートル、前方部幅約41メートルあり、市内では最大の規模を誇る前方後円墳である。 |
錦都美神社 | |
天平6年〔734〕に、海神、風神を龍宮の宮として奉斎 招福鎮魂の郷土の守り神である氏神として仰ぎ祀つた。 |
粉びき地蔵 | |
地蔵堂に祀られている本尊虚空蔵菩薩は、米や麦の粉を供えると咳や喉の痛みが止まると言われており、そのためいつも粉にまみれいるため「粉びき地蔵」と呼ばれています。また、粉仏様とも言われています。 |
粉びき地蔵のドルメン | |
この石はドルメン(支石墓)といわれる墓の一種ではないかと言われています。ドルメンは、基礎となる支石を数個並べ、その上に大きな扁平な石を載せ地下には、石棺や甕棺を持つ弥生時代の墓です。しかし、このドルメンについては、調査が行われていない為、箱式石棺の蓋石ではないかとも言われています。 |
合馬竹林公園 | |
合馬竹林公園(展示館)は、初夏にはホタルが飛び交う合馬川のほとり良品なタケノコの産地で有名な小倉南区合馬にあります。 竹は古くから日本人の生活と密接な関係のある植物で、観賞用はもとより、食用、建築用、工芸用、楽器用、がん具用まで幅広く利用されてきました。 |
春吉の眼鏡橋 | |
大正8年(1919)頃、道原の石工:中山熊次郎、佐島栄治によって造られた。紫川の川石を使用しており、市内唯一の石造二連アーチ橋である。 長さ20.5メートル、幅3.6メートル。橋が出来るまでは、岩の上に板切れを渡しただけの簡単な橋であったが、大正6年に子守の女の子が転落死したことから、地元に恒久的な橋の建設気運が高まった。建設費は悲劇を繰り返さないようにと願う春吉の人々が寄付金を出し合ったが、第一次世界大戦後のインフレによる物価高騰のため苦労したという。 |
大山祇神社 | |
和銅年間(708〜715)、ここで銅鉱の採掘を行うに際し、霊夢の神記により、鉱山守護の神として創建された。 |
円龍寺 | |
寛永元(1624年)年8月、了庵によって開基されました。なお、一説には寛永2年(1625年)の開基とも記載されています。 |
東大野八幡神社 | |
天智天皇五年(666年)二月に高津尾の里降原影向石に八幡大神の神霊が出顕。「吾は廣旗八旗神なり」と宮崎守明に神託したとも云われています。 天喜三年(1055年)、社殿を山本村沼に遷し、沼宮と称されました。 |
平尾台 | |
標高300〜700メートル、南北6キロメートル、東西2キロメートルにわたる広がりを持つカルスト台地で、石灰岩が散在する様子は、草原で遊ぶ羊の群れを思わせます。 この地下には多くの鍾乳洞があり、中でも国指定天然記念物の「千仏鍾乳洞」は、長さ数千メートルと言われ、入り口から900メートルまでは観光洞になっています。他にも、牡鹿洞、目白洞などの鍾乳洞があります |
平尾台自然観察センター | |
平尾台自然の郷近くにあり、石灰石や鍾乳洞のでき方、平尾台に生息する動物の生態などを、パネルや模型で学べる。 |
千仏鍾乳洞 | |
国の天然記念物に指定されている平尾台で最も有名な洞窟です。長さは約700mで中には地下川があり、水の中をジャブジャブ歩けます。 |
北九州空港 | |
周防灘の沖合にある空港。国内線や中国などへの国際線が発着する。ターミナル内には特色ある飲食店やショップ、足湯があり、観光スポットとしても注目を集めている。 |
門司区 |
門司麦酒煉瓦館 | |
この地で87年間麦酒を作り続けてきた歴史が学べる「門司麦酒煉瓦館」は日本における最初期の鉱滓煉瓦建物であり、現存する最古の本格的鉱滓煉瓦建築である。レストランの入った「赤煉瓦交流館」では食事とビールも楽しめる。 |
長崎番所址 | |
寛政11年(1799)幕府(長崎奉行所)は大里浦出張所をここに設置した。当時、玄海灘に出没した密貿易船の取締りと、対唐貿易の代物(俵物諸色)を長崎に送る為、保管中継の基地として設置した。 |
旧門司三井倶楽部 | |
大正10年(西暦1921年)、三井物産の社交倶楽部として門司区谷町に建築、その後所有が国鉄に移ってからは門鉄会館と呼ばれていました。今のレトロ地区と離れていたため、平成2年、JR門司港駅前に移築・復元されました。 |
ブルーウィングもじ | |
全国で最大級の歩行者専用のはね橋です。旧門司税関など明治・歴史的建築物が数多く残る門司第一船だまり両岸のレトロ地域を結ぶ遊歩道の一部として平成5年に完成しました。ブルーバイオレットのはね橋と赤煉瓦色の旧門司税関のコントラストは絶景です。 |
国際友好記念図書館 | |
明治35年、大連市に帝制ロシアが建てたドイツ風建築物を、北九州市・大連市友好都市締結15周年を記念して複製建築しました。ドイツ系ハーフテンバー洋式による茶と白のコントラスト、煙突やドーマ窓、尖塔部分などが印象的な建物です。1階はレストラン、2階は中国・アジアの文献を収蔵した図書館、3階は資料展示室になっています。 |
旧門司税関 | |
明治42年の門司税関発足を契機に、明治45年(1912年)に建てられた煉瓦造り瓦葺平屋構造の建築物。昭和初期まで税関庁舎として使用されました。1階はエントランスホール、休憩室、喫茶店「レトロカフェ」、展示室、2階はギャラリーと関門海峡を望める展望室となっています。 |
門司港レトロ展望室 | |
「門司港レトロ展望室」は、黒川紀章氏設計の高層マンション「レトロハイマート」の31階部分に設けられた展望室。高さ103mから関門海峡をや眼下の門司港レトロの街並みも見渡せる絶景ポイントです。モダンな超高層ビルは、一見レトロと高層建築は不釣合だと思われるかもしれないが、ぜひ一度訪れてみてください。今まで見ることができなかった視点から270度の大パノラマが楽しめます。 |
JR門司港駅 | |
JR門司港駅は、大正3年(西暦1914年)に建てられた九州で最も古い木造の駅舎で、駅としては全国で唯一国の重要文化財に指定されています。外観のデザインは、ネオ・ルネッサンス様式といい、左右の造りが対称的なのが特徴です。噴水のあるレトロ広場とともに美しい景観を創りだしています。今も現役で活躍する駅舎は、地域に人々の誇りともなり大切に利用されています。 |
九州鉄道記念館 | |
旧九州鉄道本社を再整備しオープンした記念館。館内には九州を舞台としたパノラマ鉄道模型、電車の運転を疑似体験できる運転シミュレーターなどがあり、屋外には、本物そっくりの運転システムで遊べるミニ鉄道公園、九州各地で活躍した歴代の車両展示の車両展示場がある。 |
海峡ドラマシップ | |
門海峡の過去・現在・未来をドラマティックに体験する歴史エンターテイメント、それが「海峡ドラマシップ」です。関門海峡を望む門司区西海岸地区に、地域活性化の起爆剤となる文化施設を福岡県と共同で設備します。施設のテーマは「海峡」、コンセプトは「海峡のドラマ館〜ひと・歴史・ロマン〜」。 |
海峡レトロ通り | |
かつて門司港に実在した大正ロマンの薫り漂う建築物や路面電車などを復元。当時の人々の風俗を再発見しながら、買い物も楽しめるゾーンです。また、会議などに利用できるレトロ調の多目的ホールを併設しています。 |
出征軍馬の水飲み場 | |
戦時中、国内からたくさんの農耕馬が、軍用として徴発されました。 その農耕馬の数百万頭は、門司港から軍用船で、戦地へ送られました。 馬たちは再び日本の土地を踏むことはありませんでした。 このため、この水飲み場は、最後の「お別れの水」を飲んだところとなってしまいました。 |
和布刈公園 | |
総面積36ヘクタールの園内は、 バードウォッチングや花見の名所です。 公園の一部である古城山頂からは360度の雄大な景観が楽しめます。 周防灘に昇る朝日、響灘に沈む夕日は実に見事。 かつては、瀬戸内海の西の門戸として、 海陸の要所でした。 |
ノーフォーク広場 | |
北九州市の姉妹都市、アメリカ・バージニア州ノーフォーク市にちなんだ異国情緒あふれる広場。 目の前に関門海峡、関門橋が雄大に広がります。 船の種類がわかる説明版もありますから、それを見ながら行き交う船を眺めるのも一興です。 |
関門橋 | |
中国自動車道と九州縦貫自動車道を結ぶ高速道路として昭和48年に開通。 関門海峡をまたぐ吊り橋で、全長1068m、中央径間は712m、 海面からの高さは61mあります。 めかり公園のテラスデッキから見下ろしても、 観潮遊歩道から見上げても、その雄大さに見とれてしまいそう。 夜、ライトアップされた姿も必見です |
平家の一杯水 | |
壇之浦の合戦で肩と足に矢を受けた平家武将が海に落ち、命がけでこの岸にたどり着き、湧き水を見つけました。 武将はその水を飲んで喉の渇きを潤した。 夢中で2杯目を口にしたところ、真水が海水に変わっていたという伝説が残されている。 下関側にもあります。 |
和布刈神社 | |
壇ノ浦の合戦前夜、平家一門が最後の酒宴を開いたといわれる神社。門司区内で最も古く、その創建は今から1800年前の西暦200年と伝えられています。県指定無形民族文化財に指定されている「和布刈神事」が行われていることでも有名です。 |
門司城跡 | |
門司城(門司関山城、亀城)は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させた、といい伝えられている。 |
柳御所 | |
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。 |
御所神社 | |
1183(寿永2)年、山鹿(遠賀郡芦屋)から緒方惟義らの兵に追われた平家一門が安徳天皇のために建てた仮御所が「疫神の森」と呼ばれたこの地にあったとされる。 社殿は明治35(1902)年に明治天皇が熊本での陸軍大演習の際に大里停車場構内に造られた御休憩所を移築したもの。 |
戸上神社 | |
社記によれば、宇多天皇の寛平年間、約1千80余年の昔、鎮西の霊峰戸上山上に三柱の大神を奉祀したことに始まると伝えています。奉祀の際、御霊代を枝折戸に奉戴して山上に奉安してから山を戸上と号し、神社を戸上神社と称するようになりました。 |
満隆寺 | |
縁起書によれば弘法大師が平城天皇の大同元年(西暦806)唐より帰朝の折、関門海峡をご通過、船中より戸上山を仰ぎ当地に下船してこの霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、随身供養の観音像を安置されたのが満隆寺の起源であります。 |
大山祇神社 | |
創元は2000年前の太古といわれています。岩坐と神木だけの神社で、日本の最も古い祭祀形態をとっており、大山積大神、天照大御神、大綿津見大神を祀っています。 |
手向山砲台跡 | |
関門海峡を通過する敵艦を想定して造られた下関要塞の一つとして明治20年9月に着工し、明治21年9月に竣工。4号倉庫の上部にその竣工年等を刻んだ石製のプレートがはめ込まれています。大砲は、24p榴弾砲を12門(6砲座)設置していましたが、配備は明治22年3月であったと説明板に記載されていました。中央の4砲座は直線に、左右端の砲座は、やや内側に折れた「折り線砲」で各砲座は通路で連結されていました。 |
宮本武蔵の碑 | |
宮本武蔵の養子「伊織」が承応3年(1654年)に建てたもので、北九州地方第一の名碑と言われている。この養子であった「伊織」は小笠原藩の家老にまでなった人です。武蔵は若いときより藩勤めを希望していたが望みかなわず、50歳を過ぎてようやく熊本の細川藩に客分として召かかえられました。そのてん「伊織」はなかなかの人格者であったようです。 |
猿喰新田潮抜き穴跡 | |
猿喰新田潮抜き穴は、江戸時代(宝暦7〜9年)、元大里村庄屋石原宗祐(1710〜1806)によって行われた猿喰湾の干拓事業(33ha)に伴って掘られた排水用戸樋門である。唐樋と呼ばれる招き戸が潮の干満によって開閉する構造により、干潮時には新田側から排水が行われ、満潮時には扉が閉じて海側からの進水を防ぐ機能を備える。 |
梅花石岩層 | |
梅花石は約3億5000万年前に生息したウミユリの化石で、岐阜の菊花石(国特別天然記念物)、京都の桜石(国天然記念物)と共に日本三大奇石とされる。梅花石が露出している青浜海岸の一部(約4,500平方m)が 県指定天然記念物として指定されている。 |
清虚像 | |
江戸時代末期、旅の僧・清虚がここに灯明台を設けて海難事故を防ぎました。 明治期になりこの地に洋式の部埼灯台が建設されました。 |
皇産霊神社 | |
古事記や日本書紀などで、天地造化の神と伝えられる高皇産巣日神と、神産巣日神を主祭神とし「皇産霊大神」と尊称し祀っている。 境内には男女の縁結びや、家内安全を祈る天之御柱や、河童像が並んでいる。 |
淡島神社 | |
第79代 六条天皇の御代(1165〜1168)紀国加太の淡嶋神社を勧請したと伝えられている。 旧社地が昭和33年開通の北九州道路にかかり、現在地に遷座した。 旧社地には樹齢約八百年と推定される大槭(昭和32年8月5日県天然記念物指定)が存在し、古い歴史を物語っていた。 |
平山観音院 | |
平山観音は高野山真言宗に属し本尊は十一面観世音菩薩です。 この寺の由来は二通りあります。壇の浦に敗れた平家残党が観音ヶ迫に隠れ住み、一族を弔うために回向堂を造り観音寺となったという説と、もう一説は天明の夏、小倉藩の姫君が継母にいじめられ小滝の傍に捨てられ蚊の大群に刺されて亡くなりました。そのため乳母が庵を結び冥福を祈ったという説です。 |
八幡東区 |
皿倉山 | |
標高622m、山の北側斜面はかなりの急傾斜でまさしく眼下に拡がる景色を見渡すことができます。頂上付近は広く公園として整備されており、パラグライダーの名所としても知られています。 |
東田第一高炉跡広場 | |
この東田第一高炉は明治34年(1901年)に、官営製鉄所として火入れが行われました。当時はこのような大規模なものではなく、その後に改修を繰り返し昭和37年に“超高圧高炉”として現在のこの姿になったそうです。 |
スペースワールド | |
「ザターン」「タイタンV(ヴイ)」「ヴィーナスGP(グランプリ)」などの絶叫コースターから、「宇宙博物館」「月の石」展示場などの宇宙体験まで、世代を問わず1日中楽しめるスペースワールド。「惑星アクア」など爽快なウォーターアトラクションも楽しい。スペースワールドではレストランやショップも充実していて、日本人宇宙飛行士用に開発されたJAXA(宇宙航空研究開発機構)公認の「SPACE CURRY」など宇宙食も購入できる。 |
いのちのたび博物館 | |
今まであった自然史・歴史・考古博物館が一つになって、平成14年11月にスペースワールド駅前に新しく自然史・歴史博物館が誕生しました。この新博物館は、約6100uの展示面積を誇る西日本最大級の博物館です。 |
旧百三十銀行八幡支店 | |
この建物は大正4年(1915)12月、辰野金吾の主宰する事務所が設計したもので、営業室・金庫室・管理室からなる鉄筋コンクリートの小規模な造りである。内部は銀行店舗という性格上、意匠に特筆すべきものはないが、外観は赤煉瓦の壁体に、玄関・柱頭・窓周りを幾何学的模様で施し、その部分は「洗い出し」で石造風に拵え、盛時辰野式にはほど遠いが、大正期のモダンデザインを表現している。 |
豊山八幡神社 | |
推古天皇の御代(飛鳥時代)に新羅国が侵入し、大和朝廷の軍が洞の海で軍団を整えていたとき、お告げがあり、「宇佐から八幡大神をこの地に迎えれば、新羅国は朝廷に従うであろう」という趣旨。戦を終えて帰朝後、今の西本町に八幡大神を勧請したのが始まりとされています。 |
九州鉄道茶屋町橋梁 | |
板櫃川の支流、槻田川に架かる赤煉瓦造りのアーチ橋は、明治24年(1891)4月に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁として構築されたものである。橋梁の壁体は煉瓦の長手と小口を交互に積んだイギリス積で、アーチは煉瓦の小口を五段積にした弧型アーチ、アーチの載る迫台は花崗岩の石積みである。壁面は、北側の一部分だけ一段ごとに煉瓦を迫出して意匠としている。 |
高炉台公園 | |
八幡地区の繁華街中央町の東部の高台にある高炉台公園。名前の通り製鉄所の高炉を模した展望台がある。この展望台からは中央町や八幡駅方面、皿倉山、洞海湾やスペースワールドなどが一望の元に見える。 |
熊本山 | |
仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐に、長門の豊浦宮から九州に向かって出発の際、崗県主の先祖、熊鰐が出迎えにやって来ます。熊鰐は船の舳先に3本の賢木を立てて、その枝に鏡・剣・玉を下げました。この賢木の1本が熊本山で採られました。 |
高見神社 | |
約10万平方bの広大な鎮守の森と桜の名所に囲まれた高見神社は、19柱の神様を祭る由緒深い神社です。 神功皇后が、新羅・百済・高麗に守護軍を派遣した際、岡県主・熊鰐は山口県豊浦まで迎え、御船に三種の神器を奉り、洞海湾まで導き、湾岸の小山・大字尾倉字高見に戦勝祈願のため、高祖神12柱を祀ったのが創始と伝えられます。以後、県主や歴代城主らに厚く庇護され、江戸時代には高見大神宮と称されました。 |
荒生田の一里塚跡 | |
一里塚は、街道の両側に一里(約4キロメートル)の目印として小高く土をもった所です。一里塚には榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人に知らせる目印や、馬や駕籠の料金を払う時の目安になりました。 |
あじさいの湯 | |
帆柱自然公園の豊かな自然と調和し、山々に抱かれ、ゆったりと憩える天然温泉です。 内湯には、大浴場、ジャグジー、ドライ・ミストの2種類のサウナを完備し、露天風呂からは周辺の山々を眺めながら、四季折々の景色を堪能できます。 |
八幡西区 |
春日神社 | |
神武東征のとき、天津児屋根命を鳥野の原に祭り鳥野神社と云われていた。神護景雲年中(767〜770年)に、武甕槌命 経津主命を合祀して鳥野春日神社と改める。 |
浄蓮寺 | |
慶長2年(1597)信誉存道上人開山、穴生(あのう)弘善寺の末寺、浄土宗鎮西派です。 境内には、火除け地蔵といわれる愛宕地蔵、悲恋の美女をまつる紅梅地蔵、全国でも古い芭蕉塚があります。 |
東光寺 | |
このお堂は藤田浄蓮寺の末庵で「東光寺」と称します。 本尊は薬師如来です。町の人は親しみをこめて「お薬師さん」・「東光庵」と呼んでいます。東光寺の由緒・創立年代は不明ですが花ノ尾城麻生氏が建立されたともいわれています。 |
曲里の松並木 | |
この松並木は、江戸時代に徳川幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残である。江戸後期の狂歌師大田南畝(蜀山人は別号の一つ。寛延2年〜文政6年=1749〜1823)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて、又坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」とその紀行文(小春紀行)にこの松並木あたりの描写をしている。 |
岡田神社 | |
慶長10年(1605年)頃、山寺町から現在地に移りました。古事記にも記載されている古い神社です。 |
仲宿八幡宮 | |
九州入りした神功皇后は、ご神託によって航海後、船の帆柱を取り替え、この地に忌宮を造営し、天神地祇を祀り滞在されました。 「南に帆柱山を仰ぎ北に洞の海を望む海陸の便の良い所、この地に今し中宿りせむ」として皇后がお休みされた場所が、現在の仲宿八幡宮とされています |
旗頭神社 | |
明応 永正の頃(1492〜1520年)、黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城へ移るとき、陣原の里でしばしいこい、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬むるよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標とした。 大永二年(1523)興春の遺志によって旗指神社が創建された。 |
力丸遺跡 | |
本城西部区画整理事業に伴い、昭和52年に発掘調査が行われ29基の中世墳墓が発見されました。墓は、小型の土壙墓(どこうぼ)や石を積み重ねた集積墓で、火葬された人骨が多く出土しており、規模や副葬品等から庶民の墓と考えられています。 |
永犬丸貝塚 | |
永犬丸貝塚は、縄文時代前期から後期にかけての貝塚の跡です。このことから縄文時代は、ここまで洞海湾の海岸線が入りこんでいたことがわかりました。 |
吉祥寺 | |
浄土宗鎮西派、誕生山。開基、健保5年(1217)香月城主香月則宗。開山、鎮西上人が難産のために没した母の菩提を弔って、産家の跡に寺を建立した。そのとき安置された着帯阿弥陀如来像は、腹帯弥陀と呼ばれ、安産を願う参拝者が多い。また、境内の藤棚が有名で樹齢130年と云われ、市の保存樹に指定されている。 |
吉祥寺公園 | |
この公園の一番の見どころは、吉祥寺の東側、藤の広場ゾーンに整備した約800平方メートルの大藤棚や約2,000平方メートルの芝生広場と、福智山山系を眺望できる3階建ての展望台です。公園の東側と西側は歩道橋でつながれています。 |
立場茶屋銀杏屋 | |
銀杏屋は、江戸時代の長崎街道・黒崎宿と木屋瀬宿の間の休憩所で、諸大名も籠を降りたというほど、急な石坂を上った所に設けられました。有名な庭の銀杏の木からの命名です。原則的には、一般旅人の休憩所ではなく、大名たちの「御小休所」でした。 宿泊はできませんでしたが、伊能忠敬らもここで昼食を取った記録が残されています。 |
須賀神社 | |
須賀神社では、毎年7月12日、13日に近い土・日曜日に祇園祭が行なわれます。昼に2台の山笠が、町内をまわる「巡行」に出て行きます。祗園太鼓は福岡藩の陣太鼓の流れをくむという拍子を刻み、山笠の前後には「采振り」と呼ばれる梶を取る人が乗っています。祭りの一番の見どころは、夜に行なわれる「奉納」と「宮入り」。須賀神社の境内に山笠が走りこむ勇壮な姿を見ることが出来ます。 |
問屋場跡 | |
人馬継ぎや飛脚・荷物を取り扱う所で、問屋前は他のところより道幅も広く、水害対策として建物も宿内で一番高い所にありました。 |
長崎街道木屋瀬宿記念館 | |
「みちの郷土史料館」には、長崎街道や九州北部の街道の資料、木屋瀬宿の昔の生活や今に受け継がれている歴史などが展示されています。 また、「こやのせ座」は、多目的ホールで、地域の様々な行事や催し、それに、落語やコンサートなどが、開催されています。 |
旧高崎家住宅 (伊馬春部生家) |
|
高崎家は屋号を柏屋(カネタマ)といい、本家柏屋(カネシメ)の7代目高崎四郎八(1795年〜1865年)が分家して創立した家です。本家のカネシメは詩人、歴史学者として有名な頼山陽が立ち寄ったこともある土地の豪商です。分家の創立時期や家督相続の時期は明確ではありませんが、少なくとも天保7年(1836年)よりは遅くない時期です。 |
護国院 | |
明応2年(1493年)源水が八幡西区香月の聖福寺の末寺として創建。当時、火災が頻発し悪疫が流行しましたが、源水の祈願で火災疫病が収まりました。そのため、火災病難に霊験あらたかだと参詣者が多かった、と伝えられています。 |
熊野神社 | |
創立は天文年間大内義隆氏建立。豊玉姫命を祭り元和年中より寛永年間旱魃あり。村民竃門山に詣て神鏡一面を授り来て鎮座す。寛永7年庚午年なり。天正10年豊臣秀吉公此の地に陣を設け熊野神社を此の処に移す。 |
辻田遺跡 | |
八幡西区茶屋の原にある辻田遺跡は、遠賀川中流の洪積台地に位置する旧石器時代、弥生時代の複合遺跡である。資料は斜軸尖頭器やヘラ形石器など約4万年から9万年前の中期旧石器時代の石器11点である。斜軸尖頭器やヘラ形石器などは技術、形状ともに同時代特有の資料である。 |
畑城 | |
畑城は香月氏の居城で文治元年(1185年)壇ノ浦合戦では、平家に味方するが敗北源頼朝の知遇を受け数年後再び畑城主となる。その後、香月氏は、大友、少弐、大内に属する。 天正15年(1587年)畑城は小早川隆景の領地となり香月氏は領地を無くなり浪人となった。 |
戸畑区 |
旧松本家住宅 | |
九州産業界の元老、故松本健次郎氏が、住宅と迎賓館を兼ねて建てたもの。明治41年〜45年の建設で、設計は東京駅や日銀本店等の名建築で知られる辰野金吾博士。木造2階建で、随所にアール・ヌーボー様式を取り入れています。現在は社団法人西日本工業倶楽部の会館として活用され、毎年春と秋の公開日には内部が見学できます。 |
夜宮公園 | |
戸畑区のほぼ中央に位置し、広さは約9.2ha。池や小川のある自然を生かして、園路や広場、パーゴラが配置され、弓道場や相撲場、青少年センターなどもあります。春はサクラ、初夏はハナショウブ、ツツジ、秋はモミジ、冬はウメと四季折々の花々が美しく咲き誇り、訪れる人を楽しませています。 |
大珪化木 | |
昭和15年、夜宮地区の区画整理中に6mの地中から発見されたもの。直径2m、長さは推定40mの日本最大級の珪化木です。埋もれていたのは今から約4000万年前の第3紀中期の地層で、パラフィラントキシロンという広葉樹の幹中の含水遊離珪酸が置換沈殿して石化したものです。 |
飛幡八幡宮 | |
八幡大神と須佐之男命をまつる産土神。建久5年(1194年)花尾城城主・麻生朝長が、城の鬼門にあたる枝光村宮田山に八幡大神を勧請したのが起源とされている。大正9年、戸畑村鳥旗(現在の元宮町)から浅生の地に御遷座、現在に至る。「戸畑八幡神社」という呼び名であったが、平成7年に飛幡八幡宮と変更された |
戸畑祇園大山笠 | |
まるでピラミッドのように提灯で飾られた山笠。 ここ北九州に真夏到来を告げる代表的な祭り、それが戸畑祇園大山笠である。12段309個、高さ約10m、重さ約2.5tもの提灯大山笠をかきこ(担ぎ手)と呼ばれる男衆たちが「ヨイトサ!ヨイトサ!」の掛け声とともに練り歩くその様は強烈な印象を残す。 |
菅原神社 | |
菅原神社は、文教の祖神、菅原道真公が大宰権帥として左遷され大宰府に赴く折、当地に一泊されたと伝えられ、公没後その遺徳を偲んで建立されました。 |
菅公御手洗の池 | |
菅原神社の横にある池。菅原道真公が大宰府に向かう途中、天籟寺で宿をとり、この池で手足を洗ったという伝説の池です。 菅公が手足を洗った時、蛭に術をかけたので、それ以来ここの蛭は血を吸わないといわれています。 |
天賀城跡 | |
菅原公園一帯に麻生氏の出城があり、天賀二郎三郎家行が城主であったが、菅原神社の東側にあった天籟寺の住職の密告により、大友氏の攻撃を受け落城。天賀一族は全滅したと云われています。 |
北九州市立美術館 | |
高台にそびえるユニークな建物、磯崎新氏の設計によるものである。ドガの「マネとマネ婦人像」をはじめルオー、マチス、ピカソ、浮世絵のコレクション等を見ることができる。 アネックスという市民ギャラリーでは市民の作品を中心とした展示がされている。 周辺の美術の森公園には彫刻広場や野外展示場、日本庭園などがあり、これらをつなぐ遊歩道は格好の散歩コースである。 |
金比羅公園 | |
市内の中央にある緑の丘陵地で、戸畑区・小倉北区・八幡東区にまたがる広大な総合公園です。 桜の山道に沿って高さ125mの金比羅山に登ると戸畑を一望できます。公園内の芝生ひろばやアスレチックは、ファミリーに喜ばれています。 |
若松区 |
若戸大橋 | |
赤い色の美しい吊橋「若戸大橋」の建設工事は、昭和33年4月に着工、昭和37年9月に開通しました。全長2,068m、吊橋部全長627m、車道幅員9m、両側に3mの歩道を備え、建設当時は、「東洋一の夢の吊橋」といわれました。 |
旧ごんぞう小屋 | |
沖の本船で石炭荷役をする「ごんぞう」の詰め所を模して建てられたレトロ調の休憩所です。平成8年に建てられました。 |
弁財天上陸場 | |
大正6年頃、当時の若松市が海陸の連絡施設として建設したもので、石段の左右にある常夜灯は大正10年に地元の商店主等によって建立されたものです。ここは、「ごんぞう」をはじめ、当時、洞海湾で活躍した人々の日々の乗降や、荷役作業の場でした。 |
厳島神社 | |
貞享2年(1685年)、洞海湾の守護神に宗像郡玄海村に鎮座する市杵島姫命の分霊を祀ったのが起源とされ、交通の神として漁師や船乗り達の参詣で賑わっていました。 |
火野葦平旧居 「河伯洞 | |
現存する河伯洞の母屋は、葦平の出征中に、父金五郎が兵隊三部作の印税で建てたと伝えられています。 戦後、この母屋に棟続きのモルタル造りを増築、その二階が葦平の書斎となりました。絶筆『真珠と蛮人』に至るおびただしい作品群の多くが、ここで生まれました。昭和35年1月24日、葦平はこの書斎で自ら命を絶ちました。 |
旧古河鉱業若松ビル | |
旧古河鉱業若松ビルは、大正8年の建築といわれています。レンガ造り二階建ての建物は、前面と側面を走る道路の交差角度に合わせた鋭角を成しており、その先端には三階部分まで伸びた縦線を強調する塔が配置され、堂々とした風格が感じられます。 |
石炭会館 | |
石炭積み出し港、若松の歴史を象徴する木造二階建ての建物で、明治38年に建設されました。外装は、モルタル塗りで、様式建築の規範に従って、左右対称の造りとなっており、一対の円柱がこの効果を高めています。 |
小田山古墳群 | |
横穴式石室をもつ古墳群です。古墳時代後期に造られたもので、石室はいずれも羨道、玄室からなり、両袖をもっています。副葬品としては高杯、石鏃などがあります。 |
響灘風力発電施設 | |
響灘風力発電施設は、響灘に面する日本初の港湾地区にあります。現在10基の風車が稼動し、発電しています。発電規模は、3,500万kwh、約10,000世帯分の年間電力消費分です。 |
白島展示館 | |
白島展示館では、白島国家石油備蓄基地の優れた設備と機能を紹介するとともに、石油の大切さや石油備蓄の重要性を知っていただくための展示を行っています。 |
朝鮮人遭難者慰霊の碑 | |
昭和20年9月17日折りからの枕崎台風に遭遇し、若松沖で遭難した人々がいました。海岸に打ち上げられた遺体は、地元の住民によって小田山霊園の一角に埋葬されましたが、その場所はつい最近まで荒れたままで放置されていました。その後、1981年から取り組まれた市民運動によって、1990年12月北九州市によって慰霊碑が建てられました。 |
島村ギン(どてら婆さん)の墓 | |
火野葦平の小説「女侠一代」のモデルとなった、西村ノブさんの墓が、小田山霊園内にあります。ノブさんの生涯は、小説の中で多少のフィクションもまじえて「島村ギン」という名で描かれています。 |
浜田遺跡 | |
8世紀〜10世紀頃の製塩遺跡です。塩づくりに使われた製塩土器が大量に出土しました。製塩土器に、濃い海水を入れ、火にかけ、水分を蒸発させて固形の塩を作っていたと考えられます。万葉集などにも見られる藻塩焼きという方法で塩を作っていました。 |
岩屋石棺群 | |
かつてこの周囲には弥生〜古墳時代の石棺が多数あったが、永年の開墾により惜しくも大部分が失われました。 |
遠見ケ鼻・妙見埼灯台 | |
若松北海岸の眺望が美しい所。灯台があり、いかにも荒海の岬といった感じです。江戸時代には遠見番所が設けられ、沖の密貿易船、難破船、外敵等の異変に備えていました。 灯台の立つ断崖から見下ろす海の色、沖の島々、しま模様を描いた岩肌など見応えが十分です |
千畳敷 | |
波の下にかくれた岩礁が干潮時に長さ200m、幅50mに及ぶ板状の岩盤となって特異な姿を現します。これは海岸段丘が波浪によって浸食され、波食台という平らな岩板(三紀層)になったものです。 その名のとおり、畳をびっしりと敷いたような岩礁で、縦横に入った亀裂やくぼみには、巻き貝、やどかり、小魚、イソギンチョクなどがおり、小さな水族館にいるようです。 |
御嵜神社 | |
御嵜神社は、かつて現在の灯台の場所にあって、海に向かって建っていました。それが現在の位置に移設されたのには、次のような言い伝えがあります。 みさき神社に住んでいる神様夫婦のうち男の神様が、日本一美しい遠見ヶ鼻の夕日に心を奪われてしまいました。それに嫉妬した女の神様の八つ当たりで沖は遭難事故が続いたそうです。そこで村人たちは、夕日が見えないように、社を現在の位置に移し、陸に向けて建立しました。このことによって、神様夫婦は元どおり仲良くなり、縁結び・夫婦円満の願いをかなえてくれるようになったと言われています。 |
戸明神社 | |
戸明神社は、日本神話の中で有名な「天の岩戸開き」で尽力される天手力雄大神と天児屋根大神を主祭神としてお祀りしております。 神話の中では、天児屋根大神は天照大神がお隠れになられた天の岩戸の前で祝詞を奏上された美声の持ち主といわれる神様、天手力雄大神は天の岩戸を開かれた膂力に勝れた神様といわれ、古来、開運の力神様として崇敬され、御社号を「戸明」とされた由来もここにあると思われます。 |
中間市 |
屋根のない博物館 | |
中間市に新しい観光名所を!と平成元年につくられた緑道公園です。旧国鉄香月線の跡地を利用しています。モアイ像やスフィンクスなど世界中の有名な石像のレプリカ30体余りを配した緑豊かな空間は、見る人に古代遺跡を訪れているような感覚を与えてくれることでしょう。 |
垣生公園 | |
自然が多く残り四季折々の植物が生い茂っています。池に架かる赤橋を渡ると、埴生神社の境内に通じています。また、県指定文化財の「垣生羅漢百穴」もここにあります。これは、古墳時代の横穴群集墓です。 |
垣生羅漢百穴 | |
垣生公園西側にある小高い丘は、羅漢山と呼ばれています。ここには、ちょっと見には戦時中の防空壕のような横穴が無数に開いています。実はこれは、古墳時代後期(6世紀後半)のお墓なのです。「垣生羅漢百穴」と呼ばれ、県指定文化財となっています。 |
埴生神社 | |
垣生公園内に足を踏み入れると、まず目に付くのが、朱塗りの橋が架かる池です。朱橋を渡り石段を上ると、埴生神社の境内です。もとはこの地区は「埴生」と呼ばれていたものが、転じて「垣生」となったようで、神社にその名残があります。この神社は神功皇后が西に下られた際、船魂の神を祭ったといわれ、古来から武運と安産の神様として知られています。 |
堀川の中間唐戸 | |
「唐戸」には水門という意味があり、横長い板を水門の溝に入れ、その枚数によって水量を調節するユニークなものです。 |
水巻町 |
貴船神社 | |
建久5年(1194)征夷大将軍源頼朝の家人宇都宮上野介 麻生重業 平家追討の功により筑前国遠賀郡鞍手郡3000町歩を賜り下野国より下向し花尾城を築く時
山城国鞍馬山より貴船大明神 5柱を農耕水利災難厄除の守護神として勧請す 「止雨時白馬 祈雨時黒馬を献じ風災害を防ぎ五穀豊穣を祈る」と古記録にあり その祭祀を藤原重満大輔 波多野兼直に定む |
伊豆神社 | |
元亀2年(1571)頃末地区の開拓に伴い古賀鎮座の伊豆大明神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立、依ってこの山を明神ヶ岳という。大正3年(1914)この地に遷座、現在に至っている。 |
長専寺 | |
長専寺は永禄年間(1569〜1585年)四十八ヶ寺の建立を起願された念誉上人の開基であり、穴生・弘善寺の末寺であった。現在、当寺は開基より430年ほど経過し、その間、羅災や老朽等により、昭和49年に現在の本堂を建立した。 ご本尊は、阿弥陀如来の立像である。 |
鏡観音 | |
鏡観音は昔は「砧姫明神」ともいい慶長6年(1601年)に村内にあった砧姫の墓と伝える古墳より出た直径8寸の鏡を祭っていました。後に観音の木像を祭り、鏡は八剣神社に移しました。その鏡も貞享元年(1684年)正月に盗難にあい失われてしまいました。 |
八劔神社 | |
第12代景行天皇の御代、日本武尊は筑紫の熊襲征伐の途次、この地で砧姫を娶られた。尊が東国征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き、「御館大明神」として祭るを当社の起源とする。後に「八劔大明神」と改称。 文治元年(1185)山鹿城主山鹿秀遠が、社殿を造営。その後も尚武の神として、大内、小早川、黒田、城主、国主により、5度、社殿は造営された。 |
立屋敷遺跡 | |
立屋敷遺跡は、昭和6年(1931年)に発見された弥生時代の集落遺跡です。特に、文様のある弥生式土器は、九州ではこの立屋敷遺跡ではじめて発見されたもので、稲作文化の伝播ルートを考える上で、当時の学界の注目を集め、遠賀川式土器と呼ばれ、弥生時代前期に位置づけられました。 |
遠賀町 |
浅木神社 | |
昔時淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。日本武尊熊襲御征伐の帰途、臨幸の神跡の靈地である。第三十九代齊明天皇亦此の淺木山に御船を寄せ給う、この御代より鎮祭し奉る古社である。 |
島津・丸山古墳 | |
全長56.5mの前方後円墳で、遠賀川流域では最古の前方後円墳です。前方部は後円部よりも幅が狭く、細長い形状で、後円部の高さより2.45m低く造られています。これは前期古墳にみられる特徴で、周辺の前方後円墳との比較から4世紀前半〜中頃の古墳と考えられます。 |
堂塔寺址 | |
町の南方の小さな丘陵にあった寺で、薬師山ともいう。 昔、この寺に薬師如来が祭られていたと伝えたれているが、永禄年間(1558〜1570)に焼失した。 |
目洗井 | |
堂塔寺址がある丘陵の北端にある井戸。昔、娘が失明したため、月軒長者が堂塔寺の薬師仏に願をかけたところ、この井戸の水で目を洗うようにとのお告げがあり、そのとおりにすると、娘の目が見えるようになったという。一名「目そそぎの井」。 |
芦屋町 |
芦屋釜の里 | |
芦屋でつくられた茶の湯の釜・芦屋釜は、鎌倉時代から桃山時代にかけて「名器」として知られた。 3000坪の日本庭園の園内には、鋳物師の歴史、茶の湯釜の製作工程などを紹介した資料館、大小の茶室、抹茶がいただける立札席などがある。 |
法輪寺 | |
山鹿の町並みの北端にある小山に禅宗(臨済宗)の法輪寺があります。初めは真言宗で大きな伽藍をもっていましたが、応安7年(1,374年)蔵海珍によって中興されて禅宗になりました。黒田家から山林二千坪の寄進を受けています。 |
洞山 | |
遊歩道を歩いていくと正面に二つの島が見えてきます。 手前が堂山、沖に洞山、もとは離れた島でしたが、今はつながって、両方で洞山と呼ばれています。 沖の洞山には、大きな、大きな洞穴があります。 その昔、神功皇后が戦いに行く途中、芦屋に立ち寄り、必勝を誓って矢を射ると、矢は小島を貫通し、その穴が大きくなって洞穴になったという昔話があります。 |
堂山の石塔群 | |
1897年(明治30)、柏原浦に住む佐野屋の老女が、延命地蔵の建立を思い立ち、工事中に土の中から50cm〜60cm一石五輪塔、板碑、石仏など約300基の石塔群(町指定文化財)が出てきた。 壇ノ浦の合戦後、平家一門の追悼のため落人がひそかに祀ったという説。山鹿兵藤次秀の部下として多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が供養したという説がある。 |
岡垣町 |
高倉神社 | |
神功皇后伝説にまでさかのぼる古い縁起を持つ高倉神社は、旧遠賀郡21か村の総社として古くから信仰を集めている。その社の中、堂々とした社殿を持つ境内は、今も岡垣町民の大切な場所である。 |
海蔵寺 | |
1333年(正慶2年)に大暁禅師により開山され、須藤駿河守行重により再興された臨済宗の寺院。 |
龍昌寺 | |
開運・安産・諸病平癒の祈願を行う「疝癪封じ」で知られる隆昌寺は曹洞宗の禅寺で、1491年(延徳3年)に麻生弘繁が建立し、1617年(元和3年)に井上周防が再興した。 |
大原神社 | |
以前は山妙見と浜妙見があったが、現在は浜妙見に両社を合祀して大原神社と言う。 境内には樹齢600年と推定される、町指定天然記念物の銀杏がある。 |
手野薬師堂 | |
本尊の薬師如来坐像は内浦の法応寺に祀られていたが、天正12年(1584)に当地(手野)に移されました。 製作時期は、平安時代中期 |
京筑 |