八代市 |
八代城跡 | |
和5年(1619)、大地震で麦島城が崩壊したため、加藤正方が新たに築いたのが八代城です。本丸には4層5階の大天守と2層2階の小天守、7棟の櫓をはじめとする建物がありました。城郭全体の石垣には石灰岩が多用され、その色から別名「白鷺城」とも呼ばれます。寛永9年(1632)細川忠興が入城、さらに正保3年(1646)、松井興長が入城して以来、明治3年(1870)の廃城まで、松井氏の居城となりました。 |
八代宮 | |
八代城跡内にあり、南北朝時代の征西将軍懐良親王および良成親王が祀られています。このことからも当時から八代が重要な地であったことがわかります。 |
松浜軒 | |
別名「浜の茶屋」と呼ばれ、八代城主三代松井家直之が生母崇芳院尼のために元禄元年(1688)に建てたお茶屋です。当時、庭の向こうに八代海の砂浜と松を見ることが出来たというのが邸名の由来です。庭園の広さ約9,000平方メートル、正門は大名長屋門のうちの略式門(冠木門)、玄関は唐破風、浜床の造りで格式の高さを表しています。 |
八代市立博物館 未来の森ミュージアム |
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緑豊かな八代城跡公園の一角に建つ博物館。「熊本アートポリス’92」に参加して建てられたもので、メタリックでユニークな外観が目を引きます。1階常設展示室では、八代周辺から発掘された土器や江戸時代の道具等を展示し、古代から現代までの八代の歴史や人々の暮らしぶりを知ることができます。第2常設展示室には、武具や調度品、茶道具等の八代城主・松井家のコレクションが展示されています。 |
松井神社 | |
八代城跡の横にあり、松井家と縁の深い場所です。松井家初代康之(やすゆき)と二代興長(おきなが)を祭った神社で、松井家歴代の館があった場所でもあります。見所は、樹齢三百数十年の梅の名木である臥龍梅(県指定植物)。枝が曲がりくねり、竜が臥(ふ)したように見えることからその名がついています。3月頃に淡い紅色の八重咲の花が咲き、周辺に芳香を漂わせます。 |
臥竜梅 | |
かつての八代城北の丸部分に植えられています。八代城北の丸は、加藤正方(かとうまさかた)や細川忠興(ほそかわただおき)が住まいを設けた所です。 寛永17年(1640)7月忠興はここに数寄屋(お茶室)を築き、庭園整備を進めました。 その中で、この臥竜梅は忠興自身によって植えられ、「八代から百花(ひゃっか)の魁(さきがけ)となる人材出でよ」と念じて植えたと伝えられ、忠興が八代の経営を推し進めた根本精神がうかがわれます。 |
カッパ渡来の碑 | |
球磨川の支流、前川河口に近い前川橋のほとりにあります。この碑文によれば、仁徳天皇の頃中国から九千匹の河童が揚子江を下り黄海を経て八代に上陸したといわれています。 |
大塚古墳 | |
全長55.7m、周溝を持つ前方後円墳です。 隣接する茶臼山古墳・高取上の山古墳とともに八代平野最大の古墳群を形成しています。 昭和43年(1968)に墳丘の一部が調査され、人物埴輪(はにわ)(市指定文化財)のほか、多くの形象埴輪や須恵器が出土しています。 石室部分は未調査ですが、墳丘の形や出土遺物から6世紀前半に築造されたと考えられています。 |
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八代神社(妙見宮) | |
県指定重要文化財。 文治2年(1186)、後鳥羽天皇の勅願により検校散位の大江高房が建立しました。この妙見宮近辺の天台・真言の寺院は、最盛時には神宮寺・財徳坊・一乗坊・院主など15を数え、妙見宮十五坊とよばれており、神仏分離するまでは、祭神は天台宗で尊星大士・真言宗で妙見菩薩・お宮では国常立尊と天御中主神そして北斗七星命を祭っていました。いずれも北極星と北斗七星を神格化したもので、神宝の四寅剣には星座の象嵌があります。現在の社殿は元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に改築されています。秋の妙見祭では、亀蛇(きだ、通称:ガメ)が舞います。 |
八代妙見祭 | |
九州三大祭りの一つである「八代妙見祭」では、頭が蛇で体が亀の形をした重さ200kgの「亀蛇(きだ)」が勇壮に舞うのをはじめ、豪華な祭礼神幸行列がみられ、県内外から集まる多くの見物客で賑わいます。昭和35年、熊本県指定無形民俗文化財に指定されました。 |
明言院 | |
奈良〜平安時代の八代郡寺興善寺跡であり、現在の明言院は江戸時代に再興されたものです。境内の収蔵庫に安置されている「木造毘沙門天立像」は国指定重要文化財で、平安時代前期の作といわれ、県下の仏像中最も古い作品です。 |
谷川第一号古墳 | |
「鬼の岩屋」とよばれる巨石積みの横穴式石室古墳で、「八代郡誌」によると80余個散在すとあるが、現在は龍峯・上片地区周辺に20数個残っています。 築造年代は6世紀後半〜7世紀初めで、家族墓としての性格を強く残し、中央に比べ家族共同体性格を最後まで残していたと見られ、全国的にも重要な古墳です。 1号墳は石室長さ4.6m・幅2.2m・天井高1.7mを測ります。 |
春光寺 | |
八代城代松井家の菩提所で、臨済宗南禅寺派の末寺です。 正保3年(1646)松井興長(おきなが)は八代城に入城し、当時北の丸にあった泰勝院を宗雲寺と改めて松井家の菩提所としました。その後、藩主細川綱利は松井家の菩提所として古麓町に春光寺を創建させ、延宝5年(1677)に落成しています。 春光寺の寺号は松井康之の法号「春光院殿英運宗傑」に因んだものです。 また、明治10年(1877)の西南の役では戦場となり、所々に弾痕が残っています。近年は句碑寺としても有名です。 |
永御蔵御門・番所 | |
松井直之時代の貞享4(1687)年に、八代城三の丸に設けられた蔵屋敷を「永御蔵」といいます。城内で必要とされる米を保管していた所で、この御門と番所はそこで使われていました。番所の建てられた年代は不明ですが、御門の懸魚(飾り板)の裏側には「文政5年」(1822)という墨書があります。八代城に関わる現存建物として大変貴重な遺構で、昭和61年に松井家の菩提所である春光寺に移設されました。その際、解体調査を行い、できるだけ建造された当時の姿に近いように復元しています。 |
古麓稲荷神社 | |
古麓城の鎮護として奉祀し、名和氏の守護神とされた。 |
宗覚寺 | |
加藤清正の嫡男忠正の菩提所として、慶長13年(1608)泉福山本成寺として建立されました。その後、寛永11年(1634)本成寺は八代城下に移転したため、草庵をその跡に建て、墓守りを置き、本町本成寺から50年の間供養を続けました。 本成寺移転47年目にあたり、延宝8年(1680)に当時の八代城主松井直之の斡旋で、藩主細川綱利は宗覚寺住職として本山の日竜を据え、天和3年(1683)本堂が創建されました。 |
懐良親王御墓 | |
水無川の南岸に東西27.3m・南北20mの土居を巡らした玉垣があります。その中の小円墳が征西大将軍懐良親王のお墓です。懐良親王は後醍醐天皇の皇子として征西大将軍となり、九州における南朝方の中心人物として活躍し、弘和3年(1383)に亡くなりました。 親王は福岡県八女郡矢部村で亡くなりましたが、縁の深かった八代に墓が築かれました。墓所内には大正5年に発見された、親王御自筆銘の宝篋印塔(市指定文化財)がおかれています。 |
護神寺廃寺跡 | |
この地は懐良親王墓ができる以前に妙見中宮社僧中宮山護神寺(天台宗)の旧地という。 小西行長の時、退転、慶長7年加藤清正の時、再興、寛永9年加藤正方が寺領寄進、延宝5年(1677)細川氏より30石寄進。 伝来する心礎は平安末期の妙見中宮の護神寺心礎と伝える。上記寺暦から、その可能性は高いと思われる。 寺域から平安後期の布目瓦が出土という。 |
水島 | |
万葉集に「めでたい水の島」と歌われ、日本書紀によると、ここを訪れた景行天皇が食事をする際に小左(おひだり)という者が天地の神に祈ったところ、水が涌き出たとされ、昭和30年頃までは水が出ていました。近年、近くの広場に長田王による水島の歌の碑が建てられています。 |
石川樋門跡 | |
石川樋門はニの丸・八代両新地の養水を管理する重要な水門である(ニの丸新地境割に在り)昭和40年4月死去された、石川農平氏(最後の井樋番)の話によれば、新地完成を共に、当時石工として八代町に在住していた、石川家の先祖が関係者により命ぜられ、樋門の側に屋敷を拝領、常時居住し日夜養水の管理に専念し農民からも感謝されたと云う。大鞘川第二水門の完成で百数十年の歴史を終わる。 |
郡築二番町樋門 | |
郡築2番町樋門は昭和13年(1938)に既存の樋門だけでは排水能力が足りなくなったため新たに作られた樋門です。長さ14.2m、幅8.2m。 この時期に築造された樋門としては、コンクリート造でなく石造であり、アーチ式三連樋門の構造と共に、壁面に石材を用いるなど装飾的な点に特徴が見られます。 |
日奈久阿蘇神社 | |
永正年間(1504)創建。 |
日奈久温泉 | |
日奈久温泉は、応永16年(1409)、浜田六郎が父の刀傷をいやそうと神に祈ったところ夢でお告げがあり、教わった場所を調べてみると温泉が湧き出ていたと伝えられています。その場所は今の本湯で当時は海中でした。この霊泉発見が伝えられると、六郎の孝徳とその霊験とを慕って療養にくる人が多くなりました。参勤途上の島津侯もよく利用し、江戸初期には細川家の藩営温泉に指定されました。泉質は弱アルカリ単純泉で、リューマチ・神経痛などに効果があると言われています。また、放浪の俳人種田山頭火も宿泊し、「温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、−いや一生動きたくないのだが」という歌を残しています。 |
山頭火記念碑 | |
昭和5年には漂白の俳人種田山頭火も日奈久温泉の織屋旅館に宿泊し、その日記の中に「温泉はよい、 ほんとうによい。ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが・」と日奈久を称賛しております。 |
日奈久温泉神社 | |
湯の神、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭るために応永26年(1420)に建立されました。神殿の彫刻が見事で、正面に「雲に龍」、東側に「桐に鳳凰」、西側に「雲に麒麟」、後ろに「波頭」が配置されています。また見晴らしがよく、春には桜の名所として、夏には不知火の観望所としてにぎわいます。桜の開花時期は、4月上旬頃です。 |
田川内城跡 | |
田川内城は南北朝時代の山城です。名和家の家臣園田宗林の居城でしたが、宗林が千代永城主桑原能登守との戦いに敗れて戦死したため、阿蘇家の家臣である草壁文右衛門が城主となったと伝えられています。城跡は竹之内峠から北西に伸びる山稜の独立丘陵上(標高約40m)に位置しており、「城の山」と呼ばれています。城の遺構は、堀切と丘陵北側に「城頭」と呼ばれるキノコ型の平坦地が残っています。 |
田川内第一号古墳 | |
横穴式石室の内部に装飾をもつことで知られている古墳です。墳丘の形は円墳と考えられています。石室は奥壁の幅235cm、奥行き237cmを計り、天井の部分はドーム状に石が積まれています。 また、板石でコの字型に仕切られており、この板石や壁面には同心円文や円文が彫られ石室全体に朱が塗られています。遺物は土器・刀子・貝輪・勾玉などが出土しています。5世紀後半の豪族の墓と考えられています。 |
印鑰神社 | |
郡倉庫は、奈良・平安の時代には八代郡の村々の租米を集めていた。その後武士の世になり郡倉の印と鑰(かぎ)を祀った。 |
犬塚安太の碑 秋田正雄の碑 |
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犬塚安太 鹿子木親子が干拓した芝口村と文政村によって米の収穫が飛躍的に増大下が一方、海が遠くなり鏡町の商業、漁業に大打撃を与えた。 惣庄屋となった犬塚安太は藩の許しを受け3Kmの長さの「鏡入り江」を文政13年(1830)に開いた。 秋田正雄 安政2年(1855年)生まれ、明治25年野崎尻の石にコケが着いているのを発見、これを秋田正雄に見せたところ海苔と分かり、正雄はこれを養殖すべき研究をし郷土の産業に育てた。大正13年69才で亡くなる。 |
有佐貝塚大塚古墳 | |
有佐貝塚は、縄文中期から後期〜晩期(4000年〜2000年前)の貝塚で平野部にある貝塚として注目されています。ここからは、多種類の貝殻のほか、土器、石斧、石皿等が多数出土しています。貝塚があることで、当時、この付近が海の近くであり、約2000年の間、縄文時代の人々が生活を営んでいたことがわかります。 また、この貝塚から円筒埴輪や板石のかけら等が出土し、この貝塚を利用した古墳(前方後円墳)の存在が調査によって明確になっています。それで有佐貝塚大塚古墳とも呼ばれています。 |
鑑内橋 | |
この橋は、文政13年(1830)頃、種山の名石工、岩永三五郎が造ったといわれており、現在町内に残っている唯一のめがね橋です。 橋の長さは7.2m、幅2.8m、径間5.5mです。 鏡(鑑)町と内田村を結ぶところから鑑内橋と呼ばれ、江戸時代には八代〜松橋間を結ぶ下往還の要所であった。 |
千丁町福祉健康センター パトリア千丁 |
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パトリア千丁は、福祉健康センターと文化センターからなる千丁町総合福祉文化センターの愛称です。パトリアとは、イタリア語で”ふるさと”の意味です。パステルカラーで統一されたエントランスホールは、広く開放感があります。ひのき風呂、電気風呂、うたせ湯、ボディシャワー、ジェット風呂、泡風呂、ドライサウナ等、6種類の風呂がそろう2階の浴室は、1週間ごとに男湯と女湯が入れ替わるので、和風風呂と洋風風呂が楽しめます。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉で神経痛、筋肉痛などに効果があると言われます。 |
日吉神社 | |
北吉王丸南中の丸にあり、五百年位前の戦国時代に創建され、約四百年前の永禄七年(1567年)頃、大牟田吉祥院創立の先祖大光院秀海が京都の三宝院より免許をもらい日吉宮を守護した。次に明治三年、神仏分離の命により吉祥院は退き、県社八代宮の兼務となり村社に列せられた。終戦後信教の自由により公より奉幣料や修改築費を出せなくなり吉王丸の氏神となる。 |
がねん堂 | |
阿弥陀如来の線ぼり板碑をまつる。昔おきんど橋で馬がつまづき怪我をするので不思議に思い橋の板石をはいで見たら阿弥陀如来像を刻んであったので驚いてここに祀ったのである。昭和51年に改築した。 |
覚賀墓碑 | |
この碑は、シャゼン寺の住僧の墓碑であることが知られています。梵字は(バン)、(カ)と刻まれており、その二文字を覚賀と判読しています。 |
貝洲加藤神社 | |
当社は、安土桃山時代に活躍された武将加藤清正公を祭神をして御祀りしている。清正公は武勲の誉れとともに、土木や灌漑治水にも手腕を発揮された方であもある。 |
東陽町石匠館 | |
八代市東陽町は熊本市と八代市の中間に位置し、石工の里として知られています。江戸時代、石橋文化のルーツといわれる種山石工集団を生みだし、矢部町の水路橋として有名な通潤橋など全国的に数多くの石造アーチ橋(めがね橋)を築きました。展示棟・多目的ホール棟・事務棟からなり、花びらを模した円をイメージして建てられました。建物をはじめ施設内には石工の技術がふんだんに生かされています。 |
東陽町石橋公園 | |
東陽町のシンボルゾーンとなる公園です。村内に散在する22の石橋のひとつ「重見橋」を移設し、その周囲に、落ち着きのある日本庭園を配して作られています。また、周辺のかたらい広場には複合遊具施設「ジンジャーの森」が設置され元気いっぱいの子供たちに大人気です。特産品直売所の「菜摘館」では、しょうがの加工品、新鮮な野菜等が販売されています。 |
東陽交流センター せせらぎ | |
複合施設内の温泉施設。石から遠赤外線が放射される天降石風呂、河俣川と周囲の山々を借景にした露天風呂がある。土・日曜には、ショウガを使ったショウガ湯が登場。 |
鍛冶屋上橋 | |
この石橋は文化元年(1804)に、種山石工の祖といわれる藤原林七によって架けられたものです。長さ4.1m、幅2.6m、径間2.7m、拱矢1.2mの、輪石の上は土だけのような石橋です。 |
鍛冶屋中橋 | |
この石橋は文化元年(1804)に、種山石工の祖といわれる藤原林七によって架けられたものです。造られた時期は、鍛冶屋上橋と同じになります。橋の長さ4.3m、幅2.6m、径間2.7m、拱矢1.2mの、ほぼ鍛冶屋上橋と同じ規模になります。この石橋は、小川の流れが曲がっている場所に造られています。 |
山口橋 | |
大正4年(1915)頃架橋、氷川の支流である川俣川の支流美生川の最下流に架かる。拱矢比が5を超える眼鏡橋はめずらしい。 |
鶴下村中橋 | |
明治10年(1877年)に、種山組によって架けられた単一アーチの石橋です。橋の長さ13.3m、幅2.23m、径間9.1m、拱矢3mとなっています。この石橋は現在も使用されていますが、橋の上はコンクリートで拡張されています。 |
蓼原橋 | |
実質面を重視した堅牢な造りで、本来の橋幅1.98mをコンクリートで2.7mに拡幅され人々に利用されている。 |
谷川橋 | |
昭和に入ってからの架橋で東陽村に架けられた最後の石橋です。 今では補強不足のため、水平なこの橋にアーチ状の鉄橋が架けられています。 |
河俣阿蘇神社 | |
拝殿の天井には、昔の出来事の絵が描かれています。また、神殿には彫刻や三十六歌仙を描いた絵もあります。また、熊本県にも六ヶ所しかないといわれている狛犬などもあります。 |
道の駅 さかもと | |
代インターから人吉方面へ13kmの国道219号線沿いにあります。 館内では坂本地域の特産品の販売のほか、体験学習室ではかみすき体験ができます。 あゆみ館の魚道をリアルタイムで観察できるモニターも設置。レストランでは四季折々の郷土料理をご賞味ください。 |
荒瀬ダム | |
熊本県八代市坂本町荒瀬にあるダム。 2002年12月に熊本県の潮谷義子知事が荒瀬ダムの完全撤去を表明し、2010年の水利権の失効後に解体、撤去される予定。 球磨川再生のための第一歩だと歓迎する意見がある一方、川辺川ダム建設のためのバータであるという意見や長期的に黒字資産だった県営発電所を撤去することへの反対意見もある。 |
くまがわあゆみ館 | |
国道219号線沿いにある道の駅上流にある「あゆみ館」は九州で初めて、球磨川の荒瀬ダムに設けられた魚道を観察できる珍しい施設です。 館内では、3つの観察窓から魚道を移動する生き物を観察できます。 |
さかもと温泉センター球麗温 | |
球麗温は、球磨川のほとりに、麗しい温泉という意味があります。眼下には球磨川の清流、周囲には幾重にも連なる九州山地、という素晴らしい環境です。岩造りの大浴場は広く、お湯もたっぷりです。泡風呂、水風呂、サウナを楽しむことができます。大浴場の外にある露天風呂と打たせ湯は、杉木立に囲まれていて、木の香りや鳥の声に包まれます。木々の合間から見下ろすと、荒瀬ダムを展望できます。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で、疲労回復、冷え性、神経痛に効果があると言われます。 |
五家荘 | |
泉町の久連子地区・椎原地区・葉木地区・仁田地区・樅木地区の総称。周囲を山深い峡谷に囲まれ、茅葺き屋根の民家が数多く残るほか、全国でも有数の平家落人伝説の里として知られています。とくに紅葉が美しく観光客に人気です。紅葉時期にはそれぞれの地区で違った紅葉が楽しめます。民宿やキャンプ場、セミナーハウスも整い宿泊もできます。渓流釣り、川遊びなど自然を楽しむのに最適です。 |
二本杉峠 | |
標高1100mで、泉町で一番高い峠です。近くには展望所があり熊本市内や遠くは阿蘇まで眺めることができます。 |
梅の木轟公園 | |
梅の木轟(とどろ)公園吊り橋は、支柱もワイヤーも使わず、PC吊床版という特殊工法で設置された橋で、長さが116mあり、PC吊床版橋(歩道橋)としては日本で2番目に長く、高さも55mと高い。橋の上からの眺めが、熊本景観賞を受賞しています。 |
梅の木轟 | |
滝の落差は38mあり、梅の木轟の下には、登龍の滝、梅が枝の滝があります。梅が枝の滝は、菅原道真をしのんで植えた飛梅の木を湧けて運ぶ途中、滝に落としてしまったことから名前がついたと言われています。遊歩道を歩けば、滝壷まで行くことができます。 |
五家荘平家の里 | |
五家荘に伝わる平家落人ゆかりの品々を中心に、貴重な遺品を展示した資料館「平家伝説館」で、古くから五家荘に伝わる伝統芸能や平家にまつわる”能”などを鑑賞できる「能舞台」があります。当時の落人たちの歴史や生活様式を紹介しています。 |
氷川町 |
伊藤家クド造り | |
江戸時代後期(19世紀)に立てられた県指定有形文化財(建造物)です。屋根型が平面形「コの字」をなす「くど造り」で、屋根は一般に見られる茅葺ではなく、葦葺きです。敷地面積は、886.16平方メートル、建物面積は、157.85平方メートルあります。 |
「道の駅」竜北 | |
「道の駅」竜北は、九州の大動脈である国道3号沿い「熊本県南地域の北の玄関口」竜北町にあります。田園風景の向こうには天草の島々及び雲仙普賢岳のシルエットが浮かび、心地よい休憩のできるところです。物産館「ビストログリーン」では、新鮮な農産物や特産物の販売と地域の素材を活かしたおふくろの味が楽しめます。また、道路情報、観光情報、医療情報等を情報端末で紹介します。 |
内田康哉誕生地 | |
帝国大学卒業後は外交官となり、明治44年からは外務大臣となって活躍した。 |
竜翔センター | |
竜北のほぼ中央、竜北中のとなりにあるユニークな屋根の形をした建物です。お風呂やジムがあり、食事もできます。気分転換には最適です! |
立神峡 | |
五木五家荘県立自然公園にある立神峡は、高さ75メートル、幅250メートルの白い絶壁を水に映してそそり立っています。「肥後の空滝」と言われます。夏には、手軽な避暑地として、ファミリーキャンプ、水遊び、魚釣り、広葉樹林の自然を満喫できる遊歩道の散策などができます。また近くには、火の国橋(長さ71メートル、高さ20メートル)、龍神橋(長さ56メートル、高さ20メートル)があります。 |
熊野座神社 | |
立神峡のたもとにある神社。明治維新の際に立神(地区名)の氏神と定められて村社となりました。10月9日、秋の例大祭には子ども神楽が奉納されます。 |
郡代御詰所眼鏡橋 | |
肥後の石工として有名な岩永三五郎が手がけたもので、八代郡代御詰所に向かう庶民が通った歴史ある橋です。流れる水がキレイなことでも有名で、周辺は熊本ホタルの里百選にも選ばれています。 |
野津古墳群 | |
野津古墳群は、八代郡氷川町の標高90〜110mの台地上にある4基の前方後円墳からなる古墳群です。 これらの古墳は、それぞれ、物見櫓古墳・姫ノ城古墳・中ノ城古墳・端ノ城古墳と呼ばれ、6世紀の初頭から中頃までにつくられたと考えられています。古墳群は、最初に物見櫓古墳がつくられ、その後、残る3基が連続して築かれました。古墳の大きさは、60〜100mの大きさであり、中九州地方において、この大きさの古墳が密集して存在する場所はここだけです。古墳に葬られた人物については、当時、肥後で最大の豪族であった「火の君」の一族であるとする説があります。 |
大野窟古墳 | |
大野窟古墳は標高30〜40メートルの舌状台地上に位置します。墳長39メートル、高さ11.5メートルの円墳ですが、南にある古窟古墳を前方部とする前方後円墳の可能性があります。主体部は複室の横穴式石室であり、石室・羨道部に赤色顔料を塗った装飾が認められます。また羨道部壁面には明応6年に阿弥陀如来を祀った刻字があります。出土遺物は土師器・須恵器が若干見られます。 |
高塚装飾古墳 | |
高塚装飾古墳は標高60メートルの通称吉本台地の北端に位置します。墳形は円墳ですが大きく改変しています。主体部は阿蘇溶結凝灰岩の組合式家型石棺を直葬しています。石棺の内部は赤く塗られており、棺蓋の内側には円文・鏡と考えられる模様が浮き彫りになっています。古墳に伴う遺物には鉄ぞく片・須恵器片等わずかしかわかっていません。珍しいものとして、石棺内部に衝立状のものが着く別作りの石枕があります。 |
芦北町 |
大瓦モニュメント | |
佐敷城跡から出土した『天下泰平国土安泰』銘鬼瓦(熊本県指定重要文化財)を、原寸の400倍の大きさで再現しています。大きさは上辺6.2m、下辺7.4m、高さ5.4m、厚さ0.6m、重さ約11tで、98個の瓦ピースに分けて組み立てられています。大瓦としては、京都府大江町の平成の大鬼瓦(高さ5m、重さ10t)を抜いて日本一の大きさです。 |
加藤重次縁者墓石 | |
この二つの石塔は佐敷城代加藤重次の母親の逆修塔と奥方の墓と伝えられ、子孫である澁谷家及び花北地区住民により、三百年以上守り継がれてきました。しかし、南九州自動車道西回り道路建設工事のため、平成17年3月に現在地に移設されました。 |
芦北町立武徳殿 | |
武徳殿は、昭和25年元郡代詰所跡地に柔道や剣道を行う武道場として建てられた。広い空間を作り出すための工夫として、屋根は菱形のスレートを使用し、広い空間を確保するために柱は少なくしてある。 その後の移設にともない、建物の一部が壊され玄関の付け替えが行われたが、本館部分は当時の姿を良くとどめている。 |
佐敷の町並み | |
薩摩街道の難所、三太郎峠を越えて、佐敷の街なみには昔の街道の面影があちこちに残っています。 古い土蔵や商家の看板が歴史の古さをしのばせ、レトロな気分が味わえます。 |
佐敷城跡 | |
佐敷城」を芦北町が平成5年より発掘調査し、一国一城令によって城が破却された状態の石垣に復元。歴史公園として整備しています。「見張り番」の城だったことからも分かるように、佐敷港や人吉方面に続く山々をここから見渡すことができます。またこの佐敷城発掘の際には、東側追手門跡から「天下泰平国土安穏」の銘のある鬼瓦が完全な形で発見され、西側から出土した桐紋鬼瓦からは佐敷城が豊臣秀吉の重要な要塞の一つであったことがうかがえます。これら発掘品は平成10年3月に県重要文化財に指定されています。 |
観光うたせ船 | |
幕末の頃から芦北地方に伝わる伝統漁法・うたせ網漁。海底に降ろした底引き網を、海風にまかせて帆船で引いていきます。自然の力を利用した、のんびりとした風情のある漁で、捕れるのは主にクルマエビ、カニ、シャコ等です。捕れた魚の一部は、お土産として持ち帰れます。操業中は船から太刀魚釣りができるほか、注文に応じて船上で食べる料理も用意してくれます。 |
計石温泉センター | |
この付近は、古くから「芦北の野坂の浦」と呼ばれ、万葉集にも歌われていました。その地元の漁師たちが大昔に見つけたと伝えられていたこの温泉は、平成3年の水質調査で初めて海底噴出自然温泉であることが明らかになりました。そこで、その貴重な温泉水を海底から地上のタンクまで引き、そこから送湯するシステムをとったのがこのセンターです。泉質はナトリウム塩化物質温泉で、神経痛、疲労回復、皮膚病に効果があると言われています。 |
御立岬公園 | |
蒼い海と天草の島々を眼下に見て、1日中自然の中で楽しく過ごせるレジャーランドです。ローンスキー、スーパースライダー、テニスコート、海水浴場、釣り場、パターゴルフ、キャンプ場、マリンハウス、温泉センター、亜熱帯果樹園、ゴーカート場等の施設があります。春には、公園へ続く道路沿いに植えられた約1,300本のソメイヨシノが淡いピンク色の花を咲かせます。公園の周辺一帯には、ヨドガワ・サツキ・ヒラドツツジ・クルメツツジ約15万本が咲きほこり、辺りを赤や白、ピンク色に彩ります。夏には白い砂浜の県内最大の人工ビーチ(530b)にたくさんの人が訪れます。 |
御立岬温泉センター | |
御立岬温泉センターは、不知火海に面した御立岬公園内にあります。おすすめは、青い海に天草の緑の島々が浮かぶ景色が一望できる露天風呂です。夕方になると、夕陽が島々を真っ赤に染めて、眺めは最高です。大浴場も天井が高く開放感があります。露天風呂からだけでなく、大浴場からも美しい風景を楽しむことができます。泉質は塩化物泉で、入浴後の保温効果、血管拡張作用、虚弱体質に効果があると言われます。 |
矢具神社 | |
神武天皇の祖父君にあたられる彦火出見命と豊玉姫命の二柱をお祭神として祀る尊い神社です。 安産・育児・漁業等にご加護が篤いと広く人々の信仰を集めています。 |
出し芽の楠 | |
昔大きな楠があり、台風で倒れた大木の株から萌芽したものがこの楠であるという。「出し芽の楠」という呼称の由来はここにある。 また、昔は楠のすぐそばが海岸で多くの枝は海面を覆い、潮が満つと魚もここに集まったといい、これを枝の上で待ちかまえていた若者は飛び込んでつかまえたとも言い伝えられている。 |
ヘルシーパーク芦北 | |
運動施設も多く取り入れた、新しいタイプの温泉として人気があります。ここのお風呂は、10種類という数の多さもさることながら、歩行浴や圧注泡浴(ハイドロ浴)、スプロールバス(伏湯)、ドリームバス(寝浴)等、温泉とは思えないくらいにバラエティー豊かであり、泉質は弱アルカリ性単純温泉で、神経痛、冷え性、打ち身に効果があると言われています。また、施設2階には星野富弘氏の詩画を常設している芦北ふるさとギャラリーがあります。 |
星野富弘美術館 | |
星野富弘美術館は、群馬県みどり市の富弘美術館の姉妹館として建設されました。 本美術館は、展示室、ビデオルーム、売店を設置しています。展示室には、星野富弘さんの原画と、リトグラフを展示しています。 |
道の駅 たのうら | |
特産品の甘夏みかんやデコポン、新鮮な野菜や海産物、手芸品などを販売しており、江上料理学院のオリジナルメニューを提供するレストランを併設しています。 主な販売商品等 甘夏、デコポン、清見等の柑橘類 甘夏、デコポン、清見等を使った加工品(甘夏まんじゅう・かりんとう) 太刀魚みりん干し等の加工品 ところてん(天然てんぐさ使用) |
甘夏ミカン発生の地 | |
田浦地区は、甘夏ミカンの生まれた場所です。鶴田源志他3名が、昭和24年(1949)産業振興のため、大分県津久見から「川野系夏橙」を運んできたのが始まりです。急傾斜地、赤土、海に近いなで恵まれた自然条件と人々の努力によって、昭和31年(1956)熊本市で、34年(1959)東京市場に、「甘夏ミカン」と命名されデビューしました。そのさわやかな甘さと風味は関東平野の空っ風にぴったりで、山手線の車内吊り広告や銭湯の壁画に描くなど独特な宣伝と相まって、丸田マークの甘夏ミカンとして全国に知れ渡り、田浦は日本一の産地となりました。 |
津奈木町 |
重盤岩眼鏡橋 | |
町の中央にそびえる奇岩『重盤岩』(ちょうはんがん)にちなんでこの名前がつけられました。高さの割りに経間が長いので実に優美に見えます。輪石が大きく湾曲しており、欄干の狭間石にはとっくりや盃といった面白い彫り物が見られます。 三平は岩永三五郎とともに薩摩藩に招かれて、甲突川の西田橋や武之橋など数多くの名橋を手がけました。しかし、橋が完成すると秘密保持のために石工を永送り(暗殺)するという噂が流れ、三五郎は、いろいろな口実で石工たちを藩外に逃れさせました。三平は、途中で追っ手に襲われ瀕死の重傷を負いましたが、津奈木の人々によって手厚く看護され、その恩返しに自分が持っている技術を人々のために生かそうと、この眼鏡橋を架けたと伝えられています。 |
重盤岩 | |
町の中央にそびえ立つ奇岩。付近一帯は中世の津奈木城跡で、室町時代末期には、加藤清正が見張り所として利用していたと言われています。岩の頂上には、日章旗が立てられています。 |
つなぎ美術館 | |
つなぎ美術館は、境野一之をはじめとする熊本県にゆかりのある作家の作品を収蔵し、常設展示室で紹介しています。1階の一般展示室、企画展示室では館が企画するさまざまな展示会他、一般への貸し出しも行っています。喫茶室から舞鶴城展望所までは、モノレール(最高勾配33度、全長241m)が運行しており、片道5分のミニトリップが楽しめます。展望所から広がるのは豊かな緑と不知火海です。四季を通じて自然の景観も観賞できます。建物もモノレールもバリアフリーデザインで誰もが楽しめる親しみやすい美術館です。 |
つなぎ温泉四季彩 | |
浴場だけでなく、浴場に着くまでもさまざまなアイデアが凝らされています。中でも斬新なのは、モノレールで行く展望露天風呂です。周囲を取り囲む木々の合間からは、不知火海が望め、特に夕方は海に沈むきれいな夕陽を見ることができます。大浴場へは岩山をくり抜いた洞窟を通って行きます。大浴場は自然石を敷き詰めた造りで、打たせ湯、低周波湯、サウナ等7つのお湯を楽しむことができます。泉質は弱アルカリ性単純泉で神経痛、皮膚病、美肌に効果があります。5つの家族風呂もあり、それぞれに花の名が付けられていて、その名に合わせた内装になっています。 |
水俣市 |
親水護岸 | |
汐の香りと波の音を聞きながら散歩ができる、長さ465メートルの防腐剤を一切使用していない環境都市水俣ならではの、環境に配慮したボードウォークです。 |
水俣病情報センター | |
水俣病情報センターは、水俣病に関する資料や情報の収集・保管・整理を行うとともに、水俣病に関する研究を行い、情報ネットワークを通じて研究者や市民に情報を提供している。また学術研究等の会議を開催できる機能も備えている。 |
熊本県環境センター | |
環境問題に関する情報や学習の拠点として熊本県環境センターが設立されました。深刻化している地球レベルでの環境問題に取り組み、多くの人々が環境への正しい認識を深める場が提供されています。ここでは楽しみながら学ぶために「情報プラザ」「エコロジーハウス」「環境シアター」の3つのゾーンが用意されています。 |
水俣市立水俣病資料館 | |
水俣では昭和31年に水俣病が確認されてから40年以上もの間、多くの難問と直面してきました。この資料館は、二度と同じ過ちをくり返さないように、また水俣病の歴史と現状を多くの人々に正しく理解してもらいたいという願いを込めて設立されました。水俣病に関するさまざまな問題を写真や文献、大型スクリーン、モニターテレビ等を通して学習することができます。また、水俣病の患者の方等から体験を聴くことができる語り部の制度もあります。 |
水俣メモリアル | |
水俣病の犠牲となった人々への慰霊・鎮魂を込めつくられた、公害の悲惨さ、命の尊さを後世へと伝える祈りと誓いのメモリアルです。 |
蘇峰記念館 | |
徳富蘇峰が父・淇水翁の熱烈な郷土愛をしのんで贈った寄付を基に、昭和4年に町立淇水文庫として開館しました。昭和58年からは、蘇峰の業績を永遠に伝えるために「蘇峰記念館」として公開しています。蘇峰を中心に父・淇水、弟・蘆花の遺品約2000点を収蔵、展示しています。( |
徳富蘇峰・蘆花生家 | |
蘇峰・蘆花が生後それぞれ8年間,3年間を過ごし,各人の著書でも触れられた由緒ある住居。町屋造りの建物。平成に入ってから復元工事がなされ,当時の面影をしのぶ姿によみがえった。 |
徳富蘇峰夫妻墓地 | |
水俣駅の北東、水俣川北岸、牧の内地区の丘陵中腹、徳富家一族の墓地に2つの自然石墓が並ぶ。 |
湯の児温泉 | |
風光明美なリアス式海岸の続く芦北海岸県立公園内にある温泉です。約190年前、景行天皇の九州平定の折発見されたといわれ、海岸に湧き出るぬるい湯を指して「まだ湯の児」といわれたのがその名の由来です。大正15年(1926)、50度を超える温泉堀削に成功し、本格的な温泉郷となりました。含食塩重曹泉で、リューマチ、神経痛に効果があります。温泉街には約12軒ほどの宿が立ち並んでいます。また、目の前にはつり橋で結ばれている湯の児島があります。 |
湯の児島公園 | |
湯の児温泉海水浴場と吊り橋で結ばれた、小さな無人島・湯の児島に散策道を整備したものです。周囲は砂浜になっており、波も静かなので、夏場には海水浴や水遊びで多くの人が訪れます。遊歩道や展望所もあるので、海を眺めながらゆっくり散策するのがお勧めです。 |
願かけ亀 | |
湯の児湾に浮かぶ小さな島「湯の児島」。 その島の海沿いにはモニュメントの亀があり、その中でも大きな亀は「願かけ亀」と呼ばれている。 整備された歩道で、海水浴場や公園があるので散歩コースにおすすめ。 |
湯の児海水浴場 | |
県内最南の人工ビーチです。 目の前に広がる不知火海と美しい砂浜には、家族連れや多くの観光客が訪れる。 夏には釣り橋のたもとに、無料で開放されている「舟の湯」温泉があり人気スポット! |
舟の湯 | |
湯の児海水浴場と、湯の児島公園を結ぶつり橋の下にある温泉で、浴槽が舟の形をした露天風呂です。大正14年(1925)に温泉が湧出し、地元住民がその場に古い小舟を置いて温泉浴を楽しんだのが始まりとされており、舟湯は夏休み期間のみ利用でき、泳いだ後の潮を落とすために多くの海水浴客が利用します。入浴料は無料、水着着用のままで入湯できます。 |
日本一のフェニックス | |
胴回りが9m近くもある日本最大級のフェニックスで、沖縄、鹿児島、宮崎のものに劣らない。昭和35年植樹。 |
不老の湯 | |
三笠屋創業50年を記念して、温泉の恵みを多くの方々に分けあう為、昭和62年「飲泉処」を設ける。 |
湯の鶴温泉 | |
海側にある湯の児温泉とは対照的なお湯出川沿いの山あいにある、ひなびた温泉郷です。傷ついた鶴が湯あみをしているのを平家の落人が見つけ、「湯の鶴」と呼んだのがはじまりと言われます。今も昔ながらの温泉街の佇まいを残しており、長期滞在で湯治を楽しむ人も多く、温泉旅館・ホテルも数軒あります。42〜59℃の単純硫化水素泉で、リューマチ、神経痛等に効果があると言われています。 |
湯の鶴温泉保健センター | |
水俣市営の公衆浴場。大部分が地元の入浴客だが、隣町から通ってくる常連客もいる。棚田のそばで、川向こうには桜や紅葉の美しい湯の鶴温泉公園があるため、四季折々趣の違う景色が目を楽しませてくれる。 |
湯の鶴温泉神社 | |
湯の鶴神社は元治元年(1864)の創設で昔は温泉街の中央にあったのを昭和5年(1930)現在地に遷宮改築した。 |
人吉 |