山都地域


山都町

通潤橋
嘉永7年(1854年)、水不足に悩む白糸台地に水を送るため、矢部の惣庄屋・布田保之助によって造られた日本最大のアーチ式水道橋です。約6km離れた笹原川の上流から水を引き、水路の総延長約30km、灌漑面積は約42haにも及びます。一昼夜で15,000平方メートルの水を送り、100haの水田を潤す力を備えています。1960年(昭和35)に国の重要文化財に指定され、八朔祭りの時に行われる放水は有名です。水路の長さ126m、橋の長さ75.6m、橋の幅6.3m、橋の高さ20.2m、アーチの半径は27.6mです。

通潤橋史料館
通潤橋史料館は、国指定重要文化財「通潤橋」の紹介をはじめ文化財とのふれあいの場を提供することにより、皆様の石橋文化に対する理解と認識を深めて頂くための施設です。
また、広く緑川流域にある様々な石橋・その他の情報も提供しています。

五老ヶ滝
矢部48滝の中で最大の瀑布。高さ50mから落下する眺めは壮観で、遊歩道上部の展望所、中ほどにかかるつり橋、又は滝つぼから見上げる眺めが楽しめます。名前は、勅使烏丸大納言に「御覧に入れた滝」に由来すると言われています。

布田神社
通潤橋は布田保之助が身命を投げ打って1年8ヶ月を費やして完成させました。その恩に報いるために布田神社は建立されました。縁結びの神様としても有名です。

岩尾城址
岩尾城は、貞応元年(1222年)に阿蘇惟次によって築かれた城で、以降惟光に至るまで18代にわたり阿蘇氏の城でした。天正13年(1585年)島津氏の侵入で没落し、その後佐々、小西、加藤氏の領地となりました。城址にある二の丸公園は、ツツジと桜の名所として知られており、春のシーズンには多くの花見客で賑わいます。開花時期は5月上旬〜下旬です。

浜町橋
宮崎県五ヶ瀬町と美里町(旧砥用町)方面への分岐点にかかる浜町橋は、現在も県道として使用されており、大型トラックなどの往来も多い。路面の舗装などで補強されているとはいえ、170年以上前の橋が今なお現役ということに驚かされる。

小一領神社
古くから矢部郷浜町の鎮守の神社で矢部の宮原柳本に鎮座していたことから、通称柳本大明神と呼ばれていました。阿蘇家が矢部浜の館に移り、阿蘇家の守り神となりました。
天文年間(1532〜55)御船房行反逆の時、矢部の浜の館にいた阿蘇大宮司惟豊が討伐祈願に当たらせた子、13歳の千寿丸が、戦勝を祈願し小形の鎧一領を寄進したのが名の由来。その絵巻物が保存されています。

八朔祭
江戸時代中期から始まったとされる矢部の八朔祭。「八朔」とは旧暦8月1日のことをいい、田の神に感謝し、収穫の目安を立てる日とされている。
呼び物はなんと言っても巨大な造り物。町のメインストリートを高さ2〜3m、長さ7〜8mにもおよぶ造り物が引き回される光景は壮観の一語に尽きる。
毎年各町内が趣向を凝らして制作するが、竹や杉、シュロの皮など自然のものを使うので材料集めには大変な苦労がある。また、造り物には審査員によって順位が付けられるため、各町内は作品のテーマや形にアイデアを絞る。

妙見神水
有名な「通潤橋」から1キロほどのところにある2つの湧泉.「東の御手洗」と「西の御手洗」があり,前者は国の天然記念物の巨樹「妙見のケヤキ」の根元に湧く.ちなみに旧矢部町は「水の郷百選」に選定されている.

妙見のケヤキ
2003年1月、矢部町浜町の妙見の大ケヤキ(高さ33m、幹周9m)が腐食して根こそぎ倒れた。根元からわく泉とともに住民から「妙見さん」として親しまれてきた。
地元有志で作る「妙見の大ケヤキ保存会」と町は、数年前から老朽化が進む木の診断や周辺整備に乗り出していた。緑地公園化工事の着工を2日後に控えた1月12日午後6時すぎ、大ケヤキはごう音を響かせ根元から倒れた。

山中橋
山間の集落を流れる船川に架かる小さな橋である。今はコンクリート補強されているものの、周りの風景と溶け込み、昔懐かしい雰囲気を漂わせている。

滑川橋
県道として利用されたのち、国道の下に潜む形へと変化。幅員・拡張でコンクリート補強されているが、川面から眺めるアーチ部分に往時の姿をしのばせる。現在も国道445号を支える大事な橋として活躍している。

内大臣橋
砥用町と矢部町に渡る緑川の峡谷に、日本一の宙路アーチ橋の内大臣橋があります。昭和38年に完成し、長さ199.5m、高さ86.2m、幅5.5mの大きさです。この橋の中央に立って眺める緑仙峡は絶景で、特に秋の紅葉の時期には、赤や黄色に彩られ、多くの人々が訪れます。10月中旬〜11月上旬が見頃です。

円形分水
灌漑用水を水田の面積に応じて公平に分配するための装置で、内径の円が仕切られ、外円に流れ出た水は通潤用水と地元の水路に分かれて流れていきます。

聖滝
中央部に突き出た岩が、滝に打たれて修業をしている僧に見えることから「聖滝」と名付けられたという言い伝えが残っている。国道218号沿いに展望所があり、そこから全景を眺めることができる。

竜宮滝
国道218号沿いから見ることができる「竜宮滝」。滝の優美さで定評があり、周囲の自然と相まって山水画のような景色。滝つぼに大きな龍が住むという伝説もある。また、ここから大矢川土地改良区の水田に水が引かれている。

池尻の唐傘松
名の通り唐笠をひらいたような黒松で、枝張りは約10m。台地の上にあって絶好の目印になっており、九州山地や阿蘇外輪も望まれます。

幣立神宮
神武天皇の孫健盤竜命が宮崎から阿蘇に向かう前に幣立神宮に幣帛を立て天神地祇を祀ったとあり、地球上で人類が生物の王座についたとき、人類が仲良くならないと宇宙にひびが入ると、天の神様がしんぱいになり、地球の中心幣立神宮に火の玉に移ってご降臨されその時に芽生えたヒノキに神霊が留まった。これが神漏岐・神漏美命と言う神様でこの二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮であると伝えられています。

聖橋
矢部地域で最も古い橋で、かつては「日向往還」と呼ばれる旧街道の要所だった。新橋の拡張工事にともない取り壊されるはずが、保存を願う住民の声で危うく難を逃れ、平成11(1999)年に修復された。近くには「矢部48滝」のひとつ聖滝もあり、散策コースとして人気だ。

男成神社
創建は舒明天皇12年(640)と伝えられている神社で、天照大神、神武天皇、神八井耳命、阿蘇十二神、須佐乃男、稲田姫神を祀っています。中世にこのあたり一帯を治めた阿蘇氏歴代の信仰が篤く、特に、南北朝時代の当主・阿蘇惟次の長子・惟義が元服を行ったので、「男成」と呼ばれるようになりました。

男成橋
男成地区を流れる小川に架かる橋。それまであった橋は、大正元1912)年に起こった大洪水によって流されたため、現在のものが大正4(1915)年に架けられた。

金内橋
大小二連からなる目鑑橋(めがねはし)。上部がコンクリートに覆われているため、石橋であると気付きにくいが、河原からは美しいアーチと石組みを見ることができる。明治10年の西南の役では、薩軍、官軍ともにここで休息を取ったと伝えられており、歴史的にも貴重な橋だ。

道の駅 清和文楽邑
 「道の駅」清和文楽邑は、国道218号沿いの九州のほぼ中間に位置しています。(御船ICより車で60分)。九州で唯一の専用劇場文楽館では江戸末期から伝わる文楽人形芝居が上演されており、隣接の物産館では山菜や地元で採れた健康野菜を使った郷土料理が味わえます。また、道路情報、観光情報等を情報端末等で紹介しています。

清和文楽館
清和文楽邑内にある清和文楽館は、江戸時代末期から伝わる清和文楽人形芝居の専用劇場です。その他に、資料館と物産館が併設されています。現在18名の保存会員が清和文楽館を中心に、年間250回以上の公演を行っています。
文楽は、人形と浄瑠璃を組み合わせたお芝居で、義理・人情の世界が人形によって生き生きと演じられます。定期公演は毎月第2・4日曜の13:30からで、予約公演は20名以上であれば随時公演を行っています。但し、2週間前までに予約が必要です。

仏原騒動跡
別名、切支丹騒動ともいう。延宝2年(1674)正月、一揆の計画が発覚し、一味53名が捕らえられ、熊本に護送された。うち13名は打首獄門、19名は牢死(一説には毒殺)21名は懲罰放免(追放)にされた。この一揆は肥後細川藩の農民騒動第1号で、藩は他に伝播することをおそれ、宗教一揆にすりかえられたと云われており、当時の犠牲者子孫といわれる内田芳郎氏が発願し、昭和43年(1963)に供養塔が現在地に建立されました。

火伏地蔵堂
江戸時代、日向往還の宿場町であった馬見原の無火災を願い祭祀されました。毎年8月下旬の週末、御輿を担いだまま五ヶ瀬川に飛び込み、地蔵を幾度となく川の水につける、ちょっと手荒い「火伏地蔵祭」が行われます。

馬見原橋
馬見原商店街の先、五ヶ瀬川に架かる二層構造の橋(くまもとアートポリス参加作品)。上部は車も人も通れ、下部は歩行者専用の木製のデッキとなっています。デッキの途中には穴が二箇所開いており、そこから下の五ヶ瀬川の清流を眺めることができます。

夫婦岩
馬見原商店街から馬見原橋を渡った先にあります。向かい合う大小二つの岩に大しめ縄がかけられています。岩の姿を夫婦に見立てたもので、夫婦の縁がしっかり結ばれているように見えます。

蘇陽峡
五ヶ瀬川上流に位置する蘇陽峡は、高さ約200mもの切り立った絶壁が、竿渡の滝から花上ダムまで10kmも続く、全国でも珍しい『U字谷渓谷』です。その雄大さから、まさに「九州のグランドキャニオン」といった感じです。「長崎鼻展望台」からは峡谷を一望できます。その展望台から渓谷を見下ろすと、深い緑の中を白い川筋が走り、その雄大な景色は圧巻です。また、秋になると紅葉で染まり、一段と美しくなります。紅葉時期は10月下旬〜11月上旬です。

長崎鼻展望台
九州のグランドキャニオン蘇陽峡を一望する展望所。東には祖母山、北には阿蘇五岳、南には九州中央山地が一望できます。特に秋の紅葉時期にはたくさんの人で賑わいます。

舟の口水源
すり鉢状の形をした『舟の口水源』は、岩肌のいたるところから湧水があり、黒い岩肌に水がすべるように流れ出しています。水源にはマスやヤマメの養魚場があり、釣堀で釣った魚を焼いて食べることもできます。秋の紅葉シーズンは紅葉の赤と黒い岩肌が鮮やかです。

甲佐町

甲佐町やな場

竹で編んだ簀に落ちてくる鮎を捕る梁漁ですが、甲佐のやな場はもともと寛永10年(1633)に肥後藩主の細川忠利侯の命によって造られた水田用水調節の場でした。その後、代々の藩主が毎年とれたての落ち鮎を楽しみにご来遊される場所として、広く知られるようになりました。江戸時代に殿様に愛された「お梁」の風流を、豊かな緑川は現代に伝えているのです。


緑川製糸場跡碑
梁の一角に記念碑が立っている。
明治8年、長野濬平の主唱により嘉悦氏房を中心に士族の子女を集めて操業された。製糸工場は富岡製糸工場に次ぐ全国で二番目の工場であった。当時、熊本県は桑の栽培を盛んに勧めていた。しかし、西南戦争や生糸の暴落などでつぶれた。
この子女のなかから教育界や社会運動に活動する人材が輩出した。
近くに、野口雨情歌碑もある。

甲佐神社
緑川が急峻な山間を抜け平野が広がりを見せ始める右岸の丘陵地に荘厳な雰囲気のなかに立っている。中央公民館より県道甲佐・三本松線に沿って2.5kmの位置にある。背後には甲佐岳の雄姿が見守る。
この神社は阿蘇社の二の宮と呼ばれ、健軍社、郡浦社とともに阿蘇四社とよばれ、12世紀には阿蘇本社領の末社領となる。阿蘇の神・甲佐明神を祭る。霊験殊勝の社壇とされている。
 竹崎季長が「蒙古襲来絵詞」を奉納したことは有名である。

鵜ノ瀬堰
県道甲佐・三本松線、中央公民館より1.5kmの位置にある。
加藤清正公の緑川治水工事の一つで、この堰で得られた潅漑用水は甲佐、竜野、白旗、豊秋の663haの水田を潤す。(細の堰を含む)
慶長13年(1608)に完成している。大変な難工事で堰の位置を鵜の鳥が教えたという伝説がある。
この堰で分水した水路(大井手川)に梁が築かれている。

麻生原のキンモクセイ
樹齢770年。秋の彼岸頃、淡黄色の花をつけ、甘い芳香を一面に放ちます。その香りは1km以上離れた対岸の集落まで届くといわれるほど強烈です。

観音堂
馬頭観音と呼ばれ、牛馬の息災を祈り、旅の安全を守る仏といわれている。キンモクセイはこの境内に植えられたものと考えられる。近くに先祖墓があり、このあたりが聖域であったことを示している。

麻生原墓地の榎と先祖墓
麻生原の先祖の墓地として、先祖祭りが営まれる。榎は墓を守るため植えられた。地名の代名詞にもなってる。手前には板碑もある。

御船町

七滝
発電所が上流で取水するため、普段は枯れていますが、毎年5月に1回だけ、七滝神社の例大祭に合わせて放流されて蘇るため、「幻の滝」とも呼ばれています。

下鶴眼鏡橋
緑川の支流である八勢川にかかる石組みの美しい堂々とした眼鏡橋。熊本と矢部町を結ぶ国道445号線そばにあり、緑川水系の支流である八勢川に架かる石組みの美しい眼鏡橋。東京の二重橋や日本橋、矢部の通潤橋など数多くの石橋を架設した名工橋本勘五郎、弥熊父子が明治15年から4年の歳月をかけ明治19年(1886年)に完成させました。架設以来100年以上風雪に耐え熊本、矢部、宮崎に通じる主要道路の交通橋として大いに役立ちました。現在は隣りに近代の橋ができています。単一石造アーチ形式。橋長23.63m。幅員6.36m。

若宮神社
御船城主の中でも戦国時代に最も勢力を伸ばした甲斐宗運親直を祀る

東禅寺
南北朝の頃(1370年)に創建された郡内最古の寺で、後に御船城主、甲斐宗運によって、菩提寺として再興されました。木造釈迦三尊(熊本県指定重要文化財)や宗運の画像が納められ、また境内には宗運や西南の役で戦死した熊本隊士の墓があります。

門前川眼鏡橋
この橋は文化5年(1808)に架けられた、小さなアーチ橋です。橋の長さは7mで、上反りになっています。道路よりも輪石が高いため、壁石は少なくして高さを抑えてあります。二つの道をつないでいますが、いづれも上り坂で渡ることになります。門前川に架けられたこの石橋は、菊池川流域で活躍した仁平を中心とする石工たちの作品ということです。御船町指定の文化財になっています。

みふね観音温泉 華ほたる
小高い丘の上にたつ、かけながしの天然温泉で、美肌の湯が自慢。露天風呂からは広々とした景色が一望でき開放感も抜群。家族風呂のほか、食事どころ、農産物直売所、グランドゴルフ場を併設している。

吉無田水源
1日当たり13000トンの水が湧き出る、「くまもと名水百選」に選定されている湧水地です。面積3万50ヘクタールを誇る吉無田の森林が含む伏流水と、地下水脈の水が一緒となり湧水となっています。

益城町

木山城跡公園
中世に栄えた木山氏家代々の居城とされ、現在は公園として整備されている。小高い丘の上にあり、町の田園風景が一望できる。また、四季折々の花が咲き、人々の目を楽しませます。

城の本古墳石棺
城の本古墳は、4世紀末〜5世紀初頃益城の平野部に北から突き出た丘陵地形の端部に築造された推定墳径約11m、高さ約2.5mの円墳です。木山川の支流秋津川を望む中世城「木山城」の北端部に立地しています。
昭和57年7月、豪雨により木山城北端の崖面が崩壊し石棺が露出したことからこの古墳が発見され、昭和58年に益城町教育委員会により発掘調査が行われました。内部主体は、安山岩製板石で構成される箱式石棺で北西に主軸をとります。

潮井水源
豊富な湧水で知られ、地域の人の大切な水源です。付近は緑濃い林で、誰でも立ち寄れるように公園として整備されています。一角には鯉が泳ぎ訪れる人の目を楽しませます。

津森神宮
欽明天皇2(630)年に神武天皇の霊が降り立った場所(三竹部落の丘陵地)に建てられ、宝治元(1247)年9月29日に源(藤原)頼嗣により現在の場所に移されたとされています。天正年間(1573〜1591年)に小西行長によって堂社を焼かれ、社領は没収、旧記等もその際に散逸したといわれ、盛時は肥後の一宮として末社・楼門・玉垣・社家・社僧・鐘楼等が並び、八町四方(一町は約109m)に及んでいたとされています。神社といえば、鳥居が一般的だが、ここには珍しく楼門も立っており、津森神宮の社木であるナナカマドの木に生息している「夜泣貝」は、赤ちゃんの夜泣きにご利益あると言われています。

熊本空港
熊本市の中心から東へ17km。標高192mの台地に位置する熊本空港は、中型機が就航できる空港として昭和46年に開港しました。その後、航空機の高速化・大型化に対応して、昭和55年に滑走路を2,500mから3,000mへ延長。大型ジャンボ機もスムーズに離発着できる空港となりました。平成3年には熊本−東京間のトリプルトラッキング化(3社運行体制)によってネットワークサービスを拡充。現在、羽田、関西、伊丹、名古屋、那覇、天草を結んで、平成11年度の旅客数は年間260万人を超えています。また全国で初めて最新鋭の計器着陸装置(CAT-IIIa)を導入し、安全性と就航率の向上を図っています。

くまもと工ミナース
熊本テクノポリス構想の中心である、テクノリサーチパークの一角につくられた国民年金総合健康センター・くまもとエミナース。ここには温泉施設があり、大浴場からは阿蘇の外輪山を一望できます。他にもサウナ、露天風呂、うたせ湯、寝湯等、8種類あります。

益城町町民憩いの家
柔らかい光がさし込む浴室はジェット浴やうたせ、サウナがそろい、リラックスできる。大広間の他、囲碁・将棋の娯楽施設設備もあり、地域のコミュニティースペースとして賑わう。

嘉島町

浮島周辺水辺公園
くまもと名水百選に指定された浮島の一帯を整備した公園。コイ、フナ、ウナギ、ハエなど魚種も多い。冬にはカモなどの水鳥が飛来します。毎年8月には「水の郷まつり」が開催され、乙女神楽の湖水渡り、花火、歌謡ショーなどのイベントがあります。

浮島熊野座神社
通称「浮島さん」と言われています。平坦な水田地帯の湧水池で、東側の一角に浮島熊野座神社があります。神社はまるで湖面に浮かぶ竜宮城のようです。約3ヘクタールの広さがあり湧水量は約1日15万立法メートル。水温は年間を通して18℃。コイ、フナ、ウナギ、ハエ、エビと魚種も多く、年中釣り人が絶えません。冬場は豊富な魚たち狙ってカイツブリなど水鳥が飛来します。

井寺古墳
井寺集落の中央丘陵地に国指定史跡、直弧紋様を有する装飾古墳「井寺古墳」があります。直径14m、高さ6.5mの円墳で、五世紀頃のものといわれています。

下六嘉湧水群
町内には清冽な水が湧く湧水地が十数カ所点在。総称して湧水群と呼ばれています。湧水は、周辺住民の生活用水やふれあいの場として、昔から人々に親しまれています。

嘉島湧水天然プール
「嘉島湧水天然プール」は、30年程前に木枠で囲って、地域の人々の「和」の場であった泳ぎ場を本格的プールとしたもので県体競技も可能になりました。
プールはすべて木製で、小石を敷きつめ、庭や周囲からは何万トンもの湧水が湧いています。
潜ると川から溯上してきたアユ、カワムツ、オイカワ等がみられ、「魚に泳ぎを教わるプール」というのが別名です。

甲斐神社(足手荒神)
手足の傷や病気にご利益のある神社。この神社では、絵馬の代わりに「手型」、「足型」の木の板に名前を書いて奉納します。毎年、大祭のある2月15日には、約2万人もの参拝客が訪れます。

六嘉神社
六嘉神社は第四二代文武天皇の御宇、慶雲元年(704年)、今から1300年前の三月七日に、宮司家三宮氏の祖阿蘇二十三代従三位大宮司宇治宗延公が、領地でありましたこの地に勧請して御鎮座御創建されました。社殿は本殿二宇東西に併立し、前面中央に拝殿一宇を構えた造りになっており、亨保十年の再建で、御用材は六代藩主細川宣紀公の下賜された山林より供給して造営されました。

サントリー九州熊本工場
ビール・清涼飲料を一つの工場で作るハイブリッド工場です。 製造工程がガラス越しに見学できる学習の場所でもあります。
地ビールレストラン棟には、醸造設備が目前で楽しめるビアホール88席と大人数で楽しめるバーベキューホール92席があります。又、春から秋にかけては、ガーデンバーベキューも楽しめます。熊本市内からの貸切送迎バス付きの宴会は、20名以上より相談に応じています。

美里町

霊台橋
緑川本流の最大の難所、船津峡に架けられた全長90mの巨大な石橋です。単一アーチとしては日本一の規模を誇っています。種山石工の卯助・宇一・丈八3兄弟が中心となって1847年(弘化4年)に架橋した、国指定の重要文化財です。夜はライトアップされていて、その美しい姿を見ることができます。
化4年(1847)架設。全長約90m、アーチのスパン(径間)が約28mもある大橋で、わずか7ヶ月で完成したと言われています。

大窪橋
平坦な場所にある石橋で、アーチが高く、橋の中央部が盛り上がっている。田園風景の中にあり、春の桜や菜の花、夏の新緑、秋の彼岸花や紅葉と、四季を通じて訪れたい橋のひとつでもある。

年祢橋
年祢橋は、大正十三年(1924年)2月に二俣川目鑑橋の上流側に架橋された4連式のアーチ石橋。
美里町では最も新しく、その規模は最も大きい。ほぼ原形のまま堂々とした風格を残しながら、現在は歩道として利用されている。

二俣二橋
釈迦院川と津留皮の合流点一帯にかかる石橋。2つの橋が直角に交わっており、「双子橋」とも呼ばれています。橋のたもとにイチョウの大木があり、紅葉期の風情は素晴らしく、カメラマンの撮影ポイントになっています。

石段の里 佐俣の湯
清流、津留川を望む高台に立つ天然温泉センターです。ヒノキの香り漂う露天風呂や岩風呂のほか、家族風呂などが楽しめます。郷土料理「がねめし」を出すレストランやログハウスの宿泊施設なども併設されています。アルカリ性単純温泉で、神経痛、筋肉痛、関節痛、冷え性、疲労回復、健康増進などの効能があります。
佐俣の湯に併設されている農産物直売所では、手作りの農産加工物をはじめ、お茶や竹製品など中央町の特産品が販売されています。

堅志田城跡
勢多尾城とも云う。現在は堀切の中に極めてめずらしい変形障子堀もある。16世紀前半頃より、阿蘇氏の戦闘城としての役割を果たしていたが、天正十年(1582)、肥後に侵攻してきた島津氏の2度に及ぶ攻撃で落城。自然の地形を利用し14本の堀切(尾根すじを分断した堀)、7つの郭(人工的な削平地)、変形障子堀などを有す、県内でも有数の大規模山城。近年の調査では「門跡」が発見されている。






宇土